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京都六条河原の刑場について。

京都六条河原には、刑場がありました。 当時の面影は、残っていません。 河原町正面の「渉成園」には印月池がありますが、 池の東の方に、慰霊碑があるのを発見しました。 この慰霊碑は、「渉成園」が出来る前から、 同じ場所にあったということですが、 もしかすると、当時の六条河原の刑場を隠すために、 「渉成園」が建てられたという可能性は無いのでしょうか? 「渉成園」には塩釜などもありますが、 塩とは穢れをお清めするものですよね。 刑場にお塩は必要だと思うのですが、どうなんでしょうか? 宜しく御教示くださいませ。

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  • kjr1390
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回答No.2

訂正 鴨川の西側です。

kamomioya
質問者

お礼

ありがとうございました。 河原町五条の西側に刑場があったのですね。 会津小鉄の事務所の方でしょうか? いわゆる、五条楽園というところが刑場だったのでしょうか? 文献を読んでみます。

その他の回答 (1)

  • kjr1390
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回答No.1

六条河原の刑場は明治初期まで存在しました。六条村については「諸式留帳」が活字化されていますので、研究者になるつもりなら読んで見ればよいと思います。 六条通りは現在の六条通りとは違います。平安期の地図を現代に当てはめますと、おおまかですが、現在の五条河原町付近、鴨川の東側と比定できます。 渉成園の慰霊碑は存じませんでしたが、(何度か行ってます)園が作られた時に慰霊碑が建てられたとは考えにくいですね。(罪人を慰霊することは無い筈) 塩釜は平安期に源融が作った大邸宅「河原院」に祀られた塩釜神社の歴史を引いているものです。源融は難波から海水を運ばせ、海水を煮詰めて塩を作る時に発生する、薄紫の湯気を楽しんだもので、清めの塩ではありません。 源氏物語に出てくる光源氏のモデルにもなった処です。なお、五条富小路付近にある某寺院にも塩釜の跡を伝承する社が祀られています。

kamomioya
質問者

お礼

ありがとうございました。

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