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自分は幸福であると言えない理由

私たちは自分を不幸だということは比較的簡単です。 しかし逆に幸福であるというのは案外難しいです。 私たちがネガティブな考え方が得意な理由はなんでしょうか。 また、ポジティブが苦手な理由はなんでしょうか。

みんなの回答

回答No.8

回答番号:No.6  ○shift-2007さんのお書き込み  ○生きるとは常に不満であることでしょうか。  ・投稿者:回答欄に記載の通りのことですので、満足ということが不定である、満足ということの内容がないのです。ですから、不満足ではなく、満足そのもがない。  ○或いは不満であることが生きるインセンティブなんですかね。  ・満足であり、不満足であるという、静止し、飛んでいる、飛ぶ矢です。  ○完全な満足を得たら人はどうなるんでしょうね。  ・それはプロセスであり、方法であり、聖なる対象であり、結果目的ですね。人の生きる義務は完遂した結果ですね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとう御座います。 なかなか難しい境地ですね。

回答No.7

それは、頭或いは分別、或いは理屈で考えているからと思います。世の中を理屈で考えた場合には、答えは出ません。なぜならば、理屈や理論では割り切れない事が有るからと思います。割り切れる問題ばかりなら、頭は納得できると思いますが、世の中には割り切れない問題や、矛盾に満ちた問題が存在しているからです。 割り切れない問題を、割りきることしか出来ない脳で考えているせいで、ネガティブな思考に入ると思います。それは悪循環に入ってゆく事を意味しています。なぜならば割り切る事がその機能として作用している脳に、割り切れない問題を割り振った事になるからです。或いは言葉を替えたなら、出来ない方の脳に出来ない問題が割り込んだともいえるからです。 人間の脳には出来る事と、出来ない事が有ります。その前に脳が大人になった場合には、その機能の点から言えば二つに分かれたという言い方も出来ます。是が聖書の中の天国から追放されたという事ですが、天国に一番近い存在は幼子という事の意味は、未だ分別する脳と、生き物としての脳が未だ二つの機能の分化が出来ていなくて、心は一つ、という事になります。 脳の機能の分化が完成に近くなる頃、人間には悩みや、疑問が生じてきます、是が高じた場合には、障害にまでなってしまう場合が有ります。是なども、心が二つに分かれた結果とも言えます。すなわち分別脳で分別出来ない問題を解こうとするという事になります。 この解消方法が、自分の二つに分かれたた心を、又一つにするという事です。自分自身を知るという事です。自我意識が自分自身の命の源を司っている意識、仏性と出会うという事になります。この方法或いはテキストが禅問答という事になります。 禅問答は自我意識の分別する心では、理解不能です。人生の理解も分別脳の機能では理解出来難いと言えます。自我意識の分別出来る機能とは有限の事に限られているからです。なぜならば割り切ってゆく機能は、割り切れる問題だけにしか、対応出来無いからです。 従って人間の悩みとは、有限の自我意識が、有限の自我意識の機能で考えている事によって引き起こされている事と言えます。本当は元々限界などなかった頭、或いは脳で生きていかなくなった事を意味しています。元々悩みは無かったものを、限界が有る自我意識だけで考える習慣が出来てしまったとも言えます。 もっと言うならば、有限の事しか理解できない「自我」が永遠を求めている事が、悩みの大元を形造っているとも言えます。洋の東西、昔も今も、人間の悩みは同じとも言えます。 ネガティブな思考というものは、機能的に出来ない方の脳で、解く事が出来ない問題を抱え込んでいる状態の事です。その苦しみからの解放のためのテキストが「禅問答」と言えます。自我意識が限界と認識する、或いは自我意識には出来ないと判った時に、もう一つの意識が出てきて、困っている自我意識の心を救い上げます。是が救いという事になります。 禅問答が解ける事を、「生死の問題が解決した」という言い方をします。その心境は「今更、お前は誰かと聞く必要はない、もう既に知っていた者に会っただけ」という事になります。本当は誰でも毎日何百回も出会っています。分かり難いですが、障害になってる人やネガティブになっている人は、「それ」と仲たがいをしているという事が言えます。 「それ」を無視した形になっている事が障害を作っています。「それ」と仲直りをした状態がポジティブな状態と言えます。。「それ」は全てを肯定している者です。絶対肯定という形をしている者が誰の心にも存在しています。それは「無意識の意識」という形で存在しています。分かり難い存在です。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとう御座います。 理屈で分からない事を言葉にするのは中々難しいですね。 私は時々心の問題は自作自演の一人芝居ではないかと思うことがあり、 なにかすごく単純な気づきによってそれが一掃されるのではと感じています。 これからも自分の理解を深めて生きたいと思います。

回答No.6

 生きているからですね。なぜ私は神に愛されるのかにも、関連のことを書きました。  私たちは同じ状態には居ませんから、その状況になると、前に願っていた事になっていても、やはり異なることを思うのでしょうね。  そして願うことも、自分という存在の何が願っているのか、体表事項での願いなら、年中変わりますものね。  体表の事情も、願う対象の事情も。そしてヴァラエテイと取り留めなさ。そんなことではありませんでしょうか。  人間って、力、当為ですよね。フォース。  それは究極者から究極者への飛ぶ矢でしょう。  飛ぶ矢は止まっている。しかし同時に飛んでいる。  これが満足であり、不満足である理由ではないでしょうか  shift-2007さんのテストを受験して、合格点を頂くために。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 生きるとは常に不満であることでしょうか。 或いは不満であることが生きるインセンティブなんですかね。 完全な満足を得たら人はどうなるんでしょうね。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.5

#4です。 有体に向上心と書きましたが、何かを必死に努力するという意味での向上ではなく、実際は「保存本能」といったところでしょうか。 無から生じて有となる(このエネルギーの連続という意味で[向上心]を使いました)のが生だとすれば、生きていること自体が保存の継続であるわけです。 ネガティブは「>得意」というよりは保存のために必然的に備わっている安全弁ではないかという気がします。 保存の反対は安定で、両者のバランスがとれた状態が生ですが、自我が脆弱だとバランスをとるのが難しくなり、安定のほうへ傾斜することになりがちでしょう。  

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 保存のためだとすると、ある意味生きていくことが目的であるということになるでしょうか。 ただこれだけだと不幸を味わいながら生きていくインセンティブに欠ける気がしますね。 当事者(不幸を味わっている人)としては何のための不幸なのかを自分なりに納得しておかないとやってられなくなりますね。 価値を見出しにくい人生というものにおいて、幸不幸を選択できる鍵は自我の強さにかかわってくるのかもしれませんね。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.4

幸福は放っておいても差し支えないが、不幸は改善しなければ生きづらいから改善の叩き台として問題視される機会が多いのでしょう。 基本的には向上心の為せる業ではないかと思います。 ただ、幸福か不幸かは受け止め方次第ということもあります。 不幸と感じることが多い時点ですでに生きづらいわけですが、ここにはたぶん自我の脆弱さがあるような気がします。  

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに不幸=問題ですね。 問題を解決するのは明確でわかりやすいです。 ただ、回答していただいた中にもあったのですが、幸福とは達成されるべき対象なのでしょうか。 向上心は見方を変えるとなんだか恐ろしい気がします。

  • rukidayo
  • ベストアンサー率13% (25/188)
回答No.3

良いことより悪いことの方が多いから、何かを考えたとき一番最初に悪いことが思い浮かぶのでそのままネガティブ思考になるんじゃない?

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 何をもって良いとするかがポイントになるのかもしれませんね。

noname#93436
noname#93436
回答No.2

「幸福になりたい」からではないでしょうか。 多くの人は、幸福になることを目指して生きています。 これは人間として当たり前の心理です。 幸福が、目指す「到達点」であるとするから、現時点ではまだ「幸福でない」という見方をするのではないかと思います。 現時点を不幸とする、つまり幸福ではないとするなら、まだ到達していない、改善点があるということです。 これは、ネガティブな思考によって自己確認をすることにも、つながります。 胃が痛くなると「胃が痛い」と認識しますよね。 でも普段は胃の存在など考えることもありません。 それと同じで、痛みや苦しみといったネガティブな感情によって人間は、その存在を確認します。 痛みや苦しみがある時に「自分」という存在を確認するのです。 それは、痛みや苦しみには、改善するという仕事があるからです。 喜びや楽しさといったポジティブな感情は、それ以上の改善点がありません。 だから現時点で幸せだと認めてしまうことは、生きる意味を失うという危うさがあるので、人間は不幸せでいようとするのだと思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >生きる意味を失うという危うさがあるので、人間は不幸せでいようとするのだと思います 確かにこれは言えています。 努力し続けることに価値を置くのは、逆にいえば永遠に達成しないことを意味するのかもしれません。 これは考えようによっては恐ろしいことですね。

  • number44
  • ベストアンサー率27% (20/72)
回答No.1

100%幸福になれないからじゃないですか? ・幸福というものは背反する事柄が多くあります。 例えば「痩せたい、スタイルが良くなりたい」「美味しい物を一杯食べたい」は、背反します。 なので、必ず不満が残ります。 ・幸福のためには10のうち10,9くらいが良くなければならないですが、逆に7,8くらい良いことがあっても、2,3悪いことがあれば不幸と思いがちです。 こんなことが原因なんじゃないっすか?

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに幸福に関しては100%を望んでしまうところがありますね。 足るを知るということがポイントかもしれません。

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