#2です。
質問者さんは、
何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
という歌をご存知ですか。西行が伊勢神宮を訪れた時に詠んだ歌です。そのビルマの方は、大仏様を見た時にかつて存在したお釈迦様に思いを致し、目の前の像に対してよりも、その心の中のお釈迦様に対して、かたじけなさにただひたすらに手を合わせたのだと思います。ですから、その話を聞いた時に私には何の矛盾も感じませんでした。私は、人々の苦しみを除き、その人達の幸せのために、あるは家族や国の人々の身の安全を守るために身も心も捧げ、あるいは、命まで捧げた方には、それが生きている方に対しても、また、既に亡くなった方に対してでも、心から頭が下がります。このことは宗教に関係なく、多分何方も同じではないでしょうか。
神道でも、神様に願いごとをするようになったのは比較的新しい現象であると、日本民俗学者の巨人柳田國男が言っておりました。昔は、心を清めて空っぽにし、神社の前で無念無想で頭を下げることが習いだったそうです。
>仏教は地獄については実に事細かく説明しており(八大地獄、十六小地獄など)、地獄について仏教の右に出る宗教は他にないのではないかとおもいますがどうでしょう。
ダンテの『神曲』の中の地獄篇はキリスト教における地獄を実に事細かく描写しております。実は、地獄に関しての想像は誰にでも出来ることであり、それをあらゆる想像力を巡らして事細かに描写することは、どんな文化でも、どんな時代の人にでも出来ることです。人生は誰にでも苦難の連続ですから、地獄の形容は誰でも簡単に納得してもらえるのです。それよりももっと難しいのは天国や極楽の描写です。私はダンテの『神曲』の天国篇を読んだとき、こんなところは1週間もいたら飽きるだろうなと思いました。ところが、あるとき源氏物語にも載っているあの恵心僧都の書いた『往生要集』を読んだときに、彼の地獄の描写もさることながら、彼の言う極楽は知的で大変な物でした。そこなら私も是非行ってみたいの思いました。
昔から、小説の類いで悲劇の描写で名著とされるものは幾らでもありますが、喜びをテーマにした作品で名著と言われる物は大変少ないです。実は、悲劇は誰でも体験することなので、作家の才能が特別に優れていなくても読者は共感でき、したがって名著の誉れを簡単に手に入れることが出来るのです。一方、喜びの描写は大変難しく、余程の才能が無くては読者を説得できません。喜びをテーマにするのは、何だか、歴史的に著名なクラッシック音楽の作曲家達が幾らでもピアノ協奏曲を書いたのに、バイオリン協奏曲はほとんどの作曲家では一生の間にたった一曲しか書いて来なかったことに相通じるものがありそうです。
私のインドの友人は「イスラム経の天国はキャバクラみたいなところ、キリスト教の天国はアナーキーで、ただ奇麗で良い香りがするだけの退屈なところ、ところがインド人が考えた極楽は、知的で深い喜びをいつまでも味わえるところだ。どうだインド人は頭良いだろう」と、イスラム教やキリスト教の人が聞いたら激怒するような冗談を言って自慢していました。
悲しい、不安だ、惨めだ、などと言うことは誰にでも出来るのですが、喜びを生産的に表現できる方は、なかなか居ないようですね。
神の存在を認める宗教あり認めない宗教あり、地獄の存在を認める宗教あり認めない宗教ありと、人間は何処までも知的で多様な深みを持っているようです。私は、そのような多様な人間の文化の中にたまたま生まれて来たことに対して、その幸運さに大変感謝しています。
お礼
イスラム経の天国はキャバクラみたいなところ、キリスト教の天国はアナーキーで退屈なところ...ですか これはおもしろいですね、なるほどインド人ならそう言いかねないです 私も何人かインド人を知っていますが、彼らは宗教については圧倒的に自信をもっていますね。ヒンズーの教えは最強であると、ヒンズーの教えに勝るものはないと 世界中どこに行ってもぶれることがないというか自分たちのライフスタイルを変えようとはしない、だからインド人はどこにいても見ればすぐ分かる。 ヒンズーの教え、ぶれない心、日本人など到底太刀打できない精神を備えているようであります。 しかしヒンズーの教えもやはり、”天国 + 地獄 + 神”の枠内に収まっているようですが。
補足
この回答を読んだ後、ヒンズーやイスラムについて少し調べてみて思うのですが、やはりヒンズーやイスラムよりは仏教の方が良いです。 ヒンズーやイスラムはまるで化け物の世界です。 たとえインド人がどうであろうと、こんなものには到底ついていけない、そう感じております。イスラムも同様です(ヒンズーよりは若干マシですが)。 仏教にもいろいろ問題はあると思いますが、まだこの2つよりは大分ましです。