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日本における男色と信仰には関係があるのか?
- 『日本書紀』の神功皇后紀摂政元年に阿豆那比之罪とあり、これが、日本での男色の正史に現れる始めとされている。
- 『日本書紀』には、皇后が紀伊国に行った際に暗闇が続いた原因として、小竹の祝と天野の祝を合葬したことが挙げられている。
- 陰陽道的な観点から考えると、陽と陽が重なると陰となるため、男色と信仰には関係があると思われる。
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貴方の主張に幾つか反論があります。 まず、男色が人間が文字を使うようになってから始まったと言う訳ではなさそうなので、ここで『日本書紀』を持ち出すことに、何ら意味を見出せません。 次に、節句は実は日本古来からある風習に対して、特に江戸幕府がことさら中国的な概念を結び付けたのだと言う考察を柳田國男が徹底的にやっていたと記憶しております。ですから、日本でのこの風習を陰陽道に結び付ける根拠が薄弱なように思えます。 でも、具体的な例として、男色を信仰に結び付けた例なら知っています。上杉謙信は天下を取るために、神仏に一切女犯を犯さないと誓って、一生それをやり遂げたそうです。そこで、彼の自然な欲望を処理するために、男色はしていたそうです。ですから、男色が確かに信仰と結びつく例はあるようです。 他の例は、ただ今バチカンの法王ベネディクト16世がその責任を問題とされていますが、カトリックでは神父による少年の陵辱がやたらに多い。そして、今の法王がまだヨーゼフ・ラッツィンガーと呼ばれていた枢機卿の時、その問題を処理する部門の長を努めていたのですが、そのとき、ラッツィンガーはその問題を隠蔽して、なるべく表沙汰にしないように努め、少年を陵辱した神父達の処罰を一切しなかった。その被害者達が、アイルランドやアメリカなどいろいろな国で表に出て来て、今大変な問題になっています。そう言う意味で、男色が宗教に関係があると言うなら、納得します。その事実関係は心理学として大いに研究の対象に成ると思います。
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- AXIS_
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いえ、「意味の解らないことを書いている」と思われたくないという、ただそれだけの理由です。 それから「呪術」と言うくらいなので個人個人の自我とか、それに伴って増える怨念・情念が元になって「呪詛・呪術」に注目したり、流行したりするのでしょう。そういう意味で、社会環境と、それによる人間関係が原因になっているのは変わらないと想います。 まあ、愛憎入り乱れてのドラマが原因なんでしょうね。 元をたどれば親子関係だと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 大変参考になりました。 あとやっぱり信仰が関係しているようにも思えます。
- AXIS_
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ああ、失礼訂正します。 × 自我を強く意識するようになることで特別意識を持つことができるとか、人口が増えすぎて人口密度も増し、自尊心を保ち難いとかいう理由ではないかと想います。 ○ 自我を強く意識するようになることで特別意識を持ちたいと思うから、とか、人口が増えすぎて人口密度も増すことで、自尊心を保ちにくくなるから、などの理由ではないかと想います。
お礼
訂正をありがとうございます。 親切な方なんですね~。
- AXIS_
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>環境によるものである、と考えた方が自然かなあ、と。 他者と違うと言うことで特別意識を持つことができるから、とか 生殖などに関わる自然本能と逸脱しているから自尊心を持てる、という理由かなと想います。 結局は個人個人の環境による、心理的作用が影響を与えるのだろうと想います。 文化が成熟して他者との違いを感じたいとか、自我を強く意識するようになることで特別意識を持つことができるとか、人口が増えすぎて人口密度も増し、自尊心を保ち難いとかいう理由ではないかと想います。 女色であれば、安心感を伴うから、でしょうか。男色は安心かよりもむしろ逆で、特別感と言うことでしょうか。 ともかく、文化・文明・人間の生活様態がどのような時にそういった現象が増えているのか調べればはっきりするかもしれないですね。
お礼
回答ありがとうございます。 >結局は個人個人の環境による、心理的作用が影響を与えるのだろうと想います。 そうですか。 現在はそうかもしれませんね。 しかし過去の異常なまでの男色ブームは 信仰というか呪術?っぽい印象があるように思ってしまいます。 >ともかく、文化・文明・人間の生活様態がどのような時にそういった現象が増えているのか調べればはっきりするかもしれないですね そうですね、いろいろ調べてみることにします。
経験的に見て、キリスト教に関してですが、 述べさせていただきます。 日本に限定されず、カトリック嫌いのキリスト者に多く見られるケースとしては、 キリスト教者の本人が、 1男色であって、 2男色を禁止する教会が気に入らず 3自分の男色をとことんまで隠しながら(重要) 4とにかくローマカトリック教会はよくないと主張し続けるのです。 ふたを開けてみると簡単なモティベーションですが、 始末に終えないのは、自分がおかまであるということに誇りが持てず変な宗教に走るということです。 コンプレックスをかくし、論理に同意する心を逆手にとって、 「おかまのおいらは、偉い」と勘違いさせる。 何も知らない他人がこういう人たちの意見を聞いて 納得させられるというのは、 哀れなことです。 キリスト教に関係のない日本人が、 不自然なまでの教会嫌いなるという事実には、 素朴に疑問を抱いてみるべきであるというコトです。
お礼
回答ありがとうございます。 自分がおかまであるということに誇りが持てず変な宗教に走るというケースはあるでしょうね。 しかし日本の男色は (1)誇りをもって行われていた。(日記に記録を残している貴族もある。) (2)通常発生しうると考えらえるよりもはるかに大勢の人が男色であった。(ノーマルだったのは秀吉くらいなのだそう。) (3)高貴な身分の人に多く、農民などの間には男色は少なかった。 (4)おかま、とおっしゃいますが、女装した男性と愛し合うということは少なかったようです。 あくまで男と男として愛し合った。 という特徴があります。
補足
自分がおかまであるということに誇りが持てず変な宗教に走る についてですが 日本においては神道・仏教・陰陽道が習合されて信仰していたと思われますので。 ザビエルが日本にキリスト教を伝え、その後日本ではキリスト教は弾圧されますが それはキリスト教が男色を禁じていたからだ、という見解は面白いと思います。
- AXIS_
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信仰が関係あるかは解らないけど、何らかの精神的作用の結果によってそうなる面と、環境によるものと両方あるような気がします。
お礼
回答ありがとうございます。 日本の男色はネコも杓子もというぐらいのブームになっていたことがあるようです。 もって生まれたのがゲイであったとするにはあまりに多すぎるように感じます。 ということは、環境によるものである、と考えた方が自然かなあ、と。 詳しくは知らないのですが茶道なども陰陽道的な部分があるそうです。 あと流鏑馬を見たことがありますが「インヨー(陰陽)」と叫びつつ的を射ていました。 男色も陰陽道的な呪術のひとつとして流行したのかな、と思いました。
- cyototu
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>自分がどこから来てどこへ行くのか、 そんなことを知るためは柳田國男だけでは不十分だと存じます。 もっと【広く】学ぶ必要があると思いますし、もっともっと【自分自身で考える】ということが必要ではないかと思いました。 私もその意見に同意致します。人の意見は単なる入り口であり、自分で世界を見付け、そこから自分を見付けて行く以外に方法は無いような気が致します。 >後半(記紀が陰陽道の影響を受けているのではないか)についてはどうでしょうね。 私は、人間の振る舞いをどんなに合理的に説明しようが、必ず、砂が指から抜けて行くようにすっと抜けてしまう所があるから面白いのだと思います。私の好きなモンテーニュは「学問とは、母熊が小熊を育てるように上にしたり逆さにしたりしながら、あらゆるところを嘗め回してみなくては分らない物だ」と言って居りました。日本はあれだけ絶大な影響を中国から受けて来たのですから、陰陽道の影響が神道のどこかに入り込んでいると考えた方が、そうでないと考えるより遥かに合理的だと思います。ですから、母熊がその面から嘗め回すように、この問題をいじくり回すことで、我々の理解がより多様でより深いものになると思います。 小野小町の件、貴方から新しい事を教わりました。有り難うございます。
お礼
何度も回答を戴き恐縮です。 モンテーニュの言葉は面白いですね。 >「学問とは、母熊が小熊を育てるように上にしたり逆さにしたりしながら、あらゆるところを嘗め回してみなくては分らない物だ」 確かにそのとおりですね♪ で、断片的であったものが一本の糸のように繋がっていく楽しさったらありません。 一本の糸に繋げるためには広い知識が必要ですね。 たくさんのことを教えていただきありがとうございました。感謝します。
- cyototu
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私の知識は、趣味として主に柳田國男の本を読んで得た物ですので、彼の受け売りしか出来ません。それでも、定本柳田國男集全36巻の殆どは読みました。 節供の問題は、柳田が繰り返し論じた問題ですから、その全集のあちこちに出て来ますので、それをひとまとめにするのは一寸大変です。貴方が言うように、ご自分で調べて下さい。 >記紀が日本神道のベースとなっていると思われますが、その記紀が陰陽道の影響を受けているのではないか、 に関してですが、柳田に言わせると、全国の村(昔の単位で大字)の数は二十万ほどあった。その各村に、産土神や氏神やご先祖様などが居られ、それが日本の神道の基幹をなしていた。ところが、記紀や延喜式に載っている神々の数はせいぜい二千柱ほどしか居られないので、それを各村に割り当てるのは、一寸無理があるとのことでした。事実、各村の神様に延喜式に載っている神の名前が付くようになったのは、主に江戸時代以降だそうです。その頃、平田神道などが都会で自分たちが勉強したことを、各村を回って、そのよそ者が「あんたのところの神様は、延喜式に書いてあるこれこれという名前のお方じゃ」と結構牽強付会なことをやったらしいのですが、村の人も学のある都会の人の蘊蓄に説得されて、そんなもんかとなったらしい。 ですから、記紀や延喜式の記述から日本神道を理解するのは、ほんの一面で、それよりももっと巨大な根幹を日本神道は持っていた。その辺りを、これでもかこれでもかとほじくり出して来たのが、日本民俗学の業績の一つではないかと思っております。 私は、柳田國男の神道に関するいろいろな論説の中で、特に『先祖の話』が話しがまとまっていて読み易い本でした。各神社の縁起話だけでは分からないいろいろな面を論じており、仏教と神道が一体として融合している日本人の宗教観を理解する上で、大変参考になりました。 質問者さんも多分ご存知だと思いますが、仏教と神道が別れたのは明治政府の太政官布告「神仏分離令」によって引き起こされた廃仏毀釈運動以降ですね。一政府がお触れを出したからと言って、千五百年にも渡って融合して来た物が、一朝にして分離出来るはずが無い。事実、現在でもお寺の中に鳥居がある寺院や、神社の片隅に仏様の石像が鎮座しているなんて言うのが幾らでもありますね。 私が印象に残ったのは、真言宗高野山の総本山金剛峰寺の台所に竃の神が祀られており、天井に近いところに鳥居としめ縄が飾ってあったことです。また、日本三大稲荷の一つ、豊川稲荷をお参りして、そこの正式な名前が、円福山豊川閣妙厳寺という曹洞宗のお寺だと知ったときも感激しました。東京の高尾山のケーブルカーの上にある真言宗薬王院の一角にお稲荷さんがあります。そこで家内と私が雑踏を離れて深閑とした雰囲気を味わっていたら、墨染めのお坊さんが三角の握り飯を乗せた盆を片手にもち、もう一方の手でそのお稲荷さんに小さな声でお経を唱え始めたときも、大感激致しました。 明治以降、虎視眈々とした西欧の列強からの生き残りのために、日本も西欧並みに国家宗教を持った文明国であるとの形を繕って、西洋人の歓心を手に入れようとして、天照大神を頂点にした記紀の記述に基づいた国家神道という得体の知れない人為的な物が出来上がりました。その結果、戦前は神仏分離の国家神道一辺倒でした。そして、敗戦の悲劇の後は、その振り子が完全に反対に揺れて、教育の中から神道が一切消えてなくなり、現代の日本人は神道の理解に関して大混乱をしているようです。自分がどこから来てどこへ行くのか、そんなことを知るためにも、柳田國男の『先祖の話』は、一読をお勧めしたい本です。
お礼
回答ありがとうございます。 >記紀が日本神道のベースとなっていると思われますが、その記紀が陰陽道の影響を受けているのではないか、 に関してですが、 >柳田に言わせると、全国の村(昔の単位で大字)の数は二十万ほどあった。その各村に、産土神や氏神やご先祖様などが居られ、それが日本の神道の基幹をなしていた。ところが、記紀や延喜式に載っている神々の数はせいぜい二千柱ほどしか居られないので、それを各村に割り当てるのは、一寸無理があるとのことでした。 ああ、そうですね。 記紀に名前のない神様もおられます。 私もお会いしたことがあります。 また神様の名前を改めたということも、柳田さんの本ではないですが 何かの本で読んだことがあります。 神様には多くの別名があります。 様々な神々がおられるようにも思えるけれど名前が違うだけで実は同じ神だった、という可能性もあるのでは。 また神は生まれ変わると考えられていたような気がします。 古今集仮名序に 小野小町は古の衣通姫の流なり とあります。 衣通姫は記紀に登場する女性で和歌三神の一、玉津島姫と同一視されています。 (衣通姫と玉津島姫は同一神である、とも考えられると思います。) で、小野小町は衣通姫の生まれ変わりの神だと考えられたのでしょう。 (奈良の帯解寺に小町社がありました。) >記紀や延喜式の記述から日本神道を理解するのは、ほんの一面で、それよりももっと巨大な根幹を日本神道は持っていた。 この考え方は面白いですが、上記のような考え方もあるのではないか、と思います。 で、 >記紀が日本神道のベースとなっていると思われますが、その記紀が陰陽道の影響を受けているのではないか の前半(記紀が日本神道のベースとなっている)はまあ、あなたのおっしゃるとおりだとしても 後半(記紀が陰陽道の影響を受けているのではないか)についてはどうでしょうね。 うけていない、と主張するのであれば 古事記序文の意味、阿豆那比之罪 は一体どういう意味なのか、を説明する必要があるでしょう。 自分がどこから来てどこへ行くのか、 そんなことを知るためは柳田國男だけでは不十分だと存じます。 もっと【広く】学ぶ必要があると思いますし、もっともっと【自分自身で考える】ということが必要ではないかと思いました。 もちろんこれは自分自身に対して思っていることですが。
補足
>古今集仮名序に >小野小町は古の衣通姫の流なり >とあります。 >衣通姫は記紀に登場する女性で和歌三神の一、玉津島姫と同一視されています。 >(衣通姫と玉津島姫は同一神である、とも考えられると思います。) >で、小野小町は衣通姫の生まれ変わりの神だと考えられたのでしょう。 >(奈良の帯解寺に小町社がありました。) 補足します。 つまり玉津島神、小野小町は記紀に登場する衣通姫から派生した神だと考えられるのではないか、ということです。 これ以外に、先代旧事本紀などに登場する神も祀られていますけれど。
- cyototu
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>柳田説ではなぜ、節句は実は日本古来からある風習に対して、特に江戸幕府がことさら中国的な概念を結び付けた、と説かれているのですか? 節句とは室町時代までは節供と書き、もともとは、季節の変わり目に神と人間がその日に食事を共にするという神道の行事だったそうです。数ある節句の中から今言う五節句が選ばれたのは江戸時代で、その目的はこの選ばれた日に大名を将軍のところへ挨拶に訪れさせることで幕府の権威を示すというものだったそうです。 すなわち、日本では、中国と接触する以前に季節の節目節目に、山から下りて来る神と共に食事をする習慣があった。そして、その食事が終わると、神は再び山に戻る。その節目を祭の日と言ったようです。ですから、神様は普段神社に居る訳ではなく、その節目のときだけ、空から神社に居りて来る。その場所の道しるべが巨大なご神木であり、また、夜のかがり火だったそうです。 桃の節句の白酒と五月の節句の菖蒲湯は、最古の神社の奈良の大神神社の話しとして、悪霊の大蛇にだまされて妊娠した娘さんの堕胎に関係した謂れがあります。やはり神道の話しですので、中国は関係ありません。 以上の話しは、定本柳田國男集、河出書房、第五、八、十四巻、に出ていましたが、別巻第五巻の総索引を引くとお分かりのように「節供、節句」に関して別な巻でもいろいろと論じています。一様は全部読んだのですが、詳細は忘れました。細かい話しはご自分で総索引を引くなどして図書館などで調べて下さい。
お礼
再回答を下さりありがとうございました。 >節句とは室町時代までは節供と書き、もともとは、季節の変わり目に神と人間がその日に食事を共にするという神道の行事だったそうです。 五節句以外にも節句があった。 江戸時代に五節句が定められた。 ということですね。 とすれば、それを示した何かの文献があるのでしょう。 これ以上お手間をかけるのもなんですので、調べてみることにします。 桃の節句の白酒と五月の節句の菖蒲湯は、大神神社に関係があるのですか。 大変勉強になりました。 ただ、白酒や菖蒲湯は確かに日本独自のものだと考えられても 節句の習慣そのものまで日本独自のものだとは言い切れないように思います。 というのは、記紀が日本神道のベースとなっていると思われますが その記紀が陰陽道の影響を受けているのではないか、と私には思われるからです。 それに菖蒲湯は中国由来だという考えもあるようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%8D%88 上記に 『荊楚歳時記』には「端午当日は野に出て薬草を摘み、色鮮やかな絹糸を肩に巻き病を避け、邪気を払う作用があると考えられた蓬で作った人形を飾り、また【菖蒲】を門に書け邪気を追い払うと同時に竜船の競争などが行われていた。 これは現代日本においても菖蒲や蓬を軒に吊るし、菖蒲湯に入る風習が残っている。 とあります。 どちらが先か、というのを論じるのは結構難しいですね。
- 雪中庵(@psytex)
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基本的に、集団主義的な抑制的な文化を持つ地域には、 ホモセクシャルを制度的に容認する傾向があります。 特に、南太平洋のポリネシアンの島国では、耳に ハイビスカスの花を差した男性が、手をつないで 歩いており、最初はギョッとしました。 しかし、集団主義的な社会において、人口増加を 争いによらず抑制する手段として、ホモセクシャルは 有効であると気づきました。 同じく集団主義的な稲作農耕文化圏であるタイなどで、 ホモセクシャルが市民権を得ているのも、そうした 影響だと思われます。 決して近代の産物ではありませんし、そうしたホモ セクシャルを包含した集団主義的な文化が、仏教など の多神教の包容力と重なるのもうなずける話です。
お礼
回答をありがとうございます。 南太平洋では男性どうしが手を繋いで歩いているのですか。 友情を超えたものを感じますね。 >集団主義的な抑制的な文化を持つ地域には、 ホモセクシャルを制度的に容認する傾向があります。 >人口増加を争いによらず抑制する手段 なるほどそうなんですか。 タイでもごく当たり前の愛の形なんですね。 仏教のことはよく知らないのですが、せんだって うちに法要にきてくれた僧侶の方によれば 仏教では懺悔すれば許される、というようなことをおっしゃっていました。 仏教は包容力があるということかもしれません。 これにくわえて、No.1さんが教えてくださったように >上杉謙信は天下を取るために、神仏に一切女犯を犯さないと誓って、一生それをやり遂げたそうです。 >そこで、彼の自然な欲望を処理するために、男色はしていたそうです。 というように、呪術的な信仰があったようにも思えます。 とても参考になりました。 ありがとうございました。
お礼
早速回答をありがとうございます。 >男色が人間が文字を使うようになってから始まったと言う訳ではなさそうなので、ここで『日本書紀』を持ち出すことに、何ら意味を見出せません。 そうですね、太古の昔かああったのでしょう。 しかしながら、日本書紀の文章は陰陽道的であるとは思いませんか。 日本書紀と同時代に書かれた古事記にも陰陽道の思想に基づいて書かれたと思われるところが他にもあります。 ちょうど、図書館で借りてきた本が手元にあります。 古事記序 天と地とが分かれ、アメノミナカヌシノ神・タカミムスビノ神・カミムスビノ神の三柱の神が 宇宙造化の緒をつくり、陰と陽とが別になって、ここにイザナギノ神・イザナミノ神が 生きとし生けるものの親となりました。 (日本古典文庫 古事記・日本書紀 福永武彦 訳) >節句は実は日本古来からある風習に対して、特に江戸幕府がことさら中国的な概念を結び付けたのだと言う考察を柳田國男が徹底的にやっていたと記憶しております。 これは興味深いです。 私は古事記・日本書紀などの記述から、陰陽道の考え方は記紀が編纂されたときすでに日本に伝わっていたと考えます。 柳田説ではなぜ 節句は実は日本古来からある風習に対して、特に江戸幕府がことさら中国的な概念を結び付けた と説かれているのですか? できればその根拠を教えていただけませんでしょうか。 上杉謙信の話はとても興味深いですね! あ、上杉謙信って確か女性ではないかという説がある人でしたっけ。 女性と関係を持たなかったのでそんな説があるんでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1%E5%A5%B3%E6%80%A7%E8%AA%AC カトリックでは神父による少年の陵辱がやたらに多いというのは聞いたことがあります。 こちらも今後の研究課題としたいと思います。 大変興味深いお話をありがとうございました。 感謝します。