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「手本」の対義語
小さな頃に習字をされた方なら馴染みの言葉だと思いますが、「手本」というものは、この現代にまだ通用するだけの役割を持っているのでしょうか。そして、手本の対義語とはいったい何でしょうか。
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No.25です。 さてもさても橋爪大三郎の理論とは あいまいなまま 長いことおつき合いしてきたことか! というのが まづ口をついて出ますね。勝負あったというところでしょうか。 ☆☆ (No.25) 悪口はいわないで!! ☆ これは撤回します。自分自身が言えなくなりますから。 ★ 悟性 ☆ と聞くといつも戸惑うのですが それでいてきちんと把握しようとして来なかった。 ▲ (ヰキぺ:理性) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ スコラ哲学以来の西洋哲学の伝統では「推論・論証的能力としての理性」と「対象を把握する(understanding)能力としての悟性」とを区別するのが普通である(明晰性、妥当性は前者に、直観は後者に属する)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ カントのカテゴリですとか ヘーゲルではどうだとかまだあるようですが これだとしまして ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「かたち」が訴えるのは、存外、僕らの理性に対してではなく、悟性に対してなのではないでしょうか。 そして文学は、感性を従えたその悟性に対して訴えるものではないのだろうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いやあ ri_rong さんからこういう命題を耳にするとは!! せいぜいが 内包するものとして表現しておられることはあっても 直説法ですからね。それに ★ 「かたち」は空虚で、実の無いものです。けれども、人間には悟性の力でその「かたち」を認識することができる。 ☆ とここまで言われたなら 直観派のわたしはもう出番がなくなりますよ。 この《かたち》に一元論を当てはめる必要はないというところでしょうか。 ○ 言語一元論のもとに 社会動態を言語の現象として捉え 言語じしんによって分析しようとしている。自己自身の中で循環しているではないか。 ☆ たぶん この一元が 経験事物であるからややこしくなるということかも知れません。そうなると結局 世界精神が自己展開するとか もの自体は 触れ得ないものとして神だなに揚げておくとかといった構成の中に入るかたちへ 広げざるを得なくなる。 ひゃあーあっ 《絶対》を掲げるわたしが この罠もしくは穴に陥るとは!! ○ 《かたち》は 可塑性を持ってつねに動態である何かとして 一人ひとりが 携えているもので およそ《かたち》たらんとするならば みづからの妥当性を主張しあってもよく しかもその妥当性は むろん相対的であるゆえ ひとつの《かたち》の共同化には いくらかのものの共存ということが考えられる。 ○ この《かたち》は 生活態度のようなものである。と言えば 思想だと言えるし 広く共同主観である。たぶん 分野ごとに具体的に検討し合われるであろうし いくつか共存することも考えられる。 ▲▲ (No.25)(橋爪) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・社会が完璧な表現の空間となり 各人が 記号的生の自立をとげたとき こうした法秩序は かろうじて無化されるだろう とわれわれは考えてみたい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これはですね。虚構作品なり理論なりの言論によって 権力が崩壊するというそういう文章はあるか?――曲解しているかも知れません――というようなことを かの吉本隆明が言っていたので ずっと引っかかっていました。吉本は その作品が 仏つくって魂入れずだと思います。 あぁ おかげで卵の殻が割れて オムレツをつくれます。 このあと どうしますか?
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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ううううううううううーーーーん。No.3&4です。 まづは 質問の趣旨説明がまったく足りません。そして文学カテゴリでいいのでしょうか? このふたつの物言いをきちんとつづっておいた上でですが 同じくまづは 日本語の慣行が 散逸構造の理論よろしく慣行じたいの中で渦を巻いて来ている。これは けっして自己組織化だけに任せておける性格の問題ではない。なんとかせい。――こういう主題でしょうか? 1. 武道なり茶道なりのごとく まづは《かたち》から入れ。 2. 日本語の慣習にも あるべきかたちがあるはずだ。 3. 理屈による説明は あとからついて来るし つければよい。 4. 言語慣習の中で文法規則は 現代に到っては もうあまり変化しないと思われるゆえ それとしての《しかるべきかたち》があるはずだ。 5. 音韻変化やそれに伴なう語形変化などが見られるが その変化じたいに或る種の法則も見出され 一定のかたちがある。 6. もし慣行が乱気流をおこしているとすれば あるべきかたちを確定し共有するという道も 採られてよいはずだ。 7. 日本語使用にかんする問題をめぐって 万機公論に決すべしだ。《日本語のあるべき自由なかたちとは委員会》。 それにしても 概念・用語・視点などが 行き交っているように思います。 a) 《かたち》は変わり得る柔軟なものを思い描けばいいでしょうが 《手本》は もともと習字の模範としてのかたちでしょう? 書聖が何人かいるでしょうから 形もいくつかあるでしょうが それぞれは言わば確定していますね。《手本》は 動きという要素を含むと言えるか。 b) 《かたち》を疎かにして 《理屈なり論理なりで規範をつくる》ときにも 一定の論理は有効です。《かたち》のほうにも あと付けとして一定の論理が当てられます。おそらく 後者は 《境地》もしくは《人間論理》であり 前者は《知識の水準》もしくは《線形論理》が問題になっている。 c) ここから三項目は みみっちい議論です。《「だらしがない」には 〈かたち〉がない》と言うのなら 《けしからん←怪しからぬ=つまり怪しからず》の使い方も駄目だし 《留守←留守居=つまり家を空ける人の代わりに家に居る人》も成っていないとなる。 d) 《 ordinateur 》には品位があって 《 computer 》が品位に欠けると言っても 《 compteur や comptoir 》という語も使っている。この使い分けは 偶有的なものだと思われる。それに階級構成による秩序が 人間にとって品位あるかたちかとなれば 一概にそうは言えないのではないか。 e) ▲ 小学校での英語教育はもっての外だ。 ☆ たぶん 小さいときから 母語のほかにも言語があるのを知ること自体は 《品位あるかたち》を成すと思われる。そういう意味で英語教育にも開かれていてもよいのではないか? f) 外来語・借用語を 日本語のかたちに合ったように翻訳しておくべきだ。――賛成。 g) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さて、日本語は論理表現が可能か。ちょっと待て、僕らは論理表現を望んでいるのか? という問題を取り残しているじゃないかというのが、ここでの主題といえば主題になります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから 境地としての非線形の人間論理であれば 論理表現を迎えに行ってもよいはず。しかも 日本語は それには――世界の中で韓国語とともに一番――ふさわしいと考えられる。 h) ★ ○ 川底をさらう仕事が必要だと思うんですけど。 ☆ ですから川底には 《教師仕立ての〈かたち〉ではなく むしろ人びとの生活に根ざしたことば》が押しやられて眠っているかも知れないのでその中から 品位あるものを見直して使うようにするとよいのではないか。 i) この《日本語の自由なうつくしい発展のために委員会》の活動とともに 同時並行して必要な活動は いまの日本では やはり思想のあいまいさを放っておかないことではないか。哲学の物指しを一度当てておいた上で 両義性や多義性を楽しむという情況を望みたい。 j) 余話ですが ジャワ語は 上層と下層との言語が おもに語彙の問題として きわめて違いを持っているようです。こんなに違うのかと 互いに方言であると受けとめざるを得ないような。 * 哲学カテゴリだったはずなのに。遅いかぁ。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 ☆ まづは 質問の趣旨説明がまったく足りません。 ★ じつは狙って書いたのです。 ☆ そして文学カテゴリでいいのでしょうか? ★ 心優しい文学カテゴリーは、何でもアリなんですよ。ここは静かで良いところです。哲学カテのように、あるときいきなり、イナゴの大群がやってくるという事もない。実にさわやかです。 主題はまさにそうであり、だからこそ文学カテゴリーに残すべきだと思った次第です。おかげさまで、問い求めの良いランドマークになった気がします。どうも僕たちはこのカテゴリーの新参者ですから、先生方のご意見をしばらく待つといたしましょうか。 ところで何ですねぇ、c)はちょっと手厳しい。とうぜん、成っていないという姿勢を持つべきです。しかも、d)に至っては問題のすり替えです。例えば、《ムジュン》という表記を《矛循》とか《矛順》と書く場合と、《無純》というふうに決められた場合の衝撃の度合いを僕は問題にしているのです。 いずれ補足を付すとは思いますが、こんな感想を持ちました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.3です。 ○ 水村美苗=岩井克人 ☆ を――あぁ―― =橋爪大三郎と勘違いしてしまいました。 岩井氏は 資本主義から市民主義へ だそうです。
お礼
言語一元論とはいっても(あながち間違いではないと思いますよ)、些か楽観的に捉えられない気がするんですよね。確かに水村美苗さんの結論は、 ――日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。必ずしも日本の利益を代表する必要はなく、場合によっては日本の批判さえすべきだが、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。 こうなっているけれど、それは英語が普遍言語になった場合といういわばSFの話であって、むしろ漱石やら鴎外やら一部の特権的な明治の先人の――翻訳機械というその装置としての――役割が日本語を守る上では大事だというのを、ここでは取り上げたいと思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 いやはや――No.2お礼欄での趣旨説明を読みましたが―― 洞窟のほんの入り口を示して簡単にうさぎでも誘い出せると見せかけて とんでもない龍なんかでもかこっているのですね。 それでしたら ○ 答え:手本の対義語は 手本です。 ☆ というような禅問答になるかと思います。 水村美苗は読んでいません。新聞文化欄での随筆を読んだかも。橋爪大三郎は ほとんど全部を読むようにしていました。最近のものは全部とは行きません。まぁ 配偶者だから同じ思想だとは言えません。《言語一元論》は 或る程度おもしろいです。 村上陽一郎は いくらか読んでいますが 畑がちがうのであまり批判の対象としては捉えていません。そこにおけるこれこれの主題を煮詰めていこうといったことはなかったわけです。 藤原正彦『国家の品格』を図書館から借りて半分ほど読んだはずです。〔ちなみに 筈(弓の両端の弦をかけるところ)は はづではなく はずでした〕。たしか論旨が紋切型になってきたと感じたから止めたかと思います。 ★ 手本 ☆ といえば 《道徳規範は愚の骨頂》を連想させますし じっさいつながりもあるのではないですか? 昔に なんと言いましたか ○ 期待される人間像 ☆ といった手本が 政府からでしたか出されたのではないですか? わたしの周りは はなはだ醒めていました。その内容についてももう覚えていないほどです。 あるいは 学級ごとに一人か二人(男女ひと組) 模範生徒がおもに教師たちの側から指定され持ち上げられていたと記憶します。記憶しますとあいまいにしか言えないのは ほとんどそんな《物指し》については どこ吹く風だったからです。 誰がどう言ったから醒めていたというでもなく そういうひな型を 生徒たちのあいだに 雛人形よろしく飾っておくという仕組みには 耳も貸さなかったですね。 ぎゃくに言えば そういう教師側の意向に沿って おとなしい――しかもそういう場合には 学習の習熟度が高い者でないとまづいわけですが――優秀な生徒が 時には出てきたようにも記憶していますが 具体的にどうだったかは もう忘れ川の底に沈んでいます。 こういう思い出話とともに 現代の情況をも合わせて考えるに ○ 手本は みづからの中に 手本となるには似つかわしくない要素を持つ。 ☆ のではないかと思いました。 ○ 総理大臣は 手本であると同時に その対義語でもある。 ☆ というふうな意味合いです。 《大臣》という用語は今では 《委員》とか《係》とか言えばいいではないかと言ったら それでは値打ちが下がると言われてしまったことがありました( petite bisou さんの回答)ので かろうじてまだ 《手本》という言葉も生きながらえているかに思われます。 あれっ 文学カテゴリでしたか。どうしましょう。 龍の鳴き声が聞こえたら また何か考えましょう。
お礼
(続) お三方のなかでは藤原さんの文章がいちばんつまらん(あの人、数学者ですから)と思ったので、途中で放り出してしまう気持ちはわかりますが、《道徳規範は愚の骨頂》のように「手本」もまた、愚の骨頂とおっしゃるでしょうか。ポイっと放り出す? それとも、手本は規矩だといって突っ張る? ☆ そういう教師側の意向に沿って おとなしい――しかもそういう場合には 学習の習熟度が高い者でないとまづいわけですが――優秀な生徒が 時には出てきたようにも記憶していますが 具体的にどうだったかは もう忘れ川の底に沈んでいます。 ○ 川底をさらう仕事が必要だと思うんですけど。
補足
期待に応えていただいて、ご回答どうもありがとうございます。 そんな難儀な裏などありません。――すっかり、しだらがなくなって。こう書くと、それは「だらしがない」の間違いだろうと、断じて譲らない国語の先生に宛てつけたところはあります。すっかり、「だらしがなくなった」日本語を、あるべきかたちに戻すのが急務でしょうと、お三方は仰っているんですね。だから、小学校での英語教育はもっての外だと――こういうことだそうです。 ここにいうあるべき「かたち」というのは、こういうことです。 ご存知だとは思いますが、例えばフランスではある階級を境にして「computer」なる言葉は、決して言わないし綴ったりしない。彼らの辞書には「ordinateur」という言葉しかないからです。すなわち、外来語を迂闊に国語化しない風習が守られている。もちろん、一般人は日常的にコンピュータと口にする。 けれども、仏語としてのあるべき「かたち」は、「ordinateur」なんですね。 彼らの日常には、今でもこのような「かたち」と、そうではない「かたち」が同居しています。言語は二重化しているんですね。まるで古い時代の、ラテン語と俗語のように。この二重化は、言語だけの世界でいうと煩わしさや葛藤、ときには矛盾を伴います。けれども、その矛盾はもうひとつ大きな体系、つまり社会の階級制度を決定付けるために存在しています。 階級を前提にしたとき、言語の二重化は初めて無矛盾になる。下の階級の言語は、いかに多様化しようとも、上の属性によって仕分けられる。だとすれば、「手本」となる上の言語が対義するのは、下の言語ではなく「論理」ではないかと思うんですね。 理屈ではなく、「かたち」が押し通されてゆく世界です。手本には、理屈など要らない。理屈は手本の下について来るのです。そのような世界に対して、まず理屈があり、その理屈のもとに規範が作られる世界がある。けれども、その規範は理屈が作っている以上、矛盾を許容できない。たとえ言語という小さな体系のなかであっても、いや小さな世界だからこそ矛盾があってはならないという規範が生きているわけです。近頃の日本語は、かたちではなく、理屈に支配されているのではないか――というのが、三人の著作を読んだ僕の感想でして、したがって、手本の対義語は論理だと言いたい訳ですね。 さて、日本語は論理表現が可能か。ちょっと待て、僕らは論理表現を望んでいるのか? という問題を取り残しているじゃないかというのが、ここでの主題といえば主題になります。
- toko0503
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蛇足ですが、反面教師は「悪い見本/手本」なので、 同義語より やはり対義語に近い感じがするかと……。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 そうですね。まず、そもそもどうしてこんな質問を思い付いたのか、という点から書くべきではないかと思いました。文学カテゴリーですし。その線でお話したほうが早そうです。 直接的なきっかけは、2004年に村上陽一郎さんが『あらためて教養とは』という著作をお出しになったことです。ついで、2006年には藤原正彦さんの『国家の品格』という著作が売れた。 そして2008年には、水村美苗さんが『日本語が亡びるとき』という本を書いた。 どれか一冊でもお読みになったことはあるでしょうか。 僕は、どれもが同じ事を言っているような気がするんですね。村上さんの本は、大江健三郎さん(要するにひと世代前の日本を作った人たち)への批判から始まる。藤原さんになると、どうも僕らの年代を相手にしているらしい語り口になった。ところが、水村さんの本を読んだとき、あれっ、どうやらもっと若い世代へ行過ぎちゃった――という感じを受けました。 そしてどの作品も、論題は「日本語」についてです。彼らの頭の中には、何か古い時代の日本語があるようです。語りのなかにその像のようなものがあって、僕はそれを手本と呼びました。 そこで、冒頭の質問をしてみたというわけです。
- toko0503
- ベストアンサー率36% (886/2437)
「手本」でググると106,000,000 件ヒットしますので 多少、レトロの香りはしますが、 まだ、死語の世界に送るほどの言葉ではなさそうです。 すこし前には「見本ではあっても手本ではない」などというフレーズが よく聞かれましたね。 対義語としてぴったりくる言葉は思い浮かびませんが 「反面教師」あたりはいかがでしょう? 参考までね
お礼
むう。106,000,000件ですか、あれっ僕がやったら9,090,000件でした。ちなみに、infomationと打って検索すると8,440,000件、近そうですね。でも、ちゃんとinformationと打って検索すると、2,590,000,000件と出ます。むう。エラーの数が多過ぎますよ。 「見本ではあっても手本ではない」とは、案外、的を射ているのかも。反面教師と言われると、なんだか同義語みたいに思えてきました。でも、参考になるご回答でした。ありがとうございます。
お礼
>このあと どうしますか? そうですねぇ。とりあえずいったん、ここは締めます。 長らくの問い求めにお付き合いいただきまして、ありがとうございました。 前々から考えてはいたのですが、そしてここでの問いを踏まえて、いよいよ「本格小説」について考えてみたいと思います。