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鎌倉時代は北条高時で終わる訳では無いのですか?
歴史の得意な方よろしくお願いします。 北条政権の鎌倉幕府は高時で滅亡するのかと思っていました。高時は闘犬と田楽にふけっていた暗愚で有名です。 今日、北条家の系譜を見ていて気になりました。高時のあと守時や貞顕などがいました。 高時は北条家の中間の執権でしか無いのですか?
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- alpha123
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高時が暗愚だったかは知りません。鎌倉幕府打倒派から見ればあまり立派でも困る(反乱する理由がない) 高時は執権辞職します(24歳)。後継に実子邦時を推す勢力と弟の泰家を推す勢力がもめる。3月には金沢貞顕が執権に就任するがすぐに辞任し、4月に赤橋守時が就任することで収拾する。 朝廷派による鎌倉侵攻受け高時が自刃するのはもっとあとです。31歳 (500人くらい殉死したらしい) 源氏直系が途絶えたあと朝廷との関係では、北条氏は反乱起こした上皇を流刑にするだけの力あった。 将軍にならなかったのは出目(地方豪族に過ぎない)、秀吉も関白になれても将軍になれなかった。家康は家系図細工し、源氏の嫡流という建前らしい(^^) 朝廷から見れば平家も源氏も大統領警備隊みたいなものです。用心棒が将軍と言い出しては他の地方豪族が従わないでしょう。 北条は公家や天皇の子を名目上の将軍にし、自らは執権に付く。将軍が20になれば首すげ替え、朝廷監視するだけの実力はあったわけです。 元寇ほか反乱もあって功績上げた武将に褒賞与えられなかったことで幕府の権威は傷つく。 必死の抵抗あったから蒙古(元)に支配されること防いだが、戦った人に報いる余裕がなかったと見られる。
- hazu01_01
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北條高時は最後の執権ではありません。間違いなくその後に北條貞顕(金澤貞顕)、北條守時(赤橋守時)が執権になりました。 しかし、貞顕、守時ともに北條氏では傍流になり、実権は得宗家である北條高時に残っています。高時が病気になり執権を辞職し、出家したので、次に得宗家で執権になるべきものが決まるまでの一時的な継承です。 鎌倉幕府が長く続けば、高時の子のうち誰か(邦時、時行)か弟の北條泰時が次の執権になったでしょう。
お礼
回答ありがとうございました。 >次に得宗家で執権になるべきものが決まるまでの一時的な継承です だったのですか。単なるリリーフなんですね。こういう解釈はなかなか調べても出てこないところですよね。やはり詳しい人に聞いて良かったです。 ありがとうございました。
- kusirosi
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一応、北条高時が、新田義貞の軍勢に、追われて 鎌倉・東勝寺において、長崎高重、摂津道準、安達時顕、北条基時、長崎高資、北条貞顕、一族家臣と共に自害、死亡をもって、 鎌倉時代は終焉したというのが、定説ですよ。 北条高時は、死ぬまで、得宗(鎌倉幕府の執権家北条氏の惣領)という 事実上の最高権力者でした。 高時の後の15代執権金沢貞顕・16代執権赤橋守時は、いずれも最後まで得宗の高時の部下当然で、また内管領の長崎一門にも軽んじられていました。 zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
お礼
回答ありがとうございました。 >15代執権金沢貞顕・16代執権赤橋守時は、いずれも最後まで得宗の高時の部下当然 だったのですか。だから私は高時が最後だと思っていたようです。
お礼
回答ありがとうございました。 >高時が暗愚だったかは知りません そうですね。「暗愚」と決めつけるのは1面的な見方でした。