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自殺について

よく自殺について悲しむ人がいるから駄目だといいますが もし回りに悲しむ人が1人もいなかった場合も罪なのでしょうか? 教えてください。

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回答No.5

情や無意識といった領域を含め、外部と決して切り離されることのない自分自身の「全体」を、自分自身の「ごく一部の知・意思」で否定している段階で罪でしょうね。。。 >>> 悲しむ人がいるから駄目だといいますが もし回りに悲しむ人が1人もいなかった場合も <<< と記述しておられるところから察して、「他者や外部との関連性・繋がりがなければ良い」と思い込んでおられるようにお見受けします。 しかしながら、自殺を行おうとしているのは、自身のごく一部の「知・意思」でしかない。自身が意識しえない(見えていない)部分では、自分自身を一生懸命に生き続けようとしている数多くの生命(細胞)が支えてることでしょうし、目に見えない(通常は意識し得ない)無数の他者・外部との関係にて生きてきたでしょうし、生きていけるわけです。 たとえ意識上、全てを断ち切ったと思い込んだとしても、「自殺」という行為では、意識し得ない者たちの、決して癒されることの無い、悲しい叫びを永遠に引きずって行くことになるでしょう。。。 死後があったとしても、死後がなかったとしても、そういった関連性からは、決して逃れることはできないということを、深く考えるべきです。 生きている・生きてきた以上、関連性を積極的に生かすように生きるのであれば、そうした後に死という現象を迎えるのであれば、たとえ一時的に悲しみが生じたとしても、その悲しみは関連性の中で癒されていくことでしょう。。。 そう思いませんか?

xyzblue
質問者

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>と記述しておられるところから察して、「他者や外部との関連性・繋がりがなければ良い」と思い込んでおられるようにお見受けします。 はいそう思っておりました。 もし、親とも縁切り、友人・知人との連絡をいっさいたって自殺をしたら悪いことではないのかと思っていました。 みなさんの回答で誰かしら必ず迷惑がかかることはよくわかりました。 >たとえ意識上、全てを断ち切ったと思い込んだとしても、「自殺」という行為では、意識し得ない者たちの、決して癒されることの無い、悲しい叫びを永遠に引きずって行くことになるでしょう。。。 確かに自殺するまでにみんな誰かしらに支えられてきてここまできてますね。そう考えるとやはり自殺は駄目ですね。 >生きている・生きてきた以上、関連性を積極的に生かすように生きるのであれば、そうした後に死という現象を迎えるのであれば、たとえ一時的に悲しみが生じたとしても、その悲しみは関連性の中で癒されていくことでしょう。。。 そう思います。 自殺とは遥かに違うと思います

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  • heartmind
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回答No.17

日本人なら仏様のことを悪く言いたくない。っていう気持ちがありますよね。つまり、どんな死に方をしても人が生きて死ぬことは尊厳があることで同じ重みがあるのだから、それはそれで人生を全うしたんだ。と特にご遺族にはそう言ってあげたい。遺族がなくても何となく尊厳という意味では言いたいです。 でも一方命を軽んじる風潮は避けたいのですね。神風特攻隊、ユダヤ人惨殺、ああいう人の命を軽んじた歴史をみると、なんというか言葉がありません。 だからこういう問題は、何となく玉虫色になっちゃうのです。

xyzblue
質問者

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noname#99640
noname#99640
回答No.16

自殺の事を自損行為とも言います(消防署の救急車の無線連絡) 自殺は自由意志によって行われる自損行為です。 この自損行為に罪があるものかどうかの判断は、他者が決められるものでは無く、行った本人の意志の内にあるものです。 罪とは、行為を受けた者が、行為を行った者に対して与える、悪の損害の量的判断でしょう。 自殺というものを、自分自身に対する他殺と解釈した場合には、罪が無いとは言えない・・・ 自分の中の、生への希求を圧殺して損ねてしまう事は、やはり罪なのでしょう。 重い罪かもしれません。 自分の生命は自分のものである、自分のものだから自由にしてもかまわない、と思う主観が犯す過ちなのでしょう。 自己を客観視した場合においては、自らを損なう事への罪悪感が必ず生じます。 この根本的で自然な罪悪感が、自殺行為への歯止めともなっているのでしょう。 でもこの歯止めが効かなくなってしまう人も中にはいます。 実際に自殺した人で、この罪悪感が全く無いまま、死に赴いた人はいないと思われます。 やはり自殺とは、自分に対する他殺なのです。 そしてその罪を決めるのは、自殺という行為を受ける自分自身なのです。 消え去る事のない罪の意識を持ちながら、この世を去って行くというのは、余りにも悲しい事のように思えます。 数多くの自殺の中には、止む無きものとして、許される自殺と解釈されるものもあるように思われますが それでも、本人の中には罪の意識がやはり無いとは言えないのでしょう。 罪の意識の全く無い自殺というものはあり得無いと思います。 また、高齢者の介護疲れからの・・・自殺・・・他殺・・・などの暗い話も聞きますが本当に痛ましい感じがします・・・ 人の生命を損ねるという罪は、どのような形であれ、やはり重いと言わざるを得ないでしょう。 人はその重い罪を背負ってはいけないと思います。 重い罪を背負ったままでは悲しすぎます。

xyzblue
質問者

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  • kigurumi
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回答No.15

自殺は罪じゃないです。 死は別れを意味するので、そういう意味では悲しむ関係の人がいれば、残った人は別れを悲しむでしょう。 だからといって、死んだ人を悪人呼ばわりすることは、日本の習慣ではありません。 自殺を人を悪人呼ばわりするのは、キリスト教のみです。 どうしてキリスト教は、自殺した人を犯罪者とするのかというと、人の生き死には神が計画して定めているので、自殺した人は神の計画をオジャンにしたので、極悪人という扱いなのです。 だから、神の計画を無視して自殺した人は、極悪人としているので、教会の墓には埋葬しないんです。 自殺した段階で、背教者になるから。 だから信者は自殺した人を憎みこそすれ悲しみません。 例え生前仲良くしていても、自殺したら、極悪人呼ばわりです。 おまけに、病気も神の計画の一部で、罰として与えたものなので、心に手を当てて、反省をして神様に謝罪をし神様がそれを聞きいてて許したら、病気は消えるとしています。 従って熱心な信者は病気になったら、熱心に祈りこそすれ、病院には行きません。 だから医療を受ければ助かる命が助からなかったり、失明など身体障害になる割合が、信者ではない人よりはるかに多いわけです。 悲しむ人がいないか? 考えても思い当たらなくても、怒ったり嘆いたりする人はいるかも。 例えば賃貸マンションだったら、オーナーは嘆きますよね。 「ここでしないで 誰もいない山奥でやってくれ」って。 価値が下がるから嘆くわけです。 じゃあ 山奥でってことで、富士山麓に群がるわけです。 富士山は神の住まいとされるので、神様の領域に行くという考えなのだと思いますが、環境からするとよろしくないってことで、考え直せってなっているわけです。 死ってのは別れなわけですが、例えば同級生の葬式のとき、号泣する子供いますよね。 全く会話したこともなく、顔すら「そんな人が同じ学校にいたんだ」って程度なのに、葬式では号泣している。 人に死を自分のことのように捉えて、ワナワナするので、全く知らない赤の他人に対して号泣できてしまうわけです。 そういうことを考えると、悲しみって本当のところなんだろう って思います。 死んだ人との別れを悲しんでいるのか、生きているから死をマジかに感じて怖くなって心が張り裂けてしまったのか、どっちなのか。 で、ひとまず葬式のときに、みんな厳かな顔していますが、誰かおならした途端、大爆笑が起こりますよね。 緊張から一気に笑いに転じて、それから大声でいろいろ死んだ人の滑稽だったことを語りだして、「いやー こいつときたら、こんなことまでしてくれて、あの時は消火に奔走させられて。。。。かと思ったら、また次しでかされて、、、、やつは自由気ままに生きて本望だっただろうなぁ こっちは大迷惑だったけど。まあ そういう迷惑かける奴がいなくなると、ちょっとはさびしい気もするが。まあ 冥福を祈るよ」とかね。 意外と葬式って笑いが起りやすい。 ある人、みんなの神妙な顔を見ていて笑いを堪えていたが、とうという我慢できずに笑いが始まって、笑いを止めようとしたが、どうしても止らず、窒息死・・・・。 葬式に行かなければ死なずに済んだのに・・・。 というわけで、そんなに真剣に死を考えること無いんじゃないかと思うんですね。 今までの人がみんなできた以上、私もできるって思えるし。 そういう意味では、どういうことであれ、死んだら「お見事」って祝って欲しい。

xyzblue
質問者

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noname#131236
noname#131236
回答No.14

社会への貢献が前提。 民法的には、社会的契約の履行を迫られている場合、忠義・信条を介して暗黙の了解があるとされる。 キリスト教戒律的解釈からいうと、日本は人口当たり、最も罪人を抱えている国といえる(交通事故死の7倍=約34000人)。 しかし、社会への貢献が出来ずに悩み自殺する場合が圧倒的に多いのも事実。 また、竹中・小泉が自殺する確立は皆無。悪人がのさばり、大手を振って歩いている。一部の高齢者が、骨髄移植等高度・高価な医療技術を駆使して、なんとしてでも、生き残ろうと躍起になっているというもまた事実。 ぶくぶくと肥え太り生き残っているのは、悪人がその大部分である。人殺しの土台=致死の罠を築き上げておいて、その罠にはまった奴が悪人であると定義し、自分は悪人ではないと主張する偽善者の信仰が、日本に蔓延っている。 個人的には、自殺は、罪ではないと考える。交通事故が、社会現象なら、デュルケイムを引くまでもなく、自殺は、社会現象である。金融自由化の仕掛け人たち・経営学が一番大事と主張する輩が、「皆が社会に貢献できる社会」を目指していたか?といえば、それは違う。この者たちが、創りあげたのは、社会的集金システムという欺瞞の怪物だった。 自由という観点から、家畜は自殺できないのだから、経済の家畜が、家畜でないことを証明しようとすると、手段は限られてくる。羊飼いの主観としても、家畜に自殺されては商売が成り立たない。自殺する家畜を悪だと定義するのも当然である。 単純・簡単なことであるが、一般に、自分が「経済の家畜ではない」ということを自覚できれば、問題にさえならないのであるが、受動と否定のドグマである「心理学」と「数学」が、大事だと思っているうちは、そんな考えが、ひらめく可能性も限られてくる。 経済学の背景にあるキリスト教の虜となり、 役に立たない奴は・主の敵は、死ねと叫び、死者に鞭打つ姿勢が、鬼畜米英に毒された日本的民主主義の生き様=宗教(経済学)なのかもしれない。 補足として高齢者が、 個人的に経済学は大事ではないと思うので、死ぬ気はない。と無関係を装う、加えて、 自殺の経済的・社会的コストを強調し、消極的イメージ広告を使って 自殺はよくないと宣伝するのは、おもいあがっている。 おもいあがりは、偽善につながる。

xyzblue
質問者

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noname#111369
noname#111369
回答No.13

日本に戸籍が在る限り、 自殺は他人に迷惑がかかるでしょうね。 どういう事かというと?、 富士山の樹海に入り死んだとする。 しかし、死んだ事実は誰が確かめます?。 何時死んだか?、 これが判らなければ戸籍で生きていると成りますよね?。 で、90歳で死んでいた老人が70歳の息子が成りすまして、 130歳まで生きたとします。 さて?。 話が逸れましたが、 話を戻して、じゃ、日本人として生まれて戸籍が無い人間が富士山の樹海で死んだとしたら?。 それは、戸籍がないから誰か判らないでしょうね。 で、罪とは法律を何か犯さなければ罪には問われないでしょうね。 もし、自殺が切欠で誰かを傷つけたら傷害でしょう?。 更に、自殺の時何かの切欠で身体がぶつかって打ち所が悪くて死亡させてしまったら?。 自殺迷惑を掛けないなんて事は稀でしょう?。 さて、ここで哲学カテなのだから、 『カルマの法則』 を持ち出さない訳にはいかないでしょう。 カルマの法則があると言う。 そう、前生での報いが現れるという。 まっ、人間が集まって作った法律とは違うレベルの罪とは格が違うでしょうけど・・・。 はたして、本当に死後の世界があるかが問題ですからね。 死後の世界や生まれ変りがあれば自分が自分を罰するという事ですね。 もし、死後の世界や生まれ変わりがない事を証明したら宗教が成り立たないかもね。 まっ、宗教の存在を自殺が否定する様なモノかもね。

xyzblue
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自殺が何にせよ迷惑行為だということはよくわかりました。 『カルマの法則』よく覚えておきます。

  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.12

よく考えてみてください。飛び降りにしろ苦美をくくるにしろ後の処理が大変ですね。それがわかればこんな迷惑で罪なことはないといえるではありませんか。

xyzblue
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自殺が何にせよ迷惑行為だということはよくわかりました

noname#100018
noname#100018
回答No.11

自分殺しは、己だけの問題に非ず。 結局の所、他人を行動させるに至る故、迷惑千万なり。 罪かと言えば、罪なり。

xyzblue
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自殺が何にせよ迷惑行為だということはよくわかりました

noname#194289
noname#194289
回答No.10

悪いかどうかを決めるのはやはり人だろうと思います。また自殺の対象は自分の肉体ではなく自分の心だと思います。心というものは肉体と違って直接存在を感じられるのは自分だけですから、本質的には自分だけの問題です。他の人の自殺を論じることは、本当は不可能なことのように思います。自分という他人という言い方がありますが、二重三重に錯覚があって結局結論は出ないと思います。

xyzblue
質問者

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回答No.9

 薬剤のことで、使用者・所持者というので、何か女性が犯罪者になりましたね。  彼女とその行為で誰かが被害者になったかな、と思うとそれはわかりませんね。でもこの場合はいわゆる、国法での犯罪なんですね。  自殺してしまうと、本人はもう犯罪人とすることもできない。  無論教唆や幇助は犯罪だと思います。  で、仰せの罪って、“いけないこと”、っていう限りの意味ですね。  主に、“迷惑である”、或いは“社会的に受け入れられない”っていうことでいけない、というご回答ですね。  私もこのお話に尽きると存じます。  自殺の理由は様々です。  私の知人で、高名な学者のお宅、奥さんが自殺。  痴呆の症状が自覚され、夫の介護を望まなかった。させたくなかった。という理由。  これは事務職の先輩の家でも同じことが起きた。  奥さんを責める事はできませんが、好人物であるが奥さんに甘えてきている、甘えん坊の夫である方を見ると、どちらも責められない。  でも悲惨であり、悲しい事でした。  行方知れずのまま、55年経ってしまった女子の職員。  身の始末でした。これはとても今も悲しい。  きれた頓知と、人を傷つけない皮肉やさん。  跡形もないのです。迷惑もかけていない。  退職手続きも完璧にしてあります。  悪い、いいということではいえないことですが、辛いことですね。  病死でも決して迷惑をかけないでは、旅立てません。  迷惑の性質と大きさもありましょうが、自殺をいい、悪いで応えるのは難しいと存じます。  知らない人の自殺も辛いものですね。近しい人なら堪えられません。  でもいい、悪いではない。通常の死でも、辛いけれども。

回答No.8

自殺の真の問題は、他人に悪い影響を与えるからではなく、 自分自身の生命としての本質(唯物論なら増殖、唯心論なら 精神的充足の追求)に反するからです。

xyzblue
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自殺は自分自身の為に世の中の為にもやってはいけないことがよくわかりました。

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