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重ねる音の擬態語の少なさについて
- 古今集には重ねる音の擬態語が少なく、現代でもあまり使われていないことについて疑問を感じます。
- 日本語の特徴である擬態語の膨大さに比べ、重ねる音を表す擬態語が少ないことは不思議です。
- 古今集や万葉集には音を重ねる擬態語の使用例が限られており、そうした表現が制約されていた可能性が考えられます。
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こんばんは。 さすがにyukinn66さん、目の付け所が鋭いと申し上げるべきか、古今の隠れファンを自認する私ですが、これまで全然気がつかなかった古今の一面を正確に言い当てていらっしゃると思いました。 で、これは私の曖昧な記憶を頼りにしたものでしかないので、あまり当てにはなりませんが、古今の表現、修辞、文体、技法、語法、用語等々に関する考察はいろいろあっても、「擬態語」に注目した研究となると、もしかしてほとんどないのではないでしょうか。 と言うか、本当は該当する用例が少ないから問題にしようがないだけ、という単純な理由なのかもしれませんが。 >擬態語の膨大さは他言語に類を見ない、日本語の特徴とも聴きますので、不思議に思いました。 「さらさら」は万葉などには出てきますが、それにしても純然たる擬態語としてではなく、あくまでも「決して」とか、「今さら」とかという語との掛詞として使用されているだけですよね。 引用なさった「多摩川に晒す手作りさらさらに何そこの児のここだ愛(かな)しき」(万葉)にしてもそうですよね。 なお、「つれづれ」の用例なら、一例ですが、「徒然のながめにまさる涙川袖のみぬれて逢ふよしもなし」(藤原敏行)が古今にはありますが、その他のyukkinn66さんお示しの擬態語を含めて、確かに古今には万葉ほど登場してきませんね。 思うに、擬音語・擬態語というのは、特に「音の重なる言葉」の多くは話し言葉で使用されやすい口頭語的な表現ですよね。 ですから、中原中也や草野心平などのような詩人は敢えて口頭語的な表現を意図した場合などに多用することはあっても、基本的に言葉数の限られる短詩型では避けられる傾向があるのではないでしょうか。 しかも、古今集の場合、知性の極みに抒情性が溢れ出てくるような趣向の歌が多く選ばれていることからして、万葉よりもなおのこと、貫之をはじめとするやや気取りや集団でもあった古今の選者たちが、より素朴で、直情的な、つまりより口頭語的な「擬音語・擬態語」を意図的に排除しようとしたと邪推することができるかもしれませんね。 以上、あまり参考になりそうもない回答に終わり、失礼いたしました。
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- kadowaki
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こんばんは。 >初めて「仮名序」を読んだのですが、ううむ、、、と思いました。 「仮名序」を書いた貫之というのは、『土佐日記』を読むと感じられますが、ずいぶんと諧謔精神に恵まれ、かつ洒落をも解する、しかも反骨的でもありましたから、その意味では才智溢れる、優れた詩人だったと思います。 が、同時に官人としては不遇(官位が低いとか)の生涯を送ったようで、私が思うに、わりと本音(公)と建前(私)を注意深く使い分ける処世術にも長けていたように思われてなりません。 >古今集を歌一つ一つ、と思わずに、ちょっと離れて全体を掴もうと試みて読むと、確かに何らかの意志や意図を感じ取れます。 >選者の問題は大きいかも知れませんね。 はい、昔から、古今の編集意図や狙い、その構造等に関してはいろんな考察がなされてきたようですね。 中でも、三島由紀夫が16歳の時に当時の中堅格の国文学者たちが出していた雑誌に「古今の季節」という古今論を掲載しておりまして、これがまさに古今の編集意図や前後の歌の呼応関係等に注目しており、それを読んだときに、思わずその解釈のキレの鋭さに驚いたのを想い出します。 16歳の私なんかは、文学とは全く無縁どころか、あくまでも健康に遊びほうけておりましたから。 >振られた恋人を恨めしく思う時って、物の見事に「何を見てもどこもかしこも恨めしい」気分になりますものね。 >「うら」の音のしつこさも恨めしさの度合いを表すのに一役買っているなあ、と思います。 はい、この歌では、その修辞にしても、取って付けたような虚飾としてでなく、平中の「恨めしく思う」心情を余すところなく表出する上で見事にその機能を発揮していると思います。 でも、『平中物語』(18段)によりますと、平中が何度歌を送っても返事をもらえなかったのは、相手の女性がそもそも歌を詠めない、字も下手くそだったせいだと後日談として書かれていますので、稀代のプレーボーイにしては事前調査にやや抜かりがあったということかもしれません。 >新古今集は、おそらく絢爛たる「日本文化の時代」を味わい尽くした反動からか?漢語使用率の上昇。 >古今集は、もしかして、唯一の「純然たる日本文学」かも知れないなあ、なんて考えています。 若い頃は、新古今、特に定家の唯美的、幻想的な歌に魅了されましたが、年を取るにつれ、一見素っ気ないまでに知的に制御された、ロマンチックな凸凹な感情もきれいに剪定された古今の恋歌の方によりデカダンスを感じるようになりました。 >私は夏目や芥川や中島敦が好きですが、彼らの文学には漢語が溢れ返っていますし。。。 三人が古今集をどう評価していたかまでは存じませんが、三人ともが古今的な、やや偏屈な、しかも見事なまでの知性を備えていたという点がちょっと面白いですね。 なお、古今にしても、確かに国風文化時代の到来を告げるにふさわしい、最初にして最上の勅撰集だと思いますが、それにしても中国の『詩経』の影響を大きく受けていることも確かなようです。
お礼
とてもとても遅いお礼となりまして、申し訳ございません。 短歌が「文語」である事、つまり「書き言葉である」と言う意識を強く持ってを改めて古今集を読み返しておりました。 ついでに詠む方も、ですが。 春の短歌賞も大詰めですので。 >『平中物語』(18段) 歌のみに止まらず、「歌物語」を読むのもまた、詠み方と言う点で得るものが有るかも知れません。 頭から抜けておりました、ありがとうございます。 情報過多で思考停止しないよう、ゆるりゆるりと進んで行きたいと思います。 古今集に飲まれて古今集に浸っておりましたので、他の歌集や時代との比較が全然為されておりませんが、時代を下るにつれ、日本語からやまとことばが影薄くなって行っているように思えてなりません。 寛容極まる風土故、外来語の増加が著しいのでしょうけれど、外来語、漢語による「日本語らしさの喪失」なんて、次の疑問課題が浮かんで来ております。 我が侭勝手な我流の歌詠みですが、 私の歌詠みの稚拙さは重々承知なのですが、どうにも漢語や外来語を使用した歌と比べて、やまとことばを強めに意識しての詠んだ歌は滑らかさに大きく差が出るように感じています。 特にやまとことばの特徴の「清音」を意識しただけで、歌の頭から最後へ「一筆書き」の滑らかさが出ます。 この滑らかさを外来語と漢語を使っても出せるのかどうか、 それとも、やまとことばとはまた違った味が出て来るのか? 私には未だ掴めておりません。 図書館で「短歌のつくりかた」等色々とありましたが、 見ると面倒臭さがどどっと出て来るのが私の悪癖で。。。苦笑 反抗心は、これはもう、私にとっては「角が取れる」等と言う物では無いのかも知れません。 ああ、いけない子。。。。 >中国の『詩経』の影響 詩経ですか。。。 読んだ事あったかなあ。。。多分未読です。 さあ、お勉強お勉強!^^ 一年前に頂きました短歌の上達法についての御指南。 大事に読み返しております。^^ 加えて今回頂きましたご回答。 いつも丁寧にありがとうございます。
お礼
気付いてくださりありがとうございます。 >目の付け所が鋭いと申し上げるべきか いえ、、、短歌のネタが品切れで、挙げ句に口語短歌に飽き飽きして来たので古今集に取り付いてみただけの事です。 初めて「仮名序」を読んだのですが、ううむ、、、と思いました。 既に口語で読み書きが行われている現代で、文語を我が物として使いこなすには、相当の読み込みが必要だなあ、と感じております。 >該当する用例が少ないから問題にしようがないだけ、 その理由としてあげてくださった、選者達の選り好み?感性?の問題。 古今集を歌一つ一つ、と思わずに、ちょっと離れて全体を掴もうと試みて読むと、確かに何らかの意志や意図を感じ取れます。 選者の問題は大きいかも知れませんね。 >より素朴で、直情的な、つまりより口頭語的な「擬音語・擬態語」 そうなのです。 口語短歌を歌いまくっていて、ひょいと落ち着いて自分の歌を読み返すと、うまく行けば「素朴」かも知れないけれど、どうにも「安っぽくなりがち」と感じます。 質問文中後半に「同音異義語を重ねての流麗さ」と書いてみましたが、 kadowaki様のおっしゃる「掛詞」がそれですよね。 擬態語を多用せず、季節風物と読み手の心情をリンクさせる手法が、まさにこれなのでは?と考えています。 風物の名称の「音」が心情がこうもするすると導き出して来る事が、まさに「母語/風土の言葉」としての「やまとことば」の証明かも知れません。 独断で、これはすごい、と思ったのが 「秋風の吹き裏がへす葛の葉のうらみてもなほ恨めしきかな」823 掛詞。同音異義語の重ね方の(まあ、しつこいと言えばそうですが。苦笑)見事さ。 この歌迄、あまり何とも思わずに読み進めて来たのですが、この歌で「掛詞の手法」をはっきりと認識しました。 振られた恋人を恨めしく思う時って、物の見事に「何を見てもどこもかしこも恨めしい」気分になりますものね。 「うら」の音のしつこさも恨めしさの度合いを表すのに一役買っているなあ、と思います。 万葉集は、未だ日本語の文字としての「仮名」が無かった時代の歌集故、輸入文字の漢字表記。 新古今集は、おそらく絢爛たる「日本文化の時代」を味わい尽くした反動からか?漢語使用率の上昇。 古今集は、もしかして、唯一の「純然たる日本文学」かも知れないなあ、なんて考えています。 私は夏目や芥川や中島敦が好きですが、彼らの文学には漢語が溢れ返っていますし。。。 思うままのお礼文となり、恐縮です。 専門書/解説書は未読故、解釈の間違いなど有りましたら、ご指摘下さい。 発見が多く、奥深い回答をありがとうございます!