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元寇の時の河野について

元寇で伊予の河野が筑前・肥後に領地をもらったって聞きましたが、どれ位もらったのですか?

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  • tyuuta
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回答No.1

下記にあります。 河野通有(1250?-1311.62歳?) (こうのみちあり)  鎌倉後期の伊予の武将。伊予国守護。六郎。弥九郎。蔵人。但馬守。父は通継。母は井門(いど)三郎長義の女。父の所領、伊予国石井郷を継承し縦淵城に拠る。剛勇の人で、弘安四年(1281)の蒙古来襲では、叔父通時・嫡子通忠と伊予の地頭以下、御家人を率いて筑前博多に向かい、箱崎に着陣した。博多の海岸に河野の後築地(うしろついじ)といわれる高い陣地を築き、決死の覚悟で戦いにのぞんだ。通時と小舟二艘に乗り、夷国船のように姿を変えて敵船に近づき、急に襲って将一人を捕膚とし、敵船に放火して帰った。瀬戸内海水軍の頭領としての経験を生かして戦果をあげたが、戦功により対馬守に任じられ、旧領を回復し、肥前国神崎荘内小崎郷ほか、肥後国下冬村、山崎荘などを恩賞地として与えられる。帰国後、周桑郡北条郷に長福寺を営み、通時ら戦死者の霊を弔った。応長元年(1311)七月十四日没す。諡号は長福寺殿天心紹普大居士。墓所は長福寺。

merses
質問者

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なかなか知りえない情報をありがとうございました。

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