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実朝の後の将軍と北条執権について
実朝暗殺の後も鎌倉幕府において将軍は源の流れを汲む者であるのですね?!という事はその後の北条が実質執権として権力を持っていたのでしょうが、あくまではたとえ実質権力が無かろうと将軍は頼朝の流れを継ぐ源の者であるのでしょうか?
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- Nakay702
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誤植が多くてすみません。訂正の上、本体部分を再送します。 (再送分) 頼朝の流れを継ぐ将軍は、当の頼朝とその子頼家・実朝の3代で途絶えました。それで、4代目以降の将軍には藤原氏や皇族が迎えられました。しかし彼らは、執権の北条氏と折り合いが悪かったので、実権を任されることはなく、1333年の9代将軍まですべて、いわば「傀儡政権」でした。 一方北条氏側も、執権とはいえ、まったくもって一枚岩ではなかったようですね。16代まで続いた執権のうち、真に実権(政権と兵権の両方)を握っていたのは、時政・義時と、それに続く嫡流の8名のみでした。その嫡流たちはみな、「得宗」(とくそう)という称号を持つ、いわば特別の権力者たちでした。(「得宗」という称号は、義時の法号から発したとされます。) ところで、この鎌倉時代は、公家による朝廷政治が武家政治へ移り変わる先駆けとなった時代ですね。それだけに鎌倉幕府は、いわば過渡期の宿命を背負って、始終内憂外患に悩まされ通しだったわけです。上述のような公家と武家の対立、幕府内の将軍と執権の間の不和、執権同士の骨肉の争いなどは日常茶飯亊で、ここに起因する不安定要素が幕府内外の要所要所を覆っていたようですね。 壇ノ浦の戦いに勝って、平氏から覇権を奪った源氏が、政権に着くや否や今度は、平氏(貞盛)の後裔が幕府内で実権を握り、140年後にはまた源氏の分流(足利・新田)に覇権を奪われました。これを簡単に図式化すれば、「朝廷→平氏→源氏→平氏→源氏」と覇権が移ろっていった、ということが分かります。このことはまさに、朝廷政治から武家政治へ移行する時期ゆえに、不可避的に発生した「移行期の必然的な混乱であった」、と言えるのではないでしょうか。
- Nakay702
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>実朝暗殺の後も鎌倉幕府において将軍は源の流れを汲む者であるのですね?!という事はその後の北条が実質執権として権力を持っていたのでしょうが、あくまではたとえ実質権力が無かろうと将軍は頼朝の流れを継ぐ源の者であるのでしょうか? ⇒以下のとおりお答えします。 頼朝の流れを継ぐ将軍は頼家・実朝の3代で途絶えました。それで、4代目以降の将軍には藤原氏や皇族が迎えられました。しかし、彼らは執権の北条氏と折り合いが悪かったので、実権を任されることはなく、1333年の9代将軍まですべて、いわば「傀儡政権」でした。 一方北条氏側も、執権とはいえ、まったくもって一枚岩ではありません。16代まで続いた執権のうち、真に実権(政権・兵権)を握っていたのは、時政・義時の嫡流8名のみであった。その嫡流たちはみな、「得宗」(とくそう)という称号を持つ、いわば特別の権力者たちでした。(「得宗」は義時の法号にも用いられているといいます。) ところで、この鎌倉時代は、朝廷政治が武家政治へ移り変わる先駆けとなった時代ですね。そえだけに、鎌倉幕府は、始終内憂外患に悩まされ通しの政権だったわけですが、上述のような公家と武家の対立、幕府内の将軍と執権の桎梏、執権同士軋轢などは日常茶飯亊で、ここに起因する不安定要素が幕府内外に跋扈していたようです。 壇ノ浦の戦いに勝って、平氏から覇権を奪った源氏が、政権着くや今度は、平氏(貞盛)の後裔が幕府内で実権を握り、140年後にはまた源氏の分流(足利・新田)に覇権を奪われましたね。これを簡単に図式化すれば、「朝廷→平氏→源氏→平氏→源氏」と覇権が移ろっていったことになります。このことはまさに、朝廷政治から武家政治へ移行する時期ゆえに必然的に発生した、「移行期の必然的な混乱であった」と言えるのではないでしょうか。
- head1192
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日本では伝統としてトップは政を行わない。 補佐するものに「善きように計らえ」というのが仕事である。 江戸時代の将軍や大名のスタンスである。 天皇(上皇や法皇を含む)が実権を握って政を執り行うことを「親政」という。 そういう言葉ができるほどに、奈良朝でも平安朝でも天皇が直接政に携わった時期は少ない。 明治後も、天皇は実権を持たず政治の主導権は天皇大権を与えられた配下が執り行った。 奈良・平安は中臣の流れを汲む藤原氏が中心となる。 鎌倉なら北条氏である。 室町は細川以下そういう者がたくさんいて収拾がつかない。 江戸なら老中や若年寄である。 戦前は先ほど述べた通り天皇大権を与えられた者たちである。 なお、将軍は頼朝の流れを汲むものではない。 源氏に連なるものである。 この源氏とは朝廷の氏姓制度におけるもので、他に平・藤・橘、紀、菅原、大江、中原、坂上、賀茂、小野、惟宗、清原などがある。 頼朝はこの源氏の一員だったということである。 秀吉を例に取ると分かりやすい。 秀吉は藤原氏の独占だった関白位を狙うにあたって朝廷から豊臣姓を贈られた。 この時点で秀吉の正式名は「羽柴豊臣朝臣藤吉郎秀吉」となる。 書き下すと「朝廷の家来豊臣一族のなかの羽柴家の藤吉郎秀吉」。 豊臣姓を賜ったあとも彼の名字は羽柴だった。 彼はのちに豊臣姓や羽柴を配下の大名に大盤振る舞いして自らの権力基盤を強化しようとした。 たとえば豊臣姓だけを与えられた○○家の大名なら「○○豊臣朝臣何某」となるわけである。 豊臣一族ではあっても羽柴家の一員ではない。 家康のように羽柴姓も贈られた者もいる。 彼は秀吉が死ぬまで「羽柴家康」と名乗った。 こうなるともう羽柴一家と同じ扱いである。 彼の出世はつねに秀吉の弟秀長と同時だった。 朝廷から頼朝にゆかりの深い皇族を将軍として迎えはしたしその伝統は鎌倉の終わりまで続いたが、しかしそれは頼朝の流れを汲むということではない。
- gunsin
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源家は物凄く広い意味で天皇家の分家ですから、4代目以降は 天皇家とゆかりの有る人物を天皇が指名して征夷代将軍としてました。 勿論、お飾りです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7
- fujic-1990
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> 実朝暗殺の後も鎌倉幕府において将軍は源の流れを汲む者であるのですね?! 違うと思います。 秀吉が征夷大将軍に成れなかったのは、建前として、「将軍は源氏でなければならない」という流れ(言い伝え)があり、貴族たちがそれを口実に秀吉を将軍にするのを拒んだそうですし、 松平家康が得川(徳川)に改姓したのも、征夷大将軍になりたいので新田源氏の一流だと言いたかったせいらしいので、『将軍は頼朝の流れを継ぐ源の者である』と言える、とも言えそうですが。 歴史(日本史)の先生が、「宮様・大貴族(藤原氏)の幼年の子を将軍に迎えて、彼が大人になると京都へ送り返していた」と言っていた記憶があります。 授業は聞き流していたので、本当に先生がそう言ったかどうかに自信はありませんが、オトナになっても「将軍になれるのは源氏だけ、というのは秀吉を征夷大将軍にしないために言い出した作り話に過ぎない」という意見を散見したので、初代将軍の坂上田村麻呂は源氏ではない(※)と思っている私としては「源氏でなくても将軍には成れる説」を信じています。 ※ 源氏は嵯峨天皇が公子を臣籍に下す時に与えた姓が始まり。嵯峨天皇以前に源氏の血流はない。
- f272
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頼朝の子孫で征夷大将軍になったのは頼家と実朝だけです。
お礼
複雑ですね