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光明子はなぜ皇后になれたのでしょうか。

藤原不比等の娘である光明子は人臣として始めて皇后になり、 その後、皇后となった女性は内親王を除けば ほとんどが藤原氏の女性です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%9A%87%E5%90%8E%E4%B8%80%E8%A6%A7 もちろん、光明子が皇后となれたのは藤原氏の権力がそれだけ強かったということなんでしょうけど 前例のないことだったし、 なんか、それだけでは納得できないくらい、凄いことではないでしょうか。 よっぽど藤原四兄弟の裏工作が周到だったのでしょうか。 それとも何か、藤原氏は切り札を持っていたのでしょうか。 そのあたりの事情の詳しいところを教えていただきたいです。 よろしくお願いします。

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  • ssytmg4
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回答No.2

>光明子はなぜ皇后になれたのでしょうか。 一言で言えば、藤原一門の野心、野望、権勢。 光明子の父は、右大臣、藤原不比等、母は文武と聖武、父子二代の天皇の乳母(めのと)兼養育係をつとめ、後宮を牛耳る県犬飼三千代。 宮廷を表と裏から動かす野心家を両親に、光明子は生まれた。 夫の聖武天皇とは同い年で、大宝元年に生まれる。聖武天皇の生母の藤原宮子(文武天皇夫人)は、不比等の娘で光明子の異母姉。 聖武天皇と光明子は叔母と甥の関係になる。二人は幼い時から親しくなじんで育てられ、将来の結婚はいわば両親の計画だった。光明子自身、幼少から 英才教育を受け、矜持と自覚を持って成長した。一六歳で、聖武(首 皇子)の立太子を機に結婚。ほぼ同時期に母の同族の県犬飼広刀自が入内し、二女をもうけた。光明子も一八歳で阿倍内親王を産んだが、ようやく念願の皇子をあげたのはそれから九年後、二七歳の時だった。 その子、基王(もといおう)は生後一ヶ月で皇太子に立てられたが、満一歳を目前に夭折。前後して広刀自が安積親王を産み、藤原一門は焦燥の色を濃くした。このまま光明子が再び男児をあげないと、外戚の地位と繁栄は崩壊する。 もはや光明子を皇后にして起死回生をはかるしかない。こうして、最大の障害となる左大臣・長屋王抹殺が実行された。事件から半年後の八月、背に「天王貴平知百年」と祥瑞が現れた亀が発見されて天平と改元されたのを機に、二十九歳の光明子は皇后に立てられた。 まぁ、周到に計画し、知謀、知略の限りを尽くしたということでしょう。

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 光明皇后と聖武天皇は幼ななじみだったのですか。 聖武天皇の母親は藤原宮子だし、聖武天皇自身、藤原の血の濃い天皇だったということが成功の鍵といえるかもしれませんね。 「天王貴平知百年」と祥瑞が現れた亀、ってどんな亀でしょうね。 気になりますね。 とてもわかりやすい説明をありがとうございます。

その他の回答 (3)

回答No.4

聖武天皇がそもそも藤原宮子の子であり、藤原の家で光明子とともに育ったという事情だけでは、やっぱり不足ですか^^、、、 では、 光明子の父の不比等が、死後、太政大臣を贈られ(人臣として初めて)皇族待遇とされたこと。ほんとうに、彼が皇胤(天智の子)であったかどうかは別として、藤原氏が皇胤であるという認識が当時、醸成(当然、醸成させたのは藤原氏)されていたのは間違いなかった。ということでどうでしょうか? その証拠に「(鎌足の)御子の右大臣不比等のおとど(大臣)、実は天智天皇の御子なり。されど鎌足のおとどの二郎になりたまえり」などと大鏡に書かれています。

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 光明子の父の不比等は死後皇族待遇となったのですか。 光明子が皇后になったことより、こちらのほうがさらに不思議ですね。 不比等が天智天皇の後胤であるという説は聞いたことがあります。 しかし、奈良時代の天皇は天武系の天皇なので 天智系の人間は優遇されなかったんじゃないか、と思うんです。 (私は不比等は天智の子だと思っていますが) 例えば天智天皇の皇子の志貴皇子は政治的に不幸だった。 それで志貴皇子の子である光仁天皇が即位後 春日宮天皇追尊しています。 それなのに、不比等が太政大臣になったというのは とっても不思議です。 不比等は何か負けなしのジョーカーをもっていたのかな、と思うんですが。 大変参考になりました。 ありがとうございます。

  • tanuki4u
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回答No.3

人臣として始めて皇后 ↓ これ自体が、藤原一族の陰謀というか、プロパガンダじゃないかな。 1 実は日本史上での最初の皇后が藤原光明子 2 律令以前においては妃の規定も皇后の規定もない 3 それまでの天皇の妻の最高位は「妃」で、これは四品以上の皇族であることが律令で決められていた 4 内親王と藤原家から、光明子のあと、皇后が出る 歴史は書かれたときから逆算されていきます。 内親王と藤原家から皇后が出ていて、実際 妃<皇后 の扱いをしているから、皇后の方が、天皇の特別な正妻だ。 なので、光明子の前の天皇の特別な正妻は皇后である。 なので、持統天皇も天武天皇の「皇后」で、推古天皇も敏達天皇の皇后だったと言うことにした。 本来の律令制にない、摂政・関白が律令制国家のトップとなるというのと、同じような構造のような気がします。

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 律令以前においては妃の規定も皇后の規定もなかったのですか。 それで、持統天皇も推古天皇も皇后ということにしたのですか。 確かに、正史が書かれたのは奈良時代なので、持統天皇や推古天皇の時代のことはいくらでもごまかせたかも。

  • moritan2
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回答No.1

当時の藤原氏は長屋王の変のように反対者を粛清して、どんなことでも押し通す力がありました。光明子の皇后に反対しても粛清されるだけなので、だれも反対できなかったと思います。

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 藤原氏はごり押しが得意だったのかもしれませんね。

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