怒りから慈善団体を興すこと
先月のニュースでドイツの女性が慈善団体を興し、一方的に他者に何かを与えるボランティア
ではなく、ギブ&テイクの関係でお互い助け合う運動を続け、結果15年以上お金を使わない
生活が継続できているという記事を読み、大変感銘を受けました。
彼女自身も(お金を使わないという)メリットを受けているとはいえ、発端は御自身がある市に
引っ越した時、そこにいた多くのホームレスの姿を目の当たりにし、心を痛めたことだといいます。
世の中の慈善団体推進者・参加者の多くは、そうした他者への慈善心に満ちたマインドの
持ち主だと思います。
一方怒りから慈善団体を興す場合はどうでしょう? 例えば世の中にグレーゾーンの
悪徳産業がはびこっているとします。(法的に存在することは無問題としても、事実上多くの
人間の犠牲の上に成り立っているような、某かの産業を想定して下さい。)
一部のジャーナリストや法律家等が、そうした悪徳産業批判のキャンペーンを行ったとしても、
定着した産業構造や世の中のしがらみ等から大勢の人が利用を続け、打倒するには至らない
とします。
そこに上記ギブ&テイクセンターのようなものがあれば、肩肘張った運動を行わずとも
世のため人のため自分のためにもなる団体に自然に人が集まり、結果的に水が高い所から
低い所に流れるように、需要が少なくなる悪徳産業が衰退するのではないかと思いました。
この時、そのギブ&テイクセンターの主催者には、他者に対する情愛の念が薄いとします。
内に秘めた悪徳産業への怒りが主たる原動力であったと。 そういう慈善団体活動は
存続が難しいと思いますか?
様々な人が利用する中、(所謂とんでもない人が来たとしても)、マイナスの事態を受け止められる
ような忍耐力、他者への深い共感あってこそ、団体活動は継続しうるのかどうか?
ビジネスなら多くの場合、客が払うお金が解決してくれます。 ですが、ビジネスという範疇では
活動しない以上、より人間的としての根本部分が要求されると思われるのです。
つまり他者に対する情愛の念を時間をかけてはぐくみ、心が充実してから活動開始する
べきかどうか? 他者に対する思いが十分にないと判断できたら、自分は不適格ということ
なのかどうか? いや怒りが原動力の慈善団体があったとしても、志さえ維持できれば
活動は可能かどうか、御意見を頂ければ幸いです。
(上記で書いた悪徳産業とは比喩的に表現したものであり、具体的に何か?という言及は
ここではなしでお願い致します。)
お礼
ありがとうございます。