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アブラハムはどうして我が子イサクをいけにえにささげようとしたか
神はどうしてアブラハムにその子をいけにえにささげるよう告げたのか? 神という非経験に相い対する経験存在であるわたしは その関係が 非思考でありそれとして信仰であると知らねばならなかった。 といまのところ考えます。 多くの人びとの父(祖)となると言われているのに その子のイサクをほふれば 血筋は断たれてしまう。神は そういう約束と矛盾することを命じた。――ということは アブラハムに対して 神との関係は自分のつまり人間アブラハムの経験合理性にもとづく思考に先行すると言おうとしていないでしょうか? 信仰(=非思考)は 経験思考に先行すると言うために 我が子の命をささげるという行ないが始まろうとしたのではないか。 どうでしょう? クリスチアニスムのほかの立ち場からも 自由なご見解をお聞かせください。ご教授ください。
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なるほどなと思いました。 神対個人で向き合うキリスト教的解釈としてはとても納得がいくものだと思います。 キリスト教的解釈を抜けだし考えるとと、旧約聖書の中でのお話ですので、ここで書かれている「神」はキリストが唱え契約をした父なる存在としての神(唯一神)ではなく、代償をもって救いを求める人間と古代神との関係性を描いたものであろうと思っています。 実際に反逆の誤解などがあり父が神の名の下に子を殺そうとしたが、子の潔い態度に感じるところがあり思いとどまった。国の創成や民族の成り立ちの逸話に神を付加して意味合いを強める。けっこうありますよね。神話は歴史との融合ですから。 …素直に書いたのですが、突き詰め熟考した思想を否定するひねくれた意見ととられてしまうと怖いな。 そういう意図ではありませんので…。
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- em9845
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オンライン聖書回復訳(http://www.recoveryversion.jp/)というサイトから、アブラハムとイサクについて検索した結果から聖句と解説を抜粋します。参考になりましたら幸いです。 ローマ4:17 (「わたしはあなたを多くの国民の父と定めた」と記されているとおりです).このことは、彼が(*1)信じた神、すなわち死人に命を与え、無から有を呼び出される方の御前においてです。 (*1)の解説 アブラハムは、二つの事柄について神を信じました:(1)イサクの誕生、これは、「無から有を呼び出される」神と関係があります。(2)イサクをささげることと再び得ること、これは、「死人に命を与え」る神と関係があります。アブラハムはそのような神を信じ、彼を自分の状況に適用しました。アブラハムはそのような信仰を持っていたので、イサクの誕生についての不可能と見える神の言葉を信じました。そして彼は、イサクをささげよとの神の命令にも直ちに従いました。それは、神が彼を死人の中から復活させると信じてです(ヘブル11:17―19)。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=45_4_17_0_1 マルコ10:1 イエスはそこから立ち上がって、(*2)ユダヤの地方とヨルダンの向こうに行かれた.再び群衆が彼の所に集まって来たので、彼はまたいつものように、彼らを教えられた。 (*2)の解説 奴隷―救い主は、卑しめられたガリラヤの地で(参照,1:14のノート1の第二段落)三年余り、彼の福音の奉仕において務めを行なわれました。そこは、聖なる宮と聖なる都、すなわち、彼が神の永遠のご計画の完成のために死ななければならなかった地から、遠く離れていました。彼は神の小羊として(ヨハネ1:29)、モリヤの山で神にささげられるはずでした。モリヤの山は、アブラハムがイサクをささげ、イサクの身代わりとして神の備えられた小羊を享受した場所であり(創22:2,9―14)、またエルサレムで宮が建てられた場所です(歴代下3:1)。神たる方の三一によって決定された計画にしたがって(使徒2:23)、彼がユダヤ人指導者たちに引き渡され(9:31.10:33)、神の家を建てる者であるユダヤ人に捨てられるのは(8:31.使徒4:11)、このモリヤの山でなければなりませんでした。彼がローマ人の死刑によって十字架につけられ(ヨハネ18:31―32とノート.19:6,14―15)、どんな死に方で死なれるかについての予表を成就するのも(民21:8―9.ヨハネ3:14)、その場所でなければなりませんでした。また、ダニエルの預言によれば(ダニエル9:24―26)、メシヤ(キリスト)が断たれる(殺される)ことになっていたのは、まさにその年でした。さらに、過越の小羊として(Iコリント5:7)、彼は過越の月に殺されなければなりませんでした(出12:1―11)。ですから、彼は過越の前に(ヨハネ12:1.マルコ14:1)、エルサレムに行かなければなりませんでした(33節.11:1,11,15,27.ヨハネ12:12)。それは、神があらかじめ定められた場所と時、すなわちエルサレムで過越の日に、彼が死ぬためでした(14:12―17.ヨハネ18:28)。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=41_10_1_0_1 マタイ1:1 イエス・キリストの系図の書.彼はダビデの子であり、(*3)アブラハムの子である. (*3)の解説 イサクは、神がアブラハムに与えられた約束と祝福を受け継ぐアブラハムの子としての、キリストの予表です(創22:17―18.ガラテヤ3:16、14)。イサクもキリストの予表として、おもに二つの事を行ないました。すなわち、彼は死に至るまで父に従順で、死から復活させられたことと(創22:9―10.ヘブル11:19)、異邦人の妻リベカをめとったことです(創24:61―67)。キリストはこの予表の成就において、死に渡されて神にささげられ、死から復活させられました。また異邦人の間から召された召会を、彼の花嫁にめとろうとしておられます。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_1_2_0_1
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em9845 さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ オンライン聖書回復訳 ☆ の立ち場が――ヰットネス・リー兄弟だとかと知りましたが――よく分かりません。それはそれとして そこにおける聖句解説をこのたび読んで思ったことを記します。 ★ ローマ4:17 (*1)の解説 ☆ アブラハムもサラももう老いているのに 実子の誕生を神から約束されてその《(1)イサクの誕生》について 神を信じたことは そのとおりだと考えます。 ★ (2)イサクをささげることと再び得ること、 ☆ についてはどうでしょう? たしかに ▲ (へブル書11:17-19) ~~~~~~~~~~~~~~ 信仰によって、アブラハムは試された時、イサクをささげました.事実、約束を喜んで受けた彼は、ひとり子をささげたのです. ・・・ 彼はまた、神は死人の中からさえ人を復活させることができると考え、型として、死人の中から自分の子を返してもらったのです。 (オンライン聖書回復訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ずばり書いてあります。ほんとうにそうだったでしょうか? そんな先のことまでアブラハムは見越してその見通しをもって信じたのでしょうか? これはへブル書に逆らいたいと思います。結果論ならまだ分かります。それ以上の論拠がなくです。 ★ マルコ10:1 (*2)の解説 ◆ 彼(イエス)は神の小羊として(ヨハネ1:29)、モリヤの山で神にささげられるはずでした。モリヤの山は、アブラハムがイサクをささげ、イサクの身代わりとして神の備えられた小羊を享受した場所であり(創22:2,9―14)、 ☆ これは――やはり感覚ですが―― アブラハムが子をほふろうとした事件を 父なる神がその独り子を死なせたことにすでに先に喩えている。その結果から解説をしていると受け取られます。 だからモリヤの山でなかったのは どうしてか。それは説明していないと思います。 ★ マタイ1:1 (*3)の解説 ◆ イサクは、神がアブラハムに与えられた約束と祝福を受け継ぐアブラハムの子としての、キリストの予表です(創22:17―18.ガラテヤ3:16、14)。 ☆ これは 受け容れられません。先のへブル書11:17-19にしても アブラハムが神を信じて 子をほふろうとしたことと 神が独り子イエスをはりつけにして死なせようとしたこととは 次元がちがうのではないでしょうか? 後者の場合には 父なる神は 誰を信じるということもありません。父と子との関係は似ていますが アブラハムとイエスとを仮りに同じ次元だとすれば 前者にはそのいわば下にイサクがいて 後者にはその上に父なる神がいるという斜めでの平行関係です。 しかも イサクは殺されなかった。殺されたあとよみがえったのではない。 ▲ (へブル書11:19) 彼(アブラハム)はまた、神は死人の中からさえ人を復活させることができると考え、型として、死人の中から自分の子を返してもらったのです。 ☆ イサクは死んでいません。だからこのへブル書の記事に逆らいます。これは結果論であるように考えます。 わたしの議論において根拠がうすいことは承知していますが 内容そのものの問題として 容易に受け容れがたいと考えます。 イエスでさえ 最終的には《あなたのみこころのままにしてください》と神に従うようになりますが その盃を去らせて欲しいと言っています。ましてアブラハムなら 筋書きどおりに行動するという解釈は 採りがたいです。おもしろくないですから。
- katyan1234
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まあ旧約の信仰の一番大切な考え方。 捧げるというのともう一つは従順、 もちろん死ぬ可能性はあるけどもそれによって生かされる。信じるか信じないか、いつもここに原点がありますよ。どうしても人間の価値観は自分中心、自分の過去の経験で出来る出来ないを考えてしまう。しかしその自分の経験を取り除き従った時に恵みがある場合もある。 但し 動機 手順 方向性、時期 等間違うとだめですが・・
補足
katyan1234 さん ご回答をありがとうございます。 ☆☆ 信仰(=非思考)は 経験思考に先行する ☆ これが ★ まあ旧約の信仰の一番大切な考え方。 ☆ の内容を説明しているというご見解でしょうか? それとも ★ 捧げるというのともう一つは従順 ☆ これら二つの事柄が 信仰内容を基本的にかたちづくるというご見解でしょうか? ★ もちろん死ぬ可能性はあるけどもそれによって生かされる。信じるか信じないか、いつもここに原点がありますよ。 ☆ このご説明については 微妙に――信仰の観点から―― 異議があります。なぜなら ○ 信仰つまり非思考において――つまり言うなれば能天気において―― 神のことばに従っている。ただし 自分の人間の思いから行けば とうぜん わが子をほふるというのは 解せないしやりたくない。 ☆ ところが アブラハムは ★ 自分中心 ☆ のかたちで・言いかえると 神におとなしく従うことにおいて自分中心のかたちで いけにえにささげようとしたのではないでしょうか? ★ 信じるか信じないか ☆ ではなく 《すでに信じている(=神のことばを受け容れている)》ゆえに 葛藤も起きたし しかも《自分中心》にけっきょくは行動しようとした。――こういうことになりませんか? ★ 自分の過去の経験で出来る出来ないを考えてしまう。しかしその自分の経験を取り除き従った時に恵みがある場合もある。 ☆ アブラハムは 何も神のお告げに対して疑いを持ったわけではない。そのお告げの内容は 自分の考えを飛び越えていたし 実際 子をころすことはやりたくないことだった。それだけのことではないでしょうか? いちいち 神の言うことが正しいかどうかなどを ★ 自分の過去の経験で出来る出来ないを考えてしまう ☆ わけではない。なぜなら信仰は 非思考なのです。能天気なのです。《考えてしまう》ことがないから 問題を持つようになる。ですから ★ しかしその自分の経験を取り除き従った時に恵みがある場合もある。 ☆ というのは おそらく間違いでしょう。 ★ その自分の経験を取り除〔く〕 ☆ ことは必要ないからです。経験も思考も それとして持ち続けています。非思考の信仰は それら経験的なことがらの上を行っているだけなのですから。したがって このお告げを実行したあとに《恵みがある》のではなく ○ いづれにしても アブラハムには――その信仰において――もうすでに 恵みはある。 ☆ のです。かれの神との関係は ★ 但し 動機 手順 方向性、時期 等間違うとだめですが・・・ ☆ これら人間的なことがらのすべてを超えています。 こういった非思考としての信仰――つまり能天気――を アブラハムのこの事件は 語っているのではないでしょうか? そういう問いになっています。どうでしょう? * モーセの律法を通じた信仰のあり方の以前に このアブラハムがいるはづだということをも この質問では諮っていることになります。
補足
hatomaru さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 最初はたいてい 反対説が投じられることになっているのですが(まぁ うそです) ★ 神対個人で向き合うキリスト教的解釈としてはとても納得がいくものだと思います。 ☆ と賛同をいただきました。ありがとうございます。 そして 旧約の神の位置づけと言いますか さらに突っ込んで捉えておこうというところでしょうか。 ★ 〔アブラハムの神は〕 代償をもって救いを求める人間と古代神との関係性を描いたものであろうと思っています。 ☆ たしかにそうで 《わたしが求めるものはいけにえではない》と確か言っていた箇所もあるものの 犠牲が必要だったでしょうし ほかの民族に対しては容赦なく殺すというかたちがやはり必要だったようですね。 ま わたしは 偶像神や多神教の神々との混合などについては あまり深刻に捉えてはいないのですが ともかく唯一神といえども民族の神の域を出ないところがあったようです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 実際に反逆の誤解などがあり父が神の名の下に子を殺そうとしたが、子の潔い態度に感じるところがあり思いとどまった。 (2) 国の創成や民族の成り立ちの逸話に神を付加して意味合いを強める。けっこうありますよね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。そういう視点ではほとんど見て来なかったので初めて知りました。ただしさらに古い神話からその要素を取って来て物語をかたちづくったというのは 何ら問題にならないと考えます。中身が問題だからです。 でも いくつかの解釈というのは この問題にとっても 知って考え合わせておくことは重要だと考えます。 (3) ともかく神のしもべとして 然り然りと言って受け容れるという解釈やら (4) 父と子とで一体となっていけにえとなり その後神のちからによって復活するところまでをアブラハムは体得していたであるとかです。 ちなみに ○ ねたむ神・怒る神 ☆ に関しましては 表現の問題だという見解もあるようです。《楽しい我が家》というように 楽しいのは 家ではなく そこに暮らす人びとであるのと同じように 《ねたむ神》と表現するとき ねたむのは神ではなく神のもとに生きる人びとなのであるというものです。いかがですか? これなら ひょっとすると 新約の神と同一だと言えるかも知れません。 ありがとうございました。 * お礼欄・補足欄は 字数に応じて使い分けています。あしからず ご了承ください。