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神を信じるってどう言う意味?
よく神様を信じている人と話すと、神様を信じて祈れば救われるとか、救われたとか話を聞きますが、どうも納得がいきません。 何故なら、神様を信じていなくても、それなりになる人は多くいますし、信じていても救われない人もいるからです。 まあ、そう言うと、「神を感じた事がないから」なんて事を聞きますがたとえ、何らかの存在や感動、快感、救いを感じたとしても、それが必ず結果に表れる訳でなく「感じた、体験した」だけで終わってしまう場合も在る訳です。 そんな人、何人も見てきました。 そう言う訳で、結果から考えると、神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? そこで思ったのですが、「神を信じる」ってどう言う意味なのでしょうか?
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.72 言述した内容は客体対象、つまり間主観存在ですから、それを発した人とは別の存在です。 それを以って、間主観的に理解され、それぞれにおいて内容構成がなされます。 伝わっていないという言い方ははなはだ公正性を逸脱するものであるという言い方も可能だと存じます。 それはともすれば、受け取って内容構成という理解を一生懸命したものを罵るものだともいえなくもありません。 しかし、私の謂うところの河に入る仕方が、所謂る知的学問としての、その分野としての哲学からは、“思考停止”の起点であるということはありえます。しかし盲目的ということではでありません。 信仰ということでもありません。そういう追求の仕方と分野があるというご紹介です。 従って固執をしていませんが、maimaisusさんやご回答の皆さんの言説は私の側からは満足しかねるものです。 知的分野としても、私はもっと異なる提題を求めます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.71 誠実に、とらわれない多角的な広い見かたと判断、そして思索。 これは大切な事でぜひともご継続されることをお薦めします。 これは地道で、素晴らしい。 哲学のカテでは雰囲気やそんな風情に酔っているような質問や回答もあるかのようです。 柔弱な私も一応はそのように歩みましたが、此岸と彼岸を隔てる大河に到ったからのことであります。 この大河を自己を偽ること、放棄することなく意識を以って自己として渡河できるか。 これを課題にして、敢えて河中に入ってきているのです。 射倖やヘリコプターで省いたやり方はどなたにもお薦めできません。 もし私がそういう安易な仕方に堕落したら自殺行為です。 実をいうと結論も到達点も知りません。 そして道もありません。求め、歩くから道になる。ということで自分の道でしかありません。 どうぞこのご質問で私が道について投稿した部分もご斟酌してください。 技法体系はあります。しかし自分で歩くしかないのです。 グルや信仰に対してはいつも反逆と分派、異端です。 これは求める者としては、当然の宿命です。 他力ということのない自力はありませんが、他力の他は他人ではありません。 思索、論理、そして知性と理性、広くとらわれない多面的な態度が要求されるのは私たちも同じです。 しかしそれを越えることも必要です。 人間の有してきている機能や能力を否定したり、無視する事は絶対に許されませんし、誤りとなります。 盲目的になることを強制したり、感覚や思考を抑える事は不当です。 しかしそれにもとらわれない事が必要であるということです。 宇宙と人間の生成と構造は五感活動や思考の範囲以外のこともあるということを認める事は、思考や五感活動を否定する事ではありません。 投稿させてきてくださった事を感謝し、私の言い訳を申し上げました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.70 【・・・何か、山登りヘリコプターでするとか、宝くじ当てて金持ちになるみたいな、話に聞こえるのですが。】誤解をさせる表現です。真意が伝わり難い表現です。 山登に人の力を借りません。自己も出ます。裸の存在です。宝くじなど射幸は関係ありません。金持ちにもない、無所有です。 【まあ、そこは本人の自由という事で、私は地道に山に登る事にします。】思索はかのジェームスが地道に歩く甲虫と自らを表しています。それはそれで大哲学者ジェームスの場合は妥当します(倉田さんの愛と認識との出発から)。しかし私たちもむろん地道に歩いております。当たり前です。到着しても更に歩きます。 【私は、頂上に興味があるのでは無く、その山に興味があるのですから。】頂上に着かない人が頂上に興味がないのは当たり前です。 【やっぱり、文才無いですな、一番分かってほしかった部分が通じてない見たいです。】ご謙遜ですか?美化ですか? 通じないのは私の理解力、思索の不足ということでしょうか?何故通じる工夫をしなかったのか。 今何故そんなことをいうのか。文才などは人と人のやり取りでは無用で、ことばと心と内容があれば通じます。 自己の合理化でしたらそれを捨てる事だと存じます。 そんな合理化ではなく、私の思索が追いつかなかったのであれば、しょうがない人が出てきてしまいましたね。 同じ波長とレベルになれなかったのですね。 思索をする人ならば、理性があればことばを以って、悪魔にも通じるように表現するものです。 文才の問題などでは全くない、というのが私の判断であり、私は貴方の仰せの事は少なくとも表現されている事は理解した。 だからこそ、素晴らしいと思って、拙い投稿をしてきた。 貴方を理解し、素晴らしいと思ったから。 だから投稿したのです。 通じなかったという言い方は私には受け入れかねます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.69 【回答頂き良く分かりました。】ということで、krya1998はここでお暇を頂きます。 【学が無いので、過去の偉人の教えや、書物の引用とかできなくて】学がないのが私たちの一番大切なことで、私も無学を誇っています。私の場合に限れば、偉い人の教えも書物の引用もたいしたことをしているものではなく、自己流の拙い紹介でした。 【なので、私は、自分の言葉で話しています。】誰しも自分のことばしかありません。 特に【感覚中心の悟り系ですね。】についていえば、私たちは感覚と知識、そして推論や思考を人間や宇宙の機能としては、つまりやり方としては最も低い、粗雑なものとして捉えています。そして悟りは誰が悟るのか。私たちは悟りというものを蹴っ飛ばしていきます。直踏という偈がありますが。似ています。寧ろロマン・ロラン『悩み、闘い、そして勝つであろう自由なる魂たち』という言い方にちかいものです。 【なかなか、文才が無いので上手く伝わなくて申し訳ないです。】伝わっているから、お応えしてきたのです。文才などは無用です。気持ちです、本心です。古代の洞窟から様々の絵が発見されます。鋭い刃先で刻んだ絵はその人たちの心性を伝えます。伝えることばはその人の心の状態を伝えます。思考でのことば、そういう次元の人を伝えます。 【言いたかった事はですね、様は、より多角的に、認識・思考する事が必要。】そう思うならそうするのでしょう。でも思考や多角的認識や知識・知見では、哲学という分野では問題の外だと存じます。だから、半ば遊びか論理遊戯が占めているなこのカテは無意味だと存じます。 【確かに、私もkrya1998さんの文章で勘違いしていた】というより、、、、。 【回答頂き良く分かりました。】ということですので、この界から意識と生命を引き上げます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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maimaisusさんが、該博なお知識からご指摘されると存じていました、回答番号:No.66の日の下に新しきものなし。ですが無論孔子が引用している大学では 『日に新た為り 日々に新た為り 允に日々に新たなり』がありますね。私たちのことばでもメタフィジカルでは、主の下には主の知らない新たなるものはない、となります。 大学のこともエヴァー・ニューといい、永遠の新たであり、同じ存在です。 観 世阿弥も『初心不可忘却 時々初心不可忘却 老後初心不可忘却』といっていますが、これは永遠の新たの人間的精進の場面だと存じます。 私たちは人間的フラリティは無論、是認はしておりませんが。
補足
いやはや、学が無いので、過去の偉人の教えや、書物の引用とかできなくて、すいません。 なので、私は、自分の言葉で話しています。 なかなか、文才が無いので上手く伝わなくて申し訳ないです。 言いたかった事はですね、様は、より多角的に、認識・思考する事が必要。って事だたんですけどね。 なので、私の文章も色々な角度から考えて頂けたらとも思ったのですが・・・。 そう言う意味合いで、「ある意味」とか「話が脱線してますね。すいません。」とか「気を悪くしたら申し訳ありません。」って書きこんだですけど・・・。 確かに、私もkrya1998さんの文章で勘違いしていた点も多々ありますね。回答頂き良く分かりました。すいませんでした。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.67 見苦しい修正をします。 (こういう理解をしている学者や専門の方はおられないようで、私としては老子が泣いているのではないかと存じております)⇒修正: (『道徳経』http://www.geocities.jp/ixtutou144/rousia.htm より 道徳経のこのフレーズを上記バガヴァッド・ギータの拙訳と共通の意味と理解している学者や専門家には未だお会しておりません) なお、上記バガヴァッド・ギータの拙訳を展開すると、信仰は神を存在させるということになります。つまり、人間存在が神を存在させる。マルクスたちの人間の投影とか、投射ということにもなります。 しかしギータのいうことは、一なる神の多なる顕現ということであり、人間は神だという意味でもあります。 信仰、そして人間ということの意味がキーではありますが。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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○感覚中心の悟り系ですね。 <全く違います。正反対もいいところです。まさか私を怒らせる積りでこんなことを仰せではないでしょうね。全く逆です。> ○何処まで進んでいるかは分かりませんが。 <私が進歩しているかどうかですか?> ○因果律つまり「とらわれ」を超越させようと言う目標があるのなら、感じると同等に理論的な理解が必要ですね。超越とはある意味、理論を理解し「使いこなす」と言う事ですから。 <誤解と独断に存じます。全く何も理解していない。> ○何でもそうですが、「とらわれる者は失い」、「使う者は力をふるう」と言う事ですネ。 <問題の外の事項です> ○そうそう、神と人間の最も違うものの一つが、「多角感知」ですね、千手観音とか見ると良く表現されていますね、より多くの角度から、物事を見て感じて干渉できると言う事でしょうか。 <これも問題の外のことです> >因果律の超越は神自身と同じになることですので。は、 ○因果律を超越してみないと、同じかどうかは分からない様な気がするのですが。 <そう申し上げました。文脈と流れの中でどうが真意をご理解ください。多分そんなコメントがあるだろうと存じておりました。> ○だって、それじゃあ人間造った意味無いような気がするんですが、考えすぎですかね。 <maimaisusさんのなさる、理屈をいいますが、これは理屈ではなく真実実在です。『神は究極ですから、神における意味や目的、価値や理念を慮ることは、神のことではなくなります。神は究極根源の意味、目的、価値です。だからガンガをつけくわえています。』> S elf-Realization Fellowship出版のバガヴァッド・ギータをご拝読賜れば、疑問にお答えしております。 なお拙訳ですが、関連の一部をガンガに加え、更に付け加えておきます。どうぞご参考に。 老子の道徳経も拙訳とともに付け加えておきます。(私は論語を若い頃少し勉強し、今も大事にしててきておりますが老子は初めてで不慣れです。私流の理解ですが関連している事を言っていますので) 【バガヴァッド・ギータの一部】 思考により到達していこうとする人は、≪神とは≫と切り出し、神は無限で非人格的、非人称で、限定しえないし、人格化もされないなどと演繹し断定している。この把握認識は神の全能性を制限するものである。人に不可視の二酸化水素も蒸気へ、水へ、そして氷へと凝縮する。神という非人格的至高霊、宇宙意識も自分を物質化して、大いなる光へ、あらゆることばでの叡知の声へ、望みの形・ありようへ、そして具体的人格存在の人体へと物質化している。要するに神は単に≪無限で非人格的、非人称。限定も格化もしえないされない≫のではない。≪超越的・超物質な神は最も具体的・具象的で、物質の本体そのものである≫ 超越者が主・ヒマラヤとなって、ヒマラヤに源させて発したガンガは細流を併せ呑んで無数の河を拒まざる大洋にいたる。 <道徳経の一部> 道可道非常道 道の道とすべきは常の道に非ず。 名可名非常名 名の名とすべきは常の名に非ず。 無名天地之始 天地の始めに名無し。 有名萬物之母 万物の母には名有り。 故常無欲以觀其妙 常有欲以觀其徼 故に常に無欲にして以て其の妙を観 常に有欲にして其の徼を観る。 此兩者。同出而異名。同謂之玄。玄之又玄。衆妙之門。 此の両者は同じく出でて名を異にし 同じく之を玄と謂う。玄の又た玄、衆妙の門。 (こういう理解をしている学者や専門の方はおられないようで、私としては老子が泣いているのではないかと存じております))
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.64と回答番号:No.65 maimaisusさんが私の上記回答投稿に書かれている事は私の見解でもありました。特にNo.65での『宗教が教える救いなどとはかけ離れた別の意図がある』と仰せ事は今、正に私の見解です。 かれこれ40年ちょっと前までは、(真摯な)非精進者で論理と知識(情報・経験)が大切な方法でしたから、No.64でmaimaisusさんが書かれていることと全く同じ事を考えていました。 だから哲学であり、禅宗であり、文学であり、中国の文化でありました。 傍ら、ちょいとした契機で、元皇族で陸軍大将であった方のオーソドックスなヨガ(私自身はそこからハタヨガのことしか受け取りませんでしたが)の組織に入りました。 それからラージャのヨガひ必然的に入り、今の精進になってきております。 心身上の素晴らしい効果に引き寄せられ、継続してきたわけです。 動機は卑俗なわけです。いえ精力がどうなんて事ではないですが。 そういう中で、No.64でmaimaisusさんが書かれていることと全く同じ事は、自分がここにいるに到る因果プロセスを出る、超越する事で段々氷解してくるものでした。 これは経験ですから、どうしてもお伝え出来ません。 各人の内部での経験で、ことば表現は無理です。 上記の経験とともに世界の因果律を出る。 そして価値理念的思考や、志向を終える。 とことんいっても終わらないが、とことんいく。 そして行き詰って空想や理念構想ではない究極価値にいたる。 そして価値理念志向と思考を終了する。 そういう中で自己として、氷解していく。 ではご質問に何か答えられるか? はい仰せのとおりですという答えです。 でも神に『さぁて、君の事はどうも思い出せないね。しらない人だなぁ』と、殆どの人の状態ではないでしょうか。 矛盾ではないのです。でも神は全知全能です。 このことは自分のそこにいることを知ることで分る事です。 ★神がいるとすれば、宗教が教える救いなどとはかけ離れた別の意図 その通りと存じます。宗教が教えていることと神の意志と意識は懸隔絶しております。 神は超越しております。人間がどう考えようが、宗教がどうしようがそれに影響されやしません。 しかし神は常に人間と創造界を考えています。 禅宗でも言うじゃないですか。 曹洞宗は不言只管打座ですが臨済宗ではあるでしょう。 先師も仏、教えも蹴っ飛ばせってね。偈っていうやつです。 罪なき乙女や善男善女の宗教や信仰とはかけ離れています。 そしてまた、ガンガの如くヒマラヤから大洋に到ります。 その間には細流を併せ呑んでいきます。 大洋はたくさんの河(川ではなく)を入らせ、拒むものはありません。 そういう構造ですので、歴史の状況も多々ですが日の下に新しきものはないというのもその前からのじっさいでしょう。 拙いお話で、核心を避けていますが、それは自己の臓物を曝け出す慎みなさは慎みたいからです。 露出にかまわない私も、それは踏みとどまります。 それに何よりも貴兄様のご自身の内部的納得がだいじなことですので。そして貴兄様のご疑問とご見解は、今もなお部分的に私の疑問と見解です。因果律の超越は神自身と同じになることですので。
補足
ラージャのヨガですか。 感覚中心の悟り系ですね。何処まで進んでいるかは分かりませんが。 因果律つまり「とらわれ」を超越させようと言う目標があるのなら、感じると同等に理論的な理解が必要ですね。超越とはある意味、理論を理解し「使いこなす」と言う事ですから。 何でもそうですが、「とらわれる者は失い」、「使う者は力をふるう」と言う事ですネ。 そうそう、神と人間の最も違うものの一つが、「多角感知」ですね、千手観音とか見ると良く表現されていますね、より多くの角度から、物事を見て感じて干渉できると言う事でしょうか。 おっと、話が脱線してますね。すいません。 しかし、 >因果律の超越は神自身と同じになることですので。 は、因果律を超越してみないと、同じかどうかは分からない様な気がするのですが。 だって、それじゃあ人間造った意味無いような気がするんですが、考えすぎですかね。 気を悪くしたら申し訳ありません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.64 さすがに論理演繹のせかいですねぇ。 正に仰せのとおりですね。 全知全能の神、万物と森羅万象がその意識の中にある神。その意識の知らない事ってないのでしょうね。 さぁ、このクリヤはなんて応えたら言いのでしょうね。 そうですね、すみませんって、すごすごひっこみましょうか。 それでmaimaisusさんはなんだそうか、でいいですか? さぁどうしましょうね。 あのバプテスト教会の聖者はどうでしょうか? まぁ、maimaisus様の行司軍配にお任せでしょうかね? 【私やあなたの犯した罪は同時に神が犯した事になると言う事ではないでしょうか?】 これは実はそうなんですけれど、本当にそうだといえる意識存在って自分を神にした人なのではないかと。・・・・ 無論、神は全て知っており、すべてが自分であるのですが。 私が書くのはそこまでにしておきましょう。
補足
・・・なんて言えばいいか良く分かりませんが、この「神を信じるってどう言う意味?」の質問は、言い換えれば、今の世の中色んな宗教がありますが、今ままでの信教の形では、駄目なんじゃあ無いの?バランスが悪いじゃ無いの? 世の中の流れに合った、形でないと根幹から崩壊してしまうで無いの? ってことを、言っている訳です。 たとえば、「神は全て知っており、すべてが自分であるのですが。」を軸にして考えれば、聖書の教えをただ見た通りに受け取るのは、正しい解釈とはとても思えません。 ユダはキリストを裏切った、とてもそうは感じません、むしろ、そう仕向けられた様にさえ私には受け取れます。何故なら、私がキリストならそんな予言はしないで、そうならない様にするからです。 わざわざ、これから罪を犯させ、それによって苦しみを味あわせると言うのもどうかと・・・。 って事で、もし神がいるとすれば、宗教が教える救いなどとはかけ離れた別の意図があると考える方が、自然なのではないでしょうか。 なので、神と神を信じると言う事は別なのではないか?と言う質問をしている訳です。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.63 源氏の武将、那須大八郎は頼朝の命で、落人の里椎葉に向かい、一つの世界に足を踏み入れました。 契機が鶴豊姫様との出会いでしょうか。 これが出会いとなるに当たっては武将大八郎の側にもそれなりの生成経過があるでしょう。 頼朝の世界、椎葉の世界。どちらも此の世の現象界。 鶴姫との短い生活は楽しかったでしょうか?一瞬の夢。そして又夢の中に、頼朝の世界に戻る。 何か不合理なるガゆえに信ずる、などという西洋の思想家ちうか哲学者がいましたね。 西洋人は所詮は浅智恵、文殊菩薩がせいぜですね。此の世処世の小賢しさ。 現象とは、影。影は光と客体があるのが前提。 ものの世界でも、物を越えた世界でも。宇宙の原理は相似ですからね。 私たち現象は実体の写し、結果、客体内容。 信じようが、認識(知識や情報としてではなく)しようが関りのないことです。 椎葉にいったのは大八郎ですか?そう思いますか。 maimaisusさんは誰ですか?名前ではなく。 そういう次元のそれだけのことですね。 私たち(Self-Realization Fellowship)に教義はありません。 自分の存在だけです。それを深める原理と技法の体系です。 道はありません。いくことが道となります。 みんなが行き交う広い道ではなく、自分の狭く、真っ直ぐな道です。 剃刀のや刃のような。右と左を分けて通る、刃の上をいく。 原初のヒンドゥのものはそんなものです。 ないところを探し回ってもないのは当たり前です。 信じてもそれはない。では。あるところにあるか。 偈にいう直踏、同じ意味を別の言い方ですが、吹毛の剣。 神は、科学には在りません。理知の世界では。 信仰にもありません。盲目ではない信仰にもありません。 議論やお話ではありません。 行くところにあります。 天の岩度は天照が隠れたのか。 違うでしょう。天照という自己の存在が全てを覆い隠してしまったのでしょう。 日食は太陽が隠れたのか、隠されたのか。 反対ではないでしょうかね。 最初から申し上げているように、この質問は意味性が薄弱です。 どなたかに、maimaisusさんが罪ってなんだ。と聞いていました。 相手は相当怒っていますよ。馬鹿な奴だと。 でも、バプテストの方がどう答えるかが、私も楽しみでした。 そしてそれが唯一意義のある、お応えと再質問でした。 このmaimaisusさんの質問の中で。つまり中心の問題ですね。 罪って神に知ってもらえない事です。
補足
>罪って神に知ってもらえない事です。 どうでしょう、神に知らないことなど存在するのでしょうか? この世界を神の一部として考えるならば、あなたの考えていることも、私の考えていることも、神の一部であり「知らない」と言う事はありえないと言思いますが。 そして、それを前提に話を進めると、私やあなたの犯した罪は同時に神が犯した事になると言う事ではないでしょうか? もし神が、罪を犯さないと言うのであるならば、私たちも罪を犯していないと言う事になります。 そしてその逆もしかりです。 では、その事を踏まえて、罪とは何?と、考えてみるとどう言う答えになりますか? と言ってもこれは、あくまで正しい答えを見出そうとする見方の一つなので何とも言えない部分もあるのですが。
お礼
・・・何か、山登りヘリコプターでするとか、宝くじ当てて金持ちになるみたいな、話に聞こえるのですが。 まあ、そこは本人の自由という事で、私は地道に山に登る事にします。 私は、頂上に興味があるのでは無く、その山に興味があるのですから。 やっぱり、文才無いですな、一番分かってほしかった部分が通じてない見たいです。