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人間の質の差について
よのなか、 いろいろな人間がいますが、私がもっとも疑念に感じるのは、なぜ人間には質の差があるのか?ということです。 当たり前といえば当たり前なのですが、事実としてあまりに強烈です。 品行方正で、礼儀正しく、努力を怠らず、個性もあって存在自体に輝きがある(なくなったらそれを惜しむ人がいっぱいいる)ようなひとと、努力もせず、素行が悪く、礼儀知らず、発揮する個性もないような、どう考えても何の魅力も感じられないという存在が、両極端的に存在する。 そういうのって、すごく残酷なあるいは、あまりにも不均衡な醜い現実だと思うんですけどね。 その点、世の摂理的に、あるいは一般的感性的に、どう感じるものでしょうか。
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質問者が選んだベストアンサー
ガーコンさん、お久しぶりです。お変わりありませんか。 お示しのご質問には「文明論的」に答えるのが適当でしょうね。つまり、「人間の質」を問う「尺度」が導入された結果として「質のよい人間」と「質の悪い人間」の区別が生じたわけですから。 ゴードン・チャイルドという考古学者が、かつて文明とそうでない文化を区別する指標として、文明は次のような特徴を持つと定義しました。 効果的な食料生産 大きな人口 職業と階級の分化 都市 冶金術 文字 記念碑的公共建造物 合理科学の発達 支配的な芸術様式 時を経て平準化された文明国家に暮らしているわれわれは、日常の生活規範として「職業と階級の分化」の影響を大きく受けることになります。つまり、その個人が「社会的に有用化どうか」という指標=価値観を好むと好まざるとにかかわらず形成するか形成された価値判断の種々の影響を受けているわけです。 この「社会的に有用かどうか」は、職業的な有能=労働の対価として得られる金銭の多寡や、小さな社会である家族を形成しているか、求められる社会的な道徳規律の守り手であるかなどが含まれてきます。この地域的な道徳的価値判断の中から >品行方正で、礼儀正しく、努力を怠らず、個性もあって存在自体に輝きがある >努力もせず、素行が悪く、礼儀知らず、発揮する個性もないような、どう考えても何の魅力も感じられない という判断がなされてくるのです。 さらに近世フランスにおいて発明された「基本的人権」なるものが近代民主国家への移行過程で国家運営の基本理念に採用された結果、「人間」であることだけで「尊厳を尊重」されるようになりました。 ここに 有用ではないにも拘わらず駆逐されない「人間」 なるものが誕生したのです。 ですから >その点、世の摂理的に、あるいは一般的感性的に、どう感じるものでしょうか。 への回答としては 群棲者として生きることを余儀なくされた人間が、自身の形作る文明社会が必然的に持つ「社会的有用さ」の尺度と、社会集団での支配的な人権思想の間の「ねじれ(=病い)」 が動かしがたい常態であると捉えられ、かつ支配的であることにより一般感性的に「どうしようもない」という捉えになっているのではないでしょうか。 人権思想がなくとも人間は弱者を保護する「本能の壊れた」動物ですから、「物乞い」にでもなるより他にないような「規格外」の人間も、その能力に応じて社会的居場所を確保してきたのでしょう。 ただ、それを >すごく残酷なあるいは、あまりにも不均衡な醜い現実だ と受け取るか否かが、他の回答者さんたちに見えられる「人生論的な反応」を惹起する契機となったみたいですね。 ところで回答者#16さんは一瞬で削除されてしまったのは何故なんでしょうかね。
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人の様々な違いをどう見るのかはご自由だと思われますが あまり感情的な面から判断されるのはいかがなものかと思われます。 人に限らず、動物や植物にも千差万別の違いがあります。 これらの違いをあるがままに受け止めるべきではないでしょうか。 等しく存在を認めたところから、視点を設けて価値を論ずるべきと思いますが・・・ 感情が先になってしまうと、価値を見いだせないものが生じてしまう恐れがあると思います。 この世界に全く価値も魅力も無いものが存在するのでしょうか。 もし、あるとしたならば その時は見方を変えねばならない反省の時が訪れていると知るべきではないでしょうか。
お礼
植物動物の価値観と、人間の価値観とを同列に比較するのは無理でしょうね。それに、判断って言うのは所詮感情が最終決定要因になってきますし、またそれが確かなものです。各々の「私」にとってはですが。「価値のないものもある」という捉え方もまた、ひとつの答えではないでしょうか?もちろん、私はどちらが正解なのかはわかりません。
- nofate2
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人間に限らずこの宇宙、その内も外も全てが同じではないのです。 善し悪しにおいてもあなたの価値観や多数派による分析で見方をしてると思いますが角度を変えると逆も言えます。 その疑問、疑念を解明したいという探究心はすばらしいと思います。 どんどんナゼ?ナゼ?を深めていってください。 そうすることで10年後、20年後のあなたは事象の見え方、捉え方が変わっていると思います。 要するに答えは無いのです。 今の瞬間、自分にとってどう見えるか、どう感じるか、どう受け容れるかが重要です。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
昔、聞いたか、何かの本で読んだかは不確かですがその中の話に良く似たものがありましたね。話は、シベリア抑留の極限状態におかれた日本兵の話でしたが、極限状態で人々は二通りのグループにに分かれたそうなんですね。 ひとつのグループは、自らの乏しい食べ物を減らしても仲間を助けたいと行動する人たち、他のグループは人のものをとっても生き抜こうとする人たち。これが見事に二つに分かれて存在したというのを非常に冷静な目で語っているのですね。 その中で、人の本性は二通りに帰着すると言ってるのですが、どちらがいいとか悪いとかという次元ではなく、二通りの人間に帰着するというのが新鮮だったですね。 まあ、言い換えれば自身の生を第一にしているか、自身の生は第二と考えているかの違いでしょうが、確かに差異があることは間違いないようですね。 これは生死の極限状態ですから比較にはなりませんがこの2通りを極端な例としてさまざまな差異があることは確かですね。 こういう極端を知れば個人個人がどこを理想とするかで人の集合の考えも違ってきますね。 飽食の時代ですから個々の極端な差異は、特別な例を除いては目立ちませんが誰しもあることなんですよね。 そのように見てます。
私のごく個人的な想いです。ご参考まで。 人間というのはすごく複雑な生き物なのです。 例えば >努力もせず、素行が悪く、礼儀知らず、発揮する個性もないような、どう考えても何の魅力も感じられないという そんな人間だったひとが、ある日 >品行方正で、礼儀正しく、努力を怠らず、個性もあって存在自体に輝きがある ひとに変身することがあるのです。 ”うっそー!あんびりーばぶる!!” と仰いますか? 実例は山ほどあります。超有名なのが ヘレンケラー とか、ベーブ とかですね。 エジソン とか もそうでしょうか(ちょっと違う?でも基本的にはそういうことです。「のだめ」もその部類ですね。ま、フィクションですが)。 また、その逆の場合もおおいにあるわけです。名前は伏せますが---。 つまり、人間の可能性は現状を見るだけでは全く未知数なのです。 だから学校でも「おちこぼれ」の超荒れ不良生徒を追放することが出来ないのですよ。これ、教育委員会にとっては超辛いことです。 最小限かれらはいずれも人間であり、こう言うことが可能になります。 「だからどうなんだよ」ということが。
- SOLAR_RAY
- ベストアンサー率21% (12/56)
訂正 誤:それが容姿にでるか、環境に出るか、死に方に出るか、生き方に出るかは解らないですが... 正:それが容姿にでるか、環境に出るか、死に方に出るか、「生まれ方」に出るかは解らないですが...
- sakusya
- ベストアンサー率18% (6/33)
一般感性的に質の良い悪いというものはあり、世の摂理的にも質の差は確かにあるでしょうね。とはいえ大抵において、人の言うそれらは恣意的な市場価値です。 共通の認識としていくらかはあるでしょうけれども、それでも恣意的なことに変わりはありません。何をもって品行方正か、何をもって礼儀正しいのか、何をもって個性があると言えるのか、そしてその判断基準は間違っていないか……。まあ、品行方正や礼儀正しさに限って云えば、TPOに応じた行いという具合でいいでしょうけれども、個性は優劣をつけるものではないと思います。 100人が絵を書いて、パッと見で全員がほとんど同じ絵を描いたとしても、それでもそれらの絵は100通りあるわけで……。個性とは、それらの中から差異が大きいと認識されているってだけなのでは、と思います。すごく残酷なあるいは、醜い現実があるとするのならば、市場価値の決め方が安易かつ、それらを共通の市場価値として、何の疑いもなくそれで判断している風潮にあると思います。 もちろん、一つの場面や物事に置いて優劣をつけるのであれば、恣意的とはいえほぼ明解であり事実ですが、色々な要素を総じて……ってなると恣意的な部分が非常に強くなってくると思います。もうそこまでいくと、単に好き嫌いの問題ではないでしょうか。結論がどうしようもないというか、身も蓋もないというか(汗)。まあ、でも結局のところ、質問者様のいう質の良い悪いも、端的に云えばそれなんではないかと思います。 本音を言うと、俺は他者である個人の質の良い悪いを心の中で区別していたりします(爆)。ただ、それは「“俺にとって”、その人から感じる要素を総じて」という但し書きが必ず付きますが。俺は俺のキャパシティ内でしか生きられないので、そう思うことやそういう価値基準で判断すること自体はダメだとは思っていません。また、あくまで心の中でのみで、自分の価値基準で「悪い」と決めているものを発言はしないようにしています。発言してしまえば、俺にとって、俺の市場価値が下がりますから。ややこしい(苦笑)。
私もおそらくno5さんの意見が的確だと思います。 投影かフラストレーションの発散(補償)のどちらかだと思います。 お大事に。
- ratesu
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一価値観では。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
すいません。異議ありといいたいです。 人間の質の差などという発想はどういうところから出てくるのでしょうか。 努力もせず、素行が悪く、礼儀知らず、発揮する個性もないような、どう考えても何の魅力も感じられない存在、質問者様から見てそう見える人があまり好ましくないと思っているにすぎないのではないでしょうか。 生きる価値のない人間がいるとでも思ってらっしゃるのですか、自分の理解の及ばない、いい部分がきっとあると信じることが必要だと思いませんか。その何の魅力も感じられない存在の人をそういう風に決めつけることしかできないこと事態が恥ずかしいことだと思いませんか。 最近の若い人って皆さんこういう考えなんですか、少し悲しくなりました。
お礼
質の差、普通の感覚で感じませんでしょうか? 質問者からみて好ましくないのは、少なからず、あるいは大多数の人間もそう思っていることです。それを「質」の差以外の何に求めるのか?生きる価値のない人間だっているに決まってるじゃないですか。ただ、生きる権利を奪ってはいけないだけです。
- SOLAR_RAY
- ベストアンサー率21% (12/56)
「何事も程度問題である」「程ほどにね」という主義主張をしている人がいます、そういう人は、要は「質は問題ではなく、量(程度)が問題である、大切である」と信じているのでしょう、 他にも 「皆対等。死ねば無になる。従ってみんなおんなじ♪」などと 思っていれば、自分の行為振る舞いが「質」を決めるなどと、夢にも思わないのでしょう。そう思っていれば磨かれないのは当然です。しかし、そういう大したこともない、どうでもいいくだらない人間?が、「自分大好き♪」という雰囲気を醸し出しているのは、醜く、みっともなく、腹立たしくもありますが、ほっとくしかないでしょう、「おまえまだまだなんだよ」と指摘したところで、「でも自分が好きだし、満足している」などと言い、しまいには「嫉妬しているんだ」などと思われてしまいます、こちらは「醜いものは見たくない、もっと自覚してください」と言いたいだけなんですけどね 話が少しそれましたが、要は >すごく残酷なあるいは、あまりにも不均衡な醜い現実 なのではなく、当然の結果なのです(と思われます)。 しかし、これを理解していないと、いずれ「残酷な結果」が自分に対して出るのではないだろうか、それが容姿にでるか、環境に出るか、死に方に出るか、生き方に出るかは解らないですが... 今の容姿や環境などの状況が良いものであったとして、それは多分に親や先祖の残した結果である場合が多いでしょう、若いうちは特に。 品行方正、素行、礼儀 を基準にするのは限界があるのではないでしょうか、合格点は取れるでしょうが... しかし、「一般的に」と言うのであれば、それで良いかもしれないですね
お礼
お久しぶりです。 私はまだしぶとく参加してますね。 今回も示唆に富んだご回答で、うれしくなります。 人権宣言と、文明的な社会階層のミックスですね!すばらしい論点だと思います。そう考えると、人権宣言以前の社会では、当然非人間的な階層と言うのも存在したわけで、そのことは通常の近代的神経では耐え難いのでしょうね。近代的自我が、それらを拒絶した結果が、 「どうしてどうしょうもない人間と、すばらしい人間が共存しているんだ!」 という矛盾を生んだのでしょう。 この時代の人間に生まれて来た、宿命なのでしょうね。