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誰の天皇陵だか不確かな物がある理由はなんですか?

日本書紀のような記録がある前の天皇陵が誰のだか解らなくなってしまってるというのは解らなくもないのですが、奈良時代や平安時代の天皇陵でさえ誰のだか不確かなものが多い理由は何ですか? またこの天皇陵がどの天皇の墓であるというのが不確かなもので最後の天皇陵はどの時代の物ですか? さすがに戦国時代や江戸時代以降の天皇陵は全て確実ですよね?

みんなの回答

  • eroero4649
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回答No.5

>宮内庁がどうのこうのという話ではなく平安時代や奈良時代にも歴史書というのを作ってたはずなのにわからなくなってます その歴史書がどこまで信用できるかが分からないので、困っているのです。 平安時代や奈良時代の歴史書の記録というのは、公式記録です。そして宮内庁の「ここが天皇陵です」といっているのも、公式記録になります。宮内庁は宮内庁の中で調査して「ここがそうです」と発表している訳ですが、それが正しいかどうかの第三者による検証は行われていません。 同じように平安時代や奈良時代の歴史書というのも第三者から検証を受けていない「公式報告書」ですから、改竄や捏造などの疑惑も残ります。誰か個人が残した記録と違う場合は「さて、どっちが正しいか」という議論が生じてしまうのです。 だから「確実に、ここはこの人の天皇陵だと誰もが断言できる」となると遡れるのは明治天皇までになってしまうと思います。それ以前は近代学問による検証を受けていませんからね。「まあたぶんそうで間違いないと思うけど」という話です。 ちなみに江戸時代の歴代将軍は、昭和33年に増上寺の修復が行われたときに遺骸の調査が行われましたので、どの将軍が葬られたかの近代学問による検証を受けています。 質問者さんは歴史上の事件にしても天皇の墓にしてもそれは事実として存在したのだから、絶対的な真実が存在するだろうと思っていると思いますが、歴史ってそんなに白黒はっきりしているもんじゃなくて、結構あやふやなものなのですよ。 その出来事を知っている人がみんな死んでしまうと、本当にそうだったのかどうかもう分からなくなっちゃうのです。あとは残された記録から推測するしかないのですよ。それが歴史の面白さでもあるのですけれど。 そもそも国の公式記録というものも・・・おっと、これ以上直接関係ないことを書いてしまうと怒られそうなのでやめておきます。

uoy17642
質問者

お礼

すいませんね、あなたの想像とかどうでもいいのですよ 解らないならしゃしゃり出てこないでください あなたは5年位前の歴史も白黒つけられないと言い訳をしそうですw そんな方の回答に意味はありません このサイトは素人が自分勝手の考えを押し付けるサイトなんですか?

回答No.4

そもそも「日本書紀」や「古事記」の文献としての信憑性はほとんどありませんよ。かなり政治的(天皇支配を合法化させる)な文書ですので、「記録」とは言い難いシロモノと思っています。 >奈良時代や平安時代の天皇陵でさえ誰のだか不確かなものが多い理由 これは文献が不足しているからです。明治時代に当時の宮内省がそうした状況にもかかわらず、ある意味「適当」に近畿地方の古墳に「○○天皇陵」と名付けて管理したため、調査活動が禁止されて、その管理が今なお継続しているのです。つまり、原因は「皇国思想を広めたかった明治政府」が原因なのです。そうでなければ、とっくの昔に科学的調査が行われていたはずです。 >不確かなもので最後の天皇陵はどの時代の物 天皇が死去した際に、必ず「天皇陵」が作られるとは限りません。 火葬の導入(最初に天皇で火葬を行ったのは第41代持統天皇)や火葬後に散骨して大規模な造営を行わない事例(嵯峨天皇、淳和天皇)などが見られるようになったことにより、仏式の堂に納骨する方式がとられるようになったそうです。 江戸時代の後水尾天皇以降は代々京都泉涌寺に石造塔形式の陵墓が建立されたため、それ以降は「天皇の墓」がはっきりわかるようになりましたが、陵墓が存在しない場合もありますので「不確かなもので最後の天皇陵」がいつなのかは何とも言えません。 明治天皇以降は土葬に戻りましたが、現在の上皇(第125代天皇の明仁及びその皇后美智子)は火葬されることが決定しているそうです。

uoy17642
質問者

お礼

私の質問の答えが何も解らないのに何で回答しようと思ったのですかねぇ

  • kon555
  • ベストアンサー率51% (1842/3559)
回答No.3

 あらゆる記録というのは永続するとは限らず、燃えたり濡れたり破れたり、紛失したり捨てられたりと、どんどん失われていきます。  時代が古くなる程に散逸する記録は増えます。そうして穴ぼこだらけの『記録』の間は、学者さん達が調査と推測で埋めます。  当然「◯◯天皇はほにゃらら年に死んで〜〜に葬った」という部分が失われると、没年不詳の墓不明、という天皇が出現します。  また山などの呼び名も時代で変化しますから「◯◯山に葬られた、という記録はあるが、◯◯山が何処なのか分からない」みたいなパターンもあります。  そしてそういう『記録』とは別に、地域の口伝などで「やんごとないお方を葬った」という伝承などが残っていたりしますが、これは当然正確性を欠くので、果たして天皇なのかどうかすら曖昧です。  このような曖昧さが絡み合った結果、「おそらく◯◯天皇、または××天皇の墓と思われるが決定的証拠はない」というふんわりした天皇陵が出現するわけです。

uoy17642
質問者

お礼

回答ありがとうございます それで最も最後の不確かな天皇陵は誰のものですか?

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11073/34515)
回答No.2

>奈良時代や平安時代の天皇陵でさえ誰のだか不確かなものが多い理由は何ですか? 宮内庁が「天皇陵」と指定しているものについては、調査が認められないからです。だから「そもそも天皇のお墓ではない」とか「天皇陵ではあるけれど、宮内庁がいう人とは違う人が葬られている」という可能性がある天皇陵とされている古墳はしばしばありますね。 また、宮内庁の指定から外れていたので「たぶん天皇陵だけど、公式に認められない」という遺跡もあります。 他の方も指摘していますが、私が子供の頃は「仁徳天皇陵」と習った古墳は、今は「大仙古墳」と呼ばれることが多いです。本当に仁徳天皇陵なのかが怪しくなってきたからです。 >またこの天皇陵がどの天皇の墓であるというのが不確かなもので最後の天皇陵はどの時代の物ですか? さーて。なにせ調査そのものが認められていませんから、どれも不確かっちゃあ不確かです。 >さすがに戦国時代や江戸時代以降の天皇陵は全て確実ですよね? さすがに江戸時代は確実だと思いますが、室町末期から戦国時代というのは朝廷というのは大変な貧乏で苦労していましたし、日本中が戦争をしている内戦状態でしたから、確実ともいいきれないとは思います。

uoy17642
質問者

お礼

回答ありがとうございます 宮内庁がどうのこうのという話ではなく平安時代や奈良時代にも歴史書というのを作ってたはずなのにわからなくなってます 解らなくなってるのは宮内庁以前の話なので私の質問に宮内庁は関係ありませんよね

  • Don-Ryu
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回答No.1

仁徳天皇陵だって怪しいと思います。 開けてまともな調査が出来ていないですよね。宮内庁が許可を出さないので。 ばれたらまずい事情があるのだと思います (実は神様ではなかった、とか、素性の知れない子孫だの愛人だのがいた、のレベルで) この領域の世界に正常な学問は機能していないと思います。 政治の思惑に振り回されるので。 大学の考古学教授って、常に足の引っ張り合いをしていますよね。 狭い自分の領域に余所者が入ってくるのもイヤなのでしょうね・・・そんな世界なのかなと。

uoy17642
質問者

お礼

回答ありがとうございます 仁徳天皇陵は日本書紀ができる前の話ですね