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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるの)

唯識の欠点とは?現代哲学はどう批判できるのか?

このQ&Aのポイント
  • 唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである。
  • しかし、もし諸存在が個人的に構想された識でしかないならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。
  • そして、唯識は大乗仏教の空の思想を基礎に置かれている。

質問者が選んだベストアンサー

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  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.1

 アニメを基にして思想哲学出来る人がいて、その人は何でも解っているそうです。  私以上の回答をしてくれるだろうから、その人が投稿してくれるまで待ちましょう。  きっと良い回答をしてくれると想います。

ga111
質問者

補足

失礼ですが、BAはダミーです。

その他の回答 (5)

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.6

そうですか。哲学にとって挑戦的なご質問かどうか、わたしにはわからないのですが、 現代哲学の課題は現代哲学の課題として、唯識を補うのと等しい方向性に開かれていると感じます。 唯識を補うべくしてわたしたちに来たるべき哲学を、とりあえず2方向で挙げてみた次第です。 念のため言葉を補います。 トップダウン-ボトムアップのシステム対流と言いましたのは、存在の個体性が成り立つように関わる体系であると認識する体系を体系の全体とする、そのような全体性の条件における部分と全体の相互参照といった意味です。 複雑系モデルが唯識と沿うとの観点から、両者は欠点を同じくするだろうというひとつの見方であり、哲学は批判しうるどころかこの統一理論と難所を引き受けることになると思います。 もうひとつの来るべき哲学は、倫理のなかでも特に、身体の哲学で、唯識にも既存の哲学にも対象化されすぎた感のある、意識に具有される受け身であるところの身体を、唯物論の文脈ではないやりかたで、しかし神経内分泌や認知科学を取り入れた「わたしという組織」「わたしという器官」の実相の再確認です。 これは、臓器移植問題や脳死問題に直接かかわりますが、ちょっと予測のつかない問題です。これも上記のシステム対流のように環境全体が人間に問い返す、あるいは存在の関係性全体が存在の個体性の在り方を問い返す、ということを忘れないように唯識思想の警鐘を念頭におけるのではないかと思います。

ga111
質問者

補足

両者は批判しあうものではなく、相補しあうものであるということですね。複雑系に関しては、その定義を明らかにしないと議論はできないかと思います。 唯識 ≒ 複雑系モデル ならば 唯識の欠点 ≒ 複雑系モデルの欠点 というように読めますが、唯識 ≒ 複雑系モデル と最初からしてしまっていいのか?と考えます。唯識は色即是空だといいますが、複雑系モデルにはそのような明確な答えを持とうとする気が最初からないような、、、 >唯物論の文脈ではないやりかたで、しかし神経内分泌や認知科学を取り入れた「わたしという組織」「わたしという器官」の実相の再確認です。 唯識はかなりふるく成立していますので、唯物論的な神経内分泌や認知科学から批判を受けることがありえるかもしれません。この場合も相補しあうものであるべきということですね。ありがとうございました。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.5

唯識批判というのは興味深い問題です。わたしに答えられる知識はありませんが、全体の構造の決定性が、いうなればボトムアップ-トップダウンのシステム対流とオートポイエーシスによるような複雑系の方向性が、唯識思想に沿いやすいように思っています。そうであれば、そこには記述者・記録者・観測者をめぐる問題が浮上しますので、このシステム対流の〈外部〉とよびうる領域での記述・記録・観測の可能性を先端物理学の理論と共振できるような哲学はどんなものになるのかなという気持ちは持っています。 また、こんにちの哲学は、環境倫理や生命倫理などを鑑み、人間中心主義では収拾がつかなくなっています。上記の事項で捉えられるような存在の緻密な体系にも関わる問題です。有限の事象を対象にした新しい応用倫理の構築は哲学の急務だと思います。そして、わたしたちの身体や臓器のほうをわたしたちそのものである、とする視点によって先端医学のありかたを牽引するような哲学はどのようなものだろうかという気持ちも持っています。 こうしたことは、唯識思想から直接取り出せるものではないので、視準となる思想はほかに求めなければならないでしょう。しかし、自然から仕向けられているようにして自発から働きかけているような対流に気付くことは唯識思想のうちにあると思いますので、そこからあらためて所有や消尽の対象でない自分自身とはどのように世界と関っているかという倫理学を拓いていけるのではないでしょうか。そういう意味では、唯識は現代哲学と並走していくものではないかという気がします。

ga111
質問者

お礼

唯識批判のように見えますが、実は、現代哲学が唯識を本質的に批判できなかった場合は、現代哲学批判になります。すなわち、ここの参加者の多くに対しても非常に挑戦的な質問ということです。コメントありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

[即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである、、、 ] この部分が「悩乱」といってよいほど間違っていますね。 例えば「即ち、それら諸存在は「空」であり」ここまではいいんですよ。次の「実体のないものである(色即是空)」は明らかな間違いですね。なぜなら「色即是空」の後に一対に「空即是色」とあるのに、前だけ取り出して「何もない。」では明らかにおかしいものね。「色即是空」と「空即是色」は一対ですから何もなくなるとは言っていないのですね。例えば、色を肉体とか物質とすると、肉体とか物質はなくなるように見えるがまた再生するものである。という意味になりますね。そういう意味では「空」はエネルギーとか霊的エネルギーという意味ですね。何もなくなるという意味にはなりようがないのですね。 何もなくなるでは高等哲学としての仏教が、ニーチェ程度の小学生なみの哲学になってしまいますからね。 「空」が正しく理解できれば、唯識と西洋哲学でいう唯心論が同じ土俵の内の程度の違いぐらいの問題ということがわかるはずですね。しいて言えば唯心論をより深く掘り下げると唯識論になるということですね。 まあ、哲学というものは正しく理解できれば表現方法など少し違うだけで、人種や国は関係ないのですね。「区別とか違うという結論がでれば、どこかに間違いがある。」というのが正しい見解でしょうね。

ga111
質問者

お礼

私は、色即是空だけでとくに問題ないと思います。色即是空と空即是空は同じ?という話題がここにあるようですが、いろいろな解釈があるようで、色即是空=空即是色であるという意見もあるようです。その経は呪文的な要素も強いので、個人的には韻を踏んでいるとも考えられます。 いずれにせよ、2次的な般若経の解釈のさらなるウキペディアの一部の解説的な叙述ということで、ここでは本質的ではないかとも思います。興味深いご意見、ありがとうございました。

ga111
質問者

補足

また、該当する文は 「諸存在は「空」であり、実体のないものである」と言っているのであって、何もないとは言っていません。文法的に、「実体のないものが「空」であり、諸存在である」(=空即是色、この訳が正しいとすればですが)がなければいけないというご指摘のように解釈できますが、私は必ずしもそうは思いません。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.3

 論理の欠点は置いとくとして(難しいので)、それが認知され、広まることでの欠点は、  それぞれの認識度合い(フィルターのかかり具合)が違っていても、「私は神である」「私が認識しなければ存在しない」などと勘違いする低レベルの「神」が多数出現してしまうことではないでしょうか。しょうもない人間に限って、そのように傲慢になって勘違いしがちなので、パラノイア・マニアックな人(そのように他者に働きかける人)はますますそうなり、反対に謙虚な人(内向的な人)は益々謙虚になり、二極化が促進され、社会が混乱し、ひいては自分自身も困ることになる、と考えられます。  解釈と対処の仕方によって内向的・外交的のどちらかに偏りがちになる。

回答No.2

欠点はないが、あくまでも自らが昇華しているのみで他者には関係がない。 学問のオススメといったところか… 主観や客観とあることから他者を意識しているかもしれないが、主観的学問でしかなく、あくまでも己を変えることにしかならない。 人間全体的な社会問題の本質的な解決法にはならない。

ga111
質問者

お礼

確かに唯識のみでは、他者を助けるといったことはほとんど出てこないのですが、大乗仏教という面ではそういったことがよくあるかと思います。相補し合っているのかもしれません。ありがとうございました。

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