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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本書紀の『呉国』とは?)

日本書紀の『呉国』とは何を指すのか?

このQ&Aのポイント
  • 日本書紀には、呉國(呉国)に関連する記述がいくつか存在しますが、これらはどのような意味を持っているのでしょうか?
  • 日本書紀によれば、仁徳天皇や雄略天皇の時代に呉國から使節がやってきて朝貢したという記述が見られますが、実際の歴史的な呉國は存在しませんでした。
  • したがって、日本書紀での『呉國』は、ある特定の地域や国を指すのではなく、異国との交流や外交関係を表現するために使用された言葉である可能性があります。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

大学で東洋史を研究しているものです。 『日本書紀』は、中国の南北朝対立の時期においては、南朝の方を「呉国」と表現しています。 私の考えですが、中国の地名である「呉」から取ったのでしょう。 また、余談ですが『日本書紀』では推古紀の前後に、十年以上(恐らく十二年)のズレのあると考えられています。

hinode11
質問者

お礼

有難うございました。南朝を総称して「呉」または「呉国」と呼んだのであれば分かります。南宋、齋、梁、陳・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 補足の補足です: 新唐書では、西暦600年に遣隋使を派遣したのは用明天皇、と書いてありますが、私はこれには同意できません。 敏達天皇薨去584年、用明天皇薨去587年、崇峻天皇薨去592年、推古天皇薨去628年、これらは史実であり動かせません。

hinode11
質問者

補足

>『日本書紀』では推古紀の前後に、十年以上(恐らく十二年)のズレのあると考えられています。 この説は初耳です。 でも推古期に疑問を持つ人がいるのですね。実をいうと私は崇峻天皇と推古天皇の間に一人の天皇(男帝)が居たのではないかと考えています。

その他の回答 (2)

  • river1
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回答No.3

もう一つ参考に 古代中国の長江(揚子江)の河口の南側の土地は、周代の春秋時代末期に呉の国があったあたりです。 南宋の都の建業は、この地域に含まれています。 呉の南は、越の国に繋がり、そのまたはるか南には、越南(現在のベトナム)に続いています。 また内陸に行くと、楚の国となり、長江上流は蜀の国となります。 現在万博が開催されている上海は、この時代まだ浅瀬の海です。 ご参考まで

hinode11
質問者

お礼

有難うございました。

  • river1
  • ベストアンサー率46% (1254/2672)
回答No.2

参考に 南宋の都は、建業(現在の南京) ちなみに三国時代の呉国の都も建業でしたね。 領土的にも、中国の南半分ですのでほぼ一致していますよね。 南宋=呉国 北宋は後に金に滅ぼされてしまいます。

hinode11
質問者

お礼

有難うございました。やはり日本書紀の「呉国」は中国の南半分を指すのですね。

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