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楽しみの閾値を下げればいいのか?

子供のころは、図書館で何気なく借りた本を家に持ち帰って読む楽しみで帰り道が楽しかったものです。 しかし、大人になってそんなことでうきうきできないですよね。 そういう例えをもっと拡大して、ある小さなことに大きな楽しみを持つ、言い方を変えると、幸福に対してグルメにならない、レヴェルを下げることができれば、人生もっとうれしい気分になるのではないでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • pupurpu
  • ベストアンサー率15% (29/192)
回答No.13

人は夢見がちですが、身近なところしか自分の生活範囲葉ありません。 ですから、その中にしか幸せはないでしょう。  つまり身近なことが人生だということです。 >>レヴェルを下げる ではなく、 意識のレベルが上がれば身近なことが表層しか知らなかったということに築くでしょう。  たとえば、身近な機器のねじ1本ですら、固有の製造機械と技の知恵、作ってる人の苦労、また、部品一つ一つに会社があり、と多くのものが詰まってますが、それは物質を見ただけではわかりません。  また子供のころの話ですが、これは純粋というものでしょう。  純粋な意識を保つというのはレベルが高いということです。  子供っぽいという批判は逆であり、レベルが低いというのも逆です。  みなさかさまに見てることが多いんでしょうか?  大人になってもそのうきうき感は人間的レベルの高い状態で、優れていると思います。 現代人は心が毒されて、汚れてしまってますので、大事なことは低次元で幼稚と逆に捕らえてます。

garcon2001
質問者

お礼

ほんとうにそうおもいます。 子供のころのほうが、じつは意識レヴェルが高い、だから楽しめたんですよ。心の透明度が高い、だから喜怒哀楽が直接的だったのですよ。大切なことなんですが、あまり省みられませんね。

その他の回答 (15)

noname#100496
noname#100496
回答No.5

これは心の中の自我と無我の意識の問題です。子供や若い頃は、感性が豊かでなんでも感動するが、歳をとると感動しなくなるといいます。大人になり脳が自我意識が発達すると、頭で考えて、心で考えないからです。対策は子供のように無我にもどるか?時どき無我になる事です。方法は、脳を休める事です。禅、伝統文化の実践、茶道、演歌、日舞など、肉体労働、手作業、ペット、太極拳など、自分で、脳を休める工夫してください。脳を休める要領を習得したら、いつでも子供見たいに無我になる事が出来て、この世界のすべての物に感動するようになり、人生が楽しくなります。

garcon2001
質問者

お礼

全く持って同意です。 考えることと感じること。頭で考えて、心で考えないこと。 そういう精神の磨耗っていうのは悲しいことです。 世知辛い世とか、自意識の肥大とか、意識の硬直化とか、そうなる原因は色々あると思いますけどね。 脳を休める。まったく大事なことだと思います。

noname#194289
noname#194289
回答No.4

興味深い問題だと思います。私は人から見たら何でそんなつまらないことをと言われるようなことで楽しくてしようがないことがあります。人が理解してくれないことはさびしいとは思いますが、自分が楽しいと思っていることは確かですから、それほど深刻に悩んでいません。つまり周囲の人と同じでないと不安になるかならないかであって、自分が基準を決められるかどうかということでもあります。子供のころの図書館の思い出にしてもほかの人のことなど全く考えていなかったと思います。大人になって世間に合わせて人並みということが最大の関心事になってくると価値判断もどうしても世間からの眼で行ってしまうということではないでしょうか。グルメとかレヴェルという言葉が用いられていることと関係があるようにも思いました。

garcon2001
質問者

お礼

それぞれのこだわりってありますからね。独自の嗜好はその人固有の隠れ家、人生の豊穣の元だと思います。回答者さんのそういうものを持てる心というのは、枯れた人間が多い中で貴重なことです。 ご回答の中に大事なメッセージがあると思いました。 >つまり周囲の人と同じでないと不安になるかならないかであって、 この同質化というものが社会を構成する者(大人)にとっての、必須条件となってきますからね。これによって、個人の絶対性というものはくずれます。そして、不承不承というのが当たり前というような、非常に曇ったレヴェルの心持で生きることを強要されますね。 >子供のころの図書館の思い出にしてもほかの人のことなど全く考えていなかったと思います。 子供の特徴というのは、「絶対評価」ですよね。人がどう思おうと、どう考えようと関係ない、自分の感覚にものすごく正直になっている(もしくは相対的には考えられない)ということです。これは結構早くから(学童期になるくらい)社会性という毒刃に犯されて縮小していきますが、そういう純粋な面はいわゆる子供年代(学童期終了くらい)までのこされて、例えばそり遊びとかもう何時間でも純粋に楽しんでいますよね。 >世間に合わせて人並みということが最大の関心事になってくる それが、人間の純粋を奪うんですよね。でも生きるということは、純粋さと引き換えに手に入れるものということもできます。 >グルメとかレヴェルという言葉が用いられていることと関係があるようにも思いました そうですね。こういう言葉自体を選ぶのも、相対的評価という思考とつながっていますね。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.3

こんばんはー。 確か中川翔子さんがいってた、ブルースリーの哲学で、 「考えるな、感じろ」というのがあるんですが、 英語で Don't think!! Feel! です。 よく似てるなーと思いました。 あくなき上を求めるための考えを巡らせてばかりで、今目の前の感動に集中しないことの愚かさを、確か戒めてる言葉だったかなと思います。 いいこというなーと思ったんですが、お読みになられたことありますでしょうかー。

garcon2001
質問者

お礼

これは、侘び寂びとか茶道とかの世界と通じますよね。つまり、日常のものになんとも言いようのない詩情が隠されているから、それを感じようじゃないかっていう。スローライフ?とも通じますかね。 まぁもちろん、THINKしちゃいけないって言うことじゃないで好けども、FEELをおろそかにするなよって言うのは、今の精神医学とかカウンセリングの基本としてありますね。人間の深部を大事にという考えです。

回答No.2

エロ本や裏ビデオと同じですね。若くてエロい妄想で脳みそパンパンの頃は 酷い画質のエロビデでも十分満足できるが、慣れてくるとなんとなく もう見飽きたなーと言うヤツですね。画質や内容云々じゃなくて 飽きちゃったってなっちゃう。 刺激に慣れちゃったってやつですかね。 そういう場合は水着のグラビアとかあまりエロではない物に回帰するとか わざとじらしてしばらく禁エロするとか刺激から遠ざかると ひざびさ~って感じでまた楽しめるのですがまた飽きてそのくり返しです。 あと言えることは本気度がどのくらいかってことですね。 エロい妄想で脳みそパンパンの頃はマジでどうにか見たい というよこしまな情熱ははっきり言って偉人でも舌を巻くぐらい本気ですから。 今のあなたはなんに対しても本気じゃないんじゃないですかね。 そーなると。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.1

私はかつて私の尊敬する方と、似たような会話をしたことがあります。私はその方に、「子供を幸せにさせるのは何と簡単なことか。オモチャで彼等は十分幸せになれる」と言ったのですが、その方は、「そうかも知れないが、子供は全面的に大人に頼っている。独立して生きて行くことが出来ないのだ。だから子供と大人を一緒にしては行けない」とおっしゃいました。 大人を幸せにするには、楽しみの閾値を上げる以外にはありません。ただし、エピクロスに言うように、大人の快楽は決して享楽で手に入れることは出来ないから、何が自分を本当に楽しくさせてくれるかについては徹底的に考えないと行けないと思います。

garcon2001
質問者

お礼

その尊敬する方の言動は、わからないでもないんですがちょっと不十分な点があると思うんですけどね。というのは、ではなぜ「自立している存在であることが喜びの感覚を磨耗させているのか?」ということです。言い方をかえれば、なぜ「全面的に大人に頼っている存在が喜びに対して鋭敏なのか」なにか、この関係性が明白でないですよね。なにか、論理を迂回してしまって確証を踏み外してる気がします。

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