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われわれは原罪を犯せしや?
【質問】 神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。 こう表現しては 間違いでしょうか? * 批判的なご見解 つまりそれは間違いだというご意見の場合には特にこてんぱんに けちょんけちょんになるまで述べてくださるよう願います。 * 原罪についてのわたしの考えは ついこの四月でも 次のような内容でした。よかったら参照してください。 【Q:原罪】その回答No.3 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4904345.html
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>二河白道のほうは そこにかすかに見える道を行きなさいというブッダの声がすると言っているようです。後ろから後押しし 前からも導いているみたいです。 以前、何かで読んだことのある話です。これは、留まることなく原罪と対峙し続けていることが祝福されているということと同じではありませんか。 >>鋭い界面は、原罪が祝福に包まれているという神の御心を知る傲慢を >>許してはくれません。だから、祝福されているというパラドクスがあります。 このパラドクスを固定された呪縛だとは思ってはいないのです。 その動性のなかで、常に解かれているのだと思っています。 原罪を抱えたまま楽園に入れないとは思いますけどね。 >開き直りが昂じて ここからは、メルヘンの世界ですが、 今の現状も前の天と地から見て、新しい天と新しい地だという 感覚があります。 輪廻転生とか前世、来世というこの時空間内の話ではなくて、 特異点に帰還した後の全く別の新たな世界ですね。 そんな中で、現在が、常に、今である問いう事実は、日常の想像を 遥かに超えた重大な事象だと直感するんですけどね。 だって、「こと」は、まだ始まっていないか、既に終わっているはずでしょう。そうはならず、「こと」が今わたしに起こっているんですから・・・ここ聖地エルサレムにおいて・・・
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- bananasand
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>パラドックスではないメタパラドックスがあるかも知れないからです。 信仰が教祖を離れ教義となったときに一定の限界が発生せざるを得ないため、 ストーリー、メルヘン、寓話などを用いて、教祖が伝えようとした本質を 指し示すため、結果として巧妙なメタパラドクスが構成されることになった ということでしょうか。 >たとえば《うそをつく》とき われわれは心に多少とも やましさを感じます。これが原罪だと考えます。 やっぱりキリスト教音痴のためか元がずれていました。 人は、他の死や犠牲の上に成り立つ、罪深い存在であって、 これは、やましさの前に自分と他との分離から始まると思っていました。 自他の意識のない幼児は楽園の住人でしょう。この子はこの子から見てどこにもいません。空腹や不快で泣き叫んでいてもこの子はいません。 この子が「自分がある」のだという思いを抱いたとき、このエワちゃんは楽園から追放されたと思うんですね。 この原罪を犯すまで、エワちゃんはいなかった・・ つまり、自分というものが「いる」のであれば、そのために犠牲になった ものへのやましさがあるということです。 だから、イエスをとおして詫び、祈りが必要なのだと思っていました。 やましさを感ずべき思考なり行動が無ければ原罪とならないのでしょうか。 逆質問・・おっと、補足要求です。
補足
bananasand さん ご回答をありがとうございます。補足要求としてでも 推論を進めてくれますので 過程的なご回答です。 二点 わたしが基本と考えることがらを述べ直してみます。 まづ自然としての誕生のあと訪れる 意識における自己の誕生に関してです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 自他の意識のない幼児は楽園の住人でしょう。この子はこの子から見てどこにもいません。空腹や不快で泣き叫んでいてもこの子はいません。 この子が「自分がある」のだという思いを抱いたとき、このエワちゃんは楽園から追放されたと思うんですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 物心が着く(≒自他の意識を持つ)前の幼児は 心にやましさも感じないゆえ 言わば《楽園の住人》である。 ☆ この前提に立って ○ 物心が着いたとき(≒《「自分がある」のだという思いを抱いたとき》) すでに《うそ》の問題を知っているか? つまりは 《このエワちゃんは楽園から追放された》と言うべきか? ☆ 言いかえると ○ 自己意識を伴なった《楽園の住人》はいるか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >パラドックスではないメタパラドックスがあるかも知れないからです。 信仰が教祖を離れ教義となったときに一定の限界が発生せざるを得ないため、 / ストーリー、メルヘン、寓話などを用いて、教祖が伝えようとした本質を / 指し示すため、結果として巧妙なメタパラドクスが構成されることになった ということでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こうだと考えています。つまり ○ もともと信仰=非思考=《無根拠のなぞに対する受け容れ》がひとに起こって これが経験現実つまり歴史に対する言わば目に見えざるパラドクスに成っていた。 ○ この信仰が 言葉に表わされ教義となったとき つまりは目に見えるパラドクスが現われたのであるから 非思考の信仰は メタパラドクスの方面へしりぞいた。 ○ しかも この依然として目に見えないメタパラドクスは とうぜん存続しているのであるが いわゆる理性の優位を唱える思潮のもとでは 省みられなくなっている。 ○ この点でひとこと付け加えるとすれば プラトンにおいてすでにイデアという《理性を超えたところに位置づけるものではあるが それとして理性の産物である神》が現われていた。 あと 次の点について 考えるところを述べてみます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人は、他の死や犠牲の上に成り立つ、罪深い存在であって、 これは、やましさの前に自分と他との分離から始まると思っていました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このように表わされた思想は 別様に或る種の倫理学として存在するものと思います。 たぶん神学としては 緩衝材がひとつ差し挟まれていると考えます。それは 善行悪行あるいは罪などを問わず人の思惟やおこないは その一人の人間において・つまりはその自由意志の振る舞いにおいて 完結しているという見方です。 さらに言いかえると この独立した意志自由の公理において ひとは社会性をかたちづくり互いに関係性を持つ。つまりは 自由の互いによる尊重であり いわゆる平等性だろうと考えます。 この自由と関係性とは ひとりの存在にそのまま共存していると捉えますが 互いに他を侵食するまでには到らないとも見ます。一方で ひとは ★ 他者の死や犠牲の上に――関係性の側面における限りで――成り立つ罪深い存在である ☆ のですが この罪深さが 自由意志によって独立しているその存在の固有性を傷つけることはなく まして葬り去ってしまうこともないと考えます。 親子兄弟あるいは夫婦でも 一方で連帯責任という考え方もとうぜんのように当てはまるという見方もあるのですが 他方では基本的に 一人ひとりは それぞれの自由つまり責任において生きていると考えます。そのようにして堂々と生きていると見られます。 またそれゆえにも 関係性において助けあうことができます。責任の連帯性を引き受けるまでに 互いに 平等を目指します。
- mmky
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☆ その《悪魔連中》の為すことをゆるしているのは 神でしょう? やはり神がいちばんいぢわるです。 ● そうきましたか。確かにそのようにも見えますね。 神は人間に自由意志を担保して創られた。それをひたすら守っているように思えるのですが。私はそれが神の愛の証と取りますね。 よほどだめになると神ではなく地球自身の反作用(天変地異)が生じて何もかも綺麗さっぱり無くなるという、例えばソドムやポンペイの出来事のようになると思えますね。 ソドムの時はロトが神の警告を伝えてますし、ポンペイでも大災害の10年ほど前に警告としての地震があったようですね。 そう考えると、神は耐えてるとしか思えないですね。悪魔連中にだまされた放蕩息子も、地球の反作用による粛清にも何とか救いたいと思ってるのではないでしょうか。 おっと悪魔連中でさえ放蕩息子連中でしたね。放蕩息子の筆頭はルシファーですね。 悪魔連中は無し。地獄(煉獄)にいる人霊は無し。といえばたちどころに消えてしまう存在ですが、私の知るところでは地獄にいる霊でさえ60億もいますよ。地上人口は約60億ですから、同じぐらいの数の放蕩息子や娘が瞬時に消えてしまうということですね。 何のために人霊を創造したのかわからなくなってしまいますね。 誰しも長い転生で一度は地獄にごやっかいになってると聞いてますから、その都度消せば地球人口はもっと少なかったのではなかったでしょうか。天使しか残らず7万人、あるいは7千人ですか。 いくらなんでもそりゃないでしょうと思いますし、産めよ増やせよの神がそんなことを望むわけもないかと。
お礼
mmky さん ご回答をありがとうございます。 まづ ☆☆ 七千人 ☆ と書いたのは エリヤの時の光の子らの数です。現在何人なのか知りませんが ちょうどそれに応じた数の人たちが 子どもたちをいぢめるバール神には耳を貸さないで 今は今でいるであろうと考えた結果です。 二点 問題提起です。 ○ 《ルシファーら悪魔連中や放蕩息子連中》 これらは わたしである。 ☆ と現在のわたしたちは 一人ひとりそれぞれが 宣言する。互いにこのことを認め合い 内面において処理する。存在を愛し 悪を憎む。その悪を棄てる。内面において棄てる。――その物語を互いに文学としても哲学としても扱っていく。 (名前は それを規定して物語を進めれば分かりやすいという限りで なお残るかも知れません)。 ★ 神は人間に自由意志を担保して創られた。それをひたすら守っているように思えるのですが。私はそれが神の愛の証と取りますね。 ☆ (1) 神は人間に その自己同一性を裏切りうるところの自由意志を与えた。 (2) つまりは 原罪を犯すであろう存在として――それを見越して――つくった。これを へびや悪魔のしわざの所為にするわけには行かない。 (3) だからその原罪を消すために――原罪を犯す以前の存在を回復させようとして―― イエスを送ったというのは あまりにも弁解がましい。 (4) ゆえに 第一のアダムと第二のアダム(つまりイエス)とのあいだの歴史は 原罪にかかわる箇所としては 無きに等しい。 (5) イエスは 神の愛を――非思考において持たれるものとして ただし人間には実現不可能のこととして しかもその人間に神の愛がはたらくなら その形で実現可能なこととして――指し示した。 (6) ほかに 《復活》の命題があるが この愛(つかみどころがないので 霊・聖霊と呼ぶ)のことを伝えただけでじゅうぶんだ。 どうでしょう? (がけっぷちを歩きつつ 述べています)。
- bananasand
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全体が大きなパラドクスにあるとも言えるし、アダムとエワが象徴する状態から原罪を導いているとも取れますね。 そして、原罪を犯す主体が楽園に真に存在しえたのかという疑問ですね。アダムとエワは楽園にいたのでしょうか?そんなことがありえるのでしょうか。 ありえるなら、はたして、原罪を犯し神に背いたとしても楽園から一歩も外に出ていないのではないでしょうか。 つまり、「われわれは、原罪を犯せしや?」という犯す前の我々が主体的に存在していたととは言えないということですね。 だから、原罪とわれわれは不可分であって、「われわれ」の消失とイエスを通して詫びることが同じにならないと原罪は消えないでしょう。 原罪を犯したわれわれが罪を償って、われわれが残り、楽園へもどるなんてことなど有り得ません。と思ってます。 >けちょんけちょんになるまで述べてくださるよう願います。 聖書をザッと目を通しただけでキリスト教音痴の私には上述の感想めいた記載が限界です。
補足
bananasand さん この件でも期待申し上げます。特に ★ キリスト教音痴の私 ☆ なる方がたにも 絶対音感を持っておられる方がたと同じように――勝るとも劣らず同じように―― 何ものにも縛られない自由なご発言をいただきたいと願っています。神学の伝統ないし公式見解に挑もうとしています。 お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 全体が大きなパラドクスにあるとも言えるし、 ☆ これですね!! ○ 初めの人たちが わたし(=神)に背いた。その基本的な罪をつぐなうには 原罪以前の状態に戻って身代わりにならねばならない。それに合う人間はもういない。 ○ 原罪を犯す以前の自然本性を保つ人間 もしくはそれ以上の善である存在が 身代わりになった。つまり神の独り子が わざわざ人間になってこれを実行した。 ☆ というのであれば このイエスの歴史上の出現は もしアダムとエワに原罪という事件がなかりせば 必要でなかった。通俗的に言えば 《初めに自分で火をつけておいて あとでやはり自分で消火活動をおこなう》つまりいわゆる《マッチポンプ》ということになります。 悪いこともおこなえば良いこともおこなう人間の本流としての歴史があります。その脇に いまのこのマッチポンプの物語をパラドックスのごとく置いてみた。ということではありませんか? というのが質問趣旨です。 質問の中に趣旨説明を述べようと思ったのですが 長くなることを恐れてやめました。というのも 上のような物言いだけを提起しても まだどうもしっくり来ません。 歴史の街道の脇道にパラドックスを敷いたという問題ではなく そうではなく そのような経験事物としてのパラドックスではないメタパラドックスがあるかも知れないからです。非経験・非思考としてのメタ物語は つまりは信仰として なお生きていると考えるからです。 早くいえば マッチポンプの物語は 非思考=つまり信仰の神を 狭く狭く人間の理性という枠組みの中に押し込めようとしているのではないか。これです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり、「われわれは、原罪を犯せしや?」という犯す前の我々が主体的に存在していたととは言えないということですね。 だから、原罪とわれわれは不可分であって、「われわれ」の消失とイエスを通して詫びることが同じにならないと原罪は消えないでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たとえば《うそをつく》とき われわれは心に多少とも やましさを感じます。これが原罪だと考えます。うそに伴なうやましさを味わう前のわたしは 《主体的に存在していた》か? ★ 「われわれ」の消失 ☆ という意味がよくわからなかったのですが それは ○ 原罪を犯したわたし(つまりその意志行為)が 元のわたしに戻る ☆ ということでしょうか? それには ★ イエスを通して詫びること ☆ が必要だということでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 原罪を犯す主体が楽園に真に存在しえたのかという疑問ですね。アダムとエワは楽園にいたのでしょうか?そんなことがありえるのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 幼いときわれわれにものごころが着くのは おそらく 《うそに伴なうやましさ》を感じる前にも出来るでしょうから そのぶん 主体的に生きるというのは 子どもとしての限りで出来ていると言うべきでしょうか?
- mmky
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☆ という大胆かつ傲岸な見方なのです。 ● ちょっと大胆すぎますね。 ○ 原罪は むろん人間が犯したのですが そうさせたのは神だという物言い ☆ なのです。 ● それは困りましたね。アダムとエバの逸話の焼き直しは後のエリアとバール信仰の逸話でしょう。アダムとエバはエデンの東に追放ですが、バール信仰の坊主たちはカルメル山で焼き殺されてますね。アダムとエバをそそのかしたのはサタン(サーペント)、追放したのはお怒りの神、一方バール信仰をそそのかしたのはサタンの手下のベルゼベフ、打ち滅ぼしたのはお怒りの神ですね。これらの例から見れば、そうさせたのは悪魔連中となりますね。人間をそんなにやわに作ったのが神だとしても実行犯は悪魔連中でしょう。 ○ 原罪を犯させてごめんなさいという詫びを 神は イエスをとおして人間に伝えた。 ● 生け贄の子羊という意味で原罪と関連づけてるのでしょうか、常識的には神の一人子の死は親の感情からして悲しいものですし、旧約聖書のなかでも長男を生贄にと望んだ神もいましたが結果は羊にしてますよね。つまり子供を生贄にしたことは一度もないですよね。神だって子供を生贄にはしないはずですね。じゃだれがということですが、ご本人が予言の成就を望んだのか、悪魔がやらせたとしか思えないですね。 と思いますがどうでしょうね。
お礼
mmky さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ● ちょっと大胆すぎますね。 ☆ 驚かれましたか? ● ・・・人間をそんなにやわに作ったのが神だとしても実行犯は悪魔連中でしょう。 ● ・・・じゃだれがということですが、ご本人(* =神)が予言の成就を望んだのか、悪魔がやらせたとしか思えないですね。 ☆ その《悪魔連中》の為すことをゆるしているのは 神でしょう? やはり神がいちばんいぢわるです。 わたしは思うのですが どうもこの ○ 悪魔・サタン・へび・ベルゼブブ・バアル等々 ☆ を人間と悪行とのあいだに介在させること これをやめよと神は言っているのではないか。こう思われてなりません。しかもさらに もうわたし(つまり神じしん)のことは 言葉にも出すなと言っているとしか思えないのです。 エリヤのように いちいち神のちからを証明するような振る舞いは もう要らないと 人びとよ 知りなさい。肝に銘じなさい。口にも出して言いなさい。こう言っているのではないでしょうか? まぼろし? 幻聴? でしょうか。七千人には聞こえているのではないでしょうか?
- mmky
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ユダヤ教のアダムとエバの作った原罪はイエスがチャラにしたということですね。 それはそれでよいと思いますね。 さて、そこでですが、イエスに石を投げ、罵倒し、十字架に掛けた多くの罪人達(実行犯及び教唆)の原罪は誰が償うのでしょうかという疑問が残りますね。 これは、イエス再誕まで持越しでしょうか。それとも父がでて「sin no more」と言わないとなくならないのでしょうか。 もし、イエスあるいはその父が再誕して、また同じように迫害され屠られた場合、ナザレのイエスの時に作った原罪はなくなりますが、新たな原罪が発生しますね。つまり同じことの繰り返しになりません。 歴史は繰り返すのが諺ですからそれでもおかしくは無いと思います。ただそれでも、最初の仮説に一定の疑問が生じますね。 さてそれはいかがしましょうや?
お礼
mmky さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ユダヤ教のアダムとエバの作った原罪はイエスがチャラにしたということですね。 それはそれでよいと思いますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ mmky さん じつは ずばり申しますが これがこれでよいとは見ないという仮説を思いつきましたという内容なのです。 ですから そのあとに問うておられる疑問とその課題とは微妙に方向も違ってきています。 どういうことか? ○ 原罪は むろん人間が犯したのですが そうさせたのは神だという物言い ☆ なのです。 ○ 原罪を犯させてごめんなさいという詫びを 神は イエスをとおして人間に伝えた。 ☆ という大胆かつ傲岸な見方なのです。 むろん人間は 人間どうしで うそをつき罪を犯します。しかもこれらの ○ 人間の互いに犯すこれらの間違いと過ちとは 自分たちの自治において 罪の共同自治としておさめるものだ。 ☆ という見方です。 こてんぱんにやっつけてください。批判をお願いします。( 別に M ではありませんので 反論も致します。わたしが納得のいくまで お尋ねしてまいります)。
補足質問にお答えします。この世界は仮の世界なので、始めと終わりがあります。だから仕切りなおしですから、終わりが来ると、それぞれの元の世界へ帰ります。脳は脳の世界へ、人は神の世界へ帰ります。2012年の予言は今ブームになっています。
お礼
eyasi2012 さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 2012年の予言は今ブームになっています。 ☆ これには 《知りません》とお答えします。それ以外にお答えのしようがないでしょう。 ★ この世界は仮の世界なので、始めと終わりがあります。 ☆ 《仮りの世界》というよりは 移ろい行きやがて朽ちると知っている世界なのだと考えます。そして前回ふれたように 物語としては 新しい天と新しい地の展開があるかも知れません。 ★ だから仕切りなおしですから、終わりが来ると、それぞれの元の世界へ帰ります。脳は脳の世界へ、人は神の世界へ帰ります。 ☆ たぶんこの有限の世界そして有限の人生を わたしたちは一人ひとり 固有の時空間としてその動態を生きているのでしょうね。 このいまは限りある存在を生きていくことをとおして みづからの固有時を実現していくなら そのとき 永遠の現在を生きている。のであるからには そのまま新しい天と地との世界に入っていくかも知れません。 そういうふうには考えますが なぜわざわざ ★ 脳は脳の世界へ、人は神の世界へ帰ります。 ☆ というふうに《終わりの到来》やらをつうじて 《元の世界に帰る》やらを想定してくるのでしょう? もし物語を持ち出すなら ▲ 夜中に盗人が家に押し入るように その《とき》は来る。 ☆ のではないですか? どうでしょう。 ★ 仕切り直し ☆ という考えは みづからが固有の時空間を生きていないゆえにこそ現われ出てくるものではないでしょうか? そういう永遠の現在という・通俗的に言わば充実感が得がたいという思いは ○ 原罪とその意識 ☆ の問題がかかわっているのではないでしょうか。そのように考えたものですから この質問をお訊きしました。
正しいと思います。神が意図的にした事と思います。なぜかというと、神の子である人は、不調和を調和に変換する使命で、天国、神の世界から地上、仮の世界の地球に来ました。そして不調和世界の脳の自我と、合体しました。しかし今では人は、自分は脳の自我だと思っています。本当は神の子なのに、しかしいよいよ2012年、仮の世界も終わり、神の子は使命を完了して、脳の自我を分離して、神の調和世界へ帰ります。
お礼
eyasi2012 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 正しいと思います。神が意図的にした事と思います。 ☆ そんなに簡単に OK を出していただいても とまづ思いました。 ★ なぜかというと、神の子である人は、不調和を調和に変換する使命で、天国、神の世界から地上、仮の世界の地球に来ました。 ☆ まづこれは おおむね一般的な理解でもありますね。 ★ そして不調和世界の脳の自我と、合体しました。 ☆ 肉(精神および身体)に宿ると言いますね。《絶対なる調和》と《相対的な調和》とが 同時に一人のひとに存在するというところでしょうか。 ★ しかし今では人は、自分は脳の自我だと思っています。本当は神の子なのに、 ☆ 《神の独り子》ではないけれども 《かれを長子とする〈光の子〉であり それとして神の子ら》であると物語られています。 ★ 脳の自我 ☆ というのは 要するに 《相対的・時間的ゆえに移ろいいく朽ちるべき調和》というところでしょうか。物語にさらに《復活》がありましたが いまは措いておきましょう。 ★ しかしいよいよ2012年、仮の世界も終わり、神の子は使命を完了して、脳の自我を分離して、神の調和世界へ帰ります。 ☆ ご質問になります。 (1) 神の独り子は もうすでにこの地を去って行って しかも復活したとうわさされ そのあと聖霊を 父とともに送ってくれたのではないのですか? (2) 《新しい天と新しい地》と言われるのは この地上が 《調和世界》になることなのではないでしょうか? (3) だとすれば 相対的な調和としての《脳の自我》をも包み込んで 新しい人間として登場するという筋書きではないのですか? (4) その《とき》は 人間には分からないのではないですか? いかがでしょう?
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補足
bananasand さん ご回答をありがとうございます。 ▲ (イザヤ書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・ 狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、 蛇は塵を食べ物とし わたしの聖なる山のどこにおいても 害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは むろん比喩ですが あなたの ★ 《界面を生きる》問題 ∽ 他者の合理的な排除の問題 ☆ にかかわっていますね。生物ないし食物の連鎖が いまとは違ってくると言おうとしているようです。無根拠にですが。 人間の社会においても その社会力学がよい方へ変質するかも知れないと言おうとしているようです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そんな中で、現在が、常に、今であるという事実は、日常の想像を 遥かに超えた重大な事象だと直感するんですけどね。 だって、「こと」は、まだ始まっていないか、既に終わっているはずでしょう。そうはならず、「こと」が今わたしに起こっているんですから・・・ここ聖地エルサレムにおいて・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ キリスト教音痴と自己紹介する方で これほど鋭く突っ込んで把握し表現したひとには あまり会いませんでした。 ○ 永遠の現在 という自己表現の過程=動態=時空間=固有時 ☆ の問題ですね。しかも ★ 聖地エルサレムにおいて ☆ という表現が すでに《新しい天と新しい地》の次元を――永遠の現在において――先取りしていますね。 ★ 特異点 ☆ についてわたしは詳しくありません。 ★ 輪廻転生とか前世、来世というこの時空間内の話ではなくて、 / 特異点に帰還した後の全く別の新たな世界ですね。 ☆ もちろんですと言いたいところです。たぶん さらにべらぼう話を延長させ得れば この ○ 特異点は はりつけになったイエスなるわたし ☆ のことではないかと言いたいところです。少々わるふざけが過ぎましたでしょうか。 ★ メルヘンの世界 ☆ が現実よりも現実感があるとは これ如何に? 文学のほうが 哲学を超えているのかも知れません。 ★ これ(二河白道)は、留まることなく原罪と対峙し続けていることが祝福されているということと同じではありませんか。 ☆ ブッダの場合は そのブッダがつねにブッディストの頭の中に人間の乗り越えられない存在として宿っているようです。どちらかと言えば やはりアイドルではないかと疑われます。 言いかえると 無明とつねに対峙し続けるというよりは 無我だの無の境地だのと言ってそのブッダの境地を下敷きにしてなぞろうとしているように思われます。ブッダもブッダで そのような自己とその他の人びととの隔たりをすでに前提しておしえを説いたのではないかとやはり疑われます。 これを解いてくれるブッディストは いません。そこまでの普遍的な存在であるブッダを 神(絶対者)としては見ない。どういうわけか見ようとしません。そのような論理や理論の問題よりは 修行のほうを持ち出すでしょう。修行が足りんという答えにしかならないようです。 ただし唯一 親鸞の信仰は いまこのように扱っているわたしたちの信仰(=非思考のこころ)と同じ類型だとわたしは捉えています。