• ベストアンサー

歴史 江戸時代 後期について

歴史 江戸時代 後期について 外国船の接近で、国内ではどのような動きがあったのですか。 教えてください。 (具体的にお願いします)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 江戸幕府は外国船の近海出没の報告を受けて、寛政3年(1791)に外国船が来航した時の処置方針を定めて全国に通知をした。 同4年(1792)には、沿岸に領地のある諸藩に対して警備を厳重にするよう命じ、警備人数、船舶数、大砲の有無などを幕府に提出するよう命じた。 文化5年(1808)、イギリスの軍艦フェートン号がオランダの国旗を掲げて長崎に入港し、オランダ商館員を捕まえて、食糧などを強要する事件が発生した。いわゆる「フェートン号事件」である。 この事件により長崎奉行松平図書頭康英は責任をとり切腹をするという結果になった。幕府はこの事件に衝撃を受け、江戸湾防備体制を再検討することとなった。 文化7年(1810)、幕府はそれまでの沿岸諸藩中心の防備を改めて、有力藩による江戸湾防備体制をとることとした。そのため相模沿岸は会津が、上総と安房沿岸は白河藩が担当することとなった。 この体制も文政3年(1820)には相模沿岸の警備を担当していた会津藩が解任され、替わって浦賀奉行が担当することに変更された。その際、非常時には川越藩と小田原藩が助役として軍勢を派遣することとなった。この時の川越藩での総勢は136人であった、との記録が残されている。 文政8年(1825)、幕府は「異国船打払令」を発令したが、アヘン戦争のニュースが伝えられると天保13年(1842)7月にはこの令を撤回して、外国船に薪や水の給与を許す緩和策を示した。そりとともに江戸湾防備の強化を決め、同年8月には川越藩に相模沿岸を、忍藩に房総沿岸の警備を命じた。この江戸防備の2藩体制は弘化4年(1847)まで続いた。 弘化3年に来航したアメリカのビッドル艦隊は、幕府や警備諸藩に海防強化を強く認識させることとなった。幕府は江戸湾防備を強化するために、弘化4年に、それまでの川越藩と忍藩だけの2藩体制に彦根藩と会津藩を加えて4藩体制とした。そのため相模国の沿岸警備は川越藩と彦根藩が担当し、安房は忍藩と会津藩が担当することとなった。 この時期の江戸湾防備の基本方針は、 もし、江戸湾に異国船が進入した場合、相模の城ケ島と対岸の安房州之崎とを結ぶ線を第一の防御ラインとし、これが破られた時は観音崎と富津を結ぶ線で押し留め、さらにこれを乗り越えるようであれば直ちに攻撃を加えて打払うというものであった。 川越藩の記録では、観音崎陣屋に282人を配置するほか、大筒方として観音崎台場に18人、旗山台場に14人、十石崎台場に11人、猿島崎台場に5人の計48人を配置したとの記録がある。

その他の回答 (1)

回答No.2

画像です。