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天皇を殲滅
諸藩を取り潰ししたり、強大な権力を持っていた徳川政権下(今のトヨタや名古屋県人気質と瓜二つですが・笑) でなんで、天皇を殲滅しなかったんでしょうか? あの時代であの状況なら簡単に出来たと思うのですが?
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>あの時代であの状況なら簡単に出来たと思うのですが? 簡単に出来たなら、やっていたと思います。それが出来なかったのは、徳川家と言えども、ドングリの背比べのなかで、相対的に力が在ったに過ぎないからです。徳川家はよく八百万石と言われますが、例えば天皇家抹殺を試みたら、そのことによって外様大名達に勤王の大義を与えしまい、その結果彼らが錦の御旗の下に束になってまとまってしまったら、徳川家だけで勝てるかどうか、そこまでの自信がなかったのではないでしょうか。もしその自信が在ったら、この2千年ほどの世界史の中では例外的な封建制度という、西洋と日本だけに存在した七面倒くさい制度など採用せずに、世界中に何処にでも在った中央主権国家に移行していたはずです。中国がその中央主権国家の代表的な例すが、中国史を見ると、次々に天皇じゃなかった、皇帝を取り潰して、自分が皇帝になって来ましたね。 例えば、現在の英国を考えて見ると判ると思います。彼らはイギリス王家の存在を誇りにしていますね。ところで、ブレア前首相が突然イギリス王家の断絶を宣言していたら、どういうことになっていたと思いますか。彼はイラク戦争に若者達を引っ張り出して、その若者達の生き死に関する絶大な力を持っていたのですから、その軍事力を使えば、それくを簡単に出来たはずだと言う方がいるかもしれませんよ。でも、勿論国民が承知しないでしょう。ブレア前首相は、現在の英国の国王達とは違って、あの首相の地位を自分の実力で手に入れたのですが、しかし、それも国民の合意が在ってのことです。もし、ブレア前首相に途轍もない力があって、国民の中に不満を抱く分子が在っても、それを全て、論理的にも軍事的にも説得できると言う確信が在ったら、彼は英国王家を取り潰して、自分が終身最高権力者であると宣言したはずです。政治家の最高目的は権力の保持ですから、政治家の性として、それが最も自然な成り行きです。でも、何故その性にまで逆らって、彼は英国王家を取り潰さなかったのか。それは多分、余りにも自明な理由に由って、彼が王家を取り潰すかどうかと考えることすらしなかったからだと思います。まさか国民を敵に回すわけにはいかないと。徳川家も、日本中の大名達を敵に回すわけにはいかなかったはずです。 その当時の人々の天皇家に対する気持ちを知るには、例えば、戦国の武将北畠親房が戦の合間に書いた『神皇正統記』や、江戸時代の大教養人新井白石の『読史余論』、それに、その日本語の名漢文訳と評され(揶揄されている?)幕末に多大な影響を与えた頼山陽の『日本外史』を読むと参考になります。 私の勝手な想像ですが、天皇家が日本を統一して以降、そのことを本気で考えたのは、将門と信長だけだったのではないかと思っております。ただし、もう一人微妙な方が居られるようで、継体天皇はある意味でそれ以前の天皇家を断絶させたと言えない訳ではありませんね。
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- shin1417
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怨霊信仰だからでしょう。 悲惨な死に方をした人が、怨霊となって祟るって考えです。 これは日本の歴史の中では結構重要な事なのですが、どうも意図的に無視されているようです。 例えば、北野天満宮は怨霊となった(なったと思われていた)菅原道真を静める為に時の政権によって建立された物です。 怨霊とはちょっと違いますが、日光東照宮も北から来る「魔」を防いで江戸を守る為に建立されたものです。 現代ではオカルトと呼ばれる物の為に、国が大真面目に大金を出して対策したのですよ。 そういう思想が当時の人々の間にあったのです。 日本の3大怨霊といえば、菅原道真、平将門、No.3の方の言う崇徳上皇です。 この3人が死んだ後、天変地異の大災害が多発したと言われています。 (実際は100年程の長い期間で何度か自然災害が起きた程度らしいですが) 3人のうち、平将門、崇徳上皇の2人は天皇家の人間です。 (平将門は「平」姓ですがれっきとした天皇の血筋の人間です。だから「新皇」を名乗れたのです) つまり、天皇一族の人間がこの世に恨みを残すような死に方をすると、祟られて国中に災いが起きると思われていたのです。 もともと天皇は神教の神官みたいなものですから。 ですから天皇には手を出さなかったのです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ずばり 《くにゆづり》をしたからです。 まぁ 神話ですが 日本人のこころの真実を表わしていることでしょう。 アマテラス族が スサノヲ市民らに 服属せよと要求した結果――長年をかけて何人かの使者を送り首尾よく行かないまま ほとんど争いはなく経過していくのですが―― 根負けして《ゆづった》のです。 イヅモのくにの市民スサノヲたちは 第二階に・あるいは雲の上に アマテラストゥーム( das Amaterasutum )をこしらえて あたかも神だなに据えるごとく 住まわせたのです。さわらぬ神にたたり無しという消極的な側面も出ていたのでしょうね。殺し合いを嫌ったからです。何としてでも 人殺しを出さないことを旨としました。 ゆづったからには ちょっとやそっとでは 返せとは言えません。まだ千五百年ほどでしょう。 ただし その第二階であるアマテラス圏において クーデターが起こって 《天皇の殲滅》を企てたとしてもおかしくないかも知れません。まぁ 仲間内の争いということで コップの中の嵐におさまるということでしょうか。そう見とおしたというところでしょうか。 ゆづられた側は ひとの気持ちがわかるようなら うんとかすんとか言葉を返してくるでしょうね。 まぁ アマテラス族は 優秀なのでしょう。 とは言うものの スサノヲ市民の誰ひとりとして 万世一系でない者はいないのですが。 それにしても アマテラスとスサノヲとは 互いに実の姉と弟ですよね。
- gungnir7
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よくも悪くも日本は神道国家だということでしょう。 日本は天皇を頂点とする神道によって日本民族の尊厳を発揮できる面があります。 つまり、精神的な拠り所となるわけですね。 神道とよばれるものは、たとえば神社神道が庶民の生活には根強いものがあります。 昔から伝えられている昔話や妖怪のたぐい、毎年のように開かれる村祭り、 そういうものが複雑に絡み合って最終的に天皇に到達するのです。 そういうものの廃止は日本人のアイデンティティを奪うものです。 徳川の平穏な時代にそんな芸当ができると思いますか? 島原でさえあれだけ手こずったのですよ。 神道は護国の宗教であり、各地に神宮や大社、そして無数の神社があります。 島原とは比較にならないほど強大です。 まずは人民の多くが徳川を見限ることになります。 外様・譜代を問わず大半が徳川幕府に離反を表明するでしょう。 徳川の一族もいうに及ばず、江戸城内でも紛糾につぐ紛糾です。 もし、可能であるとするなら戦国時代の混乱期で、他国に余裕のないときでないと無理です。 そして、それに一番近かったのが織田信長とマッカーサーだと言われています。 比叡山を焼き払い、東大寺におどしをかけた信長ならば、激怒して歴史が変わったかもしれません。
- isa-98
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ようやく下克上も整理されました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%85%8B%E4%B8%8A 建武式目は一部武士の常識として定着します。 思いの他非合法国家でなかった事が推測されます。 当時の武士は土地を支配し、山河はもとより海まで天下人の物と言う認識があり、豊臣政権には金銀山からの金銀がどんどん運ばれて来るようになりました。 守護大名は戦国大名になった。有力者の入れ替えがあり、 敗者は門下に下った。 室町幕府が豊臣政権になった。江戸幕府になった。 のであり、 武家社会にはあまり大きな革新は無かったと認識すべきでしょう。 禁裏御料は信長秀吉に比して3千石加増。 信長までは天皇の葬儀もままならない状態でしたから 天皇も家康を悪くは認識出来ない状態でした。 また、改易には諸大名も従ってはいますが、 所詮、豊臣家の名目での処分であり、征夷大将軍は必要不可欠でした。
- IXTYS
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> なんで、天皇を殲滅しなかったんでしょうか? 大変良い質問です。 特に徳川家康は皇室を利用するだけ利用しました。 関ヶ原の合戦に勝利し、政治の実権を握ります。 すると時の後陽成(ごようぜい)天皇は邪魔になります。 この天皇は豊臣秀吉の勧めもあって第二皇子を後継者と定めていましたが、家康は第三皇子を強引に押し、後水尾天皇とします。 後陽成天皇は晩年幕府によって『座敷牢』に幽閉され、47才で病没します。 二代将軍秀忠は実の娘を後水尾に嫁がせます。 莫大な持参金を持たせましたが、天皇家への援助は一切なし。 ところがこの天皇、次から次へと侍女に子を産ませるので、秀忠は薬師(くすし)を送り込みます。 目的は皇子たちの間引き。 業を煮やした天皇は退位し、秀忠の娘である中宮との間に出来た娘後を継がせ、すぐ退位させ、次々と皇子たちを天皇につけます。 この間の費用や御所の造営費用は幕府は負担せず。 一切を外様藩に負担させ、彼らの力を削ぐために使います。 要するに皇室をせん滅させず、ライバルともなりうる外様大名の力を削ぐために利用したのです。 この辺りが徳川幕府の知恵のすごいところでしょう。
- jamiru
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その昔、崇徳上皇という人が居てだな。
- tadagenji
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自分でちょっと調べてみたらいかがですか? 蘇我入鹿 藤原道長 源頼朝 足利尊氏 足利義満 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 の各人は、天皇=この国の王になりえた人です。 でも、ならなかった。 なるような行動すら起こしていない。 いろいろな説は存在しますが、しっくりきていない。 この謎を解明したら、歴史学会の名誉顧問にでもなれるでしょう。
- chie65536(@chie65535)
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天皇に実権が無かったとしても、将軍職は「天皇から任ぜられる」ので、あくまでも「政治の実権を握っていたが、形式的には天皇の部下」です。 「自分の上司たる天皇を倒す」のは「将軍としての地位を失う」に等しいのです。 天皇に背くと、全国の諸大名に「どんなに権力があろうが、逆賊であるので、天皇の名において徳川を討伐する」と言う口実を与える事になります。 取り潰された藩が反逆せずに黙って取り潰されたのは「幕府の後ろに天皇が居るから」です。 天皇の後ろ盾がなければ、藩を取り潰す事など出来ません。 天皇の後ろ盾がなければ、どんなに権力があろうとも「錦の御旗を掲げた諸藩連合」に叩き潰されて終りです。