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日本の、国という概念はいつできたのでしょうか?
日本の、国という概念はいつできたのでしょうか? 播磨国や摂津国などといった国という概念、五畿七道が飛鳥時代にできたころにはすでにあったと聞きましたが。 これらはいつ出来た区分けなのでしょうか? また、もともとは国というのはなんだったのですか? (中国の歴史書に載ってる、邪馬台国が長となって治めたとされる約40ヵ国の名残なのでしょうか?)
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興味深い質問だと思いますが、回答が非常に難しいと思います というのは、 (1)中央政府が認めた「国」(=province) (2)地域の俗称に近い「国」「邦」(=country) (3)地域名称と兼ねた「国」(=region) と概念的相違点があります。指摘にある播磨 摂津は、(1)(2)(3)との両面の性質があるので回答は難しいでしょう。 飛鳥時代を引き合いに出していますから、その時点では『風土記』成立して名称がありますから、(2)(3)の意味の国名と捉えるのが妥当でしょう。 ただし、この時代にすでに(1)の概念はまだ生まれていないと考えた方が良さそうです。 それは、飛鳥時代では中央政府が地方政治を管轄する権限も実態もないことが指摘できます。参考になるのは、『令制国』で検索されるとわかり易いでしょう。 さて、質問にある区分けに関しては、概ね古風土記の編纂時代には確認できますので、奈良時代以前と考えられます。それ以前になると『国司』を制定する経緯になった大化の改新が契機と考えられます。 もっとそれ以前から(2)(3)の意味で個別に自称・他称で地域名称があったでしょうから、規定の根拠は不明です。 ただ、職制において、「国造」(地方豪族)がベースにあり、その豪族の官位が”○○国造”といわれ、その○○が国名になったとも解されます。(一致しないこともあるので、可能性です) 「国造」は大和朝廷時代の行政区分の区長の意味ですが、その成立年代は不明です。 そして、ご指摘にある 「魏史」の40カ国ですが、確定したことは言えませんが、若干「国造」とは異なる可能性があります。 というのは、魏史で指摘される40カ国の地域は九州・もしくは近畿以西の数になりますから、数が多すぎ、細分化されすぎています。 おそらく部族社会的な村落の連合体盟主の立場だった邪馬台国のポジションを暗示していると思われますが、解釈も複雑多岐なので、明確な回答はありません。 以上のようにあまり明確な回答は出来ませんでしたが おおよそ古墳時代には、関東以西の『国』概念は出来上がっていたと思われます。もっと古くから存在する可能性もありますので明確な回答は今後の研究に期待するものだと思います。
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- yuki01cunn
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日本という概念は聖徳太子が小野妹子に遣隋使として派遣し、その中の隋の皇帝煬帝への手紙の中に書かれていたのが始まりです。 地域の区分や元の名前はそれぞれの国の風土記に書かれています。例えば「播磨国風土記」区分けの年代の詳細はその当時日本にはまだ文字が無かった為に不明です。
お礼
みなさまありがとうございました! 日本史は歴史が深く古代に不明点が多すぎて、神秘的でもありますね。