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江戸時代の日本語文章の書き方

水口柳町 阿波屋 源 兵 衛 其方儀年来問屋肝煎役相勤、聊か私曲の廉も無之、実行の聞有之、且職業格別出精致候趣奇特の事に候、依之為褒美金五百匹下賜候事 明治元年戊辰九月二十三日 弁 官 事 上記のような書き方は、朝廷や幕府などが発給するときに見られる文章であると勝手に思っているのですが、このような書き方はなんというのですか。 次に庶民の書く文章と変わりがあるのですか。 最後に、このような文章にあまり平仮名を用いないのでしょうか。

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回答No.2

和漢混淆体で表した、お達し布令ということですね。このようなものに名称はなかったでしょう。 告文といういい方はあったでしょうね。

  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.1

古来、公用文となっていた「正式漢文」や、更にその語順を日本語風に近づけた「和化漢文」の歴史がありますが、この文体はそのような漢文に近い体裁に似せた「漢式和文」と見なされます。いわゆる「候文(そうろうぶん)」ですね。 幕末になると、このような漢字廃止の機運から、明治の新政府の公布した「五箇条の御誓文」は和漢混淆の「漢字かな交じり文」となりましたが、エリートの使う漢文以外の書き言葉としての「文語文」では、このほかに平がな文をまねた雅文調や雅俗混淆の文体としての「擬古文」も使われています。 その頃までの「庶民」の文章は、私信としての会話口調のかな書き文だったのでしょうが、言文一致運動の流れによって「口語体」に変わっていった中で、公用文に採用されるには戦後までのズレがあったことになります。 参照:名古屋大学「日本語史1」 http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/oshima/teaching-old/IU_2008-2009/docs/IUJL_11.pdf