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江戸時代の飛脚
江戸時代の飛脚は、各大名家の城下にも隈なくネットワークがあったのでしょうか。 どのような整備がされていたのでしょうか?
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江戸時代、町飛脚の問屋同士の提携があり、全国ネットで郵便物が伝わったか・・・というご質問と思います。 下のURLは飛脚問屋のご子孫のページです。 http://www.interq.or.jp/gold/waki/edoyubin/index.html おそらく江戸末期のものと思いますが、印刷物の広告があったり、集荷日がヒト月に11日もあったり、なかなかのものです。 飛脚制度全体についての概要はご存知と思いますので(感じはNO.1さんのおっしゃる通りです)、町飛脚についてのみ、お話しさせてもらいます。 17世紀後半、江戸、京都、大坂の商人たちが幕府の免許を受け、三都市間の飛脚営業を始めました。依頼主から料金の前納を受けて書状や荷物を運びました。 営業範囲も五街道(東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道)から九州、東北へと順次広がって行き、江戸末期には全国的になったようです。 質問者さんのおっしゃる1万石程度の大名というと、お城もなく陣屋の殿様がいる田舎町だと思います。江戸末期であれば、飛脚問屋はあったと思いますね。専業の飛脚問屋でなくても、別の業種の商店が兼業でやっていたと思います。 飛脚問屋同士の提携があった、と明確に記載している資料は見つかりませんでしたが、当然提携していたはずです。1社では全国規模のものは無理です。日本通運は、五つの飛脚問屋が維新後合併して、あの全国規模の会社になったと、聞いていますのでネットワークはあったものと思います。 以下余談ですが・・・。贅沢な与力の実情については下のページがよく描けていると思います。
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1です。ごめんなさい。質問を読み違えました。 各大名の持っていた大名飛脚のことかと思いました。 次第に衰退したとありました。 公儀御用である、継飛脚と、民間の町飛脚は、相当なネットワークを持っていたということです。 このサイトが1番わかりやすいです。
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こちらこそ分かりにくい質問で失礼致しました。 昼夜の別なく3日で江戸・大坂間をつないだというのはすごいですね。 ということは、東海道筋の飛脚問屋は夜も飛脚を待機させていて、いつ継飛脚のバトンがきても良いように備えていたということでしょうか。夜勤担当の飛脚もいたかもしれないですね。 ありがとうございました!
御三家クラスとか、潤沢な藩しか、なかなか、整備ができなかったようですよ。 整備が出来ていた藩は、各宿場に配給米のような形で、整備の資金を提供したようです。 隅から、隅までのネットワークもさほど必要ないと思います。 整備は、おろか、大名飛脚も用意できなかった藩は、町民たちが利用する、民間の町飛脚を利用したようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 すみません、質問の書き方が悪かったです。 一口に大名と言っても、百万石の前田から一万石の小大名まで百花繚乱ですが、一万石程度の陣屋大名の城下町だとたいして栄えてはいなかったと思います。 江戸や大坂への通信手段としての飛脚はどんなに小規模な城下町でも必ず置かれていたものなのでしょうか?と質問したかったのです。 悪文で申し訳ございませんでした。 御三家クラスだと藩内にも飛脚を置いていたのですね。 大名飛脚を容易できない藩でも、民間の街飛脚はどんなに小さな城下町にもあったのでしょうか? 飛脚屋どうし(例えば江戸の飛脚屋と鹿児島の飛脚屋)のネットワークとかもかなり提携があったのでしょうか?
お礼
集荷日は月に11日というのはすごいですね。 街道をかなり活発に飛脚が往来していたのでしょうね。 豊前小倉藩主だった細川家でも、隠居の三斎と息子の忠利が国許と江戸で頻繁に書簡のやり取りをして情報交換していたようですが、万が一飛脚が手紙を紛失する恐れもあるのでかなり気を遣って暗号なども使っていたようですし、返信が届く前に次の手紙を出すことも多かったようです。現代の通信技術が飛行機便だとすれば当時の飛脚は船便のような感覚だったのでしょうか。 まずは三都から飛脚営業は始まったのですね。 日通は5つの飛脚問屋がその全身だったのですか。三越なみに歴史の古い会社だったのですね。 ありがとうございました!