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フーコーは 人間は権力人だと見たのですか
【Q‐1】 かつての実存主義で言うように 権力ないし権力関係というのは 社会生活において一般的に見られるものであって それは 基本的に言って 人間関係における視線の上下関係のことを言うと捉えてよいのでしょうか? 【Q‐2】 もしそうだとして このように 視線をそそぐ・受けるという関係が たとえば西欧中世では《羊飼いと羊の関係》のごとくであったと考えられるが これは そういう《認識の装置》が 大きく言って《物語》として 人びとに共有されたことを意味する。これで よいでしょうか? 【Q‐3】 この《認識の装置》としての物語は いわば 権力関係の素であるように思われるのですが それは どこから来るのでしょうか? たとえば 《構造》から来る。もしくは社会の総体的な《構造》じたいが そういうものである。ということでしょうか? 【Q‐4】 このような構造ないし物語が どの時代にも はたらいて その意味で一定の文明をかたちづくっているとするのならば 人間は 権力関係人ないし権力人(――これを ホモ・何と言えばよいでしょう――)であると規定したと捉えてよいのでしょうか? 【Q‐5】 もしすべてこのようであるとすれば そのときには フーコーは そのように自分の紡いだ《権力人物語》を 人間と社会とに あらたな認識の装置としてのごとく おおいかぶせようとした。としか捉えられないのですが じっさいのところは どうなのでしょう? おおしえください。 【Q‐6】 わたしの見るところ どうも 《構造》を 人間の意志の与り知らない《無主体の過程》であると捉える前提があって 簡単に言ってしまえば この前提が わざわいしているように思えるのですが どうでしょう?
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こんにちは。スピーディーですね。 どうも、「フーコーは人間は権力人だと見たのですか」というタイトルに対して、補足される文章を鵜呑みにして吟味していると、再びまな板の上でひとり踊りをさせられそうですから、タイトルの文言のみに話を戻して答えてみます――という、断りをしておかないと、ならないような気がしました。というのも、 僕は別な質問で「歴史はくり返す」と問うたのですが、僕らが「歴史はくり返す」と言うとき、その「歴史」という言葉は、その都度、他の言葉に置き換えることが可能な、言わばひとつの「例」としての役割として語られているように思うからです。 「歴史はくり返す」と言いつつも、例えばそれは、ある時には「戦争はくり返す」であるとか、もう少し抽象化して「悲劇はくり返される」といったような、そういう代替可能な言葉の例として「歴史」という言説は語られていると思うのですね。 それが「例」であるのかどうか、それはその「歴史」という言葉を少し引いたところから眺めてみると、よくわかります。それが例である証拠には、僕らはその「歴史」という言葉がいったい何を意味するものなのか、まるで特定できないでいる自分に気付くからです。 それは、一般的な何らかの史的事実を指す「例」であるとともに、その語り手のみが語り得る個別的な「こと」を指す「例」でもあり得るわけです。どちらかが判然としないこれら二つの例の狭間で、ある者はその例を歓迎し、またある者はその例を嫌うでしょう。 ある者にとって、外的環境の出来事など、「歴史」という言葉のなかでは明確な境界線が引けないわけですから、「歴史はくり返す」という言説の「歴史」は、意味とは別に言い換えてみると「例はくり返す」というほどの価値でしかありません。 ところで、その「歴史」という言説から、見る者にとっては(外的環境として築かれた)意外にソリッドな部分を、一つひとつ殺ぎ落としていってみるとどうでしょうか。 最後に残されるものは、「人は生まれ、やがて死ぬ」この一点でしかないのではないか、という気がするのですね。僕は、それを良い事だと思ったのですが、それは良否の判定は不可能だよというすばらしい回答と、「そのようにして」わたしの中へと返るのですよ、というすばらしい回答を、ふたつ頂くことができました。このためかどうか、 どうもあなたの場合、「人は生まれ、やがて死ぬ」――こういう次元から、まさにフーコーをひとつの例として問われているんじゃないの? という、どうも常々そういう気がするものですから、最初に釘を差しておかないとならないと思いました。 その上で、いちおう答えを補足してみることに致します。 (1)にある「視線を上から注ぐ場合」この言説に、すでに前提として「主体」が規定されていますよね。ですから、《抑圧》《道徳や社会慣習の規範に 倣うべし》どちらも主体を前提にした問題提起ですと言う事ができます。(1)の部分でずれているので、軌道修正が大変ですが、 (2)の「規範に従いなさい」という言説が、「規範に従いなさい」と言う「主体」を生むのだと言ってるわけです。規範を信じる個々の言説が、やがてその規範を戦略として持つ何らかの制度を作り出す。ですから、(3)の〔それがどのように生じたにせよ〕と仰る部分が重要です。禁止というのは、すでに仕上がった主体が下すものです。そうではなく、その前段階を問題視しているわけです。 >中央集権と地方分権 これはフーコーの表現ではなく、僕の表現ですから、お詫びします。また文中で主体に対し、戦略という表現を使っていますが、人間が集団生活を営む上で、そもそも制度というものは、いったい何を目的として、どういう必要性から生まれたのでしょうね。 フーコーはそこに規律とか、規範というものを見ているのだと思います。 正しく運用される上では規則のための規則というものはないと思いますが、それゆえに規律はそれ自体では主体とならず、規律が働くことで生み出される「何か」こそが、主体足り得るわけです。律令に限らず、それは道徳であり、可能性であるような、そういう(生み出された主体からすれば、戦略に当たるような)何かのなかに、権力は表れるのであって、そこから生じた主体をいくら排斥したところで、権力の本質は捉えられないだろうという見立てだと思います。この構造を、制度一般から切り出してフーコーは語るわけですね。万事がこれだという万能性は語らない、いわば非対称の言説です。 >というよりも これでは 経験科学の議論ではないと見ざるを得ないのですが どうなのでしょう? 通事的でないと書いたのはこの事で、フーコーの場合は、古代・中世・近代と時代を三つに切り分けて、それぞれの区分に属する言説を吟味しているわけですが、そのように区分を切り分けるのは、変遷がグラデーションではなく断層が見つかるからだと思います。 そうではないよというふうな見立てができれば、結論は同じであっても導出方法の間違いは指摘できると思います。ただし、どうしてこのような論じ方になるかといえば、それは言説に対する反証可能性を明確にするためではないでしょうか。科学というものに、普遍性とか万能性を見る人もいますが、科学が科学足り得るのは、反証可能性があるか・ないか、この一点にかかっています。フーコーの準備した材料、そして推論を用いた結果、違う回答が導出できるかどうか、反証可能性とは、これが検証できるかどうかということです。もしも「経験科学の議論ではないと見る」ならば、彼の作品の検証にどこか不足があると、ご存知だということになると思いますが、どうでしょうか。 別な材料、別な推論を用いた結果、違う回答が導けたとしても、それは並列する二つの仮説があるというだけで、一方が他方を否定する根拠とはなり得ません。同様に、 恣意性説は、合理性に支えられた音象徴説に対して立てられたお説というだけで、言語の発生から変遷に至る過程をきちんと解明したようなものではないでしょう。近年になって恣意性説が注目されたのは、言語が普遍性や合理性に支えられて今日まで伝えられたと考えるよりも、数度に渡ってパラダイム変化を経験しており、その変化の痕跡が見つかるという点で、信憑性が高いというほどの意味だと思っていましたが、違いますでしょうか。 このサイトにも科学に携わっておられる方は大勢おられると思いますが、それが科学的か否かという言説には、とても神経質になられると思います。あとは余談ですが、 恣意性説に因んで二年程前ですが、少し議論の機会を得たことがあります。 対象は、アリストテレスのプロブレマータ(『諸問題』)ですが、哲学のジャンルで語られる『諸問題』には、ひとつの大きな誤謬があって、大事なことである割に、案外知られていない事です。今では定説ですが『諸問題』には、独立したふたつの作品があった。ひとつは、ラテン語で流通した本来の『諸問題』、もうひとつは、13世紀あたりに創られ、俗語で流通した『諸問題』です。前者は学者の間でのみ広まり、後者は学者以外、とりわけ医者の世界で広く利用された。産婆術であるとか、民間治療に関する逸話は後者に属するもので、本来なら出自の異なる別なテクストに由来するはずが、ずいぶん長い間、アナロジーとして解釈されて同じアリストテレスに帰される問題として取扱われてきました。 解釈に解釈を重ねて成立してきた近代のアリストテレス関係学が、実は別々の冊子に由来する言説の違いにあったんですよとなれば、このような断絶は、どう言い包めても溝が埋まらないようなものだと思います。こういう溝は、ほんとうに度々経験致します。
こんにちは、passcardです。 この問題について、僕の意見はすでに申し上げていますから、回答の資格はないのかもしれませんが、しかし、ひと通りの回答を見比べる上において、ここに回答を置いておくのは無駄ではないだろうと思い、投稿します。 【Q1】【Q3】 まず「権力」ないし「権力関係」についてですが、フーコーの権力構図を、もう一度おさらいの意味をかねて書いておきます。 権力というのは、古来から、ある主体が別の主体に対して及ぼす影響というふうな意味で使われてきたと思います。「主体」と書いたのは、それが人間個人であったり、国家であるとか、階級であるとか、性差であるとか、そういう集団的なものに対しても語られてきたからで、テーマによって主体はいろいろ変わりますが、この方式によって及ぼされる影響、効果は、それが「権力の効果」であると、みなしてきた点において変わりがありません。 フーコーはこの「権力の効果」に対して、それは抑圧の仮説に過ぎないのではないかといって批判したのでした。「主体」という存在によって、中央集権的に権力が生まれるのではなく、そうではなく「主体」こそが、地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略によって、生み出されたものだと言ったわけです。 従来のかたちで権力が語られるとき、それは「――をするな」という禁止の形態を取るのに対し、フーコーのいう権力の戦略とは「規律」、すなわち「――になるべき」という当為の形態を取る。この制度的な権力に対して、彼は言及をします。 【Q2】【Q4】 フーコーは権力一般の問題意識から、極めて近代的な権力を切り取っていると思います。 例えば、中世あるいは古代において、人々が近現代のような社会を構成し、集団とのかかわり方のなかで社会生活を営んでいたとするならば、そういった時代にも応用は利くのかもしれないですね。どちらかというと通時的な問題を立てるのではないと思います。 【Q5】【Q6】 理性批判という意味では、仰る《無主体の過程》というのは妥当であろうと思うのですが、人間賛歌を言祝ぎたい僕としては、仰る言説の個々彼処に、何となくサルトル批判をなさりたいのだろうという気がしてなりません。「人間は自由という刑に処せられている」サルトルのこの言葉ひとつで、時代をまるごと包み隠してしまいたいと仰っているような気がします。本当に相手は、フーコーでしょうか。
お礼
☆ この《理性批判という意味では》という特定を意図していませんでしたが おおよそ そういう事態に 結果として なるのではないかとも考えます。【Q‐5】の《物語を おおいかぶせる》というのは たしかに 《自信に満ちた〈理性〉》の為せるわざだと わたしは 見ているわけですから。 そして もし フーコーの所説が この《無主体の過程》にもとづく議論であるとするなら 上の(4)の問題 すなわち ★ 地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略 ☆ が どのように生起してきたか? の問題は きわめて 神秘的な見解が述べられていると思われるのですが どうなのでしょう? すなわち ○ あたかも 《構造》が みづから 自然発生的に ここかしこで この権力の物語を 人びとの耳にささやく。 ☆ と言っているように受け取るのですが いかがなんでしょう? というよりも これでは 経験科学の議論ではないと見ざるを得ないのですが どうなのでしょう? * 最後の問題点は おそらく 《言語記号の恣意性》説――言いかえれば じんるいの社会にとって 文化の世界が 或る日或る時 一挙に 出来あがり 《人間存在の自然本性から独立したかたちで》成り立ったという仮説――にかかわっているように思います。
補足
passcardさん ご回答をありがとうございます。 まづ 回答を寄せていただくみなさんにも お断りいたします。質問者は フーコーの著書をひもとかず 解説書のみを読んだ状態で すでに フーコー批判に及んでいるという横着なところです。 さて まづ初めに 前提としてのごとく ★ 権力 ☆ についての規定じたいが 問題となるとご指摘いただきました。 【Q‐1】の定義は 古来からの一般論で それとは違った定義において フーコーは 論じていくのだと。【Q‐1】の定義には 次の二点を付け加えておくべきようです。 ☆☆ 人間関係における視線の上下関係 ☆ という社会現象が 何のために 起きるかと言えば 当然のごとく 《影響を及ぼしたい》ためだと言ってよいから ★ 《及ぼす影響》 ☆ の問題がある。二つ目には ★ 主体 ☆ は 【Q‐1】が言う《個体としての人間》だけに限られず ほかに ★ 国家であるとか、階級であるとか、性差であるとか、そういう集団的なもの ☆ を捉えておかねばならない。 ところがその《影響をおよぼす》問題を取り上げるなら それに関連するところの ★ 「権力の効果」 ☆ というのが やはり 従来の捉え方であって フーコーは この点において 違うということのようなのですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (α) フーコーはこの「権力の効果」に対して、それは抑圧の仮説に過ぎないのではないかといって批判したのでした。 (β) 「主体」という存在によって、中央集権的に権力が生まれるのではなく、そうではなく「主体」こそが、地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略によって、生み出されたものだと言ったわけです。 (γ) 従来のかたちで権力が語られるとき、それは「――をするな」という禁止の形態を取るのに対し、フーコーのいう権力の戦略とは「規律」、すなわち「――になるべき」という当為の形態を取る。 (δ) この制度的な権力に対して、彼は言及をします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (δ)は その《制度的な権力》が 全体の文章にかかると採りました。 細かい点について疑問・質問を持ちましたので ただちに お尋ねしてまいりたいと思います。 (1) (α)にかんして。視線を上からそそぐ場合 それは 《抑圧》するかたちで 従属させるという《効果》を期することもあれば 《道徳や社会慣習の規範に 倣うべし》という効果を期することもあると思いますが その点 どうか。 (2) (β)ですが。(1)の後者の場合には 規範に従いなさいという権力関係が 効を奏したなら 《そこかしこに》 この規律人間という意味での《主体》は 生まれてくるでしょう。そういう見方は どうなのでしょう? (3) それ(=規律人間という意味での主体)は 言うならば 一定の社会形態(つまり 国家)の ★☆ 〔それがどのように生じたにせよ〕権力が 中央集権的に統治するときに 生まれてくる。 ☆ のではないでしょうか? (4) 次の分析内容が いまひとつ わかりにくいです。 ★ 「主体」こそが、地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略によって、生み出されたものだと言ったわけです。 ☆ つまり 《主体》が生まれる前に ここで言う《権力の戦略》が生起していることになっています。 ★ 地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略 ☆ これは いったい どういう主体なのでしょう? 何ら主体ではなく 《構造》のことなのでしょうか? どのように生起してきたのでしょうか? (5) (γ)および(δ)は この上での考えに従えば 従来の《権力》概念で捉えても 現象すると考えるのですが その点 いかがでしょう? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ フーコーは権力一般の問題意識から、極めて近代的な権力を切り取っていると思います。・・・どちらかというと通時的な問題を立てるのではないと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん このご指摘を前提として 全体として ご質問していると思います。ですから 時代による《断絶》があっても 《認識の装置=物語=権力》は 次々とあらたに 生起してくると捉えているのではないでしょうか? というのが ここでの推測です。 ★ 本当に相手は、フーコーでしょうか。 ☆ はい そうです。 ★ 理性批判という意味では、仰る《無主体の過程》というのは妥当であろうと思うのですが
お礼
したがって わたしが ☆☆ 経験科学の議論ではないと見ざるを得ない。 ☆ と言うのは このように 1. 第一次の主体なる人間を不問に付したかたちで 2. 地中から湧き上がって来たと言うかのような第二次の主体の誕生のみをもって 3. 権力関係の発生を説くという仮説 ☆ に対してです。どうも 《第二次の主体の誕生》のみを見ているように思われるのです。 あるいは 簡単に言って このような主体の誕生を仮説することは ○ 《構造》が――あくまで 人間の意志ではない《構造》が―― 人間に影響を与えるだけではなく その実存の有り方をも 権力人なる類型において 規定する。 ☆ ということですから それは 《反証可能性》がない理論になりませんか? ☆ 社会構造なるなぞの無主体が ○ 人びとの耳に 道徳規範を――建前だけとしてでも――守り その上で 互いに まなざしを注ぎ注がれる関係に落ち着くというかたちの 《権力人》(ホモ・ポテンス?)になりなさい。 ☆ と ささやいていると その理論は 言っていないでしょうか? これは もしそうだとしたら 神秘ですね。実証の可能性も 反証の可能性もないスピリチュアルな議論にはならないでしょうか? ○ 言語記号の恣意性説 : 人間が その歴史において 自然状態ないし自然本性から離れた 非自然としての文化状態に 或る日或る時 一挙に移行して ホモ・サピエンスは 出現したという仮説 ☆ についても この《一挙なる出現》という点が 《構造からの ホモ・ポテンスと言うべき主体の――時間過程的ではあるが 無根拠・無責任・無意志での――湧出》という見方とその事実措定とに 同じようであると わたしには 捉えられるのです。そのような意味において 持ち出しましたし その点を問うているのですが どうでしょう?
補足
passcard さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ スピーディーですね。 ☆ これは たぶん 推測によって〔なのに〕 議論を先のほうへと けっこう 進めていると言っていただいたのかなと 嬉しく思っていますが でも そのスピーディーな大胆さが 何でもかんでも まな板の上にのせて 勝手に 料理してしまうというぶっきらぼうさを伴なっているとご指摘いただいたというようにも 思います。ただ この後者のほうは その軌道修正には 四苦八苦しておりますと 正直に 申し上げます。 かなり広く深く 議論を みちびいていただいたのではないでしょうか。(これも はじめの推測を延長させたその判断にもとづくものです)。 ★ 「歴史はくり返す」と言いつつも、例えばそれは、ある時には「戦争はくり返す」であるとか、もう少し抽象化して「悲劇はくり返される」といったような、そういう代替可能な言葉の例として「歴史」という言説は語られていると思うのですね。 ☆ そういった見方は わたしは あとで気がつきました。 ★ 最後に残されるものは、「人は生まれ、やがて死ぬ」この一点でしかないのではないか、という気がするのですね。 ☆ おっしゃるとおりだと思います。したがって ★ どうもあなたの場合、「人は生まれ、やがて死ぬ」――こういう次元から、まさにフーコーをひとつの例として問われているんじゃないの? という、どうも常々そういう気がするものですから、最初に釘を差しておかないとならないと思いました。 ☆ となると思います。思いますが ここで フーコー論に入るとも思うのです。 この《生まれて死ぬ》存在を 大前提とし その次元から 世界観一般を問うというわたしの姿勢は 端的に言って この《ただ そこに いま いるという存在》を 《わたしという人間》であるとし いわばすでに《主体》としてもよいと考えていることを意味します。この次元から 批判にも及ぶのだと たしかに お断りせねばならないかと思います。 この前提の議論は ご指摘いただいたとおり 重要であるようですね。(あとの中味の議論に割く字数が少なくなりましたが ご了承ください)。 ★ (1)の部分でずれている〔というその箇所として〕:ですから、〔権力の効果として〕《抑圧》と《道徳や社会慣習の規範に 倣うべし》〔の二つの事例について〕 どちらも 主体を前提にした問題提起ですと言う事ができます。 ☆ については 問題提起者のわたしのほうからも 説明が出来たと思います。いわば《自然本性なる状態の第一次の主体》が 前提なのです。と同時に そうではなく 自分の前提を当てはめる前に フーコーの側にぴったりと就いて 批判は行なわねばならないとも反省します。 ただし それほどの偏向でもないと考えます。というのも ★ (2)の「規範に従いなさい」という言説が、「規範に従いなさい」と言う「主体」を生むのだと言ってるわけです。 ☆ と重ねて説明いただいた点につきましては わたしの前提に立てば 社会具体的な いわば第二次の主体が 誕生したと見ればよいかと考えるからです。それは したがって 全体として 二重の主体だという意味です。――つまりは この点で すでに 別の見方からすれば 批判にもなっているのではないかと考えるのですが どうでしょう? そのこころは こうです。 ○ すでに ひとりの《いま・ここにいる〈わたし〉》〔なる第一次の主体〕が 一般に ひとを寄せるという意図を 或る晴れた日に みづからの意志として持った。 ○ 寄せるための手段は 《ならわしの合理化》である。すなわち 社会的な交通の形式として 道徳規範を説き それに従うという《規律人間》なる物語を紡いだ。 ○ この規律人間(被規律人間?)なる第二次の主体が 生まれれば 権力関係が 成立する。 ☆ こういう歴史的な事態だと捉えられます。 言いかえるなら ○ 権力としての人間関係は 人間の意志によって 起こされた。 ○ のであって 社会という無主体の構造とその過程から 自然発生して 起こったのではないであろう。 ○ ただし 権力関係の網の目が 社会総体として 出来あがっていく過程で すでに その総体としての構造が 個々の人間に その構造からの要請のほうへと靡くよう影響を与える側面がある。