• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:豊臣政権下の天皇の権威・権力。そして財政。)

豊臣政権下の天皇の権威・権力と財政の状況

このQ&Aのポイント
  • 豊臣政権下の天皇は権威はあったものの、権力や財政は乏しかったようです。
  • 豊臣政権下の天皇家は財政的に苦しい状態にあったようです。
  • 天皇家の収入源については具体的な情報は得られませんでした。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.2

>当時、天皇に権威はあっても、権力もカネもないという状況だったということでしょうか。 その通りで、権威はありましたが力(資金力・軍事力・政治力)はありませんでしたね。 >天皇家の懐具合は、この当時、苦しかったのですか。 非常に、苦しい状況でした。 そもそも、全国各地の荘園(財源)が崩壊しているのですから・・・。 正親町天皇なんか、自前で「即位の儀式」が出来ない程困窮していました。 即位はしたけれど、式は無し。 即位後3年経って、信長の援助で即位式(1560年)が行われました。 秀吉の時代も、同様です。 >収入源は何ですか。 時の為政者からの援助です。 江戸時代初期は、3万石です。 ※家康時代は、1万石。家光時代に3万石にUP。 この3万石で、天皇・皇族・貴族の生活を支える事になります。 食費だけで、無くなってしまいますよね。 優雅な建築物の修繕は、全く不可能。 下級貴族は、扇子・カルタ制作などの内職に勤しみます。 幕末には、家茂の命で10万石になります。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど、荘園を武士が奪ったのですからね。 即位の儀式すらできないほどの金欠とは‥。 でも、苦労せず食っていけるだけ、庶民よりはマシだったかも。 こんなこと書くと“不敬罪”で捕まりそう。

その他の回答 (2)

回答No.3

財政難でした 正親町天皇(後陽成天皇の父)が崩御した際も 葬式が出来ずに死体がしばらく放置されたままになってたぐらいです ちなみに 中国の天皇を後陽成にするってのは 大唐関白を秀次とし、日本の関白を秀保(秀次弟)か宇喜多秀家にさせる と言う構想があったためです 関白は天皇の名代(代わりに政治を任せられる人)なので 関白を置くと言う事は天皇も必要になってくると言う事ではないでしょうか

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 “関白”の意味、よく分かりました。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.1

1カネはありません。権威は・・・あるといえばあったわけですが朝廷の決定は すべて秀吉が差配する状況ですので、自らが行使できる権威権力という意味ではほぼないでしょう。 2戦国時代末期の朝廷の収入は信長、あるいは秀吉が提供・保障した禁裏御領7000石です。この7000石じたい秀吉に依存してるわけですし、もちろんこれじゃ御所の修繕も祭祀もままなりませんので必要なときはいちいち無心するしかありません。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 7千石では“大名”以下。 「朝廷の決定はすべて秀吉が差配する状況」まで落ちぶれていたのですね。 御気の毒に‥。

関連するQ&A