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「手本」の対義語
小さな頃に習字をされた方なら馴染みの言葉だと思いますが、「手本」というものは、この現代にまだ通用するだけの役割を持っているのでしょうか。そして、手本の対義語とはいったい何でしょうか。
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No.25です。 さてもさても橋爪大三郎の理論とは あいまいなまま 長いことおつき合いしてきたことか! というのが まづ口をついて出ますね。勝負あったというところでしょうか。 ☆☆ (No.25) 悪口はいわないで!! ☆ これは撤回します。自分自身が言えなくなりますから。 ★ 悟性 ☆ と聞くといつも戸惑うのですが それでいてきちんと把握しようとして来なかった。 ▲ (ヰキぺ:理性) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ スコラ哲学以来の西洋哲学の伝統では「推論・論証的能力としての理性」と「対象を把握する(understanding)能力としての悟性」とを区別するのが普通である(明晰性、妥当性は前者に、直観は後者に属する)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ カントのカテゴリですとか ヘーゲルではどうだとかまだあるようですが これだとしまして ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「かたち」が訴えるのは、存外、僕らの理性に対してではなく、悟性に対してなのではないでしょうか。 そして文学は、感性を従えたその悟性に対して訴えるものではないのだろうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いやあ ri_rong さんからこういう命題を耳にするとは!! せいぜいが 内包するものとして表現しておられることはあっても 直説法ですからね。それに ★ 「かたち」は空虚で、実の無いものです。けれども、人間には悟性の力でその「かたち」を認識することができる。 ☆ とここまで言われたなら 直観派のわたしはもう出番がなくなりますよ。 この《かたち》に一元論を当てはめる必要はないというところでしょうか。 ○ 言語一元論のもとに 社会動態を言語の現象として捉え 言語じしんによって分析しようとしている。自己自身の中で循環しているではないか。 ☆ たぶん この一元が 経験事物であるからややこしくなるということかも知れません。そうなると結局 世界精神が自己展開するとか もの自体は 触れ得ないものとして神だなに揚げておくとかといった構成の中に入るかたちへ 広げざるを得なくなる。 ひゃあーあっ 《絶対》を掲げるわたしが この罠もしくは穴に陥るとは!! ○ 《かたち》は 可塑性を持ってつねに動態である何かとして 一人ひとりが 携えているもので およそ《かたち》たらんとするならば みづからの妥当性を主張しあってもよく しかもその妥当性は むろん相対的であるゆえ ひとつの《かたち》の共同化には いくらかのものの共存ということが考えられる。 ○ この《かたち》は 生活態度のようなものである。と言えば 思想だと言えるし 広く共同主観である。たぶん 分野ごとに具体的に検討し合われるであろうし いくつか共存することも考えられる。 ▲▲ (No.25)(橋爪) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・社会が完璧な表現の空間となり 各人が 記号的生の自立をとげたとき こうした法秩序は かろうじて無化されるだろう とわれわれは考えてみたい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これはですね。虚構作品なり理論なりの言論によって 権力が崩壊するというそういう文章はあるか?――曲解しているかも知れません――というようなことを かの吉本隆明が言っていたので ずっと引っかかっていました。吉本は その作品が 仏つくって魂入れずだと思います。 あぁ おかげで卵の殻が割れて オムレツをつくれます。 このあと どうしますか?
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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もう少しお邪魔してみようかと。・・・ ★ (No.23) ・様子〔嶺頭〕雲影微 江流〔十里〕入残眩 ☆ これは 《様子》という言葉が 余分なように感じます。山の嶺に《雲影微》だと言えば それは《様子》であるではないかと。(漢詩は一般知識以上には知りません)。 ☆★ 鈴木理恵子 ☆ は――と言いますか 音楽を聞くのは 昔はFMをよく聞いていましたが いまはNHKBSのクラシック倶楽部くらいです(これは毎日やっていますね)―― 音楽で特別に感動した最初でいまのところ最後のものです。美人は 仲道郁代あたりでしょうが ピアノ演奏で動かされたことは残念ながらありません。 ストラディワ゛リの音はやはり違うなと思ったことはありました。でも鈴木理恵子の音のほうが上だと思いました。理論も理屈もなしです。強いていえば 音が一つひとつその時間域いっぱいに響いてしかも次の音と無理なくつながっている。悪口はいわないで!! と言いますか 専門的なご意見には傾聴いたします。 ★ カントリー ☆ はお好きなのですか? どうも――その曲というより アメリカつながりが―― ri_rong さんとは似合わない感じですね。 ★ 《〈かたち〉から入る》 ☆ のはけっきょく 幼児がことばを覚えるのも そういう経過をたどるということで ふつうのことであるかも分かりません。 今回は ▲ 橋爪大三郎:《言語一元論》――たとえば『言語派社会学の原理』2000 ☆ にかんして ご意見をうかがおうという魂胆です。というのも 橋爪にかんしては 多くを読んでいるものの なかなか賛成・反対いづれとしても評論しがたいというのが わたしの実感であったからです。よろしかったら料理してください。 ▲ (橋爪) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 実定的な法秩序(ないし 権力状況)をこえる構図を提示できるかどうかは いまのところ ひとつの思想(ないし 言語表現)の課題である。社会が完璧な表現の空間となり 各人が 記号的生の自立をとげたとき こうした法秩序は かろうじて無化されるだろう とわれわれは考えてみたい。《記号空間論》(=《〈言語〉派社会学》)という作業は そうした予想に 充分な根拠を与えることを 目標としている。 (橋爪大三郎:《〈言語〉派法理論 要綱》p.92=結語の部分――私的に頒布している) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 雄大なと言いますか 無謀にと言いますか でも理論的な基礎がなきにしもあらずのようにも感じられます。 ▲ (橋爪:『言語派社会学の原理』) ~~~~~~~~~~~~~~ 【153】(* =著書の中の番号づけ) 性 言語 権力が 分離可能な三つの基本作用素( operator )であると考えるならば それ以外の観察可能な現象は それらの複合において成立している と考えられることになる。このようにとらえなおされたものを 社会形象( social figure )とよぶことにする。 * たとえば 文字は 本来の言語としての作用とともに 音声言語と対応する可視的で感性的な図像であることから 性の作用を含んでいるし 言説を排他的に記録し秘匿し運用する可能性をひらくところから 権力の作用を担いうるであろう。またたとえば さまざまな加工品は 言語(によって表現される観念)と照応して作製されたので 言語としての作用を 感性的な享受の対象となりうるかぎりで性の作用を 担いうるであろう。などなど。(* この文は表現がまづく感じられますが 原文のままです)。 さらにたとえば 文字で表記されたテキストは 文字そのものを社会形象と考えるならば そのさらに上位のレヱ゛ルに形成される社会形象であることになる。 * このように 複雑な社会現象を 一連の社会形象からなる全体として解析し また逆に 複雑な事象を 社会の基本的な作用やより単純な社会形象からなる複合として合成する といったやり方で 社会を記述する可能性が開かれていく。 【154】ここで・・・操作的な定義を導入してみたい。 まづ 言語について。これは・・・身体から身体に 形式の作用が及んでいる場合 として簡単に抽象できる。 そして 性について。これも・・・身体から身体に 直接の(非形式的な)作用が及んでいる場合 として抽象できる。 言語の作用は 身体間を推移的( transitive )に波及していく。言い換えれば 言語の実態である形式は 身体を通過しても変形せず 不変にとどまる。それに対して 性の作用は 身体から身体への直接の関係であるので その身体を通りぬけてそのつぎの身体に作用を及ぼすことはできない。 * これに対して 権力の操作的な定義は ややわかりにくい つぎのようなかたちになる。すなわち 身体から身体へと拘束的な作用が及んでおり その作用がもうひとつ前の身体に及んでいた拘束的な作用と同一である場合 この作用は権力である と。もう少し簡便に言えば 権力は つぎのように定義できる。 〔定義〕権力: 権力とは 身体間で同一性をたもつ 間身体的な拘束作用である。 (pp.268-270) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そう言えば 岩井克人の ○ 言語 法 貨幣 ☆ の理論もありました。すべて言語のはたらきが与っているようにも考えられます。 ○ 性にかんしては 言語をすり抜けると思われますが もしそのような自然言語だと捉えるなら やはり言語の問題である。 ☆ と考える余地があります。言いかえれば むろん ○ コミュニケーション ☆ の問題ですね。(それにしても このコミュニケーションという語をうまく翻訳できませんか?)
お礼
だとすれば、それらはまさにそれが「かたち」であることを裏付けている。「かたち」は空虚で、実の無いものです。けれども、人間には悟性の力でその「かたち」を認識することができる。「かたち」が訴えるのは、存外、僕らの理性に対してではなく、悟性に対してなのではないでしょうか。 そして文学は、感性を従えたその悟性に対して訴えるものではないのだろうか。
補足
ご回答ありがとうございます。 >橋爪大三郎:《言語一元論》――たとえば『言語派社会学の原理』2000にかんして ご意見をうかがおうという魂胆 お説自体はわからないでもないんです。でもきっと、むしろ僕のように門外漢のほうが、その説の危うさには敏感なのだろうと思います。というのも、 ☆ 《言語一元論》 と呼んでいる時点で、それが循環論法になっていることに論者は気付いていないと思うんですね。そのとき曲者になるのが「社会」というものです。たとえば自然科学の対象である物質や運動とまさに同じような実在性を社会に与えて定義するとき、法や貨幣、そして言語は、社会という存在によってまことしやかに関係付けられる一方、それはすでに「社会」というもの自体の定義づけのなかに、すでに織り込まれているものなのだという反省が忘れ去られている。 早い話、この人の考えているものが「社会」なのであり、だからこそ、その「社会」には普遍性がないということです。これは以前、岩井克人さんの論文を読んだときにも思ったことです。 社会科学は、自然科学と決定的に違うところがあるような気がします。それは観察の結果を計量することの難しさとともに、考察はともすると、突き詰めれば突き詰めるほど、前提に戻ってゆく――そういうジレンマがあるような気がします。言語というものは、確かにそれ自体の変遷や異言語との連関、意味や文法を詳らかにすることで言語学としての対象とはなり得る。けれども、その使用(実践)をひとたび論じようとしたとき、言語は単なる約束事のひとつでしかなかったことに改めて気付かされる。 その約束は単なるかたちだけのものであり、価値や義務が介在するまえに、暗愚にそれを信じているだけのそういう「かたち」でしかない、のではないだろうか。言語のほかには法も貨幣も、何か別なものとの代替可能性があるのではなく、実は暗愚な信じ込みによって仮想されているだけのものなのではないか。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、ri_rongさん。 ●―――― そうか。 ↑ おい、妙に納得すんじゃねえよ。 あいや、しばらく、しばら~~~く~~~ (写楽風) くぅ~~~~と、腹の虫が鳴ったところで 飯の時間! いただきまーす! 抽象絵画デフォルメ 『ベルヴィル・ランデブー』 http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tydt/id320220/ 【劇画講座】 http://www.saito-pro.co.jp/kouza/k04.htm デフォルメと色彩の調和 【アニバーサリーリミテッド】 http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0812/24/news012.html
お礼
==========(劇画におけるデフォルメとは……)=== ☆ それは、ひと口にいって、“より実際に近いものを、より少ない線によって表現すること”であり、そしてそれは似顔絵やマンガのものにはない“劇画の世界独特の技法である”というのが結論です。 デフォルメと言われると、「より実際に近いものを、より少ない線によって表現すること」のほかに、誇張が含まれるでしょうね。似顔絵や漫画では誇張のほうがむしろ、デフォルメの意味に近しい。誇張を加算的とすれば、ここで述べられるデフォルメは減算的です。いずれも手本そのものではなく、演算を加わえる。こういうことでしょうか。 ご回答、ありがとうございます。 ところで、手本というものがありながらもなぜ、演算が必要になるのでしょうか。むしろ、加算にせよ減算にせよ、もしも正しい演算というものがあるならば、それは手本の持つ「何か」を際立たせるためになされる。その何かが損なわれてしまうようでは、正しいとは呼べないでしょう。その何かについて、カントはそれを純粋悟性概念と呼びました。それは量であるとか質であるなど、「もの」をその「もの」足らしめている要因のことです。 さて、果たして人間は理性によって、その「もの」らしさを考量しているのだろうか――というのが、カントの立てた問いでした。その問いから、彼は「純粋理性批判」を著します。そのなかで、先に書いたような演算は、理性に先立って内在的に与えられていると彼は言います。経験は経験以上を知り得ることができず、原理は原理に含まれる以上のことを知り得ないものです。 けれども人間にはこれらに先立つ認識力がある。経験を基礎としない超越論的な認識形式がある――ということです。このような認識は、感性のちからを借りた悟性のもたらす構想力によってなされる。 この質問は、まさにそこを問うているわけです。どうでしょうか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.21&22のお礼欄――お応えをありがとうございます――に反応いたします。 ・ 趣味のお話としては ワ゛イオリンは鈴木理恵子の演奏が好きです。 ・ 動詞の否定形のもんだいで こう問えばいいと思いました。 ○ なぜ《ある》は動詞で その対義語の《ない》は形容詞なのか? (《あらづ・あらぬ・あらへん》のほかに 《あらなふ》もしくは《なふ》があるはずではないか?) さて 全編 引用です。 ▲ 橋本萬太郎・岡田英弘・川本邦衛・新田春夫・松本昭共著:世界の中の日本文字 1980 ▲ (同書:漢字のテキストが読めるのは) ~~~~~~~~ 岡田: ・・なぜ漢字で書いたものが意味がわかるか・・・。わかるはずがないというのが 私の意見なんです。・・・ 漢文でずっと漢字が並んでいると どこで切るかということが先にわかっていなければ 意味が分からない。しかし意味が分かっていなければ どこで切るか分からない。・・・ ある特定のテキストで繰り返しそのシークエンス(順列)を叩き込まれているからに過ぎない。 橋本: ああ 《素読》でならう語感ですね。三つか四つのころからね。面白いなあ。西洋でもそこに着目した人がいる。ただし 西洋人らしくそのシークエンスを定式化しようとしたわけですがね。ロシア最大の詩人アレクサンドル・プーシュキンの長詩《イェフゲーニー・オネーギン》について それを考えたマルコフ。一九一三年のことです。残念ながら東洋では千年以上も素読を叩き込まれていながら その《マルコフのくさり》を解明しようとする人が出なかった。中国でこういった叩き込みは 非常に早くからはじめたようですね。早くって 小さいときからのことですが。 ▲ (同:音読と訓読) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 川本: いまの『三字経』は 中国人はどうやって学んだんですか。 岡田: 暗記するだけでしょう。 川本: それはベトナム人も同様だったのではないかと思います。 天 thien・・・tro'i 地 dia ・・・ da't 人 nhan・・・ ngu'ori のようにローマ字だけを上から続けて読むと すこぶる調子がよい。 岡田: 韓国では 漢字にそれぞれハングルで 意味に対応する韓国語の単語と 韓国語の字音をつけて この二つを一まとめに読んで覚えます。 天 hanar ・・・ tyon 地 sda ・・・・ di こうして《天》なら ハナル・チョン 《地》ならタ・ヂと ひとつづきに暗記する。 ▲ (同:フランス語やロシア語に《漢字》を) ~~~~~~~~~~ 橋本: ところで われわれは今 文字体系の問題を根本的に論じているわけですから 空想的なことでも荒唐無稽なことでも もっとどうでしょう? わたくしはフランス語なんかは 語幹のところを漢字にしたらどうかと思うんですが ・・・。・・・フランスの中学生のしぼり方というのは ものすごかったらしいですね。十二歳かなんかで受ける試験で 一生が決まってしまった。そこのところである試験にパスしなかったら 絶対に大学コースへ行けない。・・・しかもその決め方が 極端にいえば どれだけの綴り字を知っているかということにかかっているわけでしょう? かつては ラテン語がどれだけできたかによって決められたんでしょうけれど。・・・ 橋本: わたくしの申し上げているのは こういうことです。たとえばロシア語で 《山》のことを gora といいますね。ところがロシア語ではこれは《山》だけではなくて これだけでもう主格で単数で女性形であるということが決まっています。 gor-a 山が gor-y 山の gor-e 山に gor-u 山を gor-oj 山で のような構成を持っています。ですから gor- のところは漢字だっていいわけです。 ▲ (同:それが実は漢字カナまじり文) ~~~~~~~~~~~~~ 新田: 日本語の場合は それを漢字とカナにする。 橋本: 実はそこへ持っていこうと思っているのですよ。・・・ 川本: 乎古止(をこと)点というのは 漢字の周りにいろいろなものをくっつけるわけでしょう? それはまさにこれですよね。 岡田: 日本は それがすべてできていたということですね。 ▲ (同:ふりがな(ルビ)を見直す) ~~~~~~~~~~~~~~ 新田: 漢字の場合は 意味をあらわす形が 形として一つですね。ところが ドイツ語の漢字に当たる語幹・語根的なところですが・・・。たとえば binden (結ぶ)の過去は band (結んだ) 過去分詞は gebunden (結ばれた) それから名詞になると Band (帯) Baende (複数) Bund (同盟) Buendnis (盟約) に変わってきますね。つまり b・・・nd が漢字に当たる。 橋本: それに対するお答えは 用意できていますよ。これは漢字ぢゃなくて ぼくはツクリに当たるんぢゃないかと思います。たとえばツクリ(《同》)があって 名詞の場合ホラアナといったら《洞》と書く。それから動詞や形容詞の場合にオナジというのは このまま《同》でいい。もっと派生して木の場合には《桐》 竹カンムリは《筒》。・・・ だからまさしくこの bind ~ band ~ baend ~ bund ~ buend を貫く語根を同一記号(ツクリ)で表わすことを 漢字では一歩先にやっちゃっているわけですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
ほう。何はともあれ、これにはびっくりしました。意外。よく、ご存知ですね。 >ワ゛イオリンは鈴木理恵子の演奏が好きです。 ご回答ありがとうございます。それとも、人気あるのかな。ご本人はとても美人で可愛らしい。民俗音楽をよくやる点で、分野横断というか近寄りやすい気がしますが、ひとたび協奏曲をやらせると可愛らしくない音を出しますよね。たぶん、見た目より背筋とか腕力とかが、あるんだろうと思います。とっておきとでも言いますか、そういうときの彼女は音が違います。ちょっとびっくりするような音を出しますけど、ふだんはなかなかそういうのを見せない。 僕のはああいうんじゃないですが、今やってるのはカントリーです。演奏を聞くのは好きですが、やるのはもっといい。 ご存知かどうかドグ・ワトソンを数曲と、民謡をひとつ、洒落でジョン・デンバーの《カントリーロード》。ヴァイオリン二名、チェロ一名、カスタネット一名(おまけ)、音楽家はひとりもなし。僕以外は全員七十代という途方もない混成です。これを客の前でやろうというのだから、恐れ入る。盆休みを利用して箱根に泊まりに来るお客さんに聞かせるのだそうです。 さて、 >漢文でずっと漢字が並んでいると どこで切るかということが先にわかっていなければ 意味が分からない。 これですよ。これ。かねがね、不思議に思っていたわけです。 やっぱり、手本を見ながら型をおぼえるわけですね。どこでもいっしょってことですか。たとえば児玉源太郎の「様子嶺頭雲影微 江流十里入残眩――」なんて聞かされると、確かに言ってることはわかるんだけど、指令電文みたいで、やっぱりヘタですよね。それに比べて乃木さんのは「山川草木轉荒涼 十里風腥新戰場――」です。 比べてみましょう。
補足
(補足とお礼欄を入れ間違って、文章が続かなくなっています。上下を入れ替えてください) ・様子〔嶺頭〕雲影微 江流〔十里〕入残眩 ・山川草木轉荒涼 十里風腥新戰場 素人の意見として、〔 〕でくくった句の位置が問題だと思うんですね。こういうのって、どうなんでしょう。率直に書くと、児玉源太郎さんのやつって、詩には思えないんですよ。詩の型を伴っていない。こういう感じがするのは、仏文や羅文でも同じなんです。例えば論文なんかですと、もう書き出しの数行を読むだけで中味の想像が付いてくる。そういう感じって、気のせいなんだろうか。理解できない外国語を習ったせいで、頭が変になっただけかもしれないですけどね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
《 A-ハ B-ガ C-ナリ /C-スル。》の日本語構文について補います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この構文について 第一中心主題 + 関係第二主題 + 論述。 といった主題提示層を表わし しかも同時に別の層において S (主格)- O (対格)- V(述格) などの線形論理層をも担い その意味関係を表わす。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ と述べていますが そしてこの構文は 日本語のほかに朝鮮語にも見られると言いましたが ほかの言語にも存在する可能性があると説く論考を探し出しました。ご紹介します。 ▲ 泉井久之助:言語の構造1967/1971 ☆ そこでは 上の構文は ▲ 二重主語の構文 ☆ と呼ばれています。 ▲ (泉井〔いずい〕久之助:二重主語の構文と日本語)~~~~~~~ ラテン語は非常に早くから文体的に 特に論理的によく整理せられた言語である。殊に普通われわれが目にするラテン語は 共和制末期から帝政初期に書かれたいわゆる古典的ラテン語であるために いかにも整理せられた言語だという感じをつよく抱かせる。そこでは主語に関して 一つの単文には必ず主語は一つの原則が強く貫かれて そこに二つの主語があらわれるという二重主語的な現象は殆んど見出されることがない。 実はしかし それは高度に整理せられた文章語ばかりを われわれは見ているからであって キケローの弁論さえ 今われわれが読むものは すべて弁じ終わったあとで 時には相当期間ののち 改めて手を加え文章的に整えた上で刊行したものばかりである。実際に大ぜいの人たちを前にして雄弁を揮ったときには 必ずしもこのように文章規範として 後世のみか今日まで尊重せられるような 美事に整って しかも力つづよいものではなかったかも分からない。・・・ 古典期の規範的なラテン語の文章では・・・第一主語を属格に据えることによって非規範的な二重主語になるのを避けるのが一般の場合である。例えば最も整ったラテン語において Hominum spes successu rerum augeri solet. といえば 《人間〔というもの〕は 成功によって希望が大きくなるものである》の意味であって 直訳的に《人間の希望は・・・大きくなるものである》と訳すれば 《文として》正確に訳したことにならない。もしこの直訳のとおりにラテン文でいうならば はじめの二重主語の順序を変えて 《希望 spes 》を前に据え Spes hominum ・・・・ としなければ正しい文にはならない。しかしこのとき 《人々の hominum 》は 《特定の人々 前述の人々の》の意味になって全体は 《かの人々の希望は・・・》の意味になってしまうであろう。 上の規範的に整った文において《人々の》が《希望》の前に立ち 更に何より文頭に立っていることには特別の意味がある。そこには提示的な 第一主語的な意味合いが統辞法的にこめられている。 しかし少し考えてみれば ラテン語の二重主語的な言い方は 何もこのように表現世界の いわば逼塞した一隅にのみ行なわれていたのではない。その表現世界の大道をゆくキケローにきわめて多い表現の様式 即ちまづ 《・・・を》と提示して つづいて例えば 《〔これを〕知らないほど迂闊なものがあろうか》と結ぶあの言い方の順序 これなども句の順序や据え方から見て格の関係はとにかく 表現全体の行き方に伺える精神から見れば やはり一種の二重主語的な表現であろう。 その一つの例は キケロー 国家論 二の六のはじめにも見出される。そこでは Urbis autem ipsius nativa praesidia, 《都(ローマ)自体の持つ自然の要害を》 とまづはじめに置いて前提とし 次に文章を一応区切りながら《そんなに迂闊なものとして誰があろうか》と文を運び 最後にこの《誰》を受ける関係代名詞を据えて 《その人がそれに気づかないほど》と結ぶのである。 つまり《ローマ自体が本来持つ自然の要害さハ それにはっきり気づかないほど迂闊なものとして誰があろうか》というのに ローマの要害さを大きく前提においてその属性の優秀さを述べるのである。これも表現の精神から見て一種の二重表現であろう。それはこの句の順序に現われている。整った古典期の文語にも 二重主語的表現はやや姿をかえて現われていたのである。 日本語においても今日 二重主語的表現が口語的な文章語にまで力があるのは はじめの民衆的な言語法が大いに力を得た結果であって 古典的な文語では その現われは非常に少なかった。しかしこの表現様式が様式として 日本語において非常に古くからつづいたものであることは 万葉集の八 《・・・冬木の梅は 花咲きにけり》 或いは 巻三の 《不尽(ふじ)の高ねは 雨雲もいゆきはばかり・・・》 などの多くの例によって知ることができる。ここに《ガ》が現われないのは主語助詞としての《ガ》の発現が文語において 遅かったからである。 して見れば二重主語的表現は 一般に自然に人の心にごく自然的な表現の様式の一つであり 自然的な精神形態の発現でもあるといえるかも分からない。ラテン語では 周知のように名詞・代名詞の格の形は一つ一つはっきり現われて 主格は主格としてのみの形を持つだけに 上の特異な二つのラテン例文のそれぞれにおける二つの主語は それぞれ明瞭に二つの主格であって 二重主語的表現は はっきり二重主格的表現となっている点が特にわれわれに興味がある。 (第2部 補論 1.二重主語の構文と日本語 2.その他の言語と二重主語 pp.144-146 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ほかにもいくらかの言語で この《二重主語の構文》が見られると説いています。 ラテン文例について わたしは合点が行っているわけではありません。文例の全体を掲げていませんし つまりよく分かりません。というのが 実情です。
お礼
専門的なことは知らないのですが、この泉井さんという方がお書きのことを僕はわかる気がします。キケロなど正統派のラテン文(古典時代のもの)は講読会で勉強した程度で、いくらかの言い回しのほかはさっぱり知りませんが、文章を構成する「型」のようなものがあって、それはネオラテンにも受け継がれています。 読みのなかで、僕らはこれをまず、覚えるんですね。ご回答ありがとうございます。 このキケロ風の語り口モデルは、たとえば頁数でいうと三頁くらい続く長い文章の末尾にひょっこり結論が現れたりするネオラテンの怪しい文章において、どこからどこまでが主格なのか、またその主格の説明が誰の引用なのかなどを読み解く際には、非常に重宝します。作者が古典と同じような構造で綴ってくれているからです。その型に慣れてしまうと、泉井さんの書かれていることが特別なことだとは思わなくなってしまいますが、改めて言われると、なるほどなと思いました。 慣用句っていうんですか、実際はもう少し長いテクストを引用するようなかたち――演説なのか、論ぱくなのか、献呈なのか、詩文なのか――などなどの型があって、うまく言葉では説明できませんが、その型に沿って綴られます。やっぱり、外国語なんでしょうね。地の言葉とは違って、ラテン語は手本としての言葉だと思います。挿入句や引用、変幻自在の文章構成、それでも「型」は生きている。漢詩のような感じ、といえば伝わるでしょうか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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日本語論がないので すでにご披露した文章ですが 添えさせていただきたいと思います。 ことばの生成をめぐって 少しは掠めるような論考です。 * 奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが HA..... と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。 HA.....SI。 というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。 HASI . / はし。 こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。 ――愛(は)し。 つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相のそれ/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で ’u = う。 'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。 と作って これを添えれば うる‐はし。(心愛し・麗しい) とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。 ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。 そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを 合成すれば 《やま‐と》のかたちに つくった。 文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり やまと(山‐処)‐は うるはし。 人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。 やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。 と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。 と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。
お礼
ご回答ありがとうございます。 演奏会が近く、週末は箱根にこもって練習をやってます。返事が遅れてすいません。 ところで、ブラジュロンヌさん。漢詩ってどうなんでしょうね。あれって、よく知らないのですが、和文にするときレ記号とか付けて読む順序を付けたりするじゃないですか。順々に前から読んでゆけば良いという訳ではない。 ああいうのって、どうやって生まれたんでしょうね。
- littlekiss
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こんばんは、ri_rongさん。 …点、あるいは一本の線ですか? うーん、一線を画す―――――― 距離を置く。 距離を置いて考えてみましたら ジャイロスコープに行きあたりました。<はじめに戻る 手本(サンプル)の対義語は――――→ 実物 【空中マウス 】 http://bb.watch.impress.co.jp/cda/items/5129.html
お礼
ご回答ありがとうございます。ところで、こんどは実物ですか。 実物と手本は異なる。そればかりか、正反対ではないか?――という感じでしょうか。それがlittlekissさんだと? だとしたら、実物の人物像があまりに良すぎやしませんか。聖人君主とは言いませんが、聖母様? 人間には良い面もあれば悪い面もある。どちらか一方しかない、なんて人はいないでしょう。おおむね、半々といった感じです。 だから、littlekissさんの場合も手本と実物はあまり変わらないはずです。いくら実物が良い人だからって、そこそこ、といった感じです。いくら手本と実物が対義語だとしても、いや、だとしたら。あれっ、littleさんってほんとうはすごく良い人……ってこと? そうか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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差異の談義では降参します。No.16です。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 手本の対義語は 差異である。 ☆ かも知れません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ に対して あなたの論議の結語の部分だけを引けば ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 同じ価値を共有するしくみ、そういうものが働かなければ、差異はむしろ手本ではないかとさえ思えました。 どうでしょう? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから それでもわたしの側にぶつぶつと自動表出があるとすれば それは ○ 言語の普遍性がもし大前提になるのならば その前提のもとに 《共通の語彙や構文を内容とする手本》と《そこから はみ出すかのような差異》とが互いに対立的にして総合的には言語の全体を発展させようとするかのごとく 作用し合っている。 ☆ です。降参というのは 特に深く考えて言ったものではなかったからです。最後の落ちとして気軽に吐いてしまいました。スマン。 ○ 音韻で / r / ないし / l / ∽ / s / という交替可能性 ☆ について 悩んでいます。 ○ やはり>やっぱり>やっぱし あるいは ○ あまり> あんまし ☆ ちなみに 日本語のラ行の子音は 舌先は軽く上歯茎の裏のあたりに触れて発音するので アール( r )ではなくエル( l )に近いと言われています。 これを思い出したのは 例のタガログという語です。 ○ 台湾に高砂という地名があって / たかさご / と〔も〕読みます。これは / タガログ /と交替しうる音韻ではないかという〔以前からの〕うたがいです。/ takasago / ∽ / tagalog / ? ☆ 余興でした。
お礼
さて、この質問もずいぶん長くなってきましたし、そろそろ締めようかと思っています。 ご回答ありがとうございました。 言い残しは無いだろうと思います。
- littlekiss
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訂正:追加 さらに一八七三年にイギリス人ウイリアム・トムソンによって、現在の磁気コンパスの原型が完成されたのです。 ↑ ≪ ≫の文が抜けてました。 さらに一八七三年にイギリス人ウイリアム・トムソンによって、≪理論的に誤差の修正を行うことのできる磁気コンパスが作られました。≫これによって、現在の磁気コンパスの原型が完成されたのです。≪これによって、≫ 清書 ↓ 『二. コンパスの発達』 「ヨーロッパの三大発明」の一つとされている磁気コンパスの西洋における発明は、一三三○年にアマルフィの船乗り、フラビオ・ジオヤによるとされており、ヨーロッパでは、「ジェノバの針」という呼び名で呼ばれていました。しかし現在では、これを「発明」というのはあやまりで、「改良」されたと訂正されなければならないといわれています。というのは、一一八○年頃書かれたイギリス人アレクサンダー・ネッカムの本にも、また、一三世紀初頭にプロパンス語で書かれた本にも、海上で方向を知るのに磁石が使われたことがしるされているからです。これらの磁石と、これを航海に利用する方法は、東洋からアラビア人の手をへて西洋に伝えられたものとみられていますが、一二三二年にアラビア人によって書かれた「石の知識に関する商人の法典」という本の記事は、当時の状況を知る上で興味ぶかいものがあります。「針をとってワラのくきにさし、十文字の形をこしらえる。これを容器に入れた水の上に浮かべる。それから磁石をとって水の表面に近づけ、手をまわす。そうすると、針は南北をさし止まる」もちろんこの時の針は、「磁石でなでて、南北の方向をさす性質を与えていた」ものと思われます。ジオヤの作った磁気コンパスは、十四世紀のなか頃、イタリア人カルダーノによって、たがいに垂直な軸を持つ二つの環すなわち遊動環を取り付けることによって、海の上で揺れる船にも適するようにされました。一七五○年頃に、ゴヴイン・ナイト博士によって、鋼鉄棒の磁化による人工磁石が作られ、さらに一八七三年にイギリス人ウイリアム・トムソンによって、理論的に誤差の修正を行うことのできる磁気コンパスが作られました。これによって、現在の磁気コンパスの原型が完成されたのです。現在では磁気に関係なく、高速に回転するコマを利用して、これに地球自転の力を感応させ、コマの軸を南北に保つジャイロ・コンパスができています。しかし、これが故障したときの補助としても、磁気コンパスはまだまだその生命を失ってはいません。
お礼
七不思議とか四大文明とかっていう言い回しは、確かに手本みたいなニュアンスを受けますね。けれどそれは、錯視だと――そういうご回答だと受け止めました。ありがとうございます。 しかしですねぇ、となると手本と錯視は同義語になっちゃう。 ○ そうではなく、錯視される手本と、そうでない手本とがある。 強引に、こう理解してみました。手本を見て清書する。清書したものがつぎの手本となる。連鎖、それとも循環、ともかくそういうニュアンスのもの、ということでしょうか。 ☆ むしろ、コマのように慣性で回り続ける手本というのを提案してみたいと思います。 ずばり書けば、バランスです。 手本の本質は、このバランスにあるのではないか。見た目とか、雰囲気とか、そういう感覚面でのバランスです。それがいびつだと、どこか違うんじゃないかと思う。だとすれば、手本の対義語は、バランスの反対を考えれば良いわけです。バランスは、天秤のごとく、二物を比べて初めて生まれる。とすれば、比べる相手が無ければ、バランスは物象化されない。そういうのは? と考えるに、点、あるいは一本の線です。しかも直線のようなものであれば、バランスは関係しない。 どうでしょうか。
- littlekiss
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こんばんは、ri_rongさん。 ワトスンとホームズですか? 『麻雀放浪記』は必読? 青天井 ほじゃ、ここもあわせてみておきましょうか? ↓ YuTube-無頼 阿佐田哲也の虚と実(1)/5 【パントマイム効果を用いた三次元錯視物体の動的構造変化に関する研究】 http://cortex.csse.muroran-it.ac.jp/papers/kentaro_shibu05.pdf ●「そうだねワトソン君、今の状況から推理すると、僕らのテントが盗まれたのだよ」 ↑ 《手本》の対義語《手癖がわるい?》 ←人聞きのわるい。 それもいうならお手並み鮮やかでしょうが テーブルマジック??? サッと、引き抜く(^_-)-☆ ちゃららららら~♪ 引いてきたカードは… 【火星探査車スピリット、救出策を探る】 http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2009070807 【星の不思議】 http://www1.odn.ne.jp/kentaurus/new_page_11.htm 【切手】 http://www.rakuten.co.jp/timbre/458737/667785/ 【地球なんでもQ&A】 http://www.geosociety.jp/faq/content0002.html 【各守護星同士の相性】 http://island.geocities.jp/issui_ryuya/6index.html ここで、お話ひとつ。 『二. コンパスの発達』 「ヨーロッパの三大発明」の一つとされている磁気コンパスの西洋における発明は、一三三○年にアマルフィの船乗り、フラビオ・ジオヤによるとされており、ヨーロッパでは、「ジェノバの針」という呼び名で呼ばれていました。しかし現在では、これを「発明」というのはあやまりで、「改良」されたと訂正されなければならないといわれています。というのは、一一八○年頃書かれたイギリス人アレクサンダー・ネッカムの本にも、また、一三世紀初頭にプロパンス語で書かれた本にも、海上で方向を知るのに磁石が使われたことがしるされているからです。これらの磁石と、これを航海に利用する方法は、東洋からアラビア人の手をへて西洋に伝えられたものとみられていますが、一二三二年にアラビア人によって書かれた「石の知識に関する商人の法典」という本の記事は、当時の状況を知る上で興味ぶかいものがあります。「針をとってワラのくきにさし、十文字の形をこしらえる。これを容器に入れた水の上に浮かべる。それから磁石をとって水の表面に近づけ、手をまわす。そうすると、針は南北をさし止まる」もちろんこの時の針は、「磁石でなでて、南北の方向をさす性質を与えていた」ものと思われます。ジオヤの作った磁気コンパスは、十四世紀のなか頃、イタリア人カルダーノによって、たがいに垂直な軸を持つ二つの環すなわち遊動環を取り付けることによって、海の上で揺れる船にも適するようにされました。一七五○年頃に、ゴヴイン・ナイト博士によって、鋼鉄棒の磁化による人工磁石が作られ、さらに一八七三年にイギリス人ウイリアム・トムソンによって、現在の磁気コンパスの原型が完成されたのです。現在では磁気に関係なく、高速に回転するコマを利用して、これに地球自転の力を感応させ、コマの軸を南北に保つジャイロ・コンパスができています。しかし、これが故障したときの補助としても、磁気コンパスはまだまだその生命を失ってはいません。
お礼
ワトスン君の場合は、錯視でしたね。ご回答ありがとうございました。 >《手本》の対義語《手癖がわるい?》 ←人聞きのわるい。 むにゃむにゃ。アムロ・レイ曰く「ぶったな! 親父にもぶたれたことないのに!」 ぶった――仏陀……あれっ。ぶつ、ぶる? 振りをする! ←これこれ。 >それもいうならお手並み鮮やかでしょうが 「盗まれた」振りをしたってこと……とか? 錯視⇔策士 おそらくこれが、パントマイム効果を用いた三次元錯視物体の動的構造変化ということでしょう。 何、 ちゃんと見えた?
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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○ 言語の普遍性とは如何にありや? §2 言語の系統(言語家族)はどれだけの史実か? 12.中間の結論 ○ 言語家族(言語の系統)は 家族性の度合いが濃いか薄いかの問題である。 ○ ぎゃくに言えば 同じ言語家族のあいだでも 互いの差異は大きいとも言える。 ○ 経済的なアウタルキーの問題ではありませんが 言語やその家族を単位体として分けて捉える《ブロック化》は無用にしましょう。――これが 感情的な結論であり 希望です。 13.ぎゃくに橋本萬太郎は 生活の基礎に根づく言葉については 印欧語族は 足並みをそろえていると例示します。 ▲ (橋本:現代博言学 p.303) ~~~~~~~~~~~ ・・・・・・・・・・・・・《食べる》・・・・《立つ》 古典ギリシャ語: 'edo ・・・・・・‘istamai ラテン語 : edere ・・・・・・stare サンスクリット: ad-・・・・・・・ stha- アベスタ語 : xvar-・・・・・・ sta- ゴート語 : itan ・・・・・・ standan 古代教会スラブ語: jasti・・・・・・ stojati 祖語形 : * ed- ・・・・・・ * sta- ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ところがここで 中国においては 同じ語族であってもその内側の事情はちがうと言います。生活基礎の語彙が 各方言のあいだで異なっており そのような基礎からやや遠ざかると思われる《そら》や《考える》の言葉は むしろ共通の語を用いているのだと。 ▲ (橋本 p.303f.) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・・・・・《食べる》 /《立つ》 // 《そら》 /《考える》 北方語 :□ts‘z 1 / 站 tsan 3 //天 t‘ien 1 / 想 syiang 3 呉語 :喫 k‘ia 4a / 立 lie´4b //天 t‘ie 1a / 想 siang 3 ビン東語:■tsia´ 4a /□ k‘ie‘ 4a // 天 t‘i 1a / 想 siu~ 3 ビン西語 :□ ie 4b / □ k‘ie 3a // 天 hieng 1a / 想 siong 3 粤語 :食 sik 4b / 企 k‘ei 2b // 天 t‘in 1a / 想 soeng 3a * ローマ字つづりは 精確ではありません。 * ビンは 門かまえに虫。 * 北方語=北京;呉語=蘇州;ビン東語=アモイ; ビン西語=建陽; 粤(エツ)語=広東 * ■:歯偏に 作のつくりのほうを つくりに添える。 * □ のしるしは 文字がないもの。北京語《チー(食べる)》は 《吃》を当てている。 * 数字は 声調を示す。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 14. 前項の事例は何を示すか。No.15で フィリピンには百以上の方言があるとおそわりました。そのように もともとは 村ごとに言葉は違っていたのではないか。そういう仮説です。同じ系統であってもと言いますか 親戚どうしであっても違っている可能性のことです。生活の基礎的な語彙から違っていた可能性です。 15. 交流の有無・濃度あるいは 実際に移動し移住するかどうかによって それらの違いが いくつかの結果を類型的にもたらしたのではないかと。印欧語族は 交流も移動・移住もはげしくおこなった結果の言語情況であるかも知れない。でも昔からの差異が残ってもいる。 16. コーカサスの山々に点々と住み着く人々は 村ごとに言語がちがうと言います。交通も少ないでしょうから 分からないでもないですが もともとは どこでも そのように差異を持っていたのではないか。 17. ここで唐突にですが ○ 手本の対義語は 差異である。 ☆ かも知れません。 * 現代タガログ語やフィリピンの諸方言についての事情がうかがえてたいへんありがたかったです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ○ 手本の対義語は 差異である。 ☆ かも知れません。 集束する先、その対象としてのものが「手本」であり、それゆえ対義語は集束する前の過程、それは「差異」だということでしょうか。差異と手本――うーん、そういうのもあるでしょうね。 うーん、という表現を足すのは、どうもしっくり来ないところがあるからです。 というのも、差異はむしろ歓迎されるものですよね。 個々の価値観の異なり、たとえ親戚どうしであっても、そのような異なりはあるはずだし、あったほうが良い。なのに、なぜ手本が必要なのか。「交流の有無・濃度あるいは 実際に移動し移住するかどうか」とその理由をお書きですが、仮にそうであったとしても、差異という価値を捨てるほどではない気がします。 そこで思ったのですが、ここでいう「ちがい」というのは、むしろ格差ではないか。 規矩ではなく、価値を等しくしたうえで、その同じ価値観で量れるものに、多少があった。もしも同じ価値観というものが共有されなければ――それがほんとうに差異であれば――手本なんて必要がない、こう思われたんじゃないでしょうか。同じ価値を共有するしくみ、そういうものが働かなければ、差異はむしろ手本ではないかとさえ思えました。 どうでしょう?
お礼
>このあと どうしますか? そうですねぇ。とりあえずいったん、ここは締めます。 長らくの問い求めにお付き合いいただきまして、ありがとうございました。 前々から考えてはいたのですが、そしてここでの問いを踏まえて、いよいよ「本格小説」について考えてみたいと思います。