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中国の政治状況:20周年記念の天安門事件の背景と総書記の交代
- 1986年、中国の総書記に胡耀邦が就任し、その前の総書記は周恩来であった。しかし、天安門事件の際の総書記は鄧小平であり、胡耀邦の死後は趙紫陽が後を継いだ。八大長老の一人とされる鄧小平は、政治状況の複雑さが浮き彫りとなった存在でもある。
- 1986年に胡耀邦が中国の総書記に就任する前は、周恩来が総書記であった。しかし、天安門事件の際の総書記は鄧小平であり、胡耀邦の死後は趙紫陽が後を継いだ。鄧小平は八大長老の一人であり、その政治状況は複雑であった。
- 中国の政治状況について詳しく知りたいという質問ですが、1986年に胡耀邦が総書記に就任し、その前の総書記は周恩来でした。しかし、天安門事件の際の総書記は鄧小平であり、胡耀邦の死後は趙紫陽が後を継いだとされています。鄧小平は八大長老の一人とも言われており、中国の政治状況は複雑なものでした。
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総書記のポストにこだわっておられるようですが、権力者がポストの配分を決めるのであって、ポストについたから権力者だ、と単純にはいかないことが、政治の世界ではあります。 こみいってるので、↓を http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 トウ小平は一貫して改革派ですが、過度の民主化を警戒してもいました。権力の基盤である、一党独裁体制を維持したかったからでしょう。
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- isa-98
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>小平が総書記だと思っていました。 現実は質問様者が歴史で見て来た通りです。 三中全会で 鄧 小平は、中国共産党の実権を握ったのです。 華国鋒は「首相」辞任、「党主席」を辞任すると言う 肩書きと権力的にジリ貧に追い込まれ、 最終的には失脚(表舞台から降ろされる)事態になります。 (現在の総理で言う党内の大派閥により降ろされたと言う意味です。 次の総理に指名したのは影のAであり、実際の党内の権力は全てAにある。) 共産党の権力を実際に握っていたのは鄧 小平です。 その事実が質問者様の頭脳を正しく認識させたのです。
- a-koshino
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天安門事件と称される事件は、1976年と1989年の、二度起こっています。御質問の内容は、これら二つの事件が、ごっちゃになって混乱しておられるようなので、ざっとですが整理します。 ・1976 1月に周恩来首相が死去(文化大革命でも生き残った、唯一の良識派大物政治家) 3月より各地で周恩来追悼集会(文化大革命への批判が裏にある) →当時の権力者である、江青ら四人組への批判運動につながる 4月、清明節(日本のお盆のようなとき)に天安門広場で数十万人規模の追悼集会 →四人組の命令で公安当局が弾圧、多数の死傷者が出る →各地で反江青の集会と弾圧 →9月、毛択東死去、10月に四人組逮捕 →権力は華国鋒国家主席に、トウ小平復活→改革開放路線 民主化の進展(トウ小平・胡耀邦体制)、米中国交樹立 民主化の行き過ぎに保守派が反発 →1986年、胡耀邦総書記解任、趙紫陽が総書記に ・1989 4月、胡耀邦死去 →天安門での追悼集会が、十万人規模の民主化要求デモに発展 (このころ、ゴルバチョフによるペレストロイカ) →五・四運動七十周年記念を経て、5月中旬には百万人規模に →穏便に収拾しようとした趙紫陽失脚、同日、戒厳令が敷かれる →趙紫陽失脚に抗議デモ(50万人)、李鵬首相の退陣を要求 →6月、軍隊による鎮圧
補足
ありがとうございます。補足ですが、周恩来の死後、すぐに(とはいっても少しの期間江青が権力を握っていた??) 小平が総書記になったと解釈していいのでしょうか? 私が学んだ本では、胡耀邦や趙紫陽が総書記でも小平が実際政治を支配できていた、ように捉えてしまうのですが、違いますか? また、回答者さんは民主化の進展(トウ小平・胡耀邦体制)と書かれていましたが、胡耀邦の時には 小平は保守派ではなかったのですか? という、かなりごっちゃでわかりずらい質問なのですが、回答いただければ助かります お願いします。