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近代のメディア環境について(見た人必ず回答お願い!)

近代において、なぜ写真並びに美術館が発明され、発達したのでしょうか? また、これらの新しいメディア環境の出現によって旧メディアである絵画はどのように変貌したのでしょうか? みなさんの様々な意見が聞きたいので必ず回答願います(><)

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回答No.3

話題;写真の誕生と絵画 【写真の誕生】 まず、資料がない時代なので推測から始めます。 [近代]の建築物を想像してみましょう。 石やレンガ造りの部屋で、小さい窓が幾つかある、 壁には多分、幾つかの隙間がある。電気はないので室内は常に暗い。 これだけの条件が揃うと、一つの光の現象があったであろうと想像することが出来ます。 即ち、一日のある時点で、太陽の光の方向と、強さの具合で、小さな窓や隙間から光の筋が差し込むことがあったであろうと。 即ち、条件が揃うと、隙間から入った一筋の光が反対側の壁に「外の景色」を映し出す事があります。  おそらく、中世のかなりの人達が、この光の現象を経験していた事でしょう。 この光の現象を、一般の人たちは見過ごしていたことでしょう。 (註。完全に見過ごしたままではありません。厳密には、後年、カメラ・オブスキュラで、この光の現象を楽しむという一種のレジャーが貴族や富豪の間で存在したという記録が残ってます。(後でもう一度説明します。) ここで注意したいのは、中にはこの映像を何とか生かせないかと考えた人達がいたであろうと推定できることです。。 当時下請けとして絵画の背景の景色を専門に描いていた画家達です。 (関連課題として;1)近代の絵画の下請け制度について。          2)絵画制作に見られる師弟制度と分業)  壁に映った映像をなぞれば、短時間で正確に外の景色を再現できるのです。 必ずしも、達人でなくとも高度な細密作業が可能ですので、無名の画家達や未熟な弟子達には、必要だったはずです。 そのころ、中世、近代にかけての絵画は、宗教画が第一位の地位を占めていました。 宗教画はキリストやマリヤ、聖人たち、等人物画が主題の絵画が多く、その背景の風景画は、その付属的存在でしかなく、重要度は低かった。 そこで、カメラ・オブスキュラの中に入って転写作業を担当したのは主に,弟子達や下請けの画家達だったという注釈が残っています。 しかし、その仕上がりは下手でも良かったという訳ではありません。 歴史上に残された絵画を見る限り、求められる様式や技法の完成度は、極めて高く、超写実的なものばかりです。 そこで、細密で、見慣れた指定の風景に忠実に、しかも短時間で、かなりの高い完成度の風景画にするために、写っている映像の転写が、色々と工夫されました。 (関連課題として;1)中世・近代の風景画の主題の変化          2)見慣れた風景の写実的描写とは ************************ 転写が工夫された主な例は; 1)単純に壁上の映像をチョークでなぞって正確な下絵を描くもの 2)光の入り口(採光口)を工夫したもの、(後にレンズの採用につな  がる) 3)中の壁を一枚増やして映像が透き通るように工夫して、壁の裏側に  弟子達や下請けの画家達が入り作業が出来やすくしたもの、 4)他の風景も描けるように部屋を小さくして馬車や手押し車で移動で  きるようにしたもの、 5)鏡や反射板を利用して映像の大小や写り具合を調整できるようにし  たもの、 と色々と工夫し改良されて、次第に完成度を高めました。 この一連の工夫が「装置」になったものをカメラ・オブスキュラといいます。 (カメラ・オブスキュラについては、この後の【注釈】でもう一度説明します。) もし単純に写真の原理が 「光を利用して映像を再現する」という原理だとすると、 上記の部屋・装置は、写真の元祖・「原始的な形」といえます。 又、それは自然発生したと言ってもよい程の経緯なのです。 また、その特長としては、映像は上下・左右が反転していること、画家が部屋・装置の中に入って転写を担当したこと。 移動が大変だったこと・・・・・、 そして何よりも、絵を描くための作業の一部だった事です。 ********************* 次の時代では、部屋は箱に代わりました。 といってもかなりの大型の箱です。 更に時間が経過して、採光口に凸レンズが利用され始めました。  またその後に、反射鏡、すりガラス、の利用が工夫されています。  1)レオナルド・ダ・ヴィンチが、この一連の光学的原理に基ずいた一  つの例について、記録を残しています。 2)(その他の具体的な例1)   1558年にはバプテスタ・ポルタが工学的原理に基ずいて、改良型を  発表しました。   ただし、これも大型の箱型です。 3)(その他の具体的な例2)  1665年に はじめてJohan Zahnが携帯可能な小型の装置を工夫しまし た。また、これまでの採光口は、ピン・ホールでしたが、はじめて小 型の凸レンズを取り付けています。また、取り入れた映像に[紙]を あててトレースを試みています。  (註 ; このトレース用の用紙はフィルムの原始的な考案です。) 【註釈】 上記の装置が改良されながら経過しますが、その間の名称について、辞書・百科事典や美術書では「カメラ・オブスキュラ」(訳;「暗室」、又は「暗箱」)と解説しています。 ラテン語でcameraは「部屋」です。obscuraは「暗い」です。合わせて「暗室」ですが、 上記の解説で解りますように、当初は「部屋」そのもので、画家が中に入って作業をしていますので、「暗室」と呼んだ方が相応しいと考えます。 逆に、後に 小型化して、工学的な工夫や光学的な工夫をなされた装置は厳密には 「部屋」ではありませんので、「カメラ・オブスキュラ」と呼ぶには相応しくありません。 別の呼び名にすべきですが、どの参考書でも別名はありません。 現在でも写真用語では[暗室」は作業員が中に入って現像・修整作業をする場所です。「暗箱」は蛇腹タイプのカメラの本体の一部を意味します。 「暗室」と「暗箱」を使い分けすべきと考えますが、書物によってはこの用語は統一されていません。 まちまちですので、ご注意ください。 【この装置の絵画以外の利用】 カメラ・オブスキュラの開発や利用法は上記のように殆どが画家によるものでした。 しかし、その中で次のような変わった利用法が見られます。 1)レジャーに   遊覧用の馬車の後ろにカメラ・オブスキュラを積み、行き先々で   色々の景色を映して観覧を楽しんだという記録が残っています。   現在のテレビの起源でしょうか?それとも筋書きのない紙芝居か   も? 2)シルエット法への利用   カルトン(型紙)の歴史は古く、近代の末まで その事例は数え切  れません。   ある時期に、その型紙を作るのにカメラ・オブスキュラを利用して  います。   映像をなぞって、横顔のシュルエットを細密な型紙にします。    その型紙を利用して、細密で、豪華な装飾品を作ったのです。   年代は特定出ませんが、金を台にしたペンダントに横顔のシュルエ  ットを描いた超ミニ肖像画です。記録によればヨーロッパの広い範  囲で流行したようです。 (まとめ) カメラの誕生は、目に見える映像を、光の自然な特性を利用して、人間の手で再現することから始まりました。  そして、この時代は、宗教画の背景の風景画として利用するのが中心でしたので、映像の転写は、宗教画並みに完成度が高く、身近でなじみの風景を忠実に、正確に、超写実的に描いたのが特長です。 ************************* 【この後の経過】 前の時代の特徴は、光学的な知識と工夫でした。そして画家が主役でした。 次に続く時代には、「写真化学」が誕生して、化学的な知識とか化学的な工夫がみられます。 具体的には「感光材料の発明」が中心です。 1727年にJohann Heinrich Schuize(1687~1744)が炭酸石灰と硝酸銀を練り合わせて太陽の光線との反応実験の結果を発表した。感光原理の発見の始まりです。 その後、Thomas Wedgwood(1771~1805),,フランスのChareles等等の多くの学者が銀に含まれる塩類の光反応を実験しています。 1824年前後にJ.N.ニエプスなどを経て 1839年1月7日に画家L.J.M. ダゲールが、「定着」も含めて「現像」の工程を完成させて、遂に「現像」の原理「銀板写真法」を発表しました。 また、同時にカメラでは、手で持ち運べるダゲロタイプカメラを公表しました。 このカメラは現代カメラの最初のカメラといわれています。 この時点より、現代写真技法が本格的にスタートしました。 1839年1月7日のこの劇的な日の様子は、幾つかの資料で詳しく記録されていますので調べてみてください。 この間、写真は従来の画家達による応用・開発が進む傍ら、絵画とは無関係な化学者・医者達等の別分野の学者達によって原理の実験・開発が進められてきました。 そして、写真光学と写真化学の貴重な実験や発明・発見が続出しています。 そこで、一つの問題が発生します。重要な発明発見が連続で続いていますので、 どの時点で「写真」を定義出来るかです。 厳密には現在も「写真」の進歩発展が急速に進んでいますので、「写真の誕生」を定義することはできかねるのです。 私のお手伝いできるのは   (1)発生時の経緯(ただし推定)   (2)1839年1月7日の現代写真術の誕生までの経緯(概略) の2点までです。後は検討項目が広範になります。また現在進行形です。 又、何よりも、この字数制限(800字)では限度があります。 これから以降については、資料や参考書が図書館等に完備していますので、私が受け入れするよりは、参考書の方が正確に存分に学べるはずです。 また、どの分野を、どの程度知りたいのか、何を知りたいのかはご本人がよく存じておられるはずですので、適切な問題意識を持って、自習される事をお薦めします。 **************************** ただし、次の課題については資料が少ないはずですので、概略を手伝います。 【初期現代カメラの誕生と絵画との関連】 ダゲールの銀版写真法とダゲロタイプカメラの出現で、現代写真時代が始まりますが、当時の一般市民も含めて画家達は大混乱したと伝えられています。  特にポール・ドラロッシュは「今日から絵画は死んだ」と嘆いたと報じられています。 しかし、翌年にはドラロッシュ自身も含めて、画家達は写真の新しい特性が、絵画制作には役立つこと、と更に便利であることを知るのです。 写真を利用することにより、絵画の制作期間が短くなりました。又細密で、正確に見た通りを再現できます。 下絵が何通りも作れて、保管が出来るようになった。 アングルがナポレオンの肖像画を描くとき30分しか許可されなかったが、同じような肖像画の制作依頼がまだまだ多かったので、写真を利用する事により、このような同種の問題は解決した。 合成写真の発案がカナレットのカプリッチオに繋がり大旅行時代の名所旧跡を描いたイタリア風景画を誕生させる。 一方、写真の方も、モノトーンだったので、着色の依頼があれば、画家が担当した。 露出が5~10分と長かったので、「ブレ」の手直しが発生した。殆どが写真の手直しでは受け入れられず、絵画の肖像画に切り替えられ、肖像画の註文が急増した。 ただし、オランダ中心に長い間流行していたミニ肖像画は絶滅して、写真に座を明け渡している。 風景画では、カメラの利用は欠かせないものでした。現代でも、アメリカのハドソン・リバー派の画家達は、スケッチ旅行にスケッチ・ブックを持たずに、カメラを5~6台を首に下げて旅をしています。  乗り物は主に船でしたが、流れが速すぎた。又船以外は、インディアンが怖かった。 そこで、ニュー・ヨークに帰ってから、写真を参考にして絵を製作しているのです。 人物画では、モデルが長い時間から開放されました。写真を見ながらの人物画の制作例は名画の中にも沢山あります。 以上、一寸例を挙げただけでも、絵画と写真との係わりは絡み合いながら発展してきたことが解ります。 質問に答えられたどうか解りませんが、少しでも参考になれば幸いです。

その他の回答 (2)

回答No.2

話題 ; 美術館のはじまり。 背景となる絵画史を17世紀「バロック時代」、18世紀を「ロココ時代」、 19世紀を多様時代と大別して、その流れの中で、美術展の誕生と絵画 の変化、取り巻く環境につて、要約します。 紙面が限定されていますので概略になります。一応ヒント程度でも長文 になりますので、詳しくは検索で補充してください。 (フランス) 1648年、にチャ-ルス・ル・ブランらが絵画アカデミーを設立。 1664年にルイ14世の宰相コルベールが王立アカデミーに再編成し、会員 は毎年作品を公開の展覧会に出品させられた。 しかし実際は毎年は開 かれなかった。 1725年からは、ルーブル宮殿内のサロン・カレ(四方形の間)で開かれる ようになったので「サロン」とか、「サロン展」と呼ばれるようになった。 活動は、やはり、それほどでもなかったが、 1793年にダヴィットがアカデミーの暴君的な支配を告発して、全面的に 改革した。 芸術を王家や貴族の独占から解放して、個人の自由な才能を重視して 一般市民のものにしようという志しだった。 しかしこの動きの背景には絵画の発注権の問題があります。 以前の発注は、教会、王家、貴族などの資産のある特権階級に独占さ れていた事は予測できます。従って、画題、画風、絵画の規範は注文 主が握っていますから、画家には「自由」が無かった訳です。  それが、次第に市民が経済力が付くに従って、発注力が一般市民側に 移り、市民の価値観に基ずいた画題や画風を選び出した事が指摘され ます。 この経済力の変化と当時一般社会の公式の美学と価値観等が 背景にあったのでダヴィットの主張は通ったものと考えます、 この時代の社会の美学的規範とは「新古典主義様式」といわれる独特の 様式です。 、皮肉な事にアカデミーの組織やサロンの会場を中心に19 世紀末まで大きな権威を振るっていました。 ですから、その変化は「近代」という社会の中の独特の革新だった事に 注意しなければなりまん。 必ずしも、「新しいもの」を無条件に受け入れ るものではなかったのです。 有名な、例としては:- マネ(1832~1883)の作品「草上の昼食」(1863)と「オランピア」(1863)が ヒントになります。 2作品とも現代では名画ですが、当時は非難と罵声の的でした。 他に、印象派の画家達や、クールベ。ドラクロワ。等など。 またスペインでは似ている精神的な環境の中に、スペイン王室の宮廷 画家、ゴヤがいます。 (時代考査) この時代は、第一帝政時代で、絵画の方では新古典主義が、確認でき ます。 王政復興から7月王政にかけての時期はロマン主義の全盛期 第二帝政時代はもっぱら写実主義で、 普仏戦争に続く第三共和政時代には、印象派、後期印象派,象徴派、 等が登場した。 *********************** (ダヴィットの改革の具体的な内訳は) 1)出品者は、アカデミーの会員だけでなく一般の出品者にも公開 2)無名の新人、外国人の参加も可能にする。 3)1833年以降、毎年開催される。 4)出展数は多い年で5000点に近かったと記録されています。 その結果、パリがローマに代わって国際的な「芸術の都」となる。 (その他の国) ロンドン、ベルリン、ドレスデンでもパリと同じように変革が見られた。 特に、イギリスでは、1768年にロイヤル・アカデミーを創設する。 (この場合の王立は名前だけで実際は自主経営です。) ****************** (美術館) 美術愛好家が急速に拡大して、この時代には展覧会だけではなく 一般の人々に公開された「美術館」も見られるようになった。 フランスでは1795年から1805年までの10年間で、パリで4箇所、 地方で、22の美術館が創設されています。 1802年ナポレオン美術館が開設。王室のコレクションと戦利品を展示する。 1824年、ロンドンで大英博物館が創設。 1828年、ベルリンにプロイセン美術館が開かれる。 ********************** (絵を見る人の変化)・・・説明が重複します。 初期は、教会関係者が発注者であり、パトロンだった。そして、絵は教会の 大壁に飾られるなどで、大型で宗教関係の主題に限られていた。 特定の目的のための作品を画家に直接発注できた時代です。 ルネッサンス以降は、近代統一国家の成立に伴い、王室、貴族、諸侯、が 教会に代わり、宮廷画家とか、王室付き画家、の制度も誕生した。 大型の絵は宮廷の大広間等に限定され数は少なくなり、主題も神の御姿や 聖人像、マリヤ像に混じって、王侯貴族の肖像画が見られる。 必ずしも宗教画に限らなくなった。 更にその後、新興中産市民階級の限られた特定の比較的裕福な市民の 鑑賞者層へ中心が移った。それに伴い、画家の経済的担い手が幅広い 一般の層になった。特定の画家を雇う事はなくなった。直接註文もなくなる。 そうすると 絵画の売買は出来上がった作品を個人の好みで、個別に売買 するようにと変化する。 画家にとっては、制作の自由を獲得出来る環境になった訳ですが、逆に、 経済的には作品が個品販売となった為、経済的には不安定となる。 絵の大きさも、購入者の大部分が一般庶民に中心が移ったため、市民の 居間に飾れる友人や家族の小型の肖像画や小型の静物画、小型のなじみ の風景画と変化した。 風景画は、コンスタブル、ターナー、フリードリッヒ、バルビゾン派など、 ロマン派から写実主義、印象派と混在する中で、市民は、自分達のよく知 っている場所の再現を求めた。 19世紀の後半には 更に、下の層の不特定の大衆鑑賞者へと拡大した、 美術館での美術鑑賞は、洗濯女や町の職人達の風俗の一部となった。 この時代になると、画家は作品を売るのに出来るだけ多くの一般購入者に 見てもらう必要が出てきた。 購入者も出来るだけ好みの作品を安く購入し たいため広く展覧会や美術館を利用した。 アカデミーの趣旨や影響はうすくなり、展覧会や美術館は、絵画の生産者 と消費者との出会いの場、即ち商品展示場と化す。 更に、この状況が進むと、「サロン」で入選するしかないという環境に陥る。 入選で、画家の名声を獲得する事も大切だったが、何よりも「売れる絵」 が最大の関心事となった。 市民の好みに追従して人気に博するという 傾向が占めるようになったのです。 本来の絵画や新しい絵画への挑戦は、無い訳ではなかったが、作品が 売れなくなるので、かなりの貧困を覚悟しなければならなかった。 (絵画の特長) アカデミーを出発点として その後、サロンを中心に庶民に解放された絵画 は一見、過去の既成から解放された「自由」な絵画という印象を受けますが、 実は 、この自由は「近代の自由」とも言うべきもので、現代の自由の考え方 とはかなりの違いがあります。 この流れは、19世紀後半には、ヨーロッパの主要国に波及して、サロンを 中心にした共通の市民向け絵画が見られるようになった。 「市民的写実主義」とも呼ばれるものです。 *) 見た通りを見たままに、更に細部に至るまで、入念に再現描写した、    技巧的な作品。 *) 一般庶民にも解りやすい主題を美化しているのと。 *) 全体の通俗的な仕上がりの点で、折衷的様式といわれます。 (代表作) ウィリアム・アドルフ・ブーグロー(1825~1905)の「聖母子」 参考書:Eronia E. Wissman 著 [Bouguereau](きれいですから是非参考に) (註)サロンの本流的存在ながら、印象派と評価されフランス・アカデミーか らの評価は別でした。 アレキサンドル・カバネル(1823~1889)の「ヴィーナスの誕生」(18863) 風景画では ローレンス・アルマータデマ 肖像画では ルオン・ボナ ジョン・シンガー・サージェント その他 フランスのサロン絵画全般・イギリスのヴィクトリア朝絵画全般・ドイツの ピーター・マイヤー絵画全般・                ******************** 以上、箇条書き程度にメモ書きしました。詳しい文章にするとかなりの長文 のリポートになりますので、後はご自分で補ってください。 検索すると、作者や、作品について記載がありますので、こまめに調べてく ださい。特にブーグローとカバネルの作品はきれいですので、是非見てくだ さい。がんばってください。 写真については長文にはなりませんので、もう少し待ってください。 引き続いてヒントを送ります。

回答No.1

美術館については回答しますので、2・3日時間をください。 データーを確認中です。 写真展につては現代のような写真展はないはずです。ヒントがありましたらお知らせください。

noname#121445
質問者

補足

ありがとうございます。なるべくお早めにお願いします>< 写真展ではなく写真そのものについてです。真実をそのまま写す写真が発明されたことによって、絵画はどのように変貌したのかということです。よろしくおねがいします。