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対立的シチュエーションを好む

敵と味方とか、勝ち負けとか、ことさらに、そういう対立的シチュエーションに仕立て上げて、何事も受けとめたがるのは、どのような心理から発しているのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ruehas
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回答No.2

こんにちは。 価値判断の基準を「外的評価」に委ねるひとです。 損得勘定がしっかりしており、自分は自分といった相対的な評価はしません。このため、何に対しても「二元論的な結果」を要求します。 外的環境に従順で、弱い相手には威張りますが、上に対しては掌を返したようにヘコヘコします。結果が正しいかどうかといったことには関心を持ちません。自分に都合の良い評価であればそれで満足です。 社会適応能力は高いですが、信念はないです。

noname#97748
質問者

お礼

ご回答をいただき、ありがとうございます。 簡潔明瞭にして、当方が実際に考察中の対象に、ほぼ当てはまるようですので、このまま納得できるとしたかったのですが…。 ただ、一つ、引っ掛かっていることがあります。 さきほど、No.3補足欄をアップしてしまってから、肝心のことを思い出し、仕方なく、こちらのお礼欄を利用して記入させていただいております。 本質問でお尋ねするところの者には、実際の人物がおりまして、このご回答にて伝えてくださったことは、いちいち頷けるのですが、にもかかわらず、本人も認め、その周囲からも下されている最たる人物評は、非常に頑固である、というものなのです。 あるいは、他の原因が考えられるのかどうか、実際、その頑固さゆえの失敗が多いというのは、自他共に認めざるを得ないことのようです。 ここで引っ掛かっています。

noname#97748
質問者

補足

こんにちは。 損得勘定しっかり、 外的環境に従順に、 弱い相手には威張り、 上に対してはへコへコ、 社会適応能力は高く 自分に都合の良い評価を得るためには、上記のようにあるべき、価値判断の基準を「外的評価」に委ねるべきだ、という、むしろ「信念」があるのかもしれない、とも思います。

その他の回答 (2)

  • ruehas
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回答No.3

こんにちは。 #2です。 >価値判断の基準を「外的評価」に委ねるべきだ、という、むしろ「信念」があるのかもしれない、とも思います。 価値判断を外的評価に委ねるということは、外的評価が変わればそのひとの行動も変わってしまうということです。これは信念でも何でもないです。 「存在感が希薄」というのは何方のご意見でしたでしょうか。 本回答は心理学で用いられる精神分析に基づいて書かれたものであり、このようなひとは一般的に他人の意見に惑わされやすいとされています。 因みに質問者さんの性格はこの反対です。自分の内的評価に偏る傾向にあるため、質問者さんは他人の意見に耳を傾けない頑固者ということになり、適応能力はあまり高くありません。 このように、人間の性格にはそれぞれに偏りというものがありますので、自分というものを知り、上手くバランスを執ってやる工夫が必要です。他人の行動をあれこれ言う前に、自分の方を良く見て下さい。

noname#97748
質問者

補足

こんにちは。 こちらの浅慮のため、ご気分を害されたようで、まずはお詫び申し上げますが、ですが、ちょっとお待ちください。 ここは補足の欄です。 > 「存在感が希薄」というのは何方のご意見でしたでしょうか。 本質問で挙げたような人というのは、その言動・行動を促す原因となっているものに、自己の存在感についての希薄感のようなものがあるかもしれないとは考えられないだろうか、と思ったのです。 > これは信念でも何でもない 確かに、「信念」というと語弊がありますね。 外的評価が変われば、自分の行動も変わってしまう、ということに、強迫的なものがあるのだろうか、と思いました。 > 本回答は心理学で用いられる精神分析に基づいて書かれたものであり、このようなひとは一般的に他人の意見に惑わされやすいとされています。 因みに質問者さんの性格はこの反対です。自分の内的評価に偏る傾向にあるため、質問者さんは他人の意見に耳を傾けない頑固者ということになり、適応能力はあまり高くありません。 なるほど、すべて、ものの本からの情報・知識によって、仰ってくださったわけですね。 ご承知のとおり私は、まず専門書の類に疎い門外漢ですが、たとえ、そういうものを読んだとして、書かれたことを、そのまま飲み込もうとするだけではなく、少しは自分なりにも考えてみようとする方なのです。こういうのは、決して優等生のやり方ではないのでしょうが。 と言っても、「自分の内的評価に偏る」とは限りません。むしろ、門外漢だけに実際には、いわゆる権威的なものに疑いを持ちにくい傾向がありますから、少しは自分なりに、と気をつけて、バランスをとろうとしているつもりなのです。 すぐに結論を出して、そのまま固まろうとするほど頑固でもなく、実際の日常で、周囲からもらう評価は、仰っていただいたこととは往々にして逆です。 ですが、まあ、適応能力が高い方とは確かに思っていません。得手不得手、向き不向きの格差が激しいです。 > 他人の行動をあれこれ言う前に、自分の方を良く見て下さい。 お言葉ですが、あれこれ言うつもりはありません。ある事情から、そうした性向の人の心理を、あれこれ、いろんな角度で考察可能かを探っているところです。ここで結論めいたことを固めるつもりも全くありませんし、できません。 いただいたご回答については、いずれも、ありがたく拝見し、参考にさせていただいております。ご理解願います。

noname#194289
noname#194289
回答No.1

おそらく自分の存在感なを明確に感じられるからではないでしょうか。ぬるま湯というのが不快なのは体の存在感が感じられないからというのと同じだと思います。冷たすぎる風呂は不快ですが、自分の体の存在ははっきり感じられます。対立的シチュエーションというのもぬるい風呂と同じでお湯を温めればぬるま湯を通り越して適温にできます。対立的シチュエーションも勝ち得る可能性があるならば、なまぬるい友好関係よりも好まれるのではないかと思います。

noname#97748
質問者

お礼

ご回答をいただき、ありがとうございます。 > 自分の存在感なを明確に感じられるからではないでしょうか と仰るのは、ぬるま湯的ではなく、対立的シチュエーションであれば、「自分(というもの)の体の存在感を明確に感じる」ことができる、ぬるま湯状態では、「自分(というもの)の体の存在感が感じられない」、あるいは希薄感がある。 しかし「冷たすぎる風呂」では、今度は自分(というもの)の体の存在感には、不快を伴ってしまう。 したがって、「冷たすぎる風呂」と、「ぬるま湯」を却下して残るのは、、、はたして対立的シチュエーションを「適温」とできるのは、やはり、 > 勝ち得る可能性があるならば ということですか。 おもしろいご意見と思いました。

noname#97748
質問者

補足

> 適温 というより、はっきり熱くしたいのではありませんか。 > 勝ち得る可能性があるならば でしたら、もう、そもそも「勝ち負け」で考えているからこそ、というわけになりますが、 それも、「勝ち得る」という「可能性」を見込んでいるから、というわけですね。 もし、見込めない場合は、どうなんでしょうか。 > 自分の存在感 が希薄、という意識が底にありそうだと思われます。

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