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紫の上は、なぜ子どもを産まなかったか?
『源氏物語』に登場する紫の上は、最期まで子供を産むことがありませんでした。光源氏がもっとも愛していたのは、紫の上と考えらているのにです。作者の紫式部は、なぜ紫の上に子を授けなかったのでしょうか? 紫の上に永遠の若さを与えるためとか、紫の上に苦しみを与えるためとか正反対の意見とも取れるものがあります。他にどのような説がありますか? あるいはどのように考えられますか?お教えください。
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No.3です。 >子が生まれなかったのは、ハッピーエンドにしないためだったということですか?以下のご回答はなぜ、紫上が子どもを作者に生ませてもらえなかったのかの回答にはなっていないと思いますが。 権勢を極め、好きな女性を身の回りに集めて自分に悦に言っている色男にハッピーエンドを与えたら、話になりません。最愛の女性に子供が産ませないのは作者の因果応報の仏教的思想から、ある意味当然のストリーではないでしょうか?さらに念を入れて、正妻である三の宮は不義の子を身ごもらせるのは、自分が不義を犯し藤壺の宮を孕ませたことを光源氏に過去の罪を再認識させています。 この因果応報のストーリーの底に流れるのが無常でしょう。 >真に紫の上の愛情に源氏が気づいたのは、紫上死後だと思うのです。死後の源氏の乱れようが如実に示しています。 光源氏が紫の上への自分の愛情に気付くのは正妻の三ノ宮をもらってからで、正妻に近づかなくなります。紫に上にしてみれば、本当に自分を愛してくれているのなら、三ノ宮を娶らないでほしいと強く望んでいたと思います。それが通じなかったことで、紫の上は死へ傾斜していくのだと解釈します。 源氏物語の主人公は光源氏ですが、本当は光源氏を取り巻く女たちの群像を描くことが作者の目的であったと解釈しています。
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男女の愛を描く小説が面白くなるのは、三角関係、一番幸せのカップルに不幸な現実であるのは古来からの原則だと思います。 もし、紫に上に輝くような子が授けられれば、ハッピーエンドになってしまい、物語はつまらなくなります。 光源氏は付き合った女性を最後まで面倒をみるやさしさを発揮しますが、愛された女性にとってそれが幸せであったは疑問です。光源氏は紫の上が最上の女性であると気づくのはあまりにも幼い三宮を正妻にした後でしたが、紫の上には腹立たしいやり方であったでしょう。万が一三宮がそれなりに教養あふれた女らしい妻であり光源氏の気持ちが紫の上から離れるとすれば、話の深さがなくなってしまいます。 光源氏がみずから招いた悲劇が描かれていると考えます。 紫の上の愛情に気付くのが遅いのです。遊び人の光源氏の傲慢さ、鈍感さに、罰を与えるのは女性の読者の望むところであったのでしょう。 次々と付き合った女性が出家し、三宮は寝取られるし、自分自身は目が見えなくなって死にます。
補足
回答ありがとうございます。 >男女の愛を描く小説が面白くなるのは、三角関係、一番幸せのカップルに不幸な現実であるのは古来からの原則だと思います。 もし、紫に上に輝くような子が授けられれば、ハッピーエンドになってしまい、物語はつまらなくなります。< ええ、それはある意味当然だと思います。 子が生まれなかったのは、ハッピーエンドにしないためだったということですか? 以下のご回答はなぜ、紫上が子どもを作者に生ませてもらえなかったのかの回答にはなっていないと思いますが。 > 紫の上の愛情に気付くのが遅いのです。遊び人の光源氏の傲慢さ、鈍感さに、罰を与えるのは女性の読者の望むところであったのでしょう。 次々と付き合った女性が出家し、三宮は寝取られるし、自分自身は目が見えなくなって死にます。< 真に紫の上の愛情に源氏が気づいたのは、紫上死後だと思うのです。 死後の源氏の乱れようが如実に示しています。
- kadowaki
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「補足」を拝見して思ったのですが、質問者さんは結婚した女性の平均的な真情を念頭に置かれた上で、「子があると純粋な恋ができないということでしょうか?」とお考えになっていませんか。 私が申し上げたかったのは、男女間に子どもがいる場合、物語の展開上、男女の意識が子供に向く場面をも描かざるを得なくなり、必然的に男女間の愛情、恋情をより純粋に描くのが難しくなるのではないかということです。 たとえば、『蜻蛉日記』と『和泉式部』を例にすると、いずれも恋する女の情念の極致が描かれている点では共通しますが、それでも道綱母の場合、その興味・関心の重心が徐々に夫兼家から息子、養女へと移動していく過程がはっきり読み取れますよね。 それに比して、和泉式部の方は、少なくても『日記』中では、あくまでも恋する女の生き方を貫いていると評し得ると思います。 >子が生まれず、源氏を繋ぎ止められず、恋に苦しみ発病もしたのでないでしょうか? おっしゃる通りでして、そもそも男女間の愛情にしろ、恋情にしろ、これらを背後で支えているのは、不足、欠如、喪失といった人間感情だと言えます。 子どもというのは、一面において確かに男女の愛の結晶ではありますが、同時に子どもの誕生は男女に対し、世俗的な義務・責任を負う両親としての生き方を求めてきますから、より純粋に男女間の愛情、恋情だけをリアルに描き出そうとする作者側の事情からしても、やはり子どもはいない方がより好都合だと考えられます。
お礼
補足に関する回答があると思っていたのですが、残念です。 純粋な男女の愛を貫くためだったとは、嫉妬の面ではある程度なっとくできたのですが、二人の間に深い溝があったと思われますので、半分納得でしょうか? ありがとうございます。 また別に紫上に関する質問をしますので、その際もできればご意見お聞かせください。
補足
『蜻蛉日記』は読んだことがあります。子どもや養女のことでも、いろいろ気をもんでいますね。夫の浮気だけでないことが散漫な気もしますが、一代記という意味なのでしょうか? 『和泉式部日記』は読んだことがありませんが、子は生まず男女の恋だけが描かれているのでしょうか? 純粋な男女間の愛情を描くには、子が必要でないとのことですが、 紫上の発病前も後も、源氏は何人も他の女に通っていますね。 死の間際にあっても源氏は自己弁護に明け暮れています。 紫上は最期に互いの分かち合えない心の溝を感じて死んで行きました。 「哀し」「あはれ」と書かれています。 子がなくても、純粋な男女の愛は貫けなかったのではないでしょうか。
- kadowaki
- ベストアンサー率41% (854/2034)
>紫の上は、なぜ子どもを産まなかったか? 古物語であろうと、近代小説であろうと、恋愛をはじめとする、男女間に横たわる微妙で複雑な諸問題をより純粋に、よりリアルに描き出そうとする場合、はたして男女(夫婦)間に子どもがいた方が都合が良いか悪いかと考えますと、少なくても作者にとっては子どもの存在は邪魔にしかならないような気がします。 >紫の上に永遠の若さを与えるためとか、紫の上に苦しみを与えるためとか正反対の意見とも取れるものがあります。他にどのような説がありますか? もし、紫の上に子どもがいたと仮定してみると、はたして、紫の上と光源氏との間に横たわる深い男女の愛や嫉妬等といった人間感情が、現行の『源氏物語』ほどに純粋な形で描かれ得ただろうかと考えますと、やはり二人の間に子どもの存在は不要であったと結論せざるを得ないと思います。
補足
ありがとうございます。 紫上には子がないので、嫉妬は明石の上やその姫、降嫁した女三宮にいだくというのは分かるんですが、男女の愛にも関係してくるでしょうか?子があると純粋な恋ができないということでしょうか? 他に子がいて自分に子できないことで、嫉妬はより一層強くなるでしょうが、恋という面では苦しみだけが倍加されるのではないでしょうか?子が生まれず、源氏を繋ぎ止められず、恋に苦しみ発病もしたのでないでしょうか?まあ苦しむことも恋だと言ってしまえば、それだけですけれども。
お礼
補足に関する回答があると思っていたのですが、残念です。 ハッピーエンドにさせたのでは物語上、主題からはずれてしまうというのはある程度納得できます。 また別に紫上に関する質問をしますので、その際もできればご意見お聞かせください。
補足
因果応報で、源氏がかつて行った不義を、柏木に行わせているのは分かります。無常観が全体を覆っていることもわかりますが、しかし、 >自分が不義を犯し藤壺の宮を孕ませたことを光源氏に過去の罪を再認識させています。 源氏は反省するどころか、柏木を攻め立て自殺にも等しい感じで死に追いやっています。女三宮に対しても出家まで追つめています。罪の意識は極めて希薄です。 >光源氏が紫の上への自分の愛情に気付くのは正妻の三ノ宮をもらってからで、正妻に近づかなくなります。 ええ、この頃からかなり紫上寄りになってきてはいますが、まだ朧月夜のところに通ったり、紫上一人ではありませんよね。しかも六条の死霊によって仮死状態になった後は、紫上に近づかなくなったのではありませんか? >紫に上にしてみれば、本当に自分を愛してくれているのなら、三ノ宮を娶らないでほしいと強く望んでいたと思います。それが通じなかったことで、紫の上は死へ傾斜していくのだと解釈します。 すると、やはり「紫の上に苦しみを与えるため」「紫式部の悪意」という評論家の意見に近いということでしょうか?島内さんという方が主張されています。 >源氏物語の主人公は光源氏ですが、本当は光源氏を取り巻く女たちの群像を描くことが作者の目的であったと解釈しています。 ええ、それは女性の作家や評論家が、よく言っていますね。