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「手本」の対義語
小さな頃に習字をされた方なら馴染みの言葉だと思いますが、「手本」というものは、この現代にまだ通用するだけの役割を持っているのでしょうか。そして、手本の対義語とはいったい何でしょうか。
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No.25です。 さてもさても橋爪大三郎の理論とは あいまいなまま 長いことおつき合いしてきたことか! というのが まづ口をついて出ますね。勝負あったというところでしょうか。 ☆☆ (No.25) 悪口はいわないで!! ☆ これは撤回します。自分自身が言えなくなりますから。 ★ 悟性 ☆ と聞くといつも戸惑うのですが それでいてきちんと把握しようとして来なかった。 ▲ (ヰキぺ:理性) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ スコラ哲学以来の西洋哲学の伝統では「推論・論証的能力としての理性」と「対象を把握する(understanding)能力としての悟性」とを区別するのが普通である(明晰性、妥当性は前者に、直観は後者に属する)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ カントのカテゴリですとか ヘーゲルではどうだとかまだあるようですが これだとしまして ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「かたち」が訴えるのは、存外、僕らの理性に対してではなく、悟性に対してなのではないでしょうか。 そして文学は、感性を従えたその悟性に対して訴えるものではないのだろうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いやあ ri_rong さんからこういう命題を耳にするとは!! せいぜいが 内包するものとして表現しておられることはあっても 直説法ですからね。それに ★ 「かたち」は空虚で、実の無いものです。けれども、人間には悟性の力でその「かたち」を認識することができる。 ☆ とここまで言われたなら 直観派のわたしはもう出番がなくなりますよ。 この《かたち》に一元論を当てはめる必要はないというところでしょうか。 ○ 言語一元論のもとに 社会動態を言語の現象として捉え 言語じしんによって分析しようとしている。自己自身の中で循環しているではないか。 ☆ たぶん この一元が 経験事物であるからややこしくなるということかも知れません。そうなると結局 世界精神が自己展開するとか もの自体は 触れ得ないものとして神だなに揚げておくとかといった構成の中に入るかたちへ 広げざるを得なくなる。 ひゃあーあっ 《絶対》を掲げるわたしが この罠もしくは穴に陥るとは!! ○ 《かたち》は 可塑性を持ってつねに動態である何かとして 一人ひとりが 携えているもので およそ《かたち》たらんとするならば みづからの妥当性を主張しあってもよく しかもその妥当性は むろん相対的であるゆえ ひとつの《かたち》の共同化には いくらかのものの共存ということが考えられる。 ○ この《かたち》は 生活態度のようなものである。と言えば 思想だと言えるし 広く共同主観である。たぶん 分野ごとに具体的に検討し合われるであろうし いくつか共存することも考えられる。 ▲▲ (No.25)(橋爪) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・社会が完璧な表現の空間となり 各人が 記号的生の自立をとげたとき こうした法秩序は かろうじて無化されるだろう とわれわれは考えてみたい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これはですね。虚構作品なり理論なりの言論によって 権力が崩壊するというそういう文章はあるか?――曲解しているかも知れません――というようなことを かの吉本隆明が言っていたので ずっと引っかかっていました。吉本は その作品が 仏つくって魂入れずだと思います。 あぁ おかげで卵の殻が割れて オムレツをつくれます。 このあと どうしますか?
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- Mindanaoji
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横から口を挟んですみません。 当方はマニラに長年住み、タガログ語放送のラジオを常に聴き、タガログ語のタプロイド紙をいつも読んで、一般大衆とタガログ語で日常的に会話をしながら生活している者です。 タガログ語は意外に語彙は豊富です。しかし、外来語(スペイン語、アラビア語、中国語、英語、日本語)が非常に多く入り込んでいるため、また、精力的な言語学者による辞書作りが継続して行われてこなかったということもあり、急速にその語彙は失われつつあります。 また、テレビが発達し、タガログ語がフィリピン語の基とされたこの数十年で、タガログ語と非常に差異のある地方語(100言語ある)においてはタガログ語の侵入も非常に大きいです。 ミンダナオ地方においては、所謂ビサヤ語(セブアーノ語、ワライ語、イロイロ語等)は、マレーシアやインドネシアと同様、交易用に文法が非常に簡略された形で頻繁に使われることにより、活用が極端に減らされるようになってきています。またタガログ語にビサヤ語を混ぜる形での会話が現場で多くなりつつありこれもタガログ語の侵入といえるでしょう。 ところでタガログ語の活用はなくなりつつあるのかについてですが、タガログ語に外来語が加わることについては数百年の歴史の中で外来語を外来語とせずにひとつの単語として活用の方が確実に優先されています。むしろ外来語を語幹として採用し動詞にしたり、名詞にしたり、非常に豊かな活用をすることによって文学的な表現を可能にしています。 You tubeではフィリピンの昔の動画を見ることができるようになり、昔のタガログ語を聴くことも可能になってきましたが、今と会話が全く変わらないことに驚きます。(進歩してこなかったとも言えますが)活用については日常の中で常に繰り返して使われることにより、変化してこなかったのかなと推測します。 この傾向は北ルソンの地方言語においても十分いえると思います。特にイロカーノ語においては非常に多くの著述、歌等が文字ベースでも残されており言葉の独自性を強く保持しています。 確かにマニラの都市部では就職のために英語を尊び、タガログ語を意図して話さない上流階級の家族が多くいることは否定できません。そして変化の速度が非常に速い現代において流行にすぐ飛びつくフィリピン人の特性からフィリピンの言語がこれからどう変化するか想像もつきません。 色々書きましたが、こういう意見もあるのだという位に読み流していただけたらと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >むしろ外来語を語幹として採用し動詞にしたり、名詞にしたり、非常に豊かな活用をすることによって文学的な表現を可能にしています。 これは、ひとつ勉強になりました。 タガログ語がここで教えてもらったような活用形を持っていれば、確かにその外来語に由来する文法に支配されずに、外来語を取り込むことができる。日本語に比べると、とても不思議な言語です。でも、それが国語としての普遍性を持続させているのでしょう。 これは想像ですが、あるいは地理的条件がそうさせたのかもしれません。 孤立した島々が多くあれば、ふつうはその島独自に言葉は変化すると思える。けれども、舟という交通手段を持っていたために、共通語という意識のほうが重要になる。信じられないような多様な語幹に、マーカーを付して意味を伝えるという手法は、理に叶ったものだったということでしょうか。 恐らく、言語に詳しい他の回答者もまた、関連する回答をお寄せになるでしょう。面白い情報が、得られるかもしれません。良いお話でした。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
Dr. bragelonne の言語談義です。詐称については ワトスン君のほうに問い合わせてください。 ○ 言語の普遍性とは如何にありや? §1 まえおき 1. 特定の一つの言語を取り上げる前に――もしくはそれと並行して―― 一つには 言語の起源を扱う生成の問題を掲げなければならないでしょうし もう一つには その生成の結果としての諸言語の構造を類型的に捉えておくことが必要だと考えます。 2. 言語類型論としてかなり普遍性をもった分析内容を 一つの仮説においてわたしは得ていますが それには ひとつの前提が問題になります。 3. ひとつの言語が諸言語のあいだでどのようにみづからを生成させ展開して来たか これです。言語どうしの影響関係を 普遍性理解の前提として解明する必要があるようです。 §2 言語の系統はどれだけの史実か? 4. 系統もしくは言語家族は 互いに他をよそものと思っているようだが 果たして事実としてただしいか? 5. 東北地方語と九州地方語はともに日本語であり 沖縄語は――たとえば基本として三母音構成ゆえ 上の二つの地方語と同じ次元の日本語とは言えないけれど―― やはり基本として日本語家族である。形容詞の形成の仕方がちがうけれど 元は同じ起源から分かれたと確認できる。 6. この日本語家族は たとえばインド・ヨーロッパ言語家族と よそもの同士として互いに隔たっているのか? あるいは 朝鮮語とは 似通ったところがあるとか 中国語とは――漢語の語彙としてはたいへん共通のものがあるけれど―― 根本的に違う言語だとか言われることは どこまで史実であるか? 7. 仮説としての結論は おそらく基本的に言語は互いに影響し合ってそれぞれを形成したであろう。これです。 8. 言いかえると ヨーロッパの諸言語は――バスク語を除いて――すべて同じ家族であるという見方は そのまま正しいか? これに対して仮説としては 差異を持ったいくつかの言語の寄せ集めの状態から 互いに混ざり合ったのであろう。これです。 9. 言いかえれば 言語どうしの混合の度合いに従って 家族度が違ってきている。ただ――史実としては―― これだけのことではないか。と考えます。 10. また接触がなかったのなら 混合も起こらなかったというに過ぎないという見方です。バスク語は 接触があっても 混合をいさぎよしとはしなかった。家族度がうすい。 〔11. フランスのバスク人(ガスコン)は ブラジュロンヌの叔父さんのようなダルタニャンらもそうだったようですが たしか国王までを出しているようですから 混合したとも言えそうですが 言語としては 影響のうすい恰好を保ち 自由な二重生活をえらんだのでしょうか〕。 論証はまだですが まづ提出してみます。 ○ 言語家族(言語の系統)は 家族性の度合いが濃いか薄いかの問題である。 ○ ぎゃくに言えば 同じ言語家族のあいだでも 互いの差異は大きいとも言える。 * ▲ 橋本萬太郎:現代博言学 1981 ☆ によると 印欧語族のあいだで 次の差異は何を意味するかと問います。 ▲ (橋本 p.304) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・・・・・・・・・・・・・・・《そら》・・・・・・《かんがえる》 古典ギリシャ語: ouranos ・・・・・・'ennnoeo ラテン語 : caelum ・・・・・・・ cogitare サンスクリット: div- ・・・・・・・・・ cint- アベスタ語 : asman- ・・・・・・ man- ゴート語 : himins ・・・・・・・ hugjan 古代教会スラブ語: nebo・・・・・・・・ mysliti ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ * 経済的なアウタルキーの問題ではありませんが 言語やその家族を単位体として分けて捉える《ブロック化》は無用にしましょうという見方ですね。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 ================================= * ▲ 橋本萬太郎:現代博言学 1981 ☆ によると 印欧語族のあいだで 次の差異は何を意味するかと問います。 ▲ (橋本 p.304) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・・・・・・・・・・・・・・・《そら》・・・・・・《かんがえる》 古典ギリシャ語: ouranos ・・・・・・'ennoeo ラテン語 : caelum ・・・・・・・ cogitare サンスクリット: div- ・・・・・・・・・ cint- アベスタ語 : asman- ・・・・・・ man- ゴート語 : himins ・・・・・・・ hugjan 古代教会スラブ語: nebo・・・・・・・・ mysliti ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ================================== 難しいなあ。三つの母音が入っているとか、読みとかを考えると、古典ギリシャ語とラテン語は関係が濃そうですね。地理的にも近いし、円満な家庭が築けそうです。 でも、他のは親戚って感じですね。 サンスクリットとアベスタも、家庭を築けるでしょう。ゴートとスラブ語も、見合い結婚とすればまあいいかというような感じです。どうやら、ふたつずつの組みがあって、三つの家族が寄り集まって、俺たちって血縁か? と言っているようなふうですね。老婆心ながら申し上げると、《古典ギリシャ語とラテン語》家族は《サンスクリットとアベスタ》家族とは、関係がうまく行かないでしょう。 《ゴートとスラブ語》家族とは、かなり譲歩し合えばなんとかなる感じ。 でも、予断は許さないところがあって、 というのもスラブ語以外は、《そらと考える》のあいだに関係がありそうですが、スラブ語だけは天に対する関心が薄い気がするからです。ひとつ間違うと、不倫騒動になる。 こんな感じですが、早く答えを教えてください。
- littlekiss
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こんばんは、ri_rongさん。 ●案外、「親父にもぶたれたことないのに!」 “ 親父 ”… あー、懐かしい響き。。。 うん、殴られたことはないですね。 おっきな手で、頭をペシっと押さえられたことはありました 「しっかりせいよ」と。 父が亡くなって早10年。あのおっきな手を懐かしく思う。 瞼の裏にぼんやり浮かぶその姿…“ 親父 ” お盆が近いせいでしょうか それとも、疲れているせいでしょうか あのおっきな手を恋しく思います。 それはそれとして (-_-;)uuu… 何んて?! 「…littlekissさんは、見た目には白くてごっつい体をしていますが、…」 ↑ “ ごっつい体 ”って…見たんかぁー!!! 確かに、この前受けた健康診断の結果は一昨年に比べ数kgアップ↑↑ ごっつい体というよりも健康優良児と呼んどくれ~♪ぷんぷん( ̄^ ̄) 数kgアップ↑↑したからってわけじゃないけど… 黒を身に纏うことおおい。視覚効果??? メイン・ブラック 人間型ロボットの頭部に座っている小さな宇宙人 だ・れ・が、小さな宇宙人やて? (-_-;)uuu… まあ、そこは敢えて否定はせいへんわ あっ!?やっぱ、気がかわった-☆ 飛ばせ鉄拳! ======○)))))ロケットパンチー★ いまだ 出すんだ ブレストファイヤー マジンゴー! マジンゴー! マジンガーZ 同じいうなら、小さな日本人やて。(^_-)-☆ http://robot.watch.impress.co.jp/docs/news/20090629_298366.html 【老婆と少女】 http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/v/ladyAndOldWoman/ja/index.html Q.手本 ↓↑ A.錯視
お礼
>確かに、この前受けた健康診断の結果 まさか、そうだったんですか! >黒を身に纏うことおおい。視覚効果??? 黒を纏う――漆黒の夜空を彩る星々。ロマンチックですねぇ。ふと、ある記事を思い出して探したら偶然、ウェブに関連記事が出ていましたのでリンクします(斜体のところです)。 ・http://understandingscience.ucc.ie/humour/A_Good_Laugh.pdf ワトスン博士とキャンプに出かけたシャーロック・ホームズは、星空の下でテントを張って眠りについた。ところが真夜中に、ホームズはワトソンを起こして言った。 「ワトスン君、ちょっと上を見上げて君の推理を聞かせてくれたまえ」 些かうんざりしていたが、ワトスンはホームズの輝かしい推論の数々を何としても記録しなければならないと決めていたので、しぶしぶ答えた。 「無数の星が見えるよ。無数の星のうちにもしも、惑星を持つ星がほんの少しでもあれば、地球のような惑星が存在する公算はきわめて大きいといえる。地球のような惑星が少しでもあれば、生命が存在する可能性があるだろうね。また宗教的な見地からこのような夜空を見ると、創造者として神の偉大さをひしひしと感じるけれど、君はどう思うホームズ?」 それを聞いたホームズは言った。 「そうだねワトソン君、今の状況から推理すると、僕らのテントが盗まれたのだよ」
補足
ご回答ありがとうございます。 (毛利氏 談)======================== いずれはロボットだけではなく、人間の科学者が行くべきだという。人間が行かないと、人間が発する哲学は出てこないからだという。そのためにまず有人用の2分の1スケールの宇宙船を開発・製造し、それにやはり2分の1スケールの人型ロボットも作って本当に高いレベルでシミュレーションを行なうべきだと述べた。 ではなぜ人型なのか。それは将来実際に人を送り込むためのシミュレーションであると同時に、日本らしい「文化」なのだと毛利氏は語った。日本では、「鉄腕アトム」以来、人型ロボットには親近感や愛着がある。「『文化』は多くの人の支援を受けられる。大きな予算を使う宇宙開発は、大勢の支援を受けないといけない。国民がわくわくするようなものでなければならない」と述べた。 =============================== なるほど。かたちは重要ってことですね。しかも、人型。でも、なんで1/2スケールなんだろう。ブツブツ。ところで、
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
bragelonne のおもしろ豆知識です。 マレー語がマレー半島から東の台湾からスマトラの範囲内でハワイやイースターまでの太平洋の諸島に広まったと――おっと もう一つマダガスカルを忘れちゃいけません 小舟で渡って行ったのでしょうね――言われるオーストロネシア語族。 その言語の特徴で動詞にかんするきわめて関心を惹くものは フィリピンのタガログ語に見出されます。接辞(接頭辞・接中辞・接尾辞)がきわめて論理的に発達しています。 まづは次の表をごらんください。 ▲ 〔動詞 kain =《食べる》(語幹)の活用〕 ~~~~~~~~~ (1) 動作主=主語を取り立てる場合:接中辞 -um- を用いる。 (A) 不定相: k-um-ain (食べる) (B) 完了相: k-um-ain (食べた) (C) 想念相: ka-kain (食べよう=未来相) (D) 未完了相: k-um-a-kain (食べている=存続相・現在相) * 綴字においてハイフンは通常つけません。 (2) 目的=賓格語を取り立てる場合:接〔中〕辞 -in- を用いる。 (A) 不定相: kain-in (食べる) (B) 完了相: k-in-ain (食べた) (C) 想念相: ka-kain-in (食べよう) (D) 未完了相: k-in-a-kain-in (食べている) (3) 場所=処格を取り立て場合:接尾辞 -an を賓格用接辞とともに用いる。 (A) 不定相: kain-an (意味は同じ《食べる》です。cf.のちの文例) (B) 完了相: k-in-ain-an (C) 想念相: ka-kain-an (D) 未完了相: k-in-a-kain-an ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これだけ規則的であれば フィリピン人は よほど論理思考に秀でているのではないかとも思えるのですが どうなんでしょうねぇ。 ほかにもこの論理学は 展開していきます。 ▲ 〔動詞 の活用・つづき〕 ~~~~~~~~~~~~~~~ (4) 受益者=与格を取り立てる場合:接頭辞 i- を賓格辞 -in- とともに用いる。 (5) 手段・道具=具格を取り立てる場合:接頭辞 ipang- を賓格接辞 -in- とともに用いる。 * 同じくこの(1)~(5)の区分法は あとに触れる ▲〔文例〕 で見比べてください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あるいはさらに 動詞の動作じたいの意味内容を形式区分して これをやはり接辞によって表わす。 ▲ 〔動詞 の活用・その三〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) 一般動作の形式:接辞 -um-, ほかに mag-, ma-, i-, etc. (い) 反復形式: mang-, pang-・・・-in(接頭辞かつ接尾辞) (う) 可能形式: maka-, ma- (え) 婉曲形式: maki-, paki- (お) 使役形式: magpa-, pa-・・・-in, pa-・・・-an, ipa- (か) 命令形式:各形式の不定相の形態を用いる。(う)はない。 ▲ 〔文例〕~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 動詞: bili =買う (1‐B) 主語取り立て形( -um- )にて用いる例 ○ B-um-ili ako ng saging sa tindahan para sa guro'. = Bought I bananas at the store for the teacher. = わたしはバナナを・・・買った。 (2‐B) 目的語取り立て形( -in- )に用いる。 ○ B-in-ili ko ang saging sa tindahan para sa guro'. = Bought I bananas at the store for the teacher. = バナナはわたしが・・・買った。 * 主語の《わたし》は (1‐B)の《 ako 》から簡略形の《 ko 》に変わっている。 * また目的語に対する冠詞が《 ng 》から 取り立てられることによって 《 ang 》に変わっている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あたかも人造言語のごとく規則ただしく活用しています。 ここまでの規則正しさを日本語に求めるわけではないのですが。 ▲ Teresita V. Ramos : Tagalog dictionary 1971-1985
お礼
規則的な活用という点では確かにそうなんですが、なんていいますか、なんともシンプルな言語だなと思いました。ご回答ありがとうございます。 この言語はおそらく、ひどく語彙が少ないでしょう? たぶん。名詞に何かをくっつけるというつくりは、日本語やラテン語に近いけど、ラテン語の場合を例に取るなら、語彙が増えてくるとやがて活用規則は破綻すると思いますね。 ラテン語の場合は、たくさん入ってきたギリシャ語をラテン化するなかで、外来語として処理できた言葉とそうでない言葉があった。きっと、後者が多過ぎたんでしょう。少し遅れて、レコンキスタの時代にアラビア語がたくさん入ってきた。けれどもアラビア語の場合は、国語にもうその受け皿がなく、ほとんどが外来語のままラテン化されていると思います。 多かれ少なかれ日常語には可塑性があって、新しい単語の持つ概念に割り当てて、混血造語を準備するだけの語彙がある。けれどそれにも限度はあって、二重三重に新しい単語が入ってくると、受け入れられなくて外来語のかたちで土着する。タガログ語の活用を見ると、なんだかその言語が辿ってきた痛ましさのようなものを感じてしまいます。 日本語はどうでしょうね。外来語の増え方を考えると、可塑性はもう無くなってしまったんじゃないでしょうか。伸びきったゴムのように。
- littlekiss
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こんばんは、ri_rongさん。 【Neat Image-日本語版ユ-ザーガイド-】 http://www.neatimage.net/files/NIUGv4.2JP.pdf 【超簡単NeatImage(V5.1)の使い方】 http://www.eonet.ne.jp/~nighthead/fz10/neatimage.htm ニート(neat) 「夜半の月影」 を連鎖させる場合… そうそう、瞼を閉じてものおもうのよ 瞼の裏にぼんやり浮かぶその姿…あこがれ 月の裏側はみえない…なぞ みえないといえば…プレデター プレデターといえば…ジョン・コナー ジョン・コナー…夢と現実 出逢った頃は こんな日が 来るとは思わずにいた Making good things better いいえ すんだこと 時を重ねただけ 疲れ果たあなた 私の幻を愛したの 日本語学 5月号より 一部抜粋 近世語の世界 島田勇雄 P10~P11(三)書写本の文献学的方法 書写本では右の版本の方法論をそれぞれ拡大細分化させた諸事項のほか多くの独自の方法を必要とする。最も留意を要するのは私が伝授物と命名する対象とその方法である。(「伝授物の語彙-その前提作業のために」〔『国語と国文学』五五ノ五〕)。伝授物は技術の指導を行い、一定段階に達した者に指導内容の文書(伝書)を授与するものである。通例末尾の奥付に、伝授の旨、伝系(伝授の系譜)、最初の伝授の年月日、当確伝授日等を添える。伝系や最初の伝授年月には作為等の見られるのが常である。たとえば要門流兵法では上杉謙信以来の伝系があり、謙信の伝授を伝える形式を取る類である。最も問題なのはその伝書の内容で、かつて門弟として伝授を承けた者が技術等の創見を加え、その新技術等を含めて指導する場合、その伝書は新内容の伝書となる。そのようにして新伝書は増補・改訂・改編等を経由するのに末尾の伝系は伝授年月日を存し、新伝書が当初からの形態であるかの如き体裁になる。更にかりにもし同じ流派の伝書を十余冊採集したとしても、伝授者次第にその十余冊の内容は悉く相違し、校本の作成など到底思いもよらぬことになる。それに、その伝系や伝授日を信じると、思いもよらぬ恥かしい目にあう、という仕組みになっている。ところが、小笠原流諸派のうち庶流派の中で水島ト也の門弟伊藤幸氏の家系の伝書に限って一定していることを発見した。幸氏自筆の伝書の入手によって、それは伊藤家で定めたテキストがあり、それを書写せしめ、幸氏や子孫がそれを確認して奥付を添える形式を採るためと知った。その種の伝書は稀である。奥書に著者の自筆本の書写の旨の存する場合でも注意を要する。時に、その種の記述を持ちながら複数の異本の存することが見られるからである。おそらくその第一筆者は自筆本をそのままに書写したのであろうが、以後の筆者はそれに増訂等を加えながら奥書の自筆本云々はそのまま書写するためにその種の現象の生じることになるわけである。概して、公家が政治経済上の権力を失い文化担当階層でなくなる中世頃からの公家の伝書では、その種の現象は少なくなる。言わば発育を停止したためで、積極的な活動停止、伝統的な家業の尊重の意識が強まるためということができる。近世の公家は在来文化の指導者として諸芸等で尊重されるが、実技に遠い部門では概して右の傾向が強くなる。ただし新興階層としての武家や町人が新発想によって学芸・技芸等の指導体系を拡充すると、それに示唆されて公家の家学の指導体系を新展開させることも稀に生じる。香道の御家流や放鷹の飛鳥井流等に見られる現象である。それと対比的な現象が武家・庶民層を指導階層とする伝書に見られる。これは活火山的な階層なので、それらは絶えず新創意による実技等の展開が見られ、それが伝書の内容に投影してくる。従ってそれらの伝書を調査するときにはその変遷の烈しさに絶えず気配りをさせられることになる。また、技術等の変化が言語に投影し、それが更に思考法・文化等に反映し、しかも共同体の違いによって遅速その他の差異が見られることが多い、それが近世語研究の最大の魅力ということができるかも知れない。近世での最も著しい現象は社会的細分化に伴立して、学芸・遊芸・請職等に流派が確立し、それによる閉鎖的社会が、多出し、それの言語的投影の顕著に見られたことである。たとえば近世の料理店では全ての技術者を特定の流派の関係者のみに限定したため、同一流派の料理店では上はさしみの作り方から下は野菜の洗い方に至るまで一定していたと言われるほどであり、それらの社会では全ての技術用語は流派ごとに特定されていた。そのような現象は日本独特の現象と言ってよい。即ち近世のある種の語彙では流派との相関の確認が最も重要となる。
お礼
>近世での最も著しい現象は社会的細分化に伴立して、学芸・遊芸・請職等に流派が確立し、それによる閉鎖的社会が、多出し、それの言語的投影の顕著に見られたことである。 それはつまり、オタクということでしょう。あるいは、「たとえば近世の料理店では全ての技術者を特定の流派の関係者のみに限定したため、同一流派の料理店では上はさしみの作り方から下は野菜の洗い方に至るまで一定していたと言われるほどであり、それらの社会では全ての技術用語は流派ごとに特定されていた」そのような現象は、 おそらく、性格が偏狭なだけだと思うんですね。そうか、僕は疲れていたんだ。疲れ果てて、おまけに偏狭な性格というべきか。でも、これってセットのようなものだと思うんですよ。歯みがきと歯ぶらしみたいに。あとには、磨り減った歯が残される。食事の終わったテーブル、終わってしまった花火大会、アシモフの描く未来の地球。Making good things better――いいえ、すんだこと。 こういうのって、たまらなく缶ビールが飲みたくなる。そして、缶を握りしめて泣くんです。ただ、ひとつだけ言っておきたいことがある。 ジョン・コナーは英雄だ。
補足
「幻」というご投稿からわかったのは、どうやらlttlekissさんもその胸のなかに――むろん、その胸が大きいのか小さいのかは《なぞ》ですが――小さな「自分」が、ちゃんといるようだということです。その自分を、ホムンクルス――ガンダムを動かすアムロ・レイのようなもの――と呼ぶことにすると、僕が話し掛けているのはlttlekissさんではなく、どうやら、そのホムンクルスに対してなんだと思いました。littlekissさんは、見た目には白くてごっつい体をしていますが、ホムンクルスのほうはどうでしょう? 案外、「親父にもぶたれたことないのに!」なあんて、言ったりしてるんじゃないでしょうか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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bragelonne の幕間劇です。 昭和59年出版という旧い本ですが そこからヂャワ゛語における《敬語》事情を引用して紹介します。 ▲ 石井和子:ジャワ語の基礎 1. 普通体:ンゴコ( Ngoko )語としてのヂャワ゛語 2. 丁寧体:ンゴコ語と共通の語彙のほかに クロモ( Krama )丁寧語を用いる。 3. 尊敬・謙譲語:一部の語彙として クロモ・インギル( Krama Inggil )語群がある。 4. ンゴコ体とクロモ体の中間=マディヨ語:数としてごく一部。 5. 文例 Ngoko 体・・・・・・・・・・・Krama 体 (1) Gedhang iki tak-pangan.・・・Pisang punika kula tedha. バナナ-この ぼく-食べる。・・バナナ-この 私-食べます。 (2) Radhione tak-dandani.・・・・Radhionipun kula dandosi. ラヂオはぼくが修理する。・・ラヂオは私が修理します。 (3) Gedhange ko-pangan.・・Pisangipun panjenengan dhahar. バナナは君が食べる。・・バナナはあなたが召し上がられます。 (4)Radhione ko-dandani.・・Radhionipun panjenengan dandosi. ラヂオは君が修理する。・・ラヂオはあなたが修理します。 6.語例 Ngoko 体・・・・Krama 体・・・・・Krama Inggil 体 _________________________________________________________________ ・ ある: ana・・・・・・・・wonten・・・・・ ― ・出かける:budhal・・・・・bidhal・・・・・ tindak ・起きる: tangi ・・・・・・ tangi・・・・・ ・・ wungu ・ 買う: tuku ・・・・・・・tumbas ・・・・・ mundhut ________________________________________________________________ ☆ 言語習慣として複雑であればあるほど 人びとの心は広がると言えるのかも知れないですが 必要以上に複雑である場合もあるとすれば どうなるでしょうか。 《貴様》だとか《御前》という尊敬語が 俗語に変わり果てたように言語事情は 動態的な過程にあることも重要ではないでしょうか。 現代ヂャワ゛語事情に明るくないままにてごめんなさい。 ラテン語は 言語としての可塑性を謳歌したのでしょうか?
お礼
>言語習慣として複雑であればあるほど 人びとの心は広がると言えるのかも知れないですが なるほど。脈絡なく変わるというのも、何がなんだかわからなくなりますね。むしろ、英語のwouldのように便利なものがあれば間違いが少ない。ただ、この例をみると、先に挙げていただいた3.の事例がいかに邪悪なことかというのが、わかったような気がしました。 《貴様》とか《御前》――これが、貴様君とか御前様とかのようになると大変です。あるとき、その辺に転がっていた、ただの男が、御前になった(これだけでも、重大なことだと思いますが)。それが今では、様付けで呼ばれる(なんたることか)。 様やら君を適当にくっつけてゆくと、動態的なところはうまく表現できている気がするんですが、なんだか違うなという気がします。例えば、ある天使が堕落して悪魔になる。その悪魔はめっぽう悪い奴で、めちゃんこ悪魔と呼ばれるようになった。ところが今では、めちゃんこ悪魔君と呼ばれる――という感じでしょうか。 つまり、ものの善悪が逆転している。 ラテン語ならeroの活用になると思いますが、本来、活用に任せるべきことだと思うんですよ。あるところに、ないがあった――という表現は、無用な混乱を招くだけです。 ところで、百人一首がどうして《なぞ》なんだろうと考えていますが、わかりません。それに、なんだか怪しい気がする。むかし、なんとかの暗号とかって本がありましたよね、確か。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんにちは、ri_rongさん。 ●…「清書」っていったい何? 何って? “ 清書 と 書いて 何と 解く???って? “ 清書 ”と 書いて “ 百人一首 ”と 解く――――― そのこころは? ANS.“ なぞ ” (-"-)しかるに… 「織田正吉氏の発見による連鎖」 (『絢爛たる暗号』より) http://homepage2.nifty.com/100-1/teika/HYAKUNIN/TORI/refer.htm 【織田 正吉】 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url?%5Fencoding=UTF8&search-type=ss&index=books-jp&field-author=%E7%B9%94%E7%94%B0%20%E6%AD%A3%E5%90%89 家の近くの古本屋さんから本屋さんと、三軒まわってみたけれど… 「入手不可のため注文できません。」って、 なんで置いてないんだろう?ブツブツ
お礼
おおっ、完璧に解読されていますね。ご回答ありがとうございました。そして、サポート管理の方々、お手数をおかけしました。こうして無事、回答を読ませていただけるのは、昨夜遅くまでがんばっていただいた、ひとえにあなたのおかげだと僕は思っています。お礼を申し上げます。 さて、いくつか教えていただいたことがあるのですが、 ☆ 百首の歌は言葉によって連鎖する という概要の文章に深く説かれました。同語同句の使い方には正連鎖、逆連鎖、主題連鎖という三法則があるそうです。とすれば、対義語もそれぞれに応じたものが用意されそうですね。 ところで、本が売ってない? とすれば、「絢爛たる暗号」というこの情報から、百人一首はどんなアルゴリズムで暗号化されているか、推定するしかないですね。主題連鎖というのは、公開鍵方式に近いのではないでしょうか。ひと組の鍵で、公開鍵を得る事のできる多数の人に暗号を伝えることができる。言わば、非対称の連鎖方式です。 対して、正連鎖と逆連鎖は、共通鍵方式といった感じでしょうか。裏と表、いずれにせよ一対一の連鎖方式です。とすれば、ここではブロック化とストリーム化だろうと思いました。前者は、同一語句をひとつのブロックと考えて連鎖させる。後者は、あらかじめブロックする単位を決めてその取り決めた長さごとに連鎖させるという方法です。例えば、 ○ めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月影 という、紫式部の歌の「夜半の月影」 を連鎖させる場合、全部をひとつのブロックにする方法と、「夜半」「の」「月影」というふうに分けてブロック化する方法とがある。つまり、「夜半の星空」かもしれないし「暁の月影」かもしれないということです。ふむふむ。はて、どうやら、ご回答自体が公開鍵になっているのか、と思うに至りました。 ★ 清書 ☆ というのは、ひょっとして僕が「習字」って書いたから? ○すまん。自分の質問をいま読み返して気付いた。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.6のお礼欄に反応します。 ラテン語との格闘を終えてここに来たみたら わたしがやり玉に挙がっていて《教育》のもんだいにまでされてしまいましたが わたしの感覚では こう思いました。 ○ 手本と清書 これらは 或る種の仕方で《客観》とそしてその客観に対して向きあいつつ堂々と胸を張る《主観》とである。 ☆ のではないでしょうか? アマテラス人格語とスサノヲ人間語と。
お礼
無意味だと申し上げているわけではないのです。 ★ アマテラス人格語とスサノヲ人間語 ☆ かどうかが、判然といたしません。このような書き置きがありました。 =========================== “ 清書 と 書いて 何と 解く???って? “ 清書 ”と 書いて “ 百人一首 ”と 解く――――― そのこころは? ANS.“ なぞ ... =========================== ★ ラテン語との格闘を終えてここに来たみたら ☆ どうやら解読は、サポートの方が成されている様子。《主観》も《客観》もひっくるめてです。見守るしかないのですが、こう思いました。 ○ すべては《なぞ》であると。
- littlekiss
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こんばんは、ri_rongさん。 Q.手本の対義語とはいったい何でしょうか。 A.清書 清書からもじって…清・少・納・言と、くりゃ…色見本 【日本の伝統色100色一覧】 http://www.wanogakkou.com/life/00100/00100_003_01.html
お礼
ご回答ありがとうございます。 相変わらず解読が難しいご回答で (おそらくCIAでも無理なのではないかと思うのですが)、要するに「洒落」ってことでしょうか。 手本の対義語とはいったい何でしょうか――清書。 この答えを理解する、いや感じ取る、いや空耳程度に聞いたとしても、 しばらく胸の動悸がおさまりませんでした。それで? 清少納言ですか。思わず、気絶しそうになりました。 で、けっきょく「色見本」だと? 手本と見本――これが、妥当な書き方です。No.1さんをみてください。あれが平穏な回答というものです。 安全、信頼、親切、これが日本の政治のあり方です。 ところがどうですか、「清書」っていったい何?
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.3&4&5です。 おおむね了解しておりますので 余滴のような投稿です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところで何ですねぇ、c)はちょっと手厳しい。とうぜん、成っていないという姿勢を持つべきです。しかも、d)に至っては問題のすり替えです。例えば、《ムジュン》という表記を《矛循》とか《矛順》と書く場合と、《無純》というふうに決められた場合の衝撃の度合いを僕は問題にしているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ( d )のほうは 国内向けか国際向けかで見解が分かれると考えます。イロシマでもよいし むしろそのほうが或る種の仕方で《かたち》を表わすでしょうし ヒロシマと言うべきだというのも《かたち》を持つと見なければならないと思われるからです。 ( c )は 大問題です。 こういう事例を挙げます。 ○ 《行く》なる動詞について その否定形は 三様あります。 1. 行かづ < 行か‐に(否定法)‐す 1a. 行かん < 行か‐ぬ(連体形が文の終わりに来て 終止形化) 2. 行かへん < * 行き‐は‐せぬ 〔/ s / > / h / : おまえさま>おまえさん>おまえはん>おまはん〕 3. 行かない < 行か‐なふ ・ な : 否定法の《ぬ・に》の活用形 ・ な‐ふ : 《な》の動詞化 cf. 取る > 〔未然形活用=〕取ら‐ > 〔その動詞化=〕取ら‐ふ > 捕らふ cf. 咲く > 咲か‐ > 咲か‐ふ=栄える ☆ つまり(3)が問題です。東国のことばだったようですが 動詞つまりこの場合助動詞の《なふ》が 形容詞の《無い》と混同して 後者だと思いこんだ結果 動詞の否定形は 形容詞によって担われている。という状態です。 ★ しだらない∽だらしない ☆ どころの話ではないですよ。 条件法活用(已然形・仮定形)は 行か‐なへ〔ば〕 であったはずが 行か‐なけれ〔ば〕 という形容詞の活用に従っています。 投稿は来るでしょうか。と挑発したりして。
お礼
回答はきましたが、No.7の回答を見てくださいよ。あんまりだと思いませんか? これというのも、ブラジュロンヌさんの教育が悪い。 どうして、あんなふうになってしまったのか。
お礼
>このあと どうしますか? そうですねぇ。とりあえずいったん、ここは締めます。 長らくの問い求めにお付き合いいただきまして、ありがとうございました。 前々から考えてはいたのですが、そしてここでの問いを踏まえて、いよいよ「本格小説」について考えてみたいと思います。