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キリスト教における自殺について
よろしくお願いします。 キリスト教では非常に明確に、神に対する重い罪として自殺を禁じていますよね。 1、自殺することは他殺することよりも重い罪だとキリスト教では考えているのでしょうか? もし自殺の方が他殺するよりも重い罪である場合は、その理由はなんでしょうか? 2、聖書を見ると、自殺したという人の記述はあるそうですが、ことさらに自殺であることを強調して地獄に堕ちるとかは言ってないそうですが、現在のキリスト教では聖書やあるいはどのような教義によって、自殺の絶対的な罪を言っているのでしょうか? 殉教は自殺とは規定されないのですよね。キリスト教が規定する罪となるところの自殺とはそもそもどんなものでしょうか? 3、自殺の絶対的罪を言うようになったのは、イエス時代からでしょうか? それともある程度の解釈の変遷があり、言い出した時代などもわかっているのでしょうか?
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イエスの死の死に関してですが、オーソドックスなキリスト教の本からすると、「人類の身代わりとなり、自ら死を望んだ」ことになっています。 http://72.14.235.104/search?q=cache:LdGGCZLz3nEJ:structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/religion.htm+%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%80%80%E8%87%AA%E6%AE%BA&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp 【キリスト教は、自殺を最大の罪の一つとしている と、一般には言われている。 しかし、これはどうやら後世になって言われだしたことのようである。 そもそもイエス・キリストの死そのものが、ある意味での自殺と考えられる。 なぜなら、キリストは敵に殺されたのではなく (殺されたのだとしたら、キリストは受動的存在で、神の子ではなくなる)、 自発的に自分の生命を差し出したのであるからである。 「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」(「ヨハネの第一の手紙」 第三章)ということばは、論理的には「自殺」を意味していないだろうか。 キリスト教の教会が自殺を罪悪と見るようになったのは、6世紀のころのようである。 533年のオルレアン公会議において、罪に問われた者が自殺によって 身の潔白を証明したような場合、宗教的な葬儀をいっさい行わないことを決めている。 そして、30年後のブラーグ公会議においては、自殺者の葬儀をしないことが 決められた。 】 ユダの福音書では、計画して自分が殺されるように仕向けたとなっています。 どちらも自分で自分の死を望んだことになっています。 つまり自殺です。 何故支配が被支配者にこのような呪縛を与えたのか。 http://72.14.235.104/search?q=cache:1cDfabrkTN4J:www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0425.html+%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%80%80%E8%87%AA%E6%AE%BA&hl=ja&ct=clnk&cd=3&gl=jp 労働力 資金源である被支配者が減ると支配者が困るから宗教で労働力・資金源が減らないように縛った。 なるほど・・・ とてもわかりやすい・・・と思いました。 1、十戒に殺すなと書いてあるので、キリスト教信者は殺人をしないことになっている。 十戒には自殺するなとは書いてないので、信者に「自殺するな」とルールを設けた。 現実はキリスト教は、他の地を征服するために殺人を行ってきましたが、他の富を奪うための目的なので、キリスト教徒ではない人の命は奪ってもかわまなかったわけです。 魔女狩で、金持ちの外国人(異教徒)に魔女・魔術師という罪を着せ、富を奪っていた。 もし侵略した土地が侵略に成功して自分達の領土になった場合は、強制的にキリスト教徒にして、労働力・収入源を増やしていった。 そして富んだ人がいれば、「魔女・魔法使い」といいがかりをつけて、殺して富を奪っていた。 キリスト教では、自分達以外の宗教をやっているとしたものは、殺せたわけです。 キリスト教徒によって殺されたとしても、キリスト教徒ではない人は神の奴隷ではないので、殺しても神から罰せられることはないと考えられたから殺していたのではないかと思います。 2.殉教は、イエスも自ら死を望みそれを実現したとなっていますので、ユダヤ教では宗教のため自殺することは、罪ではないのだと思います。 ユダヤ戦争で、ゼロテ党はローマ軍に追い込まれ、集団自殺しましたがこれも殉教。 この集団自殺に関して、とやかく言わているのを聞いたことがありません。 3.いいえ、上のリンクの内容によると、だんだん変化していって、支配者の都合でイエスが生きたとされたよりずっと後にそうなったみたいです。 十戒は殺しを禁じている。 ところが現実はその十戒を守るとする人たちが、公然と殺人をし罪に問われていない。 戦争によって殺していますが、実は古代から殺していたんですね。 ユダヤ聖書 いわゆる旧約聖書に、神がエジプト人を殺していたり、神のために異教徒を殺しているのがのっている。 何故ならこの神はユダヤ人を選んだから というもの。 神の民はユダヤ人のみなので、神の民ではないユダヤ人以外が攻めてきたら、殺していたし、ユダヤ人を殺そうとすると神が自分が選んだ民を救うために殺していたとなっています。 そして、時には地の支配者に力を与え、多勢対無勢なのに神が助けてくれて勝った、という描写もある。 ということは、支配者は兵力を減らしたくなくて、神が禁じたとして自殺を禁じているようですが、それは神を信じていない証拠ですよね。 そして、神の救いを信じず時が来る前に自殺するのも同じ原理。 自殺は神を信じていない証拠 となるので、それが本来の自殺は罪の理由なはずだと思います。
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- tetsumyi
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サウル王の場合に自殺とは言えないようです。 戦いで討たれて死にかかっていましたが敵に討たれて死んだと言うことにならない為に味方に殺してくれと言いましたが逃げられてしまいました。 聖書の基本的な目的は新約聖書にまとめられています。 旧約聖書は救出者の必要性を民族が戦い合う時代の中で神が選ばれた民族を保護しながら歴史を通して認識させるために記録された物です。
補足
回答者さんには幾度もおつきあいくださいましてありがとうございます。字数制限にかかりますので、こちらへ書きます。 サウル王は自殺ではないのですか? ネットからの拾い聖書ですが、移用してみますね。 「1:サムエル記上 / 31章 4節 そこでサウルはその武器を執る者に言った、「つるぎを抜き、それをもってわたしを刺せ。さもないと、これらの無割礼の者どもがきて、わたしを刺し、わたしをなぶり殺しにするであろう」。しかしその武器を執る者は、ひじょうに恐れて、それに応じなかったので、サウルは、つるぎを執って、その上に伏した。 」 新共同訳とあります。これによると自殺と理解した方がいいように思いますが、違うのですか? おおむね自殺として扱われているようです。英訳も見ましたが、剣の上に倒れるという文章になっていて、明確に「刺した」とは確かに書いていませんが・・普通は自殺として読むような気がします。旧約ではまだ他に自殺例があるそうですが、まだ確認していません。 この聖書の記述を見ると自殺のように思われますが、いったんこれを自殺ではないとしてみて考えてみます。あるいは自殺未遂として考えてみます。 サウル王は自分を殺してくれるように言いました。もしここで部下がサウル王を殺した場合、部下は他殺をしたことになるのでしょうか? 王様はいくらいずれ殺されるとはいえ部下に他殺を勧めているわけでしょうか? この形式にすれば、王は形式的には自殺ではないと考えられなくもないかもしれません。しかし部下による他殺となるのでしょうか? それとも、やはり常識的に見て、サウル王の自殺であり、部下はその幇助をしたと見るべきなのでしょうか? でも自分で手を下すよりは、神に背かないということになるのでしょうか? 少し意地悪な設定になってしまいましたが、他人に自分を殺してくれるように頼むという方法は、うまく自殺を避けたように見えても、自殺と他殺の矛盾に必ずぶつかります。仮に部下が王を殺していたら、自殺と他殺の両方に関わることを王は指示していたことになります。 そこに、相手に罪を犯させないために殉教もしないで逃げる、逃げさせるという考えも成り立つと思います(ただ殉教をキリスト教でどうとらえているかはまた別に聞くべき問題かと思います)。この場合、自死を意図する限り、どういう方法を選んでもこの王様は、自殺か他殺を選ばざるを得ません。 でもこの王様にはこれしか方法がないというのはそうかもしれません。 今は、王様は自殺未遂を起こしたことになっていますが、もし成功していたら、神への冒涜を起こしたことになるわけですが、助かった偶然があるとして、その偶然はあまりにも大きい差を未来に渡って残しますね。 >旧約聖書は救出者の必要性を民族が戦い合う時代の中で神が選ばれた民族を保護しながら歴史を通して認 新訳を基本にして解釈せねばならないというのは、そうでしょうね。ただ、旧約も聖典であるので、神の目的のためには戦争もありという解釈を残してしまうことが、解釈の難しさにつながっているのだと思います。個人的には、いっそのこと新訳聖書だけなら、話そのものはわかりやすいです。もちろん、それは聖典をすてることになりますので、出来ないことではありますけどね。
- kigurumi
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No.3です。 もうひとつ見つけました。 3についてです。 誰が言い出したのか。 あの神の愛を捻じ曲げた張本人と言われることもあるアウグスティヌス。 http://72.14.235.104/search?q=cache:6024U9H7Zw0J:www.npf.or.jp/peace_and_religion/reports/24/06saitou.pdf+%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%80%80%E8%87%AA%E6%AE%BA&hl=ja&ct=clnk&cd=8&gl=jp 【彼は、自殺は悔い改めの可能性を閉ざし、またモーセの第六戒「殺すなかれ」を犯す罪であるとした。アウグスティヌスに続く中世の神学者トマス(Thomas, A.)も自殺は自然の本性に反し、神の主権を侵害するものだとした。またトマスの影響を受けた同時代のダンテが『神曲』の地獄篇で、樹木となって哀しんでいる自殺者の群を描いたことはよく知られている。したがってキリスト教世界では古くから、自殺行為は宗教的にも道徳的にも罪であるとされて、厳しく断罪されてきた。】 アウグスティヌス・・・自殺したら悔い改められない。10戒に殺すなかれと書いてあるから。 (カトリックは死後煉獄はあるとしている。アウグスティヌスの頃は、煉獄はまだ作られていなかったのでしょうか。) トマス・アクナス・・・神の主権を侵害するものだから。 そしてそれらの抽象的な概念を実体化したのがダンテ。
お礼
回答ありがとうございます。 >アウグスティヌス・・・自殺したら悔い改められない。 そうすると、この理屈でいくと、他殺よりも自殺の方が罪が重いことになりますよね。他殺は生きている限り回心の機会もあり、悔い改めためができるでしょうから・・。やっぱり自殺者に対してだけ、かなり厳しい・・かもしんない。自殺に関する限り、罪=罰なんですね。許してくれないんですね。 >トマス・アクナス・・・神の主権を侵害するものだから。 こちらは、自殺者「だけ」を責めるわけではなくて、他殺した人にもそのまま言えそうな感じですね。首尾一貫しているという点では、すっきりしている理由ではあるかもしれません。 一般のクリスチャンや西洋人がどう考えているかわかりませんが、自殺への許容度を示した表によると・・ http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2784.html なんてのありますから、キリスト教の信者だから自殺は地獄行きと考えているというわけでもないような気はします。熱心な信者の方は、そこら辺も絶対地獄行きだと確信しているとは思いますが・・
- tetsumyi
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続けて答えさせて頂きますが 自殺が重い罪となるとは聖書中に明確に書かれていません。 聖書中で自殺について書かれているのはイエスを裏切ったユダが自殺したことだけだと思います。 だから、重大な罪だと結論するのは早合点でしょう。 直接書いてないことに付いてどのように考えるかは聖書全体に流れている基本的な教えから判断することになります。 つまり、命は神から与えられた貴重な賜物であり、人間がこの命を取り去るなどいうことは考えられないことなのです。 旧約聖書では神の命令で戦った記録や神の律法から離れて戦ったイスラエルの悲惨な結果が記録されています。
お礼
回答ありがとうございます。 >聖書中で自殺について書かれているのはイエスを裏切ったユダが自殺したことだけだと思います。 この部分は、新約聖書に限ってということですよね。旧約まで含めるとサウル王のものがあるということで、下記ページに解説とともに考察されています(真ん中あたりから)。 ttp://www2t.biglobe.ne.jp/~BokerTov/wisdom/text2-39.htm#last 微妙な書き方になっていますね。 旧約聖書をどう扱うか、新約聖書と旧約聖書まで含めて、統一的見解を出すことは至難の業だと思います。 >旧約聖書では神の命令で戦った記録や これなどは、最初の回答から読むと、神のご意志ではないわけですよね。しかし、すでに神の意志で行われてしまった歴史として記述されてしまっているわけですから、全体として統一的に解釈することは、旧約の位置づけを含めて、簡単な仕事ではないと思います。
- tyr134
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カトリック・キリスト教の地獄・天国観を確立したものに、中世の詩人ダンテの「神曲」があります。 それによると、「自殺者」はすり鉢状になった地獄(下層に行くほど罪が重い)の第七圏の第二環に配置されています。(全部で九圏) そこでは、自殺者の魂は木に封じ込められていて、アルピエという鳥の化け物に啄まれているようです。当然、啄まれると非常に苦痛を感じるようです。 それによれば、「(肉体を)勝手に脱ぎ捨てた罪」だそうです。 「殺人者」は、同じ第七圏の第一環に配置されています。 煮えたぎる血の河に漬けられているそうです。 同じ第七圏なので、ほぼ同等の罪ということでしょう。 因みに、ダンテが最も重い罪としたのは「裏切り」でした。 イエスを裏切った「イスカリオテのユダ」と、カエサルを裏切った「ブルータス」が地獄の底でルシフェル(サタン)に呵責されています。 「殉教」は、宗教の為に死んだ者達の事を指すので、単純な「自殺」とは違います。 例えば、会社が破産したので死を選んだ場合、宗教とはなんら関わりが無いので「自殺」となります。 宗教的な迫害を受けて、死に追いやられた者は「殉教」となります。 いつ、とういのは私にはわかりませんが、後代に多大な影響を与えた体系的に纏められた書物は、一三世紀の神学者トマス・アクィナスの「神学大全」でしょうか。 「自殺」に言及があったかどうかは、ちょっと覚えていませんが。 あと、よく聞くのが、イエスを裏切ったとされる「イスカリオテのユダ」の死に方が「自殺」だったので、もっとも不名誉な死が「自殺」とされたそうです。
お礼
回答ありがとうございます。 地獄の描写ですが・・・またずいぶん、グロテスクな描写ですね。。この頃は西洋の影響などで、かなり変わったように思いますが、それでも自殺者を気の毒な人として供養したり鎮魂する風習のある日本の文化とは、かなり感覚の違いを違います。死者にむち打ってでも、許せないことだと規定されていたということになるのでしょうか。 もちろん殉教と自殺が同じとは、キリスト教会は規定しないですよね。イエス自身の死は神の計画の一部として規定されるものなのでしょうから、キリスト教的にはいわゆる殉教とも少し違いますし、話が複雑になると思いますが、殉教の場合は神は許される(嘉される)という思想の根拠には、ペテロなどの殉教があることは間違いないわけでしょうね。 とてもわかりやすい話ではあるのですが、神のために命を投げ出すことを神は認めている(ほめている)、という理屈は自殺そのものを絶対否定する論理とは本質的に相容れない一面はあるのではないかと思います。最終的に、動機の方が優先されているわけですから。現在では踏み絵などはありませんが、この理屈でいくと、棄教するくらいなら殉教(江戸時代の日本であれば、実質上はほぼ自殺と同義になりますね)を選ぶべきなのでしょうね。この場合は、「肉体を勝手に脱ぎ捨てた」ではなくて、栄誉ある脱ぎ捨てになるわけでしょうか・・(こういう面は宗教の難しい一面ではありますね)。補足へ続く
補足
お礼欄から読んでください。お礼欄からの続き。 ただし、どこも矛盾しているわけではなくて、そもそも宗教では死に方の動機を問題にしているだけなのかもしれません。それと、神のために命を惜しまないということを神が嘉されているかどうかということは、イエスの意志として読み取れるかどうかは、そんなに簡単な問題ではなくて、それなりに議論のいることのような気もします。 >イエスを裏切ったとされる「イスカリオテのユダ」の死に方が「自殺」だったので これは自然な話の流れとして理解できることですね。彼の死はいろいろ言われますが、私個人としては、ユダが人として後悔した結果自殺を選んだというのがしっくりしています。根っからの悪い人ではなかった話として、逆に彼の良心を見るような思いがして、そんなに悪い感じは抱いていません。のうのうともうけた銀貨30枚で田舎にマイホームを建ててるような生き方されたら、そっちの方が嫌かと(汗)。二つに裂いてしまう描写は、あまり好きにはなれません。
- tetsumyi
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No1です。 哲学に付いて考える場合はすぐに結論を出そうとしないでください。 言葉の意味を深く考えてください。 どちらが罪が重いとか同じとかいえるような問題ではありません。 聖書を読まないでキリスト教に付いて議論しても意味がありません。 ちなみに、イエスキリストが命を落とすことを望んでいたとはとんでもないことです。 反対者達に捕らえられる前にイエスが捧げた祈りの部分を読めば明らかです。
補足
再度ありがとうございます。 もちろんおっしゃることも理解しております。簡単に解決しようとは思ってませんよ。 質問者は、キリスト教ではどう考えて、その根拠は?、そして歴史的経緯はどうですか?と尋ねています。 もしその根拠について示されたら、それについては追跡して調べさせてもらおうと思っています。その根拠を示せるのは、聖書について詳しい方にしかできません。質問者も一通りは読んでいますが、より詳しい方から根拠や経緯を聞くのは自然なことではないでしょうか? 質問の意図が、信仰問題や自殺の可否とは少し別のところ(もちろん良いというつもりはまったくありません)にあることをご理解くださいませ。あくまでも、根拠となる部分や教義についてです。ですから、信仰されている方の意を傷つけるものではないはずです。信仰されている方は、その立場からおっしゃってくだされば、それでキリスト教の考えはわかります。その際には、感情に流れないで外部のものが後で調べられるように教えてくだされば幸いです。
- outerlimit
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*キリスト教信者は人間である *人間の命(身体)は、神から与えられたもので、勝手に傷つけたりすることは神への冒涜である *キリスト教を信じないものは人間ではない(人間ならば、キリスト教を信じされる様にしなければならない) *人間でなければ(動物は)人間のために神が与えたものだからどのようにしても良い 前2項が 自殺(人工中絶を含む)禁止している原理です 後の2項が 15世紀頃のアジア・アフリカ・中南米への布教であり、インカやマヤ文明を滅亡させ、住民を虐殺した根拠です (植民地支配の根拠でもある)
お礼
回答ありがとうございます。 やはり神への信仰というのは、キリスト教における殺人(自殺・他殺)を考える上での重要なポイントにはなりそうですね。現在の世俗道徳や現在の法律では、自殺よりも他殺の罪が重いですが、宗教の論理はこれとは違っていますし、世俗でも宗教でも、ある集団内とその集団の外へ適用される論理も違っていますしね。
- tetsumyi
- ベストアンサー率25% (1946/7534)
キリスト教では命は神から与えられた非常に貴重な物と考えています。 自殺も他殺もキリスト教では考えられないことです。 本当にキリスト教を信じている人は戦争に参加しません。そのために投獄された人が多くいます。 命を奪うことが重大な罪であることは聖書の最初の書、創世記に記録(カインに関して)があります。 ただ、精神的な病気で自殺してしまう人が罪とみなされるかどうかは不明です。
お礼
回答ありがとうございます。 そうすると、自殺「だけ」がことさらに悪いというのではない、両方同じという解釈になるわけですね? カインの記録は、他殺に関するものですよね。自殺と他殺も、両方とも同じだということの根拠はご存知ですか?
お礼
リンク先を一通り読んでいたら、遅くなってしまいました(汗)。聖書に自殺を明瞭に禁じる記述がやはりないということは、異を唱える人もないようなので、みなさん、一致した前提として見て良いようですね。 そうすると、そこからは宗教的に解釈をしていく話となりますね。キリスト教の自殺禁止の話が、解釈学によってもたらされたものだということがわかりました。公会議うんぬんというのがそれに当たるというわけなのですね。イエスの「真意」は別として、その存命時代に、今ほど自殺についての絶対的な罪を強調してないということは間違いないようですね。 公会議での自殺についての決定事項については、もう少し専門書で調べないとわからないとは思いますが、公会議を開いた当時の聖職者たちはその「真意」を読み取り解釈したと、クリスチャンは考えているということになるのでしょうね。#6さんの言われる全体として判断するというのは、そのような解釈学の結果のご発言だと思われます。しかし、聖書学には、もう少し厳密な理由が引かれているのだろうと思います。神への反逆として、墓地からもはじき出されてしまったという厳しい措置には、それなりの明瞭な理由付けが必要であったとも想像できます。工学的な要請からではなく、支配者層の社会的な欲求により、現在の厳しい自殺禁止思想が出来たという考察は刺激的な観点でした。自殺は絶対良くないという宗教思想と、社会的に徹底して排除するということは、必ずしも一致しないことです。かわいそうなこととして哀れむあり方も理論上はありえますよね。理論上は、イエス様の救済も自殺者だけには及ばないと考える人がいるように、反対にイエス様の救済が自殺者にも及ぶと考える人とあって良いはずです。十字架で罪を負ってくださったイエスを介して罪のあがないをする立場からいえば、両方たてることが出来ると思います。死後までも、絶対許さないというその徹底ぶりにはもしかしたら社会上の必要に迫られてということは、考えられそうな気はします。 >自殺は神を信じていない証拠 となるので、それが本来の自殺は罪の理由なはずだと思います。 私も、異教徒に対する殺害は絶対禁止されているわけではないことなどを考え合わせると、今のところこれが一番矛盾なく説明できる感じかな?と思います。
補足
長文のお手数をいただき、ありがとうございます。添付の資料も読んでからお返事したいと思います。お礼はのちほどいたします。