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ぶっきらぼうは いただけませんか?
【Q‐1】 まっ 罪ではないでしょうが ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか? 【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか? 【Q‐3】 ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか? それとも 何らかの愛想があることが 地であって その上に 愛想の多い少ないや よい悪いが 図柄となって 実存していますか? 【Q‐4】 《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? つまり 《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか? 自由にご見解を述べて ご回答をお寄せください。 【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】には たくさんのご回答を寄せていただき まことにありがとうございます。これは 続編のごとくになりますが よろしくどうぞ。
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bragelonne様、いつもわたくしを諭して下さって本当にありがとうございます。 わたくしとのやりとりが「bragelonne様が何らぶっきらぼうでもなんでもない」ことを証明しているかのようです。 お題:ぶっきらぼうvsのっぺらぼう >わたしの思うに その中味が《未整理・未整頓》であっても 《いま・そこにいる存在》のほうが 哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり《えらい》のです。この大前提に立って と言いますか この大前提じたいが 《わたし》の問題 すなわち それとしての《他人》の問題なのではないかと思っています。さて いかがなものでしょう? はい、おっしゃる通りでして、だからこそ【のっぺらぼうが多数派】なこの時代だからこそ【哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり≪えらい≫のです。】とこだわりをもって信条を貫くという意味の【ぶっきらぼう】なお方が何よりも「貴重で得難い」のだと確信するのです。 それに≪わたし≫を尊重すればするほど、≪わたし以外≫のものが相対的に尊重されなくなるのは自明のことです。 何故あえて両者の優劣をつける「必要」があるのでしょうか。 ちなみに、≪神≫と≪ハサミ≫は同じ視点で語られるものなのでしょうか。 仮に≪ハサミ≫をフーコとするならば、「主体=使用する人」によっていかようにも社会という紙切れを切り刻むことができると思うのです。 で、≪ハサミ≫にも「顔」がついていたら、気持ち悪いし、話しかけられても困ります。 やはり≪ハサミ≫は高品質な無機質なものでないと、でものっぺらぼうと思えばやはり不気味にも思えてきます(笑)。 で、切り刻む紙切れにしても、例えばありきたりの白画用紙でも、幾重にも手間暇かけて製作された温かみやぬくもりのある美濃和紙でも土佐和紙でも、どちらでもよろしいかと思われます。 まさか≪ハサミ≫で≪神≫や≪わたし≫を切り刻むなんてあり得ないと思います。 もちろん、≪ハサミ≫を用いるのが気に入らないから、≪神≫や≪わたし≫には「両手」がありますので、必要であれば紙切れを丁寧に半分に折って、つつ~っと慎重に切る方法もアリかと思うのです。 最近の子供って、不器用といいますか、なかなか「手で切る」といったような昔ながらの手法を知らないケースが多々あるように思われます。 ですから、臨機応変にハサミや手で切るなど使い分けを伝えていきたいなあ、と母親として感じます。 そして、「さて、どうでしょう?」という一つの言葉にわたくしは限りなく「哲学の可能性」を大いに予感させられます。 だって、「科学の合理性」によるならば、どうひっくりかえっても「ハイ、終わり!」に帰結する問題があるはずです。 でも哲学の思索においてはどこまでも延々と続く可能性が秘められているのですから、bragelonne様が「さて、どうでしょう?」を放棄しない限りにおいては、わたくしはこの対話を続けさせていただけるのです。 何て嬉しいことでしょう! これって凄いことです♪ >そして たしかに この全部のボウを なぜか 女性は 持ち合わせている(包みこめる)のかも知れません。 そりゃあそうです。 この一行だけを取り上げてみると、朝から顰蹙ですが、何故か意味深なものを感じずにはいられません。 a様のおっしゃる「芸術哲学」に通じるものがあるかもしれません(汗) >その試行錯誤の道のりを 尊ばない。《あやまちを侵したであろうがあやまたなかったであろうがあとから検索することなどどうでもよい》主義。 所詮≪ハサミ≫はハサミですから。 わたくしがランチに何を食べよう?と問いかけようにもこたえられないように思うのです。 ただし、韓国焼肉のようにお肉をハサミで切るなど異文化においては「エエッ!こんな用途もあるの?」という視点はユニークで面白いものだ、とは思われませんか。 また、フランスで友人と大ゲンカしたことがあります。 たかが直径10cmの缶詰のふたを切るのに台所の棚の最上段奥から「電動缶切り」を出そうと言ったときです。 わたくしは思わず「面倒なこった♪」と言ったところ、「これは便利なの!手で切る方が面倒でしょ?」と言われて「は?バッカじゃなかろかフランス人って♪」と派手にやりあってしまったのです。 キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 Alors, a tout a l'heure!
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- 阿加井 凛悟(@neutral)
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葡羅儒論禰さんこんにちわ。 恋人に「江戸女風」「がらっぱち」と言われている宙ぶらりんです。 >ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか? :脇の下か足の裏をくすぐりたくなります。 >ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか? :わかりません。空白。 >愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか? >《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? :愛想は、そのおうちの玄関であり、 社交性は、そのおうちの居間のようなもの。 >愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか? :玄関のドアをノックする回数が増えたり減ったりするだけです。
お礼
子卯虎瑠さん こんにちは。ご投稿をありがとうございます。 たのしいご回答ですね。 ★ 愛想は、そのおうちの玄関であり、 ☆ ふうむ。なるほど。《玄関》であるなら 誰でも 持ってはいるのですね。たしかに 会釈を切らせるということではないですから ましてや あいさつをしないということでも無いわけですから そういうことですよね。《装飾》とは思っていませんが 入り口は あるわけですものね。 ★ 社交性は、そのおうちの居間のようなもの。 ☆ ううーむ。なるほど。こう解釈しても いいでしょうか? つまり 飾りなどをつけずに 骨格と肉付けだけで 文章を書いている場合にも――というのは それが わたしの場合には ぶっきらぼうだと思っているのですが―― 《玄関》を開けて 《居間》にまで 相手をとおしているということですね。 文章を読んでくれる人びとに対して 自分の《居間》を あたかも開放しているように 示し伝えるということになりましょうか。 つまり それが あれば 《愛想》もあるし 《社交性》を欠くとは言えない。こう考え得れば かなり 心強いものですね。いいことを伺いました。多謝。 ところで ★ 「江戸女風」 ☆ とは どういうふうですか? ほんとかどうかを別にして 《がらっぱち》と同列に並べられているということは 《おしゃべりで 気風がよい》といったところでしょうか? もう一つ ところで ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか? :脇の下か足の裏をくすぐりたくなります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とおっしゃるのは ぶっきらぼうに関して そんなことは(つまり《負の印象》だとは) 言わせないということでしょうか? 考えてみれば ○ 世に言う《のっぺらぼう》 ☆ とは 似ても似つかないものであるからには けっして 肩身の狭い思いをしていては だめのようですね。 と考えました。再度 謝謝。質問は してみるものですね。
bragelonne様、お礼を拝見させていただきました。ありがとうございます。 そのうえで、とり急ぎ弁明のみをさせていただきたいと思います。 もしお気に召さなければスルーなさって下さい。 【《われあり》の諸命題】 >それほど――失礼!!――重大なこととも思わなかったのです。 >この哲学カテゴリの場全体に対しての わたしのささやかな抵抗のようなものという感覚だったのです。 今となっては「ささやかな抵抗の理由」をお伺いすることすらままならないのかもしれません。 法学部で政治社会学のサブゼミにてフーコーをちょっとかじった程度の経験しかない西洋哲学のド素人のわたくしにとっては、おっしゃるところの≪主体≫について大真面目に考えさせられる良い機会を与えていただきました。 本当にありがとうございました。 【搦め手とキザ】 これは例の質問で「誰かさん」がわたくしを「幾度となく意味ありげに言及」なさっていらしたこと、続いてbragelonne様の「私は搦め手を知りません」のとのご回答、ならびに本質問No.2のお礼の出だしの更なる「マシュマロが二つ」にふれているお礼内容から、「何かお二人にはわたくしの回答方法に特別におっしゃりたい忠告があるのだろう、それを甘んじて受けなければ」と勝手ながら拝察してしまったことから「自身=搦め手」と申し上げておりました。 また、わたくしの「キザ」発言はあくまでわたくしなりに「何とまあタイミング良く絶妙な詩をご紹介なさるのだろう」と純粋にオマージュした発露から出ているもので、逆に、bragelonne様が「ガラッパチ」とはわたくしは微塵も思いもせず、さらには「気障わりのキザ」との間で要らぬご心労をおかけしているとの認識が全くないまま幾度もふれていた件につきまして、深くお詫びをしなければならないと思いました。 本当に申し訳ありませんでした。 【フーコーとバルト】 こちらに関しましても、特段bragelonne様と論戦しようとなどとは露にも思っておりません。 週末電車内の吊広告上での週刊誌の見出しにおいて北野氏がふれられていたのを思い出し、「いかなる情報であれ人の手を通した情報というものは必ず主観が入る余地があるために、読み手というものはマスコミ糾弾以上にまずは自助努力をもってしかるべき」との思いを込めた次第です。 恐らく例の別質問においてはフーコー批判をなさるおつもりと拝察致しておりますので、この限りにおいてはわたくしは自分の非力も痛感しておりますし、また、批判に対するカウンターパートをつとめられるとも思っておりません。 申し訳ありません。 【Je ME pense, donc je suis.】 >《あやまつなら われあり》を受け継いでいるようにも思ったりするのですが どうでしょう? ヴァレリーのCahiersの2(言語・哲学)あたりに収められているものでしょうか。 通常の「penser a ~」の用法を逸脱しているから、おっしゃる通り「訳あり」な意図を感じます。 たしかに「精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っているje」とも考えられますし、もしくはアウグスティヌスのそれとは違う意図でje ME pense,~としたのでしょうか。 う~ん、とっても不思議です。 最後に、 【「対話を重ねることによって自他共に更なる探究を強く希求する」ことが誤解を受けかねない、つまり「ただの持論至上主義な論戦好き」】 これに関してはあくまでそういう可能性がある、そしてわたくしの経験的な失敗例を申し上げたまでのことで、わたくし以外のいかなる人をも想定したつもりは毛頭なく、したがって「わたしは あるということかも知れないですね。」とbragelonne様を困惑させてしまったのであれば、責任を取って、今回は発車している電車から途中下車させていただくしかないのかな、と自省している次第です。 Cela depend de vous.
お礼
No.10に対して 補います。 ★★ (No.10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「同情」の語彙「sympathie」には同義として「好感」「同感」「共感」も含む余地があるようです@crown仏和辞典 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ありがとうございます。そして 遅れてしまい 申し訳ありません。No.8で 少し 触れていたので 失念したようです。 ○ 同感:感性および理性において 同意する。 ○ 共感:気持ちに響き合うものがある。(感性のほうですね)。理性のほうとしては なんとなく 同意するといった程度でしょうか。 ○ 好感:これは おそらく 趣味嗜好の問題に より一層傾いたときの共感でしょうか。人によって 大きく違っても かまわないといった事態でしょうか。 ○ 同情:わたしは これをここで問題にするまでは 気休めのことだと思っていました。その相手の立ち場に立って ものを考えるという思いやりを含むという見解を No.8でおしえてもらいました。そして ○ sympathie のほかに pitie(ピチエ)もありますね。 ○ pitie :憐憫、あわれみ、同情 (2)〔やや軽蔑の加わった〕あわれみ (例)Quelle pitie ! 情けないな! (スタンダード仏和) そう言えば 百科事典派だか あるいは もっと以前でしたか こういう定義集を出していましたね。あぁ もう遠ざかっていたつけが 来ています。 そういえば ぶっきらぼうの辞書の定義も まだ 見ていなかったです。でも こういうふうにして 一歩一歩 ですかねぇ。 とりあえず 宿題を 終えてはいないかも知れませんが 前へすすめようとしました。
補足
mashumaro2 さん 胸を打つご文章のご投稿をいただき ありがとうございます。こころして お応えしてまいります。 ポルノ論のほうの事情をかいつまんでなぞっておきます。 ☆☆ (【Q:ポルノと言う存在】)~~~~~~~~~~~~~~~ (No.47 noname#80116=bragelone=bragelonne) ○ それは 蚊が刺しただけです。 ☆ よほど コミュニケーションが通っていないと 言えない文句です。 ですが わたしは いぢわるぢいさんよろしく mashumaro2さんや miko-desiさんのご見解に 輪をかけて 傾くものです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こうも書いております。 そして 《搦め手》の問題は ☆☆ (No.36 bragelonne) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔質問者さんは〕 必ずしも すばり ものごとを言うことも 適宜に 避けておられるのでしょうか。そこは よく分かりません。・・・ 搦め手から攻めるという手法を わたしは ほとんど 知りません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こうして むしろ この質問者さんへの評言ですね。 そして 友の ara… さんに関しましては 一たん 細かい談義のほうを任すという恰好にしました。が そのあとすぐ かれは 質問者の応答を待たずに つぎの投稿をしてしまいました。これを見て わたしは 任したことは まちがいだったと反省しました。そのために ごめんなさいの意味を込めて ワ゛レリの詩を掲げさせてもらったのでした。 直接には あやまらなかったです。ara… さんの述べること自体が そう悪いとは思わなかったです。勇み足になりはしないかというおそれです。 ★ 【《われあり》の諸命題】 ○ 哲学カテゴリの場全体に対しての わたしのささやかな抵抗 ☆ これにつきましては たとえば 《絶対という想定としての神》のことを知らなかったりすることや あるいは ぎゃくに 《ただの切りのない・その意味で悪なる無限の対話に陥るところのスピリチュアル談義》を何度も繰り返して質問したりしていることに対して それは 哲学の看板を掲げるにしては あまりにも 幼稚であると いまも ゲリラになった気持ちでいます。 ★ 【フーコーとバルト】 ☆ 《週刊誌》について わたしの頭から 抜けていました。おわびします。ごめんなさいませ。この《論戦》につきましては わたしは ドンキホーテです。 ★ 「訳あり」な【Je ME pense, donc je suis.】 ☆ さらに解明されるのを望みますと言って ひとごとの如くになるのが ちょっぴり悲しいです。カイエのほかは ひととおり翻訳で読んだと思いますが 論じるほどには行きません。すぐ次の主題に移りました。ナルシシスムあたりで いやになりました。たとえば 日本古代へ行ったりするというぐあいです。それにつけては 移り気ですね。 ★ この質疑応答の場での 対話のあり方 ☆☆ (No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしの質問への訪問者の方々が 自由に 去っていくということ・また わたしは 追わないということ これだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この・わたしにとっての《かすかな光》が フーコー論のほうではなく 日本語論のほうで 風前のともし火に 成りかけました。 【Q:日本語は 論理表現には ふさわしくないのか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4827221.html いま並行している論議ですが けっきょく わたしの言説は 世の中の秩序関係(つまり フーコーの言う権力関係ですが)における社会的な役割分担に従わない。ゆえに 訪問者は 回答しても 通じないと見て 去っていくのだという論理で 反論されております。こういう論理があるとは!!?? といったところです。 けっこう わたくしという能天気は 相手の思想に対して 突っこんでいますでしょ? つまり 搦め手から攻めるということは 苦手でして 正面から 或る程度は妥当な議論を槍にして ドンキホーテ振りを発揮しているのではないかと思います。いかがでしょう。新幹線くらいに お互い なってまいりましょうか。
bragelonne様、拙文に対し柔軟にかつ懐深い対話の機会を与えて下さることに心より感謝申し上げます。 >《同情》の問題にも気づきました。はっきりしていて わたしは するのも されるのも きらいだという年来のくせ これに関係しているようにも思われます。 「同情」の語彙「sympathie」には同義として「好感」「同感」「共感」も含む余地があるようです@crown仏和辞典 そしてわたくしは以下の点においてbragelonne様に「同情」「好感」「共感」を覚えます。 >ぎゃくに いつも どうして デカルトの命題だけを人びとは話題にするのかなと いぶかしんでいましたので 現代人には所詮真に測りし得ないかもしれませんが、デカルトやアウグスティヌスも「いつもどうしてアウグスティヌスの命題ばかり」「なぜキケロやその手の輩ばかりを」といぶかしんだかもしれません。 (歴史が繰り返すとしたら、このような人智の営みでしょうか?) どうもbragelonne様には旧い権威、既存の価値観やヒエラルキー、大規模な組織の弊害に対する「冷徹で懐疑的な目」をお持ちのようで、この点につきわたくしは個人的にこころ魅かれるものがあるのです。 また、「ぶっきらぼう」「信条を貫く」というスタンスをとることは、一見「頑なな姿勢」に映りがちであり、「実際には非常に広範で多義的な視野を持つという面」が「不可視的」になるのでしょうね。 だって、激しくデカルト賛歌な(笑)ヴァレリーの詩にあれだけ造詣が深くていらっしゃるのですから、『レオナルド=ダ=ヴィンチの方法』や『テスト氏』など、各種ご考察もきっと深いものがおありのはず。 これって「デカルトの≪主体≫批判」と矛盾してますよね?(こじつけです?) それにおっしゃるところのパスカルの「繊細さ」というものは、「現代だからこそ」ただ単に彼の哲学信条の問題だけで語られるものではない奥深さを含んでいるのかもしれないなあ、とこれまたド素人ながら思ってみたりもするのです。 もしかすると「対話を重ねることによって自他共に更なる探究を強く希求する」ことが誤解を受けかねない、つまり「ただの持論至上主義な論戦好き」と捉えられかねない側面があるのではないかな、と、これは私自身の辛い経験から申し上げる次第です。 そして「《場外》に移らずに どこまでも この場において 互いに答え合っていく・きちんと時間をかけて全部を伝え合う これを 信条にしています」とのbragelonne様のお言葉をまさにわたくし自身がお借りしたいくらいなのです。 >《哲学は 恥ぢさらしなり。ストリップなり》とも。 はい、対話を通じて「相手を素っ裸にさせようとのトラップの掛け合い」を望みつつ、その実真っ裸になっているのはいつも自分ですから(笑) >広告収入の欲しさに愛想を振りまく放送会社等のメディアが なんとも 情けない。 >また そういうふうに一般市民から見られてしまうということに対して いやしくも公器としての集団であるのならば みづから つつしむという姿勢が ふつうのことであるように考えます。 ああ!なにげにbragelonne節が炸裂していますね♪ 先の回答でふれた拙文「ディスクール」の件はバルト的に言っちゃえば、 「帰着する世界の認識は、雑報(三面記事)を消費する者によってではなくそれについて語る者によって第二次段階で作り上げられる知的な、分析的な認識に他ならない」 「雑報(三面記事)は、語る者(マスコミ)の世界の認識の方法によって作り上げられる」 「アノマリティは必ずしもある一人の人間にとって外的な事実であるのではなく、精神の深層における≪得体の知れない≫部分に対応する」 と申し上げたかったのです(意味不明です?) 【Q‐6】はおっしゃるところの「社会にとって好ましくないところを良くしようとするためなら」真相究明してもよろしいのではないでしょうか。 但し、「個人の範疇にかかわることなら」その限りではないのかもしれません。 【Q‐7】はフーコーの権力関係にもある意味通じるものがあると思われます。 つまり、現代人は望む望まないにかかわらず、深層心理のうちに力量関係のバランスをうまくとっている面があるのではないでしょうか。 例えばわたくしとbragelonne様とでは深遠なる人知の差が存在するために、「尊敬の念」「忍耐強い諭し」によって「喧嘩になりえない」わけでして。 ですが、仮に拮抗するか微妙な力量関係であるならば、往々にして張り合ってしまうこともあるのでは…? >いえ 存じ上げてはいなかったのですが あらま。「キザな方ね。」と申し上げた例の質問の意趣返しだったのですが。 「搦め手」で私自身が猛省し、「正統派なぶっきらぼう」にてNo.6様の御信頼を勝ち得たのは言うまでもありません♪
お礼
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もしかすると「対話を重ねることによって自他共に更なる探究を強く希求する」ことが誤解を受けかねない、つまり「ただの持論至上主義な論戦好き」と捉えられかねない側面があるのではないかな、と、これは私自身の辛い経験から申し上げる次第です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 搦め手からに留まらず 根こそぎになる運命を感じさせるご指摘ですね。と思います。 ここで かすかな光を感じることができると みづからに 言い聞かせるそのひとことは こうです。わたしの質問への訪問者の方々が 自由に 去っていくということ・また わたしは 追わないということ これだと思います。 さて いかがなものでしょう。世界は いかが相い成っているのでしょう。
補足
mashumaro2 さん これは 《搦め手》というよりも 《根こそぎ》と言って おそれなければいけない状態に わたしは あるということかも知れないですね。《かも知れない》というのは 例によって 能天気のわたし bragelonne ゆえです。 とにもかくにも ご回答をありがとうございます。 そうですね。とりあえず 二点 思います。ひとつは 《われあり》の諸命題にかんしては これで 三度目の投稿になったということでしたから それほど――失礼!!――重大なこととも思わなかったのです。 (ほとんど同じ文面です。したがって この哲学カテゴリの場全体に対しての わたしのささやかな抵抗のようなものという感覚だったのです。失礼ながら 正直に申せば です)。 もう一つは ★ あらま。「キザな方ね。」と申し上げた例の質問の意趣返しだったのですが。「搦め手」で私自身が猛省し・・・。 ☆ とおっしゃるとき つぎの《「搦め手」とおっしゃった方がいらっしゃいましたが》というその方は 誰かも分からず 全体として まだ ピンと来ていないありさまのことです。 ★★ (No.5) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 何も考えずに行き当たりばったりで神業的に早くボレーを打つのが得意なのです。 で、かつて、それを「搦め手」とおっしゃった方がいらっしゃいましたが…ひょっとしたらご存知でしょうか♪ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしが気にしていたことは 二段階があって 最初は 《ことあるごとに ガラッパチと言われていた人間が キザと言われて それは いったい どういうことかと戸惑った》段階です。二つの形容は 矛盾しているのではないか です。次の段階は キザは 気障りだとすれば いいところがないぢゃないかと思って 気になったことです。 そのほかのことは きわめて鈍感で 来ています。幸か不幸か 《意趣返し》とおっしゃっても 何に対して何がなのか 完全に にぶいままです。あるいはまた yukkinn66 さんが わたしの回答にポイントを与えた点についても どうも わたくし自身が 力点をおいた内容からは ずれているようなので(それ自体は よくあることだと考えます) その意味では やはり ピンと来ていないのです。 その質疑応答を 眺めてみたのですが もうこれ以上のことを 問題点などとして 想起し得ないでいます。 ★ フーコー論 ☆ は もしよろしければ わたしの別の質問のほうにまわしていただくことで どうでしょう? ★ 真相究明の問題 ☆ について 異論ありません。 ★ バルト流ディスクール論 ☆ これは――と言っても バルトを知っているわけではありませんが―― まだ その段階に達していないのではないでしょうか。というのも 公共の報道機関の配信するニュースとしては この北野事件は その内容が 伝えられていないようなのです。このOKWaveでの質疑で わたしは知ったもので それは 事実の伝達に徹しているように受け取ったからです。(そこから わたしが 問題を膨らませて 評言を与えてしまいましたが)。これも よろしかったら フーコー論のほうで いかがでしょうか? ★ 激しくデカルト賛歌な(笑)ヴァレリー〔を持ち出すなら そのことは〕 これって「デカルトの≪主体≫批判」と矛盾してますよね?(こじつけです?) ☆ その詩のいくらかを訳しただけですので ワ゛レリ論に入れないにもかかわらず 悪運つよく 覚えていることとして ○ Je ME pense, donc je suis.(われ われを思う ゆえに われあり)。 ☆ があります。つまり このように修正したほうが いいのではないかと たしか ワ゛レリは言っていたのだという記憶です。もし間違いがなければ これなら 《あやまつなら われあり》を受け継いでいるようにも思ったりするのですが どうでしょう?
オコリザルです。 bragelonneさんは相手のエートスに合わせることが出来ますからそのように振舞えばぶっきらぼうと判断されることは少ないじゃないですか。 簡潔かつ明瞭に伝えることは重要です。 最も判り易い伝え方である筈です それでぶっきらぼうと受け止められるならば相手のエートスに粉飾があって見た目以上に馬鹿であったことになります。 そのような場合に肉付けして説明しなおすのは良いでしょう。 不特定多数の場合は、明朗簡潔の精神でまづうったえて、しかる後に判り難いとされた部分に関してのみ補足すれば良いでしょう。 Q-1 マイナスに及ぶ負の印象はあくまでも自己責任です。 受け止めてによっては「おめーはあほだ」と(若気の至り)寛大に接してくれたり、礼節のなさとして怒りを抑制して表すことでしょう。 ねちねちと負の印象を持つ人もいます。 自己責任です。 Q-2 相手の人格を理解する要素である以上は多分影響します。 Q-3 地ではないでしょう。 簡潔かつ明瞭な表現を不遜なぶっきらぼうさと受け止めるならば言葉に修飾をつけるまでです。 文学的でキレイな修飾が理想ですが、相手によってはけんか腰にしか修飾できない場合もあります。その場合は貴方の馬鹿さ加減が見抜けなかった私のほうが悪いのは当然である。と、へりくだるべきです。 Q-4 相互の交流において愛想を振舞うのは礼節の一部であると考えます。 「貴方の愛が判る」そのようなお礼です。
お礼
primeape さん オコリザルさん お久し振りです。ご回答をありがとうございます。 たしかに しっかりと 簡潔明瞭に お答えいただいたという感じです。なんだか ほほえましいような感覚をも覚えました。勘違いをする人に対して その行為を鮮やかに 切って捨てていただいたようにも思います。 ★ 簡潔かつ明瞭が 基本であり 重要。 ★ 必要に応じて 肉付けをする。それは 礼節でもある。 ★ すべて 自己責任。 ★ 人格をも理解すると なお良い。いや つねに そうなのだ。 ★ これでも なお 負の飾りをつけて ぶっきらぼうだと言ってくるなら 《貴方の馬鹿さ加減が見抜けなかった私のほうが悪いのは当然である。と、へりくだるべきです》。 ☆ このように まとめてもよろしいでしょうか。まぁ ★ ばか ☆ という言葉は あまり 用いないほうがよいと――こういうふうに たぶん 長いこと 互いに やり取りをしてきた primeape さんですから わたしに分からせようとの思いで 書いてもらったのだと思うのですが―― やはり 思うものですね。なんだかなぁ。 次の一点は 言葉の用い方として あらためて ひっかかったところです。 ★ 相互の交流において愛想を振舞うのは礼節の一部であると考えます。 / 「貴方の愛が判る」そのようなお礼です。 ☆ 愛としての交通・交流となれば もはや いわゆる《愛想》ではなくて 直前のご回答にもご指摘いただいたのですが 《人間の原初的な性質》の発揮ではないか。こうも 考えましたが どうでしょう? たぶん 《愛想・愛嬌》という言葉を 広く 解すれば 同じことになるのでしょうか。そんなところでしょうか。
NO.1 です。 追加で新たなご質問が負荷されました。これ、ありでしょうか(笑;)。 >わたしの場合 話の中味については しっかりと述べるようにしています。 大体、”まともなぶっきらぼう人間氏”にはそういった特質があるようですね。対人関係において最低限自分の側から見て必要なことはしっかり遂行する。もちろんそれは利己的だということではなく、人間の原初的な性質がそこに現れているということで、相手は注意深くありさえすれば充分彼との交流は可能であり、むしろそれゆえに強い真心からの結びつきも可能だということでもあるのでしょう。 >と同時に 相手の気持ちについては 端折りたいという気持ちがあるのだろうということです 当然、誰であれそういった性格は持ち合わせているものです。程度問題でしょう。注意しなければならないのは、相手の気持ちを忖度することと愛想よくするということは関係がないということです。相手の気持ちになって考えるということはとても重要な社交能力のひとつですが、社交性にはそれだけではなく、もっと違った不純なものが沢山含まれているように思います。そこで 【Q‐5】 《同情》とは 何ぞや? 一般に ひとに対しては 同情すべきか? 同情することは 常識であるのか? ですが、「同情」はとりあえず弱者である相手の立場に仮に自分の身を置いて想像してみるということです(ここまでは人間として必須の行為でしょう)が、それだけではない、それと同時に相手の弱さを憐れみ、相手にそういった自分の気持ちを示すことでしょう。これだって多くは素直な親切心からのものでしょうが、その弱者の立場をわずかであれ持ち上げてやりたい、悲しみを軽減させたいという目的は殆どの場合達成されず、むしろ余計に相手を傷つける場合が多いものです。同情とはこのようになかなか難しいものですから、下手に相手に踏み込むことはしないでおくというのが常識でしょう。ですから、この場合においてもぶっきらぼうは合理的に働くと思います。常識的に ○ ぶっきらぼう :× 同情する だとおもいます。 もうひとつの宿題 >【Q‐6】 真相究明という問題。究明した真相を どこまで公表するのがよいか。 これは哲学というより社会学 あるいは政治学のカテではないかと思いますが、小生の考えでは純粋にプライベートな問題でなければ、徹底的な公開,公表が正しいありかたではないかと思います。
お礼
★ 真相究明〔に関しては〕・・・小生の考えでは純粋にプライベートな問題でなければ、徹底的な公開,公表が正しいありかたではないかと思います。 ☆ 同感します。基本の内容として また 方向として 愛や慈悲の問題から見ても のぞましいあり方だと考えます。公人は 面子を破り 恥ぢさらしを生き抜く必要があると考えます。 とは言うものの 愛とは 慈悲とは さらに具体的に どういうことになるでしょう? おそらく はじめに戻って ★ 人間の原初的な性質 ☆ ないし自然本性を 満たし 互いに 発揮するという内実が 基礎になるように思われますが 果たして いかがお考えになりましょうか。みなさんも どうでしょう?
補足
amazo007 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 追加で新たなご質問が負荷されました。これ、ありでしょうか(笑;)。 ☆ あ これは だいじょうぶですよ。関連質問は 補足欄で 追加すればよいという答弁を 運営者のほうから聞いています。 ★ 人間の原初的な性質がそこに現れているということで、相手は注意深くありさえすれば充分彼との交流は可能であり、むしろそれゆえに強い真心からの結びつきも可能だということでもあるのでしょう。 ☆ ほめていただいているようで ありがたく思います。 ★ 人間の原初的な性質 ☆ これに注目しました。たぶん 《原初的な性質》を満たす あるいは 発揮するなら 互いに 交通および交流は 無理なく すすめて行けるというように わたしも 思います。 ★ 注意しなければならないのは、相手の気持ちを忖度することと愛想よくするということは関係がないということです。 ☆ 哲学らしくしていただきました。なるほど。潤滑油が 必ずしも 動力になるわけではないといったところでしょうか。――これは この質問 どうやら 初めの予想とはちがって 息の長いものになりそうですね。まぁ かも知れないというところでしょうか。 ★ 「同情」はとりあえず弱者である相手の立場に仮に自分の身を置いて想像してみるということです(ここまでは人間として必須の行為でしょう)が、それだけではない、それと同時に相手の弱さを憐れみ、相手にそういった自分の気持ちを示すことでしょう。 ☆ 正直に告白しますと この同情のことを持ち出したときには ただ単に 《同情とは 気休めのこと》とだけ思っていました。このあとのご回答で 《同感》の問題も出してもらっているようです。 同感は 心でも論理でも 同意することだと捉えており 《共感》は 感覚的に 思いを同じくすることだと わたしは 規定していました。(もしくは なんとなく 同意するというようです)。同感は 基本的に 行動をも含むもので 共感は 思いにとどまるという意味合いで 捉えていました。 《同情》には 相手の立ち場に立つという思いやりの姿勢もあるというご指摘ですね。それと ★ 弱者である相手 ☆ とも規定されています。たぶん 弱い状態あるいは ふつうに 落ち込んだ状態にあるという一時的な弱者のばあいをも含むと思われるのですがどうでしょう? 言いかえると 対等の立ち場にある者同士で 時には 同情することもあるのではないかという意味合いです。 それでは ★ 憐れみ ☆ とは何か? ということも 課題になって来ますね。 ★ 相手にそういった(=憐れみとしての)自分の気持ちを示すことでしょう ☆ というかたちで 同情にかかわる。そして それらは ★ 素直な親切心から ☆ だとも説明されています。 ★ その弱者の立場をわずかであれ持ち上げてやりたい、悲しみを軽減させたいという目的 ☆ を持つと知られます。何だか 慈悲の問題にもなるかに思われて来ました。 ★ 同情とはこのようになかなか難しいものですから・・・ ☆ たぶん この点は 慈悲が 果たして 実践可能であるか つまり 【Q:慈悲は 経験現実か】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4531636.html の問題にも 足を踏み入れるかに思われます。(こちらのわたしの質問は けっきょく 答えが分からずじまいでした)。 ★ この場合においてもぶっきらぼうは合理的に働くと思います。 ☆ これは 次の前提 すなわち ★ ”まともなぶっきらぼう人間氏”〔は〕 対人関係において最低限自分の側から見て必要なことはしっかり遂行する。 ☆ という前提に立って 帰結されているのだと考えます。そして もし ★ その弱者の立場をわずかであれ持ち上げてやりたい、悲しみを軽減させたいという目的 ☆ が われわれ人間に達成可能なことであれば ぶっきらぼうの殻を破って その実践にもおもむきたいとは わたくしも 思います。果たして――けっきょく 愛とは何ぞや? とも絡んで―― 現実は どうなんでしょう?
○ 印象 ☆ の問題だというふうに 受け取るようになってしまいましたが それで いいでしょうかねぇ。 印象と、態度をとられた方の気持ちの問題でしょうか。 ぶっきらぼうじゃない方が気持ちが良いという事で。 ○ 相手に対して、情は ほとんど示さないが 友好の意思があるという態度は 持っている。 ☆ ものだからです。そう考えます。 確かにそう言われると、あいつは人と仲良くなれないんだと決め付けるのは問題になってきそうですね。
補足
kanota さん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 印象と、態度をとられた方の気持ちの問題でしょうか。 ぶっきらぼうじゃない方が気持ちが良いという事で。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 意外と きびしい問題があるように受け取りました。むしろ 人びと一般にとっての問題です。 つまり この二文に表わされた思想には 二点について くわしくお伺いせねばならないことがあると考えます。 (1) わたしについての《印象》のもたらした・相手側における気持ちの変化や影響 これは こと《ぶっきらぼう》という一つの性格に限る問題であろうか? (2) ぶっきらぼうであっても 気持ちが良いという場合も ないわけではないという意見に対して どう答えるか? もう一点 ただちに ここにつけ加えます。まづ 引用です。 ★ 確かにそう言われると、あいつは人と仲良くなれないんだと決め付けるのは問題になってきそうですね。 (3) 《あいつは人と仲良くなれないんだと決め付ける》ことは ぶっきらぼうが たとえ《友好の意志がある》としても 起こるとすれば いったい ぶっきらぼうは ぶっきらぼうゆえに その《決め付け》に甘んじなければならないのか。それとも そう決めつける人びとは 相手が ぶっきらぼうでなくても そうする場合があるのではないか。 ☆ こういった問題です。 すなわち 三つの問いかけは ほとんど同じ一つの問いに収斂すると言ってもよいようです。すでに そういう指摘を ほかのご回答の中にももらっています。 【共通の問い】 問題は どうも ぶっきらぼうという性格じたいや態度そのものにあるというよりも 相手が どう受け取るかにあるのではないか。 ○ いや もっと精確には こちらと相手との関係において 決まるのではないか。 ○ さらに言いかえると どんな気持ちを抱くようになるにしても その相手が その一定の気持ちを持ってしまえば その原因が ぶっきらぼうであろうが その逆であろうが それほど 大きな差がないのではないか。 どうでしょう? わたしの側に有利な考えに片寄ったと受け取られるかも分かりませんが どうも 相対性という世界のあり方は こういうふうな事情をかかえているように思えて来ました。 つまり まづは どちらがどうとは言えないという見方です。そういう出発点のことだと考えました。
ブラジュロンヌ様、こんにちは。 お邪魔させてください。^^ 【Q‐1】について。 私はあまり安定感のある人間ではないので(汗)他者とのやり取りはまず「防御」しつつ入ります。 ですので「愛想良く防御を感じさせない」人に対しては余計に防御を強めてしまいます。他者の領域に滑り込む手段が「愛想の良さ」だからです。 逆にぶっきらぼうや無愛想な相手だと「むやみに入り込まれない安心感」を感じます。 勿論「積極的に攻撃」を感じてしまう時もありますが。^^ 【Q‐2】について。 うーーーん。。。「積極的に攻撃」「防御が高じての攻撃」があるとさすがに「これ以上話すのは嫌なのかな?」と言う判断としますが、 「只近寄り難い」と言うぶっきらぼうは、返って興味をそそられます。^^ 【Q‐3】について。 これはどうなのでしょうねえ。。。汗 うーーーん。。。見当違いな幼い見方かも知れませんが、 「上っ面が愛想良い人は地がぶっきらぼう」で 「上っ面がぶっきらぼうなひとは、地が愛想良し」かなあ。。。と。 そんなことありませんでしょうか。。。? 【Q‐4】について。 愛想とは「他者の領域に侵入する為の手段」。 社交性とは「何かをやり遂げる為に他者から力を抽出する能力」。 (うわ!独断的意見です。。。汗) >《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか? 私は目立ちたがりやで役に立ちたがりやなので、「多数が集まる所で半分の力で手伝う」より「ちょっと敬遠されている所で全力で手伝う」方が良いです。 その方が相手にも近づけますし。^^ 穴だらけな見解だと思いますが、投稿してみます。。。 よろしくお願いします。^^
補足
yukkinn66 さん こんにちは。お久し振りです。ご回答をありがとうございます。 ☆ 「愛想良く防御を感じさせない」人に対しては余計に防御を強めてしまいます。 ★ あ そうなんですか。あ でも ぶっきらぼうの場合でも 《防御を感じさせない》ということは ありませんか? ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 逆にぶっきらぼうや無愛想な相手だと「むやみに入り込まれない安心感」を感じます。 勿論「積極的に攻撃」を感じてしまう時もありますが。^^ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ふうーむ。《防御を感じさせない》のと《むやみに入り込まれない安心感》とでは 違うのですね。 ☆ 「積極的に攻撃」「防御が高じての攻撃」 ★ いづれの場合にも わたしは きわめて《攻撃的》です。つまり 批判としてのけんかをせねばならないと決めた場合にはです。《やさしい》場合にも 批判は 少しづつでも おこなっていく性分です。 (あぁ これは ほんとうです。相手と自分との関係において そのあいだにあるものとして 何かあると思うと それを 自分の中で 自分の批判すべき部分として 認識し きちんと捉え 捉えたものを憎み そうして 棄てようとします。棄てたということを 相手に わざわざ 伝えるのだと思います)。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「上っ面が愛想良い人は地がぶっきらぼう」で 「上っ面がぶっきらぼうなひとは、地が愛想良し」かなあ。。。と。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ そうですね。先のほうは よく芸人が 仕事のときと休みのときとで このように まったく違うとも言いますね。あとのほうは 口べたであったりすると そうなるかも知れませんね。これは わたしも まだ 発展させがたいように感じました。いろんな場合があるのでしょうか? まだ よく分かりません。 ☆ 社交性とは「何かをやり遂げる為に他者から力を抽出する能力」。 ★ これは 考えさせられますね。愛ということですね。自分から力を抽出するのと同じように なのでしょうね。教育 to educate も抽出するということのようですよね。 そういうふうに 社交性を捉えれば ぶっきらぼうを 恥ぢることもないかも知れません。 ☆ 愛想とは「他者の領域に侵入する為の手段」。 ★ これは ちょっと かわいそう。欲のない愛想 あるいは 愛嬌もあるように思うのですが どうでしょう? ☆ 私は目立ちたがりやで役に立ちたがりやなので、「多数が集まる所で半分の力で手伝う」より「ちょっと敬遠されている所で全力で手伝う」方が良いです。 ★ うらやましいです。小学四年生になったあたりから 引っ込み思案ではなかったし ならなかったのですが(つまり 活発でいつづけましたが) 何かというと 顔が赤くなってしまうのです。かなりこの赤面症には 悩みました。人の前に立つのは 苦手だったですね。 ふうーむ。yukkinn66 さんは 何かことがあれば かつぎ出せば いいのですね。^^(これで いいのかな?) 《地と図》の問題が よく 分かりません。わたしは 人間は 地では 無個性だとも 考えていましたが。あれっ 漱石も 何だか そういうたぐいのことを言っていなかったですか?
bragelonne様、お礼を拝見致しました。ありがとうございます。 フーコーのスレでbragelonne様から拝聴したものは、わたくしにとって大変に得難いものでした。 「アウグスティヌスの≪主体≫よりデカルトのそれが後退しているかもしれない」は「フーコーが歴史を断絶する手法により、不可視性だった事象を可視性にして、また可視だったものをも反転もさせる」以上に脳天チョップをくらって軽い脳震盪をおこした気分になりました。 哲学って、結構面白いかもしれないなあ、って「厚顔無恥ながらも」そう思い始めています。 そして「要らぬ形容詞をつける邪な動機」をもbragelonne様ならきっと見透かしていらっしゃるだろうなあって(笑) >北野誠の辛口批評の事件もあるようですから 哲学の問題になるかも知れません。 これに関しては私には興味のない情報でしたが、もし興味がある方がいらっしゃるならば、「人は己のうちなる殻に似せて、外なる穴≪ディスクールを掘る≫」ではないかな、と思いました。 >日常性を超え 生活感からかけ離れた思索を――おそらく ただ論理的にあるいは合理的にのみ―― 繰り広げる文章論述のこと >「愛想がよい」以上に「ぶっきらぼう」の何に人は興味を抱くのでしょうか。 >対話が白熱してそう映るのか、それとも「ぶっきらぼうの何か」に反応して、対話が白熱していくのか。 の答えは、bragelonne様の毅然とした以下のご信条、 >いま 思うことは ひとつです。あくまで 自分がみづからその主題に向き合って考えたかどうか。自分の思索の歩みにもとづいて 述べているかどうか。 を貫かれるかぎりにおいて、対話が白熱するのは自明のことであるはずです。 つまり、「ただ論理的、合理的、正統にぶっきらぼう」であるならば、喧嘩も口論もエスカレートしていくのは当然なのではないか、 そしてそれこそが哲学の対話の本来の姿なのではないのかな、と「無知で愚鈍な」わたくしは大真面目に思うのです。 ですから、bragelonne様が質問なさったお気持ちほどに、あまりお気になさることはないようにわたくしは拝察致しているのですが。 ただ、強いて言えば、哲学・思想というものは、人類救済の一縷の望みといった希望的な面を担う一方、我知らぬうちに独善的な罠に陥ってしまいかねない可能性をも否定できないかもしれません。 また、こちらのサイトも一種のコミュニティとみなすならば、質問者と回答者の関係はヴァーチャルな対峙のみで何ら口論後の場外フォローもあり得ませんから、その後の気まずさを危惧、懸念される方々も相当数いらっしゃるのではないか、と拝察致しております。 そして、その方々のご心情も、また至極自然で誠実な対応であると、これまた大真面目に考えているのですが。 いかがでしょうか。 >ちょっと ボールを相手のコートに打ち返すのが 早過ぎたでしょうか? 本来のわたくしは、あまりの愚鈍ゆえに、何も考えずに行き当たりばったりで神業的に早くボレーを打つのが得意なのです(しかもライン上にのったためしがない、笑)。 で、かつて、それを「搦め手」とおっしゃった方がいらっしゃいましたが…ひょっとしたらご存知でしょうか♪
補足
mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。いくつか わたしが知らなかったこと・気づかなかったことをおしえていただきました。 ★ 脳震盪 ☆ は ごめんなさい。わたしの思いとしては ぎゃくに いつも どうして デカルトの命題だけを人びとは話題にするのかなと いぶかしんでいましたので 哲学カテゴリならばと思って 反応いたしましたというのが 正直なところでした。 でも これも ぶっきらぼうの問題として どうも 相手の気持ちに関する気づかいが かかわっているようですね。 そして じつに ちょうど直前のご回答へのお応えをする過程で 《同情》の問題にも気づきました。はっきりしていて わたしは するのも されるのも きらいだという年来のくせ これに関係しているようにも思われます。 ちなみに 北野誠の発言も その中身ではなく まわりへの配慮の問題に 問題は あるようです。 中味の問題としては ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ただ、強いて言えば、哲学・思想というものは、人類救済の一縷の望みといった希望的な面を担う一方、我知らぬうちに独善的な罠に陥ってしまいかねない可能性をも否定できないかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とご指摘のあったように けっきょくは 互いの対話 自由な対話 どこまでも対話 まだまだ対話 とことん対話をつうじて 互いに修正していくということなのでしょう。 その上で 気持ちの問題 まわりへの配慮だとのご指摘です。 そのためにも再掲載します。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ また、こちらのサイトも一種のコミュニティとみなすならば、質問者と回答者の関係はヴァーチャルな対峙のみで何ら口論後の場外フォローもあり得ませんから、その後の気まずさを危惧、懸念される方々も相当数いらっしゃるのではないか、と拝察致しております。 そして、その方々のご心情も、また至極自然で誠実な対応であると、これまた大真面目に考えているのですが。 いかがでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。この全部を受け取ったあと うんとか すんとか言ってみろと言われればですが 《場外》に移らずに どこまでも この場において 互いに答え合っていく・きちんと時間をかけて全部を伝え合う これを 信条にしています とは言いたいですかねぇ。 ちなみに 《先の者があとになり あとの者が先になる》とも つねづね 言っています。あるいは 《哲学は 恥ぢさらしなり。ストリップなり》とも。 そうしますと 【Q‐6】 真相究明という問題。究明した真相を どこまで公表するのがよいか。 ☆ にも関連しますし あるいは 同時に 【Q‐7】 相手の気持ちに配慮するというとき そのふつうの人間としての心と そして いわゆる社会的な面子とがあると考えられる。後者に 果たして どこまで 気づかうべきか。 ☆ こういう問題にも発展するのでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 何も考えずに行き当たりばったりで神業的に早くボレーを打つのが得意なのです(しかもライン上にのったためしがない、笑)。 で、かつて、それを「搦め手」とおっしゃった方がいらっしゃいましたが…ひょっとしたらご存知でしょうか♪ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《ボレー》という攻撃が ぎゃくに 《搦め手》という戦法だと見られるということでしょうか? いえ 存じ上げてはいなかったのですが 発言の終わるのを待って ただちに 搦め手から・つまり背後を攻めるなら そういうボレーですと ひょっとしたら 相手も 面子を考える間もなく まじめに つまり いつもよりもまじめに 対応することになるかも知れませんね。 ううーん。何だか 電車が動き出したようでもありますね。ここらあたりにてです。
NO.1 です。 先ほどはぶっきらぼうな回答に懇切丁寧な補足を戴き、ありがとうございました。このような質問者様はまったく「ぶっきらぼう人間」ではありえないと思います。 >たのしく読みました。 つぼに嵌ったご質問で小生の方が愉しませていただきました。ありがとうございました。 意外性を感じられたのですね。でもおおむね良くご理解いただけたと感じております。蛇足を承知で多少”補足”させていただきます。 >愛想も 一般的であり たとえ《仮面》であっても むしろその余裕を持って つくろうことも 社会一般からすれば 間違いではないだろう。 全くその通りだと思います。愛想は官能に心地よいがために大多数が賛同します。大衆社会にはおおむね必要なのです。これは常識です。 ただ、私は愛想を武器として打算づくで擦り寄ってくる輩、その手法に長じているだけで得をしている人種が許せない。更にその無意味さを快く感じて対価を払っている多数の俗物の存在がたまらなく嫌なのですね。その反動として、何の虚飾もない、いはば意味だけで困難な勝負に挑んでいる(極端な場合存在するだけで社会に立派に生きている貴父君のように素朴で冒険的な)少数の人種に好感を抱くことになるのでしょう。舌禍の北野某に好意を凭れておられるらしい質問者様には理解いただけることと存じます。 お詫び:×愛想がある→愛想が良い ですね。 愛想がない(=愛想が悪い) とはいいますが。
補足
amazo007 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 まづは わたしが ぶっきらぼう人間ではないと言っていただいて ありがとうございます。それにつけても 気づいたことは わたしの場合 話の中味については しっかりと述べるようにしています。と同時に 相手の気持ちについては 端折りたいという気持ちがあるのだろうということです。なかんづく 《同情は されるのも ごめんだし したくもない》という性格 これではないかと気づきました。 【Q‐5】 《同情》とは 何ぞや? 一般に ひとに対しては 同情すべきか? 同情することは 常識であるのか? こういう質問も 追加したいと思いました。 もう一つは 社会問題のほうのようですね。 ★ ただ、私は愛想を武器として打算づくで擦り寄ってくる輩、その手法に長じているだけで得をしている人種が許せない。 ☆ するどく迫っておられるようにお受け取りしました。それに関連して ★ 舌禍の北野某 ☆ の問題にしても どうも 某宗教団体(究極のところでは 事実性を わたし自身が確認したわけではないので こう言います)がスポンサーになっての広告収入の問題に帰着しているとも受け取られています。 【Q:北野誠の不適切発言】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4870954.html によりますと――ちなみに この質問は 《役に立った》が 425件になっています―― この宗教団体をとおしての政治献金あるいは政治活動について 北野誠は 触れたことが 問題とされたようです。問題を起こしているのは はっきりと ぎゃくだと思います。信徒による政治活動は 公然の事実なのですから。 もし実際がこのようであるとすれば 広告収入の欲しさに愛想を振りまく放送会社等のメディアが なんとも 情けない。また そういうふうに一般市民から見られてしまうということに対して いやしくも公器としての集団であるのならば みづから つつしむという姿勢が ふつうのことであるように考えます。宗教団体が 政党を牛耳っているのではないと みづからが 証明すべきではないでしょうか。 一方的に つづってしまうという仕儀になりました。お耳に障るようでしたら 聞き流してくださいませ。(→この程度の 愛想は わたしにも あるみたいです)。 ちょっと 軽はずみと見られかねない応答内容になってまいりました。中身については わたしの自由な発言です。言いかえると 【Q‐6】 真相究明という問題。究明した真相を どこまで公表するのがよいか。 社会にとって好ましくないところを良くしようとするためなら 解明し公表し みんなの話し合いの場に 載せていくのがよいと考えます。 さらに一方的になってしまいました。その点 お詫び致します。 それでは このあたりにて。 (字数が多い場合には お礼欄の内容をも 補足欄に いっしょに 述べるかたちにしておりますので あしからず ご了承いただきますよう お願いいたします)。
【Q‐1】ぶっきらぼうはいただけないか。いただけないと思います。 いたずらに否定はしないですが。 【Q‐2】印象は違って見えると感じます。 【Q‐3】そんな人もいれば、違う人もいると思います。 【Q‐4】相手に対して、情や友好の意思があるという態度。 社交辞令として見せることもあるでしょうね。
お礼
kanotaさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。お叱りのほうのご回答ですね。 そして ★ いたずらに否定はしないですが。 ☆ とおっしゃるごとく さらにまた わたしも 《まっ 罪ではないでしょうが》と言ったごとく 今回は 総じて言って ○ 印象 ☆ の問題だというふうに 受け取るようになってしまいましたが それで いいでしょうかねぇ。 というのも ★ 【Q‐4】相手に対して、情や友好の意思があるという態度。 ☆ という定義によって これは たとえば倫理の問題にまではなっていないのかなと思ったのですが ううーん どうなんでしょうかねぇ。むろん ★ 社交辞令として見せることもあるでしょうね。 ☆ というマイナスの側面は 別としてです。 というのも ぶっきらぼう人間であっても けっきょく ○ 相手に対して、情は ほとんど示さないが 友好の意思があるという態度は 持っている。 ☆ ものだからです。そう考えます。 どうなんでしょうか。わたしが 自分に都合のよいほうへ 傾いたでしょうか。どうでしょう。
お礼
結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか? どうでしょう? * あるいは イリ歴史知性の中から ヨセ超歴史知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか? * 内面において自己崇拝的な《ヨリ》を《復活》させてのように あらたな歴史知性として立った《コギト》知性。これによれば たしかに もはや 人びとの知性は 針ねずみのごとき容貌を現わして来た。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《コギト》について 悪口のみを言っています。偏見です。《はさみ》説を普及させる必要があります。 かくて 世界は 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》なる知性の入り交じる交通関係網より成るとなるでしょうか。粗削りですので よろしければ たたき台として どうでしょう? 現代には 《純粋な》ヨリは いないでしょうね。イリ歴史知性に 一たんは 目覚めたのに ふたたび どういうわけか ヨリの眠りのほうへ 傾いていく。それが のっぺらぼうなのかも知れません。 まなざしをもっぱら上から注ぐ超越知性のヨセも ふつうのイリ歴史知性が 本籍です。コギトも 同じくです。コギトを イリが使うのと ヨセが使うのとでは 微妙に 違ってくるのではないでしょうか? 二階建て構造は むしろ 逆立ちしていないでしょうか。
補足
mashumaro2 さん もう一度お早うございます。ご回答をありがとうございます。 興味本位から入ります。 ★ キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 ☆ あぁ これも 或る種の ぶっきらぼう ですね。よかった よかった。と言っても いけませんかね。 なるほど 上手におっしゃる。フーコは はさみであると。(フーコーを改め フ―コ とわたしも します)。例の passcard さんから そういうふうに一度指摘されていたのですが たとえば次のような指摘も あたまに残っていました。 ▲ (今村仁司:構造主義 『現代思想を読む辞典』1988)~~~~~~ ・・・ 構造主義の《構造》概念に関する認識論的諸問題 さらに構造主義が秘かに想定している存在観の諸問題を吟味することが残されている。 構造主義の科学は完了しているのではなく 今後も批判と討議を経て発展すべき未来に開かれた学問である。 構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である。したがって 構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《構造主義が秘かに想定している存在観》 これですね。認識論は はさみでしょうが 思想つまり すでに 生活態度の問題にも 入って来ているようにも感じたのでした。《無主体》説では 困ると思います。ぎゃくに 認識論だけなら・つまり はさみであるなら 道具であるということですから 無主体は 当然ですね。 ○ 鬼に金棒 ☆ この表現は 鬼も金棒も 話し合い主義にとっては まずいですね。戦略・戦術だとか 男性軍・女性陣だとかも そろそろ 代わりの表現を探すべきでしょうね。《大船に乗った気持ち》も どうも古いですね。 さて 前編からのつづきとしましては mashumaro2 さんと《過激性》を競うという誘惑にかられました。 ☆☆ (【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】No.78補足欄)~~~~~~ その昔 ひとが死ぬということを知ったとき ひとは その存在の時間的な存在性に・そしてその時間的な存在が互いにいとなむ世界に みづからの意志において 《イリ(入り)》しました。歴史知性の獲得です。 その以前には なにごとにも《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性でしょうか。 歴史知性を確立していくにつれ 《ヨリ心性》に留まっている場合をどうするかという議論が起き 片や そのまま 《イリ知性》の漸進的な歩みを説く人びとと そして 片や そうではないと言って この歴史知性の潜在なるままの《ヨリ》原始心性を 《ヨセ(寄せ)》るのだと主張する人びとが出て 対立します。 結果は ヨセなる言わば超歴史知性の側に イリ知性の側が 国ゆづりするというかたちで 譲歩し従属することになりました。 途端に それまでの社会は いわば平屋建てであったものが 二階建てに早変わりしました。むろん 二階には スーパー歴史知性なるヨセ派が 住まうということになります。 この二階から 説いて言うには 第一条として ▲ 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。 ☆ でした。そののちにも 大きく王位を争う六七二年の乱をはじめ 自分たちの雲の上では 波風を立てても よいが 下々では ならぬと言う。その以前には 蘇我氏と物部氏が 仏教受容かどうかで 争ったとき 聖徳太子は 前者の軍に加わり戦っておきながら 上の条文をこしらえた。 ということは 《ヨセ》なる知性は 別格であって 人びとは その知性に対して 波風を立ててはならないと言っている。ことになるのでしょうか? どうでしょうか? ヨセなる超歴史知性:天つ神 イリなる歴史知性: 国つ神 ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草) あるいは ○ 罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。 ☆ という世の中が 出来あがって行きました。とさ。