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江戸時代、飛脚が襲われて信書を奪われた事件はありますか。
江戸時代、飛脚が襲われて信書を奪われた事件はありますか。 あったとすれば、その顛末はどうなったのでしょうか。 よろしくお願いします。
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#1の回答にある通り飛脚の一部は公による御免状を持っていたため 賊連中も手出ししにくく、また手出ししたとしてもバックがバックですので 通りかかりの商人・侍と比べて襲うリスクは相当高かったと思われます。 加えて、藤村潤一郎氏による興味深い指摘があります。(「紀州七里飛脚について」1990) 江戸時代以降の町飛脚はふだん街道沿いの駅宿に巣食い、 そのため駅宿は半分博打小屋のような飛脚小屋となり果てており、 街道で地理的に明るいことと無宿者とのつながり、加えて先の御免状持ちとのことで 博打をはじめ近隣住民へのゆすり等の無法をはたらくため いわゆる雲助連中とおなじく人々からはかなり煙たがられていたようです (なかには度が過ぎて獄門となった飛脚衆もおり紹介されています) そういうわけで、山賊や盗賊連中と飛脚は、襲う・襲われるの関係よりも どちらかといえば、つかず離れずのような関係にあったような印象を受けます。 遅う場面があったとしてもアウトロー同士のいさかいのほうが想像しやすいでしょう。 具体的な襲撃記録を挙げられず申し訳ありません。 ですが、Cinii上に藤村氏ほか飛脚に関する論文がたくさんあり、一部はPDFで閲覧できますので 参考にされればと思います。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>江戸時代、飛脚が襲われて信書を奪われた事件はありますか。 具体的な例では、解りかねますが、 (1)飛脚が襲われることは、ほとんどありませんでした。 飛脚問屋は幕府や諸藩公認の職業でしたので、そうした飛脚を襲撃したりすれば、たちまち、大捕物となり、捕捉された場合は、罪が軽くても「遠島」または「死罪」となりました。 また、飛脚には飛脚問屋と宿駅問屋があり、宿駅問屋は幕府公認で各宿場にあり、公用事には無償で隣の宿駅まで荷駄を運ぶことが義務付けられていました。そして、常に、ある程度の馬を待機させていました。しかし、常に仕事があるわけではありませんので、常備している馬で武士や商人の荷駄も運びましたが、その距離は、次の宿駅まででした。 飛脚も同じで次の宿駅まで信書を届け、次の宿駅では、次の宿駅までを届ける・・・という、まさに「バトンリレー」だったのです。 従って、一人の飛脚が走る距離としては、せいぜい2~3里だったのです。 信書が紛失したり盗難にあったりすることも、なかったとは言えませんが、現代のように、報道されることなく、闇から闇に消えたものとおもいます。 (2)荷物が紛失した例はあります。 尾張藩公認で、幕府の許可も得て京都、大坂、江戸を中心に各地に支店を構えていた飛脚問屋の「井野口屋」の記録で、享保8年(1723)~天保14年(1843)までの記録、原題は「井野口屋飛脚問屋記録」には、飛脚荷物の盗難や事故の記録、風水害による荷物の遅れなどが記されているようです。 原文を直接読んだわけではありませんが・・・。そこには、 ☆文化年間に「犬山物産会所」なるものができて、尾張の物産を各地に運搬すると同時に信書を届ける飛脚まがいの行為をし、井野口屋の独占権が奪われ、家業も衰え始めたため、井野口屋は、尾張藩公認と幕府公認の許可書を提示して、再三、尾張藩に信書運搬の差し止めを訴えていることが書かれています。 ☆また、逆に、井野口屋も荷駄を運搬する許可を得ていましたので、お互いが睨み合う事件まで起きたことなども記載されているようです。 ☆天保年間には、井野口屋への嫌がらせから、御用荷物の盗難が発生。被害額1,300両を弁済し、後に、その仕業が御用荷物運搬に付き添っていた宰領(さいりょう=監督責任者)であった、などとも記されているようです。
お礼
いつも詳しく丁寧に教えて下さってありがとうございます。 「信書が紛失したり盗難にあったりすることも、なかったとは言えませんが、現代のように、報道されることなく、闇から闇に消えたものとおもいます。」 私もそう思っているのですが、誰かがこっそりと書き留めておいた日記の類のようなものが見つかっていないかと思って、質問しました。 井野口屋の話は大変参考になりました。
お礼
藤村潤一郎氏は、吉川弘文館『日本交通史』の「通信と飛脚」の章を執筆されており、いま読んでいるところです。 この中にも飛脚が襲われて信書が奪われたという話は出てきません。 信書を奪ったところで、即カネになることはありませんから、奪いたい強い目的があるとすれば、 素人の私の想像ですが、幕末、対立する勢力が互いに相手側の動きを探るために、飛脚を襲うようなことがあったのではないかと思って、質問しました。 それを避けるために密使を送ったと思いますが、では竜馬はどうしたのだろうと、思ったのが疑問の発端です。 上記の著書で、オールコック『大君の都』には、「ただいちどだけ、神奈川から江戸へ走らせていた私の飛脚が英文の手紙をもったまま姿を消したことがあった。」と書いてあります。 教えていただいたサイトは、大変興味深く拝見しました。 飛脚について、とても深く知ることができました。 ご回答ありがとうございました。