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昔の庶民生活のおもしろ話をお聞かせ下さい。

歴史上の有名な人或は上級社会の生活はある程度知る機会が有りますが 庶民の生活は余り知る機会が有りません、昔の庶民の生活のお話しをお聞かせできないでしょうか。おもしろ話、こぼれ話でも結構です。

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回答No.5

こんにちは。 bungetsuです。 >>日本で西暦1200年前後、道元、法然、親鸞、日蓮と名を成す宗教家だ出ていますが、この時代はどういう時代だったか、庶民生活目線で生活等、知識がお有りでしたらお聞かせ下さい。  飢饉等で大変な時代という事ぐらいしか知りません。 1200年頃、と言うと「鎌倉時代」ですね。 ありますよ~。 (1)庶民の定義 この時代は「農民」が約80%だったと言われています。従って、「農民」「漁民」「商人」が庶民に当たります。 また、「武士」と言っても戦いの折、馬に乗れる武士は、それなりの領地を持って、領内の農民たちを支配していましたが、馬に乗れない「武士」は、かき集めの集団でしたので、普段は、農業をしたりしていました。そして、「庶民」の分類に入ります。 また、「商人」と言っても店を持っていた人は、ごくわずかで、大概は、「露天」だったり、荷物を背負って売り歩いていました。 (2)衣服 庶民の男性: 直垂(ひたたれ)と水干(すいかん)姿が一般的で、袴(はかま)は着けず、袖をまくったりしてリラックスしていました。 最も貧しい人たちは手無(てなし)と言って袖がない着物?でした。(この手無に袖を付けたものが着物というわけです)。 直垂・・http://www.weblio.jp/content/%E7%9B%B4%E5%9E%82 水干色々・・http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E6%B0%B4%E5%B9%B2&um=1&ie=UTF-8&ei=GE_hSpTBAsz-kAXTg4i2AQ&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBwQsAQwAA 庶民の女性: 小袖に湯まきが一般的で袴は着けません。今日の女性の着物の始まりです。 小袖・・・(次のサイトの下の方にあります)。 http://www.kimonoclub.info/2008/10/post_74.html 湯まき・・・http://zipangu.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/15_a7ec.html 現代の庶民の着物の原型は「鎌倉時代にあり」と言っても過言ではありません。 (3)調理・料理 調理の方法も、この鎌倉時代には、現代で言う「焼く」「煮る」「蒸す」「揚げる」が全てありました。 ・煮物としては、「うどん」「汁」「そうめん」「きしめん」など。 ・焼き物としては、「焼餅」「焼き魚」「焼き鹿肉」など。 ・蒸し物としては、「まんじゅう」など。 ・油での揚げ物としては、「ぶと」「まがり」・・・ともに、小麦粉を練って油で揚げました。 調理器具としては、「包丁」「まないた」「まな箸」「ざる」「ひしゃく」「甑(こしき=米を蒸す土器)」「鉄瓶」「五徳(ごとく=鍋を火にかける時の台)」などが、すでに使われていました。 大きな屋敷には「厨(くりや)」という調理専門の建物があり、そこで煮炊きをしていました。しかし、おかず類は台所で座って調理をしたようです。 庶民は、「かまど」で煮炊きをし、狭い板敷きの場所で調理するか、晴れた日には外で調理をしました。 味付けには、「ひしお(=現代の醤油に近いもの)」や「魚醤(ぎょしょう=魚から作った醤油=やや匂いがきつい)」「じんた味噌(大豆や麹に米ぬかを混ぜて作った)」「塩」「甘葛(あまづら=蔦から採取した甘味料)」「山椒」「ゆず」などを使いました。 (4)灯り 「ひょうそく」と言われた素焼きの皿に油を注いで灯心に火をつけたもの。 現代の4ワット位の明るさしかありませんので、文字を読むような時には幾つかを点ける必要がありました。 従って、この時代の人は、陽が沈んだら「寝る」。陽が昇ったら「起きる」が基本でした。 ひょうそく・・・(サイトの下の方にあります)。 http://www.page.sannet.ne.jp/rokano28/edo/mingu.htm (5)お風呂 この時代の人は、あまりお風呂が好きではありませんでした。現代の温泉巡りなどは全くなく、たまに風呂に入ると言うのは、当時は「蒸し風呂」が主流でした。「浴衣(ゆかた)」は、この時代頃から蒸し風呂に入る時着たもので、蒸気で汗を出して垢や汚れを流しました。 従って、朝廷や公家、武士の家の上級女性など、十二単などで飾っている女性などでは「皮膚病」が多く、結構「カイカイ」だったのです。 また、大きな桶に湯を入れて入ることもありましたが、そういう時には、上流階級では「黒もじ」という木の葉っぱを入れて入りました。 「黒もじ」とは、主に現代では「つま楊枝(つまようじ)」に加工された木の皮が付いた「高級つま楊枝」です。 「黒もじ」には、殺菌効果があり、良い香りがします。 こうした「黒もじ」を入れたお風呂を「薬湯(やくとう)」と呼び、貴族は1週間に1度位入りましたが、庶民は、ただの湯に入るだけでした。しかし、貧しい人々のために、お寺が「薬湯」をたてて開放したりしましたので、こういう時は庶民も「薬湯」に入ることができました。 (6)お墓がない? 極端に言えば、江戸時代になるまでは、庶民には「お墓」が無かった、と言っても過言ではなく、死んだ人は穴に埋められて「石ころ」などを置かれる程度でした。 土地に余裕のない都市部では河原に捨てたり、集団で穴に埋められました。 鎌倉時代も後期になると、 「道に捨てられている死体は、穴を掘って埋めるべし」 と、言う「令」まで発布されました。 死人が道端や草むら、河原にゴロゴロしているのが「当たり前?」だったのです。 墓を造ると言うことは、穴を掘ったり、墓石を置いたりしますが、大変な「お金」がかかりましたので、ある一定以上の人でないと「お墓」は造れませんでした。 しかし、あなたのおっしゃるように、道元、法然、親鸞、日蓮の時代ですから、小さな子どもを丁寧に埋めたり、お金を持たせたり・・・と、親子の情愛を感じさせるものもありますね。 ちなみに、「葬儀」の仕来りができたのは、戦国時代にキリスト教が入って来て、キリスト教徒が「結婚式」や「葬儀」をするのを「真似た」のが始まり、と言われています。(意外ですね・・・)。 (7)通貨の価値 寛喜2年(1230)の記録に米1石(こく)が銭1貫文とあり、 1石=180リットル=約150kg 現代で10kg=約3,000円とすると、 1石=45,000円。 45,000円=銭1貫文 銭1貫文=1,000文 従って、1文=45円位 こんなところで、いかがでしょうか。

noname#96931
質問者

お礼

bungetsuさんは本当によくご存知ですね、本当に楽しませて頂きました。 昔は飢饉が多かったでしょうから、道端に死体がゴロゴロしていたのは推測できますね 「結婚式」や「葬儀」は戦国時代でキリスト教徒の影響ですか思し白いですね。色々勉強になりました。 またどこかでお会いしましたら、教えて下さい。 bungetsuさん有りがうございました。

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  • TRJ
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回答No.4

江戸時代は食文化の時代でした。食通と呼ばれる人たちが登場したのもこの時代とされています。  江戸時代後期、江戸で一番とうたわれた八百善という料亭にいろんな高級品を飲食してきた食通たちがお茶漬けを注文しました。お茶漬けは冷めた残飯にたくあんだけをおかずとした手軽で粗末な庶民の食べ物でした。それを宴会のシメではなく一品料理として注文するのは異例のことでしたから、食通達はどんなお茶漬けが来るか楽しみにしていました。  しかし、半日が経過しても一向にお茶漬けが来ません。ようやく、膳が並べられたのですが、煎茶の入った土瓶に添えられたその季節(春)に収穫できないナスやウリの漬物を刻んでしょう油をかけた香の物以外は普通のお茶漬けでした。とりあえず食べてみて腹は満たされたのですが、請求された金額は一人1両2分という高額なものでした。高すぎると驚く客に八百善の主人はこう説明しました。 「最高のお茶漬けということなので、玉川上水まで上質な水を汲みに行かせたので、そこまでの往復運賃も含むので1両以上でも決して高くはありません」  最高のお茶漬けを頼んでいた食通達は二の句が告げなかったそうです。

noname#96931
質問者

お礼

>江戸時代は食文化の時代でした。食通と呼ばれる人たちが登場したのもこの時代とされています。 戦乱の時代が終った恩恵なんでしょうね。 江戸時代初期の50年位で急激に人口が増えたみたいですね、2900万人位にこれも戦乱が終ったせいでしょうが、それから明治維新で3200万位とあまり増えてないようです、明治維新から現代まで凄い人口増加です。 >話の中身ですね 話の内容、どーぅ、とったらいいんでしょうね。今でいう、ぼったくり・・・。。でしょうか。  江戸の後期にも成ると江戸っ子器質という宵越しの金はもたないという言う様なものが、あって、払わないとは言えない見栄が有るんでしょうね、これは現代人も同じでしょうが。 楽しませて頂きました TRJさんありがとうごいました。

回答No.3

こんにちは。 NO1.です。 >>庶民の人口の方が多いように思いますから、せめて武家地と同じくらいかなと思ってました。 確かに、庶民が50万人、武士は軍事上の秘密から公表はされてはいませんが、武家地の町割り図から推測して、同じく50万人位、合わせて100万人都市というのが定説です。 庶民は、少ない土地に「ひしめき合って」生活していたのですね。 >>江戸時代って思っていたより衛生的なんですね。 そうですね。 江戸は、世界でも一番衛生的な街でした。 フランスなどでは、(汚い話でごめんなさい)、汚物は部屋の洗面器などに排泄し、窓から道路に捨てていました。 そこで、考えだされたのが「ハイヒール」で、少しでも靴やスカートの裾が汚れないようにしたのです。 また日本では、古くは、平城京や平安京などでは、川から各家庭に迂回した水路を造り、現代の「水洗トイレ」だったのです。 昔から、排泄物の処理は、日本が一番「先進国」だったのです。

noname#96931
質問者

お礼

>>江戸時代は、夜間、無灯火で歩くことが禁じられていた。したがって、どこの家でも提灯の一つぐらいないといけなかった。しかし、竹ひごで紙張りという壊れやすいものであったにもかかわらず値が高かった。だから、庶民は夜はほとんど外出することはなかった ○ほーぅ これもお聞きしないと気付かないところですね。 >>女が髪を洗うのは江戸の風習で上方ではあまり洗髪しなかったと言われている。洗髪に使われる、いわゆるシャンプーは、椋(むく)の木の皮を煎じた汁などを使用したという。 ○へー驚きです  上方の女性は洗髪はあまりしなかったんですか。洗った後、一人で女性の方は整えるようですから、判らない事もないですね。 >>フランスなどでは、(汚い話でごめんなさい)、汚物は部屋の洗面器などに排泄し、窓から道路に捨てていました。 そこで、考えだされたのが「ハイヒール」で、少しでも靴やスカートの裾が汚れないようにしたのです ○本当ですか。そこから「ハイヒール」が。面白いですね、ものの世間の出方とは。 今回も面白く拝見しました。有り難うございます。 ☆もし宜しければですが、日本で西暦1200年前後、道元、法然、親鸞、日蓮と名を成す宗教家だ出ていますが、この時代はどういう時代だったか、庶民生活目線で生活等、知識がお有りでしたらお聞かせ下さい。  飢饉等で大変な時代という事ぐらいしか知りません。 そういう時代だったからこそ沢山の宗教家が出たんだと思います。   特別宗教に知識が有るとか興味が有るとではありませんのでお気軽に。何宗にも私は入ってませんので。                   無理にとは申しませんお暇があれば、半月ほどは締め切りませんので。

回答No.2

NO1.です。 江戸時代の続き・・・。 (1)長屋の暮らし 標準的な造りは、間口9尺(1間半)、奥行き3間、つまり、入り口から土間の台所、そして、座れる空間(座敷)を入れても9畳(4.5坪)でした。 土間兼台所は、3尺位で、非常に合理的に食事道具などを収め、その後ろの半畳位の場所に衣類などを入れた長持ちや家財道具を置き、居間としては6畳位しかありませんでした。食事道具としては、箱膳が重宝がられ、箱の引き出しに、自分専用の茶碗や皿、箸などを入れて、家族はそれを重ねて積み上げ、空間利用しました。 また、所帯持ちですと、江戸時代後期あたりでも、子どもは4~5人居ましたので、家族としては6~7人が一般的でした。従って、わずか6畳に押し合い、ひしめき合って暮らしていました。夫婦の夜の「お楽しみ」は、屏風や衝立(ついたて)で子どもたちとは区切りをして行いました。 もっと貧しい、あるいは、独身者用としては、間口6尺(1間)、奥行き2間、土間や家財道具や仕事道具などを置く場所を除くと2畳の座敷のものもありました。 井戸やトイレは一箇所で共同使用しました。 (2)大家は家主ではない 大家は長屋の管理人であって、長屋の持ち主ではない。また、「家守(やもり)」「家主(やぬし、または、いえぬし)」とも呼ばれた。 共同トイレは、大家の権限で、近在の農家などと契約をして、汲み取りをさせ、農家としては、江戸の贅沢な食事で排泄されたものは、良質な「下肥(しもごえ)」となり、年に10樽の「たくあん漬」などと交換をして、大家は店子に分配したりしていた。 長屋の一軒を借りるには、身元保証人が必要だった。また、独身の男が嫁をもらって、一緒に暮らす時にも「大家」の承諾が必要だった。 また、旅に出る場合は、関所手形を発行してもらうにも、必ず、大家の保証が必要だった。 夫婦喧嘩や子どもの喧嘩の仲裁も大家の大事な役目の一つだった。 (3)木戸 長屋では、防犯上のこともあり、表通りに面した場所には、必ず、木戸を設置することが義務付けられていた。朝は七ツ(午前5時)に開けて、夜は五ツ(午後9時)には閉められた。 また、木戸の上部には、その長屋に住む「大工」や「たが屋」などの表札が掛けられており、宣伝すると同時に「ここに住んでいる」という証とした。 (4)冬支度 建物を広範囲に暖めるには「囲炉裏」があったが、江戸の町中では家々が密集しており、火災の危険があったので、派手に火を炊くことはできなかった。そこで、とにかくいっぱい厚着をして火鉢に手をかざしたり炬燵(こたつ)に足を入れて暖をとるのが精一杯だった。火鉢には金属製、木製、陶製があり、形によって丸火鉢、角火鉢、長火鉢、提(さ)げ火鉢などがあった。下級層の長屋住まいでは、せいぜい丸火鉢ぐらいであったが、家持ちになると木製の長火鉢が主流だった。長方形の箱型をしており、片側に「猫板」と呼ばれる板を渡してあり、湯のみ道具を置いたりし、その下は引き出しになっていた。炬燵は足元から暖まって気持ちがいいが、鉄瓶などを置けないのでやや不便だった。囲炉裏というと農家を思い出すが、江戸市中でも深川の船宿などには囲炉裏があった。薪や炭が高かったので、せいぜいチロチロと燃えるぐらいか、炭を置くくらいであった。 (5)夏支度 日本の建物は、昔から、夏向きに風通しが良いように造られている。暖かくするには厚着をしたり火を焚けば良いが、夏の暑さを取り除く方法は全くなかった。とは言うものの、道具類では「扇子(せんす)」、「団扇(うちわ)」などがあったが、耐え難いものであった。心理的効果としては、風鈴や虫の音色で少しでも涼を感じようと努力をした。夏はまた蚊やブヨなどが発生し、こちらの対処方法の方が難儀だった。「蚊遣り(かやり)」と呼ばれる香の強い木片やオガクズをくすぶらせて虫除けとしたが、当然けむたかった。蚊帳(かや)が広く使われ始めたのも江戸時代である。名産地は近江地方が多く「萌黄(もえぎ)の蚊帳」と町々を売り歩いたという。萌黄(黄色に近い緑色)だと汚れも目立たなかったので需要が多かった。麻の蚊帳もあったが高価で庶民には手が出なかった。ほかには、木綿や紙の蚊帳もあったという。しかし、長屋住まいの人々は「蚊遣り」ぐらいがせいぜいであった。「家のつくりようは、夏をむねとすべし。冬はいかなるところにも住まる」は兼好法師(けんこうほうし)の「徒然草(つれづれぐさ)」で有名。 (6)寝具 現代のような掛け布団は一般的にはなかった。掛け布団は上方(かみがた)では元禄時代から使われ始めたらしいが、江戸では「夜着(よぎ)」が冬用で夏は「掻巻(かいまき)」を掛けて寝た。「夜着」も「掻巻」も着物をやや大きくしたようなもので綿が入っている。「掻巻」は夏用なので綿は薄く入っている。しかし、下級層では昼間着ていた着物に、冬は何枚も重ね着をし、夏はそのまま脱いで寝るのが普通であった。敷布団にはやや綿が入っており、形は現代とあまり変わりはない。枕は「括り枕(くくりまくら)」といって、長方形の袋に蕎麦殻(そばがら)などを入れたものが一般的であったが、髪型が派手になってくると崩れるのを防ぐために、高さを加えた「箱枕」が流行するようになっていった。 (7)灯火 夜、部屋を明るくすることは非常に高くついた。もっとも一般的だったのが「行灯(あんどん)」であったが、形や大きさはさまざまであった。小皿に油を入れて灯芯を浸して点火するもので、風を防ぎ照明効果を上げるために障子紙で周りを囲った。使う灯油は、広く使われたのは菜種油であったが、当時はまだまだ高価だったため、貧しい人は、菜種油の半値くらいの「魚油」を使った。外房産の鰯(いわし)が多く出回った。しかし、臭いがきつく、何よりも煤(すす)が激しく出て、明るさもそれほどなかった。行灯よりも明るいのは「蝋燭(ろうそく)」だが、これは贅沢品であった。大型の百目(ひゃくめ)蝋燭になると、1本が200文(もん)くらいした。大工の一日の稼ぎが500文だったから、いかに高いかがわかる。武家はともかくとして、蝋燭をふんだんに使ったのは吉原ぐらいと言われている。 (8)油を売る 裏長屋の住人でも明かりなしではいられないので、油売りは町屋の隅々まで入り込み顔馴染みをつくった。背負ってきた桶から粘(ねば)りのある油を油徳利などに移した。世間話をしながら客の持ってきた容器にゆっくりと注ぐ。客も気長に最後の一滴が落ちるまで待った。お互い怠け者のようにみえるので、無駄話で時間をとることを「油を売る」と言ったのはここからきている。蝋燭は高価だったのでもっぱら店で売っていた。また、蝋燭を売り歩くかわりに、「蝋燭の流れ買い」という商売があり、燭台や提灯の中に流れて固まった燃え残りやしずくを量りで買いとって歩いた。いかに、蝋燭が貴重だったかがわかる。 (9)男の着物 男の着物は、身分によって決められていたので、人々は「身分相応」ということを幼少のころから叩き込まれた。武士は小袖(こそで)に裃(かみしも)か羽織、袴(はかま)。裃は肩衣(かたぎぬ)に袴を組み合わせたもので、正式には共裂(ともぎれ)で作ったものを着用した。商家の主人は紋付(もんつき)に小袖、絽(ろ)、郡内(ぐんない)、縮緬(ちりめん)などが許された。丁稚は麻か木綿のお仕着(しきせ=現代のツナギのようなもの)。手代や番頭になると、初めて前垂れを許された。大工や左官などの職人は、はじめのころ褌(ふんどし)に腰切り半纏だったが、やがて、紺の木綿半纏に股引(ももひき)、腹掛(はらがけ)が一般的となった。こうした衣類は時として華美になりがちであったが、身分を越えた服装をすれば処罰された。 (10)女の着物 女の着物は、小袖の着流しが一般的であった。ただし、年齢や未婚、既婚を表現する方法として、娘は振袖(ふりそで)、結婚すると留袖(とめそで)を着た。しかし、結婚していなくても十九歳の女の元服を迎えると振袖を留袖に直した。帯は結び位置自由で細帯が主流であったが、ファッションはいつの時代も流行をつくり、帯の結び方もいろいろ工夫され、「文庫結び」「一つ結び」「おたか結び」などなど10数種類の結び方で自分を表現した。着物の模様は初期のころは総模様だけであったが、やがて、七分三分の模様配置をした寛文模様とか腰高模様の享保模様などと変遷をしていった。 (11)被りもの どこへ行くにも徒歩しかない時代。江戸の街は土埃がひどかったので、髪に付くと洗うのも一苦労。しかも、整髪用の油は結構高かったので、男も女も被りものが結構重要視された。男では、丸頭巾、角頭巾、船底(ふなぞこ)頭巾など。女は綿帽子(わたぼうし)や揚帽子(あげぼうし)、御高祖頭巾(おこそずきん=鞍馬天狗が被ったような頭巾)などが主流。手拭は一般的で、被り方や結び方で職業を表した。旅をする時は、男は深編笠。虚無僧は天蓋(てんがい)。坊主は網代笠。渡世人は三度笠など、女は市女笠や韮山笠などが有名。現代でも花嫁衣裳を着たときには揚帽子、つまりは、角隠し(つのかくし)などが伝統を受け継いでいる。 (12)履物 はじめは、やはり、草履(ぞうり)が主流。と言っても、上物(高級品)は上方(関西地方)からの「下り物(くだりもの)」であった。しかし、江戸の街は雨が降ると下水処理がされていないので道路はぬかるみだらけ。そこで、下駄が流行しはじめた。はじめは雨天時だけの使用であったが、時代が安定してくると常用品になっていった。「ぽっくり下駄」「三枚歯下駄」「草履下駄」「中折下駄(なかおりげた)」などとファッションを取り入れるようになっていった。下駄より履き心地が良いのが「雪駄(せった)」だが、台の部分が薄いから泥には弱い。江戸で下駄が流行したのは、それだけ江戸の道路整備がされていないことを意味していた。旅をする時はやはり草鞋(わらじ)。現代に残る風俗画では、武士が草履を履き、お供の小者は「はだし」で歩いているものもある。また、京や大阪には長方形の下駄はなかった。 (13)雨具 やはり一般庶民が愛用したのは茅(かや)や菅(すげ)で編んだ蓑笠(みのかさ)、合羽(かっぱ)。合羽には「丸合羽」「半合羽」「長合羽」「引き回し合羽」などがある。また、合羽には紙製のものや木綿、羅紗(らしゃ)などというのもあった。傘は古くは裂張り(きれはり)で特権階級の者が主に「日除け」として供の者にさしかけさせる大型で柄(え)の長い「差し傘」であったが、やがて、柄も短く紙を張った「番傘」が元禄以降に流行しはじめた。しかし、大阪大黒屋製の「大黒傘」がはじめで、江戸でもやっと大黒傘を真似て作られるようになっていった。とは言っても、やはり、傘は高級品の部類。古傘を買い集めて骨を差し替えたり、紙を張り直したりして再利用した。リサイクルの現代版。 (14)提灯 江戸時代は、夜間、無灯火で歩くことが禁じられていた。したがって、どこの家でも提灯の一つぐらいないといけなかった。しかし、竹ひごで紙張りという壊れやすいものであったにもかかわらず値が高かった。だから、庶民は夜はほとんど外出することはなかった。提灯屋のお得意さまはもっぱら武家と妓楼(ぎろう=ゆうかく)関係が多かった。古くは「桃燈」と書かれていて、室町時代に中国の宗に渡った禅僧が伝えたと言われている。はじめは、木枠に紙を張り一箇所に置いたりしていたが、やがて、竹ひごで籠型の枠組みを作り紙を張り取っ手をつけたものへと替わっていった。しかし、提灯には蝋燭を使用したので、蝋燭も高く、なかなかの物入りだった。形や用途によって「盆提灯」「弓張提灯」「小田原提灯」などと呼ばれた。「小田原提灯」は割合小型で、折り畳めば懐にも入ったので、旅行用としてよく使われた。 (15)携帯用品 懐中物(かいちゅうもの)・・・着物の内側や帯の間に入れる物だから、かさばらない必需品。財布、紙入れなど。財布に入れるのは金貨、銀貨、銅銭などで紙幣は存在しなかった。紙入れはそのまま鼻紙入れ。 提げ物(さげもの)・・・帯に挟んでぶら下げて歩いた。煙草入れ、小銭や薬などを入れる巾着(きんちゃく)など。武士は当然、大小の腰の物と言った。女は腰からは下げずに袂(たもと)に入れた。振袖などの場合は袂に袋物入れる、今で言うポケットを作ってあり、片方に手拭、もう片方には小物類を入れた。 手提げ物(てさげもの)・・・TVでお馴染みの大店のご隠居が妾(めかけ)の家に行く時に、巾着袋(きんちゃくぶくろ)を持ってイソイソと・・・。これは、明治以降のこと。確かに、江戸時代も巾着はあったがもっと小さくて帯からぶら下げる程度の物だった。なぜなら、刃物を腰に差した男がいたるところにいたので、とっさに身を交わすには手首などに邪魔な物がないほうがよかったから。 (16)髪の手入れ 男の髪型、つまりは「チョンマゲ」では、月代(さかやき)を剃ったり、髷(まげ)を結ったりすることは自分一人ではできず、自然と、それを職業とする者が現れた。店を構えて、何人もの職人を雇っている「髪結床(かみゆいどこ)」も多かったが、出張専門の職人もいて、得意先との契約で月給制。何軒もの得意先を持っていた。また、毎日来させた大商人の主人などもいたとか。女の髪は、遊女以外は、自分で結うのが原則。女は髪を結えるようになって「一人前」と言われた。髪に付ける油は、無臭の胡桃(くるみ)油が上等品。胡麻(ごま)油は下。伽羅(きゃら)油は最高級品であった。また、女が髪を洗うのは江戸の風習で上方ではあまり洗髪しなかったと言われている。洗髪に使われる、いわゆるシャンプーは、椋(むく)の木の皮を煎じた汁などを使用したという。

noname#96931
質問者

お礼

今晩は。お世話になってます。1000文字以内とお礼分しか許可がでませんでしたので。2回に分けました。 >>江戸時代後期あたりでも、子どもは4~5人居ましたので、家族としては6~7人が一般的でした。従って、わずか6畳に押し合い、ひしめき合って暮らしていました。夫婦の夜の「お楽しみ」は、屏風や衝立(ついたて)で子どもたちとは区切りをして行いました ○やはり狭いですね、当たり前と言えば当たり前ですが、今の日本も狭いですが、何とかならんものでしょうか。 >>夏はまた蚊やブヨなどが発生し、こちらの対処方法の方が難儀だった ○江戸時代は現在の比ではないでしょうね。  夏の暑さで身体の弱い人は死ぬ人もいると本で読んだ事が有りますが、庶民の栄養剤は甘酒と書いてましてた。金持ちはうなぎだとか。 >>現代のような掛け布団は一般的にはなかった ○へーそうなんですか、驚きました。 >>部屋を明るくすることは非常に高くついた 広く使われたのは菜種油であったが、当時はまだまだ高価だったため、貧しい人は、菜種油の半値くらいの「魚油」を使った。臭いがきつく、何よりも煤(すす)が激しく出て、明るさもそれほどなかった。 ○魚油は確かに臭そうですね、すすも激しいですか。なるほど。 >>無駄話で時間をとることを「油を売る」と言ったのはここからきている ○聞いた事ありますね。 >>男の着物は、身分によって決められていたので 男の着物は、身分によって決められていたので ファッションはいつの時代も流行をつくり ○武士以外は差はないと何となく思ってましたがお聞きしないと判らないものです。ファッションいつの時代も流行があるんですね。 >>江戸の街は土埃がひどかった ○これも舗装された今の時代で生活している人間にとっては気づかないところですね。 >>はじめは、やはり、草履(ぞうり)が主流   江戸の街は雨が降ると下水処理がされていないので道路はぬかるみだらけ。そこで、下駄が流行しはじめた ○なるほどそうなんですか。下駄とは下水整備が出来てない為、庶民の知恵ですね。

回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>昔の庶民生活のおもしろ話をお聞かせ下さい。 う~ん。何時代がよろしいのでしょうか。 では、江戸時代について「おもしろい」かどうかは分かりませんが、庶民の知恵を書いてみましょうか。 題して・・・「EDOの街はECOの街」 (1)下肥問屋 江戸の街は武家地が25%、庶民の地が15%、後の60%は農地でした。渋谷、原宿、麻布なども農地でした。 盛時には江戸の人口100万人と言われて世界一の大都市でしたが、農地が大部分だったのです。 現代では、「食い倒れ」と言うと「大阪」を指しますが、昔は、江戸が一番の「食い倒れ」でした。 こうした贅沢な庶民の排泄物は、農家の野菜作りには大変優良な下肥でした。 農家は、長屋の大家と提携して、年に数回「汲み取り」にやって来て、その代わりとして、年に「たくあん漬」10樽とかを大家に収め、大家は店子に配ったりしました。 元禄年間(1680~)頃には、下肥の争奪戦が勃発し、「下肥問屋」なる職業が成立し、下肥の値段が急騰したため、勘定奉行より「公定価格」まで提示されました。 また、大奥などのやはり優良な下肥は「葛西権四郎」なる者が一手に引き受け、堀を伝って舟で運び、農家に売買していました。 (2)古紙回収屋 紙は、当然、貴重品。 現代の「チリ紙交換」と同じように、役所や商家などで書き損じた紙は「古紙回収屋」が引き取り、また、街中を篭をしょって歩き、紙くずを拾い集めたりしました。 再生紙は、「浅草紙」と呼ばれ、トイレットペーパーになりました。 これは、今も昔も変わりませんね。 (3)古着屋 武家や大店から古着を買い取り、庶民の女性が集まりやすいように、長屋の近くに店を出すのが一般的でした。 (4)端切れ屋 これも、反物から着物を作った残りの布地を買い取り、古着屋と同じく、女性の集まりやすい長屋近くに開業。 昔は、少々の破れは布を当ててつくろいました。 良く、TVの時代劇で子どもが、何の「つぎはぎ」もない着物で遊んでいますが、とんでもないウソ。 (5)着物のリサイクル 旦那の着古し→子どもの着物に仕立て直し→おしめ→雑巾。 (6)傘の古骨買い 番傘(蛇の目傘)の壊れたものを買い取り、折れた骨は取替え、油紙も新しく張り替えて、再度、店先へ。 (7)焼き継ぎ屋 現代では、茶碗や皿などが割れると、ハイ「廃品回収」ですが、江戸時代には、立派な職業。 割れた茶碗や皿に「ふのり」と「粘土」を混ぜた「天然の接着剤」でくっつけて、火で焼けば「元通り」。 (8)たが屋 水桶などの「たが」のゆるんだ物を直す職業。 (9)らう屋 キセルの修理屋。 (10)ゲタの歯入れ屋 磨り減った下駄の歯の交換屋。 (11)古鉄買い 火事で消失した家などに使われていた「釘」を買い集め、再び、新しい「釘」にして大工などに販売。 (12)灰買い屋 家庭の灰や焼け跡から「灰」を買い取り、農家に販売。 天然のアルカリ成分なので土の再生に利用された。 (13)廃材の再利用 「ふすま」「障子」「戸」などは、全て同じ寸法。従って、取り壊した家などから、そうした物を買い取り、長屋や商家などでの取替えをした。 「柱」も数種類だけの寸法なので、古い建材ですぐに家が建てられた。 (14)風呂屋(湯屋) 江戸の街は、密集しており、一度火事が起きると広範囲に消失した。 そこで、庶民の家では「風呂」を造ってはいけない禁止令が発令された。 風呂屋を開業するには、勘定奉行所の許可が必要だった。 また、「薪」も近隣の農家から買う必要があり、高かった。 しかし、大体は町内に1軒位は湯屋があり、湯銭は8文(約100円)で蕎麦の16文の半値だったため、風呂好きな暇な大家などは朝夕の2回の風呂屋通いをした。 かの有名な大店の「三井越後屋(現:三越)」の店員でさえ湯屋通いをしました。 こんなところで、どうでしょうか・・・。

noname#96931
質問者

お礼

おもしろかったですね講演料でもお払いしたいくらいです。 「武家地が25%、庶民の地が15%」武家地のが大きいんですね、庶民の人口の方が多いように思いますから、せめて武家地と同じくらいかなと思ってました。 基本的に物がない時代ですから物を生かして再利用しているんですね >江戸の街は、密集しており、一度火事が起きると広範囲に消失した。 そこで、庶民の家では「風呂」を造ってはいけない禁止令が発令された。    これも驚きましたね、禁止令ですか   江戸時代って思っていたより衛生的なんですね。  bungetsuさん、後の分も読ませて頂きます、また感想でも書きます 取り合えずありがとうございました。  

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