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神を信じるってどう言う意味?
よく神様を信じている人と話すと、神様を信じて祈れば救われるとか、救われたとか話を聞きますが、どうも納得がいきません。 何故なら、神様を信じていなくても、それなりになる人は多くいますし、信じていても救われない人もいるからです。 まあ、そう言うと、「神を感じた事がないから」なんて事を聞きますがたとえ、何らかの存在や感動、快感、救いを感じたとしても、それが必ず結果に表れる訳でなく「感じた、体験した」だけで終わってしまう場合も在る訳です。 そんな人、何人も見てきました。 そう言う訳で、結果から考えると、神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? そこで思ったのですが、「神を信じる」ってどう言う意味なのでしょうか?
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- worldallone
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神は象徴であって、他の人物ではないですよね。 ほかではなくあなた自身を信じる事が、神を信じる事です。
単純に、神様がおられること、働かれていることを、確信することですよ。それ以外に何がありますか。ただ神様を本当に信じている人は残念ですが非常に少ないようです・・・。
- tunami19740601
- ベストアンサー率8% (2/24)
ビッグバンを信じるってどういう白痴、地球環境が偶然自然にできたってどういう白痴、生命が海から偶然に誕生したってどういう白痴、人間が猿から進化したってどういう白痴。 『不良惑星人』『イルミナティ』『アメリカ支配層の実態』で検索し、五井昌久氏の書籍も読んでちょ。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
maimaisusさん、私ばかりが投稿しておしゃべりしていても致し方ないし、もう何も申し上げるものが私の中にありませんので、これにてkのご質問のコーナーを辞去させていただきます。 あしからずご免ください。他意はあるのではありません。 お世話になりました。
お礼
こちらこそ、長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。 かなり、話は脱線しましたが、貴重な意見として、参考にさせていただきます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
maimaisusさん いろいろ人の話を聞いたり、議論してもあまり意味がないような気がしますが。 無論、直前のかたのご回答はそうだろうな、とよくわかり有益ですが。 所詮は自分で食べ、身にすることですからね。 学術ならそれはそれでいいのでしょうが、人間の所為としては意味性がないように存じます。 今、他の質問の他の方の回答で読み下しをしてみました。 いいなぁと思うのは、論理でもないし、他人でもないですね。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5769798.html 舉目時時似故園,郷心自動向誰言 白雲曉濕寒山寺,紅葉夜飛明月村 震澤風帆歸橘岸,錢塘水府抵城根 羨師了達無牽束,竹徑生苔掩竹門 目を舉ぐれば時に故園に似たり 郷心自ら動じて誰(た)れにか言わん 暁には白雲し寒山寺を濕めし 夜とともに紅葉は飛び明月が村に 震澤の風が橘岸に帆歸せしめ 錢塘水府はこの町城の根の辺りならん 羨むは師 俗の牽束を出で了達 竹徑は苔むし 竹門を掩う
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
No.76のお礼欄へ それを正しいと、確信は出来ても。実際、それを正しいかどうかは分からないとかって考えないのでしょうか。【最初は自己の頭の中の納得的論理と雄弁な文章で正しいという確信でした。だから、当然にそういうものが機能している間は確信できるというものでした。当然に正しいかどうかを考えてのことでした。それから進歩したかどうかは分りませんが、その最初の時期とは異なる状況です。正しいかどうかは常に判断してのことです。実際に内容をその意味において知ることが肝要ではないでしょうか?どんな間違いがあるか、嘘があるか。本当か。一つ一つ検証してみてはいかがでしょうか?実は信仰もしていないし、真剣に存在を考えてもいない。その必要がありませんので。】
- nanakachan
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キリスト教徒の者です。 私の考えですが。 神を想像上の人物だと考える人もいれば、真剣に存在すると 考える人で考えが分かれる場合もありますが、 どちらにしても、神は心を支えてくれるような存在なのだと思います。 いるか、いないかはあまり関係もないのです。 「神を信じれば救われる」ですが信じるというのは、神はいると 信じるという意味ではなく神の教えや、神が伝えたかった事等、人をすぐ恨んだりしないように(説明おかしいかも)してほしいという願いを聞いてほしいという意味なのではないでしょうか。 救われるというのを皆さんは現実的に考えすぎだと感じています。 きっとそういう方は救われるというのは金持ちになる、エリート会社に勤める などと考えておられる方だと思います。 例えば、家も子もなく食べるものもない人がいて、道端で死んでしまう事がありますよね。 でも、その時に自分は罪人だ、とか自分を責めるようなことを思い死んでしまえばその人の心は一生沈んだままだと思います。 しかし、神は罪人であろうと誰でも愛してくださって、こんな私でも神はみておられるのだと考えればその人の心は癒され、一生、生き続けると考えております。 この文ではすっかり理解はできないかもしれません。 私は神を信じろとかそういうことではなく、キリスト教徒の思い等 少しでもわかっていただければと思いました。
お礼
回答ありがとうございました。 時間がありましたら、他の方の回答も、読んで見てください。 結構、面白いやり取りが、あると思います。 正直、私も個人的には、神様居ても居なくてもあまり関係無いです。ハイ。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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人間は物質として存在している以上、その影響下にあるわけで、それを超越となると・・・。どお言ったプロセスで?【『人間として自分と世界を知覚・経験している存在に到った状況』といいなおすとより正確な判断ではないかと存じます。それはそう到ったプロセスを自己分析し、それを遡る事がいいのではないかと存じます。私自身は、パタンジャリの八段階や、Self-Realization Fellowshipの英語のレッスンを修してきました。その他にも人それぞれにあると存じます。Self-Realization Fellowshipはハイパーリンクを削除しておりますが、これをサーチすれば訪問できます。ご不満の残る応えではありますが、その人自身の存在の根源に関る事で、核の部分は避け、おん自からホームページをご訪問されることをお薦めします。】
お礼
最初に謝っておきます。 すいません。 この、お礼欄の私の返事に、感情は一切持ち込まないで目を通してください、何故なら私も、krya1998さんの回答を見る時は、そうしているからです。 なので、その返事は、良い意味とか悪い意味は全くなく、率直な包み隠さない言葉だからです。 ふ~ん、それを基準に考えているんだね。 って思いました。 それを正しいと、確信は出来ても。実際、それを正しいかどうかは分からないとかって考えないのでしょうか。 何度も言いますが、感情は抜いて、受け止めてください。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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一寸時間が、開きました、すいません。【私も長男で、83の姉や68の妹、そしてたくさんの甥姪、その子どもたちが墓参りから、漸く帰ってくるときです】 んー、そこに到達するには、色んな過程や、形があっても、いいと思うのですが、今、自分に有るものを使ってと言うと、そう言う形になると言う事ですが、多分いえ限りなく絶対に近くそこには、到達できないと思ってもいるのですがね。【そういうお考えはそれでいいと存じます。しかしそれで済ますことが是認されるものでもありませんでしょう。そういう事情(事実)はそうであるが、事実だから、仕方がないのだからというのは、正当化根拠には為りえない。精神主義のようですが。ヒンドゥの哲理に無理な課題はない。実践的です。蛙の話がよく出てきます。知性と演繹、理論で歩いてきた二匹の蛙が岸に着いた。此岸です。一匹は『この河を渡らなければ、(神たる)人間としての仕事が終わらない。行かなければならない』という。もう一匹は『やめとけ。急流に自己を失い、流されて、没するか、どこかの知らぬところに行ってしまうかだ』という。『いや、いかなければならない。流される事は考えない。結果は分らない。行かなければならない』という。つまりはそれは選択でしょう】 今の、人間にはそこに行くための、体制が出来上がっていないからと思うからです。科学では世界の分からない事の方が多いし、人間は、感じられる世界が、今の段階では、これまた狭すぎるからです。【体制にしろ条件にしろ、大勢にしろ、狭い知覚力にしろ。そして私はここまで来て何度も進む事をやめて、曖昧性の中に流れてしまった。敢えて河に入ったのは、40年以前ちょっとでしかありません】 人は、感覚を磨くためには、思考が邪魔になるし、考える事を優先させると、感覚の過ちや悪い部分が見え、それを(感覚)を信じなくなりがちです。【ここでmaimaisusさんが使っている“感覚”ということばで指しているものが少し理解できる気がします。仰せの感覚は、五感での世界構成の感覚とは違う、思考の上のそして理解という区分・分別的個別化機能の上の機能と思われます。それは人間の起発的原点で、私たちはそれをマナスといいます。創造者は太陽神に光、叡智(霊:意識)を伝え、太陽神はこの人間本性たるマナスにそれを伝えて、そのポイントから肉体機能となってきています。】 まれに、超の付く職人がいますが、そう言う人たちは、感覚か思考どちらかが秀でていて、片方をそれに引き上げると言う形を良く見受けられます。【修飾語の超では仕方ないが、その線引きは非常にきわどいものです】 人間の、この世界での位置関係は、まさに、物質と物質化していないしない(陰性の力)の接地点であり、陰性の力を物質化させるための、変換機に近い存在だと私は考えています。【少ないことばですが、私なりに理解し、正に仰せの通りと存じます、と表明します】
補足
私の言う多角感知とは、広い意味での、認識・理解の事です。 そーですね、目の前にある車があったとします。 車を知らない人がそれを見たら、そう言う形をした物質としては、認識できますが、どう言うモノかわかりません。 私たちが見たらどうでしょう、車の存在理由も目的、扱い方車種なども分かるかも知れません。 しかしその車の、中身の構造は、大雑把には理解できても、何がどのようになって、そうなるのかは分かりません。 おそらく、それを造っている人たちも、より詳しいと言うだけで、完全に全てを理解できる人はいないと思います。 その車を100人の人間が見たとします、そうした場合、100通りの見方(認識の仕方)があるわけです。 それは、車を買った人かもしれません、造った人かもしれません、使っている人かも知れません、ただすれ違いで見ただけかも知れません。 ある人には、それは鉄くずですし、ある人にとっては素晴らしい道具であり、ある人にとっては空愛着の的であったり、お金儲けの材料と言うこともあろうかと思います。 単純に、前から見た、横から見た、後ろから見た、それも認識。 まだまだ沢山の見方があると思います。 それらを同時により多く把握(物質・構造・形態・その他もろもろ的に)する事を言っているのです。 さらに時間軸や世界構造を考えると、より複雑ですよね。 しかし、人間は物質として存在している以上、その影響下にあるわけで、それを超越となると・・・。どお言ったプロセスで?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.73:書きき忘れの補足 No.73で提題した知的追求として存立しうる提題であると、それはあくまでも此岸界(スローカ)における知的課題だと存じます。 そういうものは一定の解決を必ずしも求めているものではないともいえると存じます。 知的な思考の世界とその操作に始まり、その継続をDroste的に継続していくものだと存じます。 それは又一つの好事(こうず)であり、人間の趣味のの一つであるのでしょう。 でもその趣味に共鳴しない者たちには、閑びとの遊びに見えることもありましょう。 maimaisusさんのこの提題が仮に更に精錬されて、そういう人間的知的追求のものとなったら、閑びとの遊びと見る人も、面白いパズルとして楽しめるかも知れませんね。 今の提題だと、何か身に引き寄せて対象としなければならないかのような、切実性が伴うので、私のような者がのこのこと出てまいりました。
お礼
一寸時間が、開きました、すいません。 んー、そこに到達するには、色んな過程や、形があっても、いいと思うのですが、今、自分に有るものを使ってと言うと、そう言う形になると言う事ですが、多分いえ限りなく絶対に近くそこには、到達できないと思ってもいるのですがね。 今の、人間にはそこに行くための、体制が出来上がっていないからと思うからです。 科学では世界の分からない事の方が多いし、人間は、感じられる世界が、今の段階では、これまた狭すぎるからです。 人は、感覚を磨くためには、思考が邪魔になるし、考える事を優先させると、感覚の過ちや悪い部分が見え、それを(感覚)を信じなくなりがちです。 まれに、超の付く職人がいますが、そう言う人たちは、感覚か思考どちらかが秀でていて、片方をそれに引き上げると言う形を良く見受けられます。 人間の、この世界での位置関係は、まさに、物質と物質化していないしない(陰性の力)の接地点であり、陰性の力を物質化させるための、変換機に近い存在だと私は考えています。 詳しく書くと、とても書ききれなのでここまでにしておきます。 どう思われますか?
お礼
どーも、こんな古い質問に回答頂きありがとうございます。 そーですね、単純に、確信できれば良かったのですが、それが出来ないので、この質問を立てたんですけどね。 仮にいるとして、考えるならば、どの宗教にも属せません。 究極の選択を迫られるなら、仏教系かな。