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楽しみの閾値を下げればいいのか?
子供のころは、図書館で何気なく借りた本を家に持ち帰って読む楽しみで帰り道が楽しかったものです。 しかし、大人になってそんなことでうきうきできないですよね。 そういう例えをもっと拡大して、ある小さなことに大きな楽しみを持つ、言い方を変えると、幸福に対してグルメにならない、レヴェルを下げることができれば、人生もっとうれしい気分になるのではないでしょうか?
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人は夢見がちですが、身近なところしか自分の生活範囲葉ありません。 ですから、その中にしか幸せはないでしょう。 つまり身近なことが人生だということです。 >>レヴェルを下げる ではなく、 意識のレベルが上がれば身近なことが表層しか知らなかったということに築くでしょう。 たとえば、身近な機器のねじ1本ですら、固有の製造機械と技の知恵、作ってる人の苦労、また、部品一つ一つに会社があり、と多くのものが詰まってますが、それは物質を見ただけではわかりません。 また子供のころの話ですが、これは純粋というものでしょう。 純粋な意識を保つというのはレベルが高いということです。 子供っぽいという批判は逆であり、レベルが低いというのも逆です。 みなさかさまに見てることが多いんでしょうか? 大人になってもそのうきうき感は人間的レベルの高い状態で、優れていると思います。 現代人は心が毒されて、汚れてしまってますので、大事なことは低次元で幼稚と逆に捕らえてます。
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NO.11 です。 >例えば、刑務所に長年服役すると、出所してきて 「こんなに外の飯はうまいのか」 仰ることは理解している積りです。 でも私はグルメのレベルを下げるために進んで刑務所に這入る積りもありませんし、実際世にあるさまざまな快楽装置に慣れ親しんだあとで比叡山に籠って千日修行ができるかといわれても、どうもね、としかいえないと思います。 要は実際的では無いとおもうのです。私を含めて(がろーん2001様ならできるのかもしれませんが)一旦覚えた贅沢を急に抑えて「清貧の思想」でしばらくでも暮らすというのは常人には不可能であると思うのです。それが絶対必要ならやれもするでしょうが、その目的が再びグルメの快楽を味わうためというのはまったくの矛盾だとは思いませんか。 かくいう私は純粋に経済的な理由でめったに外食をしません(笑;)。 同じく経済的な理由もあって一流のコンサートへは年数回程度と決めています。 ですから、たまにちょっと張り込んでいいレストランへ行ったら実に美味でありゴージャスな気分がしますし、たまにいくコンサートは大変感激ものです。 こういったことを仰っておられるのならそれは真実であり、賛同いたします。 でもこれって実に平凡なことですよね。
お礼
>一旦覚えた贅沢を急に抑えて「清貧の思想」でしばらくでも暮らすというのは常人には不可能であると思うのです。それが絶対必要ならやれもするでしょうが、その目的が再びグルメの快楽を味わうためというのはまったくの矛盾だとは思いませんか。 いや、それが私には結構理性的なことに思えるんですよ。煩悩強欲がありますから実現性があるかは別にして、これこそが、心身を健全に保つ鍵みたいじゃないですか。それに、確実に心は得をします。
- ap10
- ベストアンサー率33% (453/1356)
>幸福に対してグルメにならない、レヴェルを下げることができれば、人生もっとうれし >い気分になるのではないでしょうか? 言い得てます ただし、閾値を落す事が難しいだけでしょう ちなみに一つの閾値落としの方法としては、自分を特定の幸せを感じれる項目に対し制限をかけてしまうという方法があります。 簡単な例で、1週間程本当に殆ど食べれない状態を作ってしまい、その後食べてみると異常に美味しく感じ、幸せを感じれます ある時、時間的な余裕が全く無く酷い食生活をせざる得なかった時、ほんのちょっとだけ余裕ができ次第吉野家の牛丼食べました その時、こんな物が涙出る程美味しいと感じれるのかと感動でした まあ、多少凹んだのも事実ですけどね その時気が付いたのは、最高の調味料は空腹だと・・・ あと本ご質問とはちょっとずれますが、幸福を感じたいのであれば、感性を上げる事かな 感性を上げると、あちらこちらにある今まで気が付かなかった幸せを見つける事ができます
お礼
閾値を落とすことは難しい。本当ですね。制限を意志の力か、あるいは強制によってかけることです。しかしそれが幸福度を上げる秘訣なのでしょうね。まさに、空腹は最高の調理だ・・・
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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garconさん。こんばんわ。 できるだけ仕合せでありたいものですが 「>楽しみの閾値を下げればいい」とは思えません。 これでは諦め・妥協・負け惜しみにもなりえます。 ちょっと別の言葉に言い換えてみますね。 ☆ 楽しみ・喜び・仕合せ・満足を感じる アンテナを磨いて敏感にしておく。 ☆ いろいろなものごとをザルに入れて振るとして、 そこそこが網目をすり抜けて落ちていくとして、 喜び以外のもの(怒り・悲しみ・退屈など)だけ網の目を通る、 そんな便利なザルはないだろうから、 せめて、 できるだけ喜びがこぼれないように網目を細かくしておく。 ☆ 喜びが入るための「入り口」を広くする、 および喜びを受け入れる「居間」を広くする。 これが上手なのがおっしゃるとおり子どもなのですが、 わたしたちが、そのようであるためには、 ずっと、訓練が必要なのではないかと思います。 しかし仕合せをじゃんじゃん捕まえている人は、 それはそれで飲み込んで消化するのに急がしくて、 苦しみを感じるのかもしれませんね。 ほどほどに敏感でほどほどに荒くてほどほどに広いというのがよく、 ほどほどについて、考え、分かる、のが一番かなあと思います。
お礼
さじ加減が難しいですね。 おっしゃることは最もです。 子供は実は精神の操り方が優れているともいえます。なにせ、些細なことに喜べるというと異常の精神のうまい使い方はないじゃないですか。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#9です。 >幸福に対してグルメにならない、レヴェルを下げることができれば :という点についてもう少し考えてみました。 やたらとお金を掛けての美食というイメージがグルメという言葉にはありますし、またそのとおりなのだと思われますし、garcon2001 さんもその意味でお使いになったのでしょう。 グルメは、食の可能性を追求するという点では、美食としてのひとつの方向性を持っているのかもしれません。 しかし、農薬やら保存料やら、さらには流通コストにさえも配慮し、身の回りのシンプルな食材を地産地消する、素材の良さを生かし、コストもなるべく掛けない料理を追及、堪能する姿勢が本来の美食である、という考え方もできます。 何が言いたいかというと、 果たしてこれがレベルを下げることになるのだろうか? ということです。 つまり、 >幸福に対してグルメにならない :という提唱には、あまり幸福を追い求め過ぎてはいけない、というニュアンスがあるように感じられます。 そうではなく、 幸福の質を見直してみる、という表現によって、おっしゃりたいことがよく伝わるのではないか、という気もします。 基本的には、 何に関しても金が最重要の要素であるとする幸福感覚は、おかしいんじゃないの? ということでもあるのでしょう。 昨今のテレビはショッピング番組が非常に増えました。 愚にもつかぬ(と私には思える)装飾品やら何やらが馬鹿高い値段で売れるようで、資本主義の恥部という印象さえ受けます。 そういったものにステータスを求めざるを得ないほどに現代人の精神が疲弊しているというひとつの証なのでしょう。 >幸福に対してグルメにならない :と捉えると(幸福追求の本能ゆえに)「それは無理」となってしまいがちですが、 「本物の幸福とは何かを見直す」という感覚だと大いに賛同できます。
お礼
私も、世の中の軽佻浮薄な風潮にたいして嫌悪感と衆置換を合わせたような感慨を持ちます。ひどいですよね。物質主義快感主義合理主義ものぐさ主義、ここまで人間は堕落できるんだ!という実例のようなものです。なので、物事の本質的なことに頭をやってみる、シフトしてみることが今重要であり、最も安いごらくではないでしょうかね。
はっきりいって一旦摩滅した快楽細胞は、刺激量を減らしてレヴェルを下げても、同じ壷を使う以上もとには戻らないでしょうね。摩滅した神経細胞をしばらく使わずに我慢して再生するのを根気よく待ち、再生した神経細胞を今度は大事に、そろそろと刺激して使う。貴方の仰るレヴェルを下げるというのは、そんな情けないような貧しいイメージがありますね。 それよりも、われわれは別の第二快楽細胞を急遽開発してそこへ快楽食材を大挙投入していく。第2が糜爛したら今度は第3を探し、第3が絶滅したら第4、というふうに。 もちろんそのためには常に違った分野の快楽食材をリサーチする好奇心の練磨努力が必要です。むしろシステムの次元を上げ、こういったことに快楽反応をエスカレートさせることだって可能だとも思います。まだまだ世には快楽の種は尽きないと思いますよ。要は精神の活性化でしょうね。 >幸福に対してグルメにならない、レヴェルを下げることが-- 私はこれには絶対反対の立場です。 ご参考まで。
お礼
例えば、刑務所に長年服役すると、出所してきて 「こんなに外の飯はうまいのか」 「こんなに世のエロビデオは刺激的なのか」 「こんなに世の娯楽は絢爛豪華で桃源郷の世界を実現しているな」 という普通の人が不満たらたらのようなものに、大いなる喜びを感じるかもしれませんよね。 つまり、磨耗しても再生するものではないでしょうかね。
- cyototu
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#8です。 朗報がありますよ。うちの家内に同じことを説明したら、質問者さんよりも、私の方がズレていると言っていました。どうも、私の先生と私は一緒になってズレているようですね。だから私は、私の先生を尊敬できるようになったのかもしれません。 *むしろ、ひとり立ちするようになったら、喜びの程度が低くなったって一向に構いませんよね? もちろん理屈ではそうですね。ところが、現実はそうはなっていない。 ここは私にとっては哲学のお遊びの場なので、勝手ながらそれに関して遊ばせてもらいます。カントによると真偽の判断に2つの違った種類があるそうです。一つは「分析的真偽」と言うもので、言葉の内容に無関係に、言葉の構造を分析するだけでその真偽の判断ができるものです。たとえば「もし、『甲ならば乙である』が真であるならば『乙でなければ、甲ではない』も真である」等の例がそれです。これは数学や論理学が論じる真偽です。別な言い方をすると数学はこの現実の世界がどうなっているかには興味が無く、ある言葉と他の言葉の間の関係に興味があります。したがって数学や論理学では論理に関してあらゆる可能な整合性を探る学問です。 もう一つの真偽は「総合的真偽」と呼ばれる真偽で、これは言葉の構造をどう分析した所でその真偽が判断できず、観測や実験を通さないと判断できない種類の真偽です。具体的には「手に持った石を離したら下に落ちる」などで、これは言葉の定義や構造をどのように分析してもその真偽は判断できません。事実、人工衛星の中では落ちませんから。数学以外のあらゆる学問は、全て「総合的真偽」を探る学問です。別な言い方をすると、数学的な論理では、あの事象もこの事象もみな可能なのに、この世界では何故あの論理が選ばれずに、この論理が選ばれているのかを探るのが、数学や論理学以外の学問なのです。 前置きが長くなりましたが、いよいよ上の*の文について考えてみましょう。分析的な判断では、確かに*も可能なのですが、その可能性を受け入れたからと言ってこの世の中がそう出来ているとは限らないと判断するのが、数学や論理学を理解した方の態度です。そして、ではどういう特殊な論理が現実に存在しており、そして、この自然界ではその特殊な論理が選ばれたのは何故であろうかを論じようと言うのが、数学や論理学以外の学問を理解した方の態度です。 私の述べたことは、何故そうなっているかを論じる以前に、人間を実際に観測してみると、*という論理はこの世界では実現していないと言う、上で述べた石が落ちるのか落ちないのかと同類の総合的判断をしているわけです。だから、私は、子供から大人へと質的に違った相転移が起こってしまったという現実を認識して、もし幸福になりたいならば、閾値を下げると言う無駄な努力はせずに、「閾値を上げよ」と言っているのです。 そんな理屈はもちろん分かっているのですが、私は常々友人に「ロールスロイスを乗り回した経験を十分してから、『ねえ君、人生は金が全てではないよ』と言ってみたい」と言っております。そんな人間の複雑さが、私は大好きです。
お礼
よくわかります。 そうなっているから現実の法則に従おうじゃないか、という実利主義は非常にアングロサクソニックな成功を収めた事例からもわかります。かれらはコンピューター脳ですね。 しかし一方で、道徳観念哲学観念純粋論理の美しい世界が隠されている、それを開拓しつつ精神低芳情の世界に遊ぶというのも、大いに趣味人として奨励できることです。それはちょっとの意識改革で可能だと思われます。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
>ある小さなことに大きな楽しみを持つ、言い方を変えると、幸福に対してグルメにならない、レヴェルを下げることができれば、人生もっとうれしい気分になるのではないでしょうか? :全くおっしゃるとおりと思いますが、しかし、わかっちゃいるけどやめられない、ということは人間である以上あるのでしょう。 つまり、人間は、相対的価値観にかなり依存しているだろう、ということですが。 それは、個が多数を前提とし、自我が他者を前提としていることと大きな関連を持っているのだと思われます。 グルメというのは一種の未知探索と位置づけられるでしょうから、それに対する好奇心をあたかも無かったかのように自己処理することは至難の業でしょう。 スピードの出ない車を作るようにすれば地球温暖化も事故も減るでしょうけど、(代替策が講じられるまでは)それが出来ないのと似ているかもしれません。 >レヴェルを下げること :で他者とのギャップが生じますが、それを甘受できるだけの哲学が必要になるでしょう。 ただ、往々にして、俺はそれができないから、お前らが先にレベルを下げろ(あるいは逆に上げろ)とのたまう方もいらっしゃいます。 この場合、哲学は精神力と言い換えるべきかもしれません。 人それぞれの事情に応じてどちらでも当てはめることが可能でしょう。 人それぞれである以上、どちらか一方だけが絶対的真理ということはありません。 garcon2001 さんご自身のことではありませんが、他者に強制しなければならないような哲学は、自らの内面の問題が解決されていない反動に過ぎない、という客観的視点を失ってはいけないでしょう。
お礼
人間性は、悟れない、脱却できないという、感情が頭脳を越えられないという宿命に縛られているとは思いますが、でも、ちょっと快感中枢の対象を操作してやれば、違った方面で感動できるという習慣になれないでしょうかね。 内面が解消されていないということはまったくもってそのとおりですね。でもこれは克服できる!と思ったほうが可能性があります。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#1です。 >なぜ「全面的に大人に頼っている存在が喜びに対して鋭敏なのか」なにか、この関係性が明白でないですよね。なにか、論理を迂回してしまって確証を踏み外してる気がします。 大人が喜びに関して鈍感であったり、子供が敏感であるということではなく、半人前即ち、人間でない存在から、一人前即ち人間になった状態に相転移が起こり、世界の見方に関して、量的な変化ではなく、質的な変化が起こったと言っているのです。その質的な変化の一つの現れが独立であり、もう一つの現れが、喜びに対して閾値が高くなったと言うことです。ですから幸福に対してガキのように程度の低いものを追い求めても不可能で、閾値を高くして自分のレベルを上げなさいと言っているのです。 蛇足: >確証を踏み外してる これは単なる誤植ではなく、意味不明な言葉ですね。哲学に興味を持っている連中は論理にうるさいですよ。「教えて」欄は日本語の練習にもってこいの場所ですね。
補足
>半人前即ち、人間でない存在から、一人前即ち人間になった状態に相転移が起こり、世界の見方に関して、量的な変化ではなく、質的な変化が起こったと言っているのです。 一人前でないことから、ひとり立ちした状態に、それほど劇的な変化があるとは思わないですね。それはなにか妄想に近くないですか?それに、結局人はひとり立ちなんて誰もしてないのではないでしょうか?子供でさえ、本質はものすごく孤独で孤高だといえないこともないですよ。 それは諸説あるので強要はできないのですが >もう一つの現れが、喜びに対して閾値が高くなったと言うことです。ですから幸福に対してガキのように程度の低いものを追い求めても不可能で、閾値を高くして自分のレベルを上げなさいと言っているのです。 そのひとり立ちと喜びのレベルが上がることがどうも結びつきません。それは論理の飛躍なのではないでしょうか。 むしろ、ひとり立ちするようになったら、喜びの程度が低くなったって一向に構いませんよね?
- ri_rong
- ベストアンサー率56% (30/53)
啓発されるところのある質問だったので、自分の経験を書いてみたいと思います。 ○ある小さなことに大きな楽しみを持つ これは言い方を変えると、ある小さなことに致命的な悲しみを覚えるってことではないのでしょうか。 楽しみに関していうと、幼い頃は些細なことでも嬉しかったりしたものですが、年を重ねるに連れて傲慢になったのかどうか、些細なことでは嬉しさを感じなくなったようには思います。これは、仰る通りだと思います。でも、だからかどうか、悲しみのほうは、小さな頃にはさほどでもなかったものが、年を重ねるたびにどんどん膨れ上がっているような気がするのです。 ○グルメにならない、レヴェルを下げること は心掛けているつもりですが、すると悲しみは、あれもこれもと結び付いていって、ぐるぐる状態になり、外食ではなく日常の食卓にも紛れ込んでいるような気もします。 むしろ、最低限のレヴェルを確保してやるほうが、悲しみを収める処方のような気がしています。 これは、気のせいでしょうか。
お礼
たしかに、年齢を重ねると哀しみに対する受容量、感受性はまして行きますね。それは、子供のころは躁状態、年取るごとに欝的な要素が増えていくということですね。つまり、躁のほうが精神的には健康なわけです。 その宿命的な状況から脱するために、どんどんと躁の閾値を上げざるをえないのでしょうかね。
- pokoperopo
- ベストアンサー率28% (104/359)
ぽこぺろぽです。ガーコンさんのお例えはよく理解できますし、時にはそういう対処、つまりは、満足の敷居を下げるということも、あるいは必要となるでしょう。 しかし、われわれは大人になるにつれ、お例えの図書館からの帰途のように、日常の出来事に大きな期待をしなくなってしまうのです。その最大の要因が【感受性の鈍麻】です。ガーコンさんご自身が、その末期症状を呈している人々の、研究専門家であることをお忘れになっていませんか? そう、質問はせずに回答ばかり繰り返す《教え魔》の面々です。私がお薦めした『バカの壁』をお読みいただいたでしょう。彼らは新しい問いや未知なるものを呈示されても、上っ面を見ただけで、自分はすでに知っていると決めつけるのです。そのくせ、純粋な興味を示した者を無知と位置付け、したり顔で自説を展開するのです。 もちろん、彼らの脳内にも疑問は存在するはずです。しかし、彼らはすでに質問して得られるものへの期待を捨ててしまっているので、機械的に回答をこなすという侘しさを味わっています。その侘しい回答活動の捌け口が、質問者への軽侮であることはいうまでもありません。彼らは大好きな回答に対しても、回答本来の楽しみを見いだせずにいるのです。 私は、最近は質問を控えております。なぜなら、拙答よりも拙問にお寄せいただいたご回答のほうが、かなり多くなってしまったからです。どちらかといえば、質問に喜びを見いだしていた私ですが、回答にも喜びを見いだすようになりました。この止揚を取り払うと、《教えてちゃん》か《教え魔》となってしまいます。 パスカルが「すべては気晴らしである」と言ったように、単なる気晴らしにも喜びを見いだすことが、われわれの存在理由です。ぜひ、ガーコンさんには、《恩知らず》を含む《困ったちゃん》達の害に苦しめられている方々に、《履歴チェック》を勧められることで、ご自身の存在理由を高らかに謳っていただきたいものです。 とはいえ、《困ったちゃん》達に対しては、ご指摘の楽しみの閾値、期待値を下げるという対処が必要となります。その期待は、やがて失望に変わることは目に見えているからです。〈自分と、自分を高めるものに期待すべき〉。これが私の結論です。
お礼
ここでも、感受性鈍磨の代表例として、回答魔がでてくるのですね。差もありなんと思いますね。 やはり、人間処理能力の限界とか自意識の肥大とか賞もないところがありますね。そういう限界がこの意固地さを生むひとつの要因でしょう。
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お礼
ほんとうにそうおもいます。 子供のころのほうが、じつは意識レヴェルが高い、だから楽しめたんですよ。心の透明度が高い、だから喜怒哀楽が直接的だったのですよ。大切なことなんですが、あまり省みられませんね。