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フーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院
先に同著についての関連質問が存在しており甚だ恐縮ではありますが、質問内容が若干異なりますので、お伺いしたいと思います。 国家権力の最たる政治的な機構である「監獄」というモチーフをフーコーが用いた同著を、20数年ぶりに本棚から探し出し懐かしく読んでおります。 ふと思ったのですが、その「身体性」における権力のメカニズムというものは、何も近現代の「監獄」「Panopticon」ならずとも、例えば、中世キリスト教世界における修道院にまで原型として遡ることができるのではないか、ということです。 これをある種の「政治権力」とするのはおかしい発想なのでしょうか。 当時の修道院はhospis、hospitality、hospitalというニュアンスの本源的な存在であった、と若干ではありますが理解しております。 また、「神への信仰」という点など、近代法治国家の「監獄」とでは、まるでその存在理由や目的意図が決定的に異なります。 ですが、神の名のもとにおいて「信仰の力を用いて」ローマ教皇を頂点としたヒエラルキーの中に存在した修道院も、ある意味、フーコーの指すところの人間管理の装置であるPanopticonだったと考えることはできないでしょうか。 厳しい規律・戒律を自発的かつ強制的に自身に強いて働かせ、自らが嬉々として絶対服従を誓う担い手となる。 時に厳格な処罰の対象となり得る状況。 つまり、自分自身が監視し、監視される存在であるという人間管理という点においては、修道院長や修道僧、監獄の囚人、病院の入院患者など、いずれにおいてもほとんど大差ないように思えてならないのです。 そして個々人が相互において見えない権力によって行使せずとも縛られている、そんな状態であったと考えるのは発想がズレているのでしょうか。 『監獄の誕生』105頁にこう記してあります。 「最も確固たる帝国(つまり、人間支配)の揺るぎない基盤は、やわらかな脳繊維のうえに築かれる。」と。 何らまとまりがなくてお恥ずかしい限りではありますが、ご教授のほどよろしくお願い申し上げます。
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> ふと思ったのですが、その「身体性」における権力のメカニズムというものは、何も近現代の「監獄」「Panopticon」ならずとも、例えば、中世キリスト教世界における修道院にまで原型として遡ることができるのではないか、ということです。 > これをある種の「政治権力」とするのはおかしい発想なのでしょうか。 二つの観点から回答ができると思います。 ひとつには考え方の枠組み、ということです。 たとえばわたしたちの遠い遠い祖先は、なんで服を着るようになったか。多くの人はばくぜんと「寒さやケガから身を守るため」と考えているでしょう。けれども、三浦雅士の『身体の零度』という本には、服というのは「しるし」として始まったのではないか、という知見が紹介されています。人間が、「ここまでが自分だ」という境界を、痛みによって確かめながら、入れ墨やピアスをする、ひもをまきつける。衣服というのは、その延長上にあるものではないか。寒さや外界からの刺激を感じるようになったのは、逆に、服を着ることによってではないか。 同様の知見は、木をこすりあわせて火を起こすことをどうやって発見したか(ここでの三浦のメタファーからの推測は興味深い)、矢はなぜあんな形をしているのか、など、いくつも明らかにされていて、大変おもしろい本なのですが、わたしがここでなぜそんなことを書いたかというと、 原因「寒かったから」 結果「服を着た」 というのは、わたしたちが作りだす「物語」である、ということが言いたかったからです。わたしたちがどのような「物語」を作るかは、時代や地域に制約されるものです。あらゆる「出来事」は、時代や地域が変われば全然ちがう「物語」として読まれていく。わたしたちは「寒かったから服を着るようになった」と考えますが、逆に「寒かった」というのは「服を着た」ことによる結果ではないのか。 ひとたびフーコーを読んでしまったわたしたちは、フーコーが「パノプティコン」というメタファーによって示した「権力」のありようを、さまざまなところに見いだすことができるでしょう。あそこにも、ここにも、というかたちで「発見」することができるはずです。当然、歴史のなかにもフーコーの用いた「パノプティコン」の「物語」を当てはめてしまうことは不思議はありません。 ですから、質問者さんが「中世キリスト教世界における修道院」が持つ「規律訓育」という側面に着目して、そこに「監獄」のアレゴリーを見いだしたとしても、それはおかしなことではないと思います。 ところがもうひとつフーコーが重要視するのは、「時間の断絶」ということです。 わたしたちは「歴史」ということを単一的で直線的な時間の流れ、というふうにみなしています。「人類の進化」という絵は、類人猿っぽい生き物が、徐々に背中を伸ばして立ちあがり、最後はいまの人間の形になって、颯爽と歩いていますが、それは進化のプロセスを「単一で直線的な時間の流れ」としてとらえたからにほかなりません。 けれどもフーコーは、人間の認識というのは、そんなものではない、と考えます。あるひとつの認識の装置が形成され、つぎの認識のありようが現れるときには、根本的に断絶があるのではないか。 たとえば中世の騎士物語を読みすぎたドン・キホーテは、17世紀初頭の世の中を「中世」の眼鏡を通して見ようとします。彼の目に巨人として映るものが実際には風車であったように、「中世」の認識と、「古典主義の時代」の認識というのは、そのくらい断絶のあるものでした。 フーコーは、中世、古典主義の時代、近代と、大きく認識のありようが変わっていった時代ととらえます。どうしてそんな見方をするのか。「歴史」を「全体」としてとらえると、あることがらについて考えるとき、あたかもひもをずるずるとたどっていくように、その「起源」や、当時それが起こった「目的」「理由」にたどりつける、ということになってしまいます。「人類の進化」を逆にたどる、それは過去を粗野で原始的で無知な時代、ととらえることにほかなりません。 けれど、たとえ中世の科学が近代科学に否定されたとしても、中世の科学にくらべて近代の科学の方が、無前提的に「正しい」と言えるのか。いま「正しい」と考えられていることも、技術的条件や、社会的なシステムが変わっていけば「誤った」ことになっていくかもしれない。つまり、何が「正しい」かは、その時代の枠組みのなかでしか決定することはできません。 つまり、フーコーが同時にそのような思想家であったことをふまえるとすると、「監獄」の「起源」を中世に見いだそうとするのは、ちょっとちがう、ということになるのです。 ああ、長くなっちゃいましたね。ここからは簡単に行きましょう。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4846778.htmlでもふれたように(※この質問では、わたしが回答しやすいように#4で回答してくださってありがとうございました)フーコーは「中世キリスト教世界」のことに関しても考察を行っています。 中世のキリスト教の世界では、「牧人」と「羊」は、個別的な絆を結び、個人的な服従関係に入っていきます。従属は「徳」であり、それ自体が目的です。羊は四六時中導きを受け、そこから離れると、かならず道に迷ってしまいます。 人びとを「牧人」として統治するという考え方は、中世の教会のなかで、重要な理念として受け継がれていきます。 そうして、牧人支配が可能になるような経済的条件、そしてまた一定の文化水準に、支配する側ばかりでなく、「群れ」の側も達し、政治的構造がそれを可能にした「近代」という時代に、このことは規律訓育型の権力ではなく、人びとの生命を統治する権力として現れていったのだ、と考えていくわけです。 以上、長くなりましたが。 あと、三浦雅士の『身体の零度』(講談社メチエ)はおすすめです。質問者さんでしたら、きっと興味をもたれるのではないか、と思います。もちろん『監獄の誕生』にもふれられています。
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こんにちは、passcardです。 たくさん、回答が集まりましたね。僕の見るところ、『監獄の誕生』について、最も忠実なご回答をされているのが、ghostbusterさんだと思います。作品に関してであれば、その教えに倣っていかれれば間違いないのはないでしょうか。 ひとつ、 >ただね、大学のゼミとは違って、はたして一人で読み進めていって、また「わかった気になるだけ」の状態のまま、次に進む、という事態はいい加減に避けたいと願っているのですが、これこそ難しいようにも思えるのです。 と仰る部分について、実は以前にこんな文章を書いたことがあります。 ================================= フーコーの著作は、現代では社会科学の分野では必読の書物となった。 それを学習する事は、ある意味、制度的な義務となったと言っても良い。大学を出て院生を目指す子どもたちは、フーコーの術語を用い、フーコーの考えたフレームで世界を眺め、フーコーの準備した推論から外れないようにする事を強制されています。 これこそが、フーコーの語る「権力」ではないでしょうか。 制度への疑いの眼差しを向け続けたフーコーの疑念、その疑念が、作品を通じてまさに疑われようとしている、その当の制度的権力のなかへと埋没してゆくことに対して、フーコーは如何なる思いを抱いたでしょうか。 フーコーがエイズで亡くなったことは有名ですが、ロラン・バルトといっしょに、新宿二丁目のゲイバー近くの安宿で語っていた彼の「大衆嫌い」、それもまた、恐らくニーチェから受け継いだ大いなる遺産のひとつだと思います。ジェイムズ・ミラーが『フーコーの情熱と受苦』を出版したとき、フーコーへ親密さを寄せた人たちの狂気とも呼べる反論とは裏腹に、赤裸々にフーコーを暴露した本書の物語に対して、大衆がどれほどの興味と関心を示してその本を「読んだか」。そういう反面教師としての意味において、フーコーの批判価値と緊急性を立証したものは、他にないだろうと思います。 ================================== 先に書いた僕の投稿は、曖昧な表現が多かったものですから補足します。 フーコーは系譜的思想の多くをニーチェと、その論述の多くをカントに習っていると思います。では、ニーチェが現代思想の源流と言われる所以はどこにあったのでしょうか。 ニーチェより前の時代には、主観の外側には客観という概念で築かれた、独立した世界が在って、その客観世界から現象とか、自己とか、意識とかいう、そういう「言葉」について考えられていたわけです。 それに対し、そんな客観世界など無い。そういうのは、人間が作り出したものなのだと、ニーチェは言ったんですね。実在から実存に変わるのです。 フーコーやニーチェには、問題の内容ではなく、問題に対峙する者のポジションが妥当ではなかったために、その問題の核心は古代からずっと素通りし続けていて、答えが得られていないのだという、そういう前提がまずあります。 その前提に従って、問題は何時生まれたのか? と問うているわけです。フーコーにとっては、作品中に現れる言葉よりもむしろ、その起源が問題なのですね。だから彼は、その言葉に隠れている問題が、ある時期はこうで、ある時期はこうでというふうに、ちゃんと切り分けてゆくんです。言わば、問題提起の方法に繋がれていたそれまでの監獄(問題)と、フーコーの監獄(問題)はここが違うよと言って、その本物の監獄(問題)は、実は近代に誕生したのだというふうに結ぶんです。それでタイトルが『監獄の誕生』となる。 これは言い換えると、古代から連綿と繋がってきたある問題の延長線上に、今の問題があるというふうに理解するのではなく、その繋がりをきっぱりと断ち切るのが、フーコーの作品の狙いです。刑罰、とりわけ身体刑の歴史について、フーコーの初期の考察を見ると、中世の刑罰があれほど残忍だったのは、刑罰の目指していた身体が、僕たちの身体とは「違う身体」だと論じている点が印象的です。 その論拠を、フーコーは絶対王政期の国王二体論(「王には身体が二つある」という事)から引っ張り出してきます。国王二体論というのは、ひとつは、自然的身体(見る者)で、もうひとつが政治的身体(見られる者)となりますが、中世の刑罰は、その意味するものによって編まれた、後者の政治的身体に対して行われている(だから、必要以上に残忍なのだ)と説くのです。ところが、近代の刑罰は前者である自然的身体に対して行われる。同じ「身体」という言葉にも、こういう違いがあるんですよ、ということです。 フーコーは、繋がりを断ち切る人なんですね。まあ、そういう人だから、ひとつプラトンの言う洞窟の囚人たちは、いったい何を見ていたのだろうというふうに考えてみました。 囚人の見る対象は、自分の影(自我)と、世界の影(表象)というふうになると思いますが、ずいぶん長い間忘れられていたもののひとつに、眺めている囚人自身の目というものがあります。フーコーは、その囚人自身の目を問題として、影の世界とは問題を切り離したのだろうなと、僕はそんなふうに思っています。 ほら、煩悩? とか言うのでしたっけ、僕はどうも魅力的な質問を見てしまうと、どうしてもそのテクストの誘惑に駆られて、「読んでしまう」のですが、でもそれがこの哲学カテゴリーの良さなのかなと思ったりします。 テクストを読むとき、「読み」というのは、英知的、あるいは非人称的なまなざしを通じてなされるのではなく、読み手はそれぞれの具体的生活、その唯一無二性ゆえに、他とは違ったユニークな「読み」をするのだと思います。 テクストは、そんな読み手に対してのみ、その人以外の誰にも贈ることのなかった唯一無二の意味を贈るのだと思います。読み手のユニークな読みを可能にするのは、その人がユニークな「存在」だったからではなく、その読みが他とは「違っていた」ということが、そのユニークさを基礎付けています。テクストを読んで解釈する、その解釈は、テクストの呼び声に答えるものであり、その呼び声を奏でるテクストは、文章の意味するものとは別に下心があって、その下心が解釈を誘惑するのです。 解釈は、本質的にその誘惑を含んでおり、そのかけがえのなさを通じて、ある種の記号から代替不能な意味をその都度、引き剥がすのだと僕は信じています。 学術も同様で、修士までは良いとしても、最終的に求められるのは代替可能なものではなく、かけがえのないもの、つまり世界で唯一の成果である論文を求められるわけですから、あなたならではのかけがえのない「読み」がありますよう、応援いたします。
お礼
passcard様、再度のご回答を本当にありがとうございます。 このたびの質問中、passcard様からはかけがえのない対話の機会を頂戴しました。 まさしく、わたくしの質問は『監獄の誕生』を超えて、ある「煩悩」の訴えが真の主題だったようにも思えます。 >その解釈は、テクストの呼び声に答えるものであり、その呼び声を奏でるテクストは、文章の意味するものとは別に下心があって、その下心が解釈を誘惑するのです。 >解釈は、本質的にその誘惑を含んでおり、そのかけがえのなさを通じて、ある種の記号から代替不能な意味をその都度、引き剥がすのだと僕は信じています。 なるほど…おっしゃる通りかもしれません。 当の昔にこの質問の解はいただいていたのですが、実のところ、躊躇する「ひっかかり」が自身の内にあったのです。 >その当の制度的権力のなかへと埋没してゆくことに対して、フーコーは如何なる思いを抱いたでしょうか。 当然、激しく嫌悪していたでしょうね。 [ロラン・バルトといっしょに、新宿二丁目のゲイバー近くの安宿で語っていた彼の「大衆嫌い」]のエピソードも含めて、だいたいがフランス人は超個人主義な面が非常に強いですから、変わり者であることを何ら卑下するどころか、他と安易に同化同調することを酷く嫌悪する傾向があると個人的な経験上思います。 ましてや思想家ならばなおのこと、かもしれません。 >フーコーは、その囚人自身の目を問題として、影の世界とは問題を切り離したのだろうなと、僕はそんなふうに思っています。 う~ん。なるほど。 投げたブーメランが回りまわって自分の後頭部を直撃した感じでしょうか(笑) >あなたならではのかけがえのない「読み」がありますよう、応援いたします。 このご回答における詳細なフーコーへの考察と共に(助かります)、こちらの一文に大変勇気づけられました。 「世界の唯一の成果である私の論文」は一体どんなものになることやら。 このたびは質問させていただいて本当に良かったです。 passcard様、今後ともご教授下さいませ♪
補足
この欄をお借りしまして、このたびご回答下さった皆様から、様々なご助言、対話を頂戴致しましたことに、心より感謝申し上げます。 大変参考になり、また、本当に楽しかったです。 ありがとうございました。
10。反復くださったので、ご覧になる誰かのため、念のため補足します。 活版印刷と対比させられたイルミナシオンは、写本に用いられる彩色書字です。 本を読む習慣のある世代はともかく、インターネットで知識を拾う世代には馴染みの薄い語かもしれないですね。 > 「タガが外れてしまった規格化、効率化、管理化至上主義の流れ」 おっしゃるとおりと思います。 生理学・生物学の方法の成立、経済学の方法の成立、文法と言語学の成立が、 たしかフーコーに指摘されていたと思いますが、まさに規格と効率と管理の発想です。 こういう考え方が鍛えられて浸透していくうちに、医薬も厚生も金融も政治も教育も、 頂点の権力のありかたが決まってしまったのかもしれませんね。 人類の脳はパラダイム転換したのでしょうね。
お礼
amaguappa様、補足をありがとうございました。 >活版印刷と対比させられたイルミナシオンは、写本に用いられる彩色書字です。 わたくしも面白いサイトを見つけました。 道具をクリックしていくと、羊皮紙の上にいかにしてilluminated manuscriptsが記されていったか、という工程がわかる内容です。 よろしかったらどうぞ。 http://www.fitzmuseum.cam.ac.uk/pharos/sections/making_art/manuscript.html そういえば、物語のラストで「stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.」と締めくくられる『薔薇の名前』の中で、犯人が「痩せ細った青白い両手で、ゆっくりと、その写本の柔らかいページを、細長くつぎつぎに引き裂いては、丸めて口に入れ、あたかも聖餅を口に含む者がそれを噛み下して、おのれの血肉に化したいと願うかのように、ゆっくりと噛みはじめた。」場面において、毒を故意に付着させていた羊皮紙の上にもイルミナシオンが記されていたのだろうなあ、とふと思い浮かべてしまいました。 amaguappa様、またわからないことがあったら、ぜひご教授をお願い致します♪
レオナルドなら、どう言ったか。 教父とは別に、僕自身の回答をも書くようにとの事でしたので、No1からの質疑応答を読ませて頂いた結果、僕の最大の関心はこのひと言に向きました。 左手で鏡文字を書いていた幼い彼にとって、彼の右手は彼にとっていちばんのお友達であったように思います。生涯に渡って彼は、どうしてそんなにお友達を探したのか。美しい作品をたくさん残したとても有名な人ですが、彼のお友達を数え上げるとき、僕は何となく彼が何に縛られていたのか、わかるような気がするのです。 あなたはいったい、何に縛られているのでしょうか。
お礼
passcard様、再回答をありがとうございます。 そして「あなたはいったい、何に縛られているのでしょうか。」の件です。 洞窟内にて長らく暮らしていたというのは、極めて独善的な従前の習慣や行動規範、思いこみが深く身体に根付いてしまっている状態ではないでしょうか。 洞窟の外の明るい日差しや美しい自然の風景も、囚人にとっては何てことはない、有害とみなしたり、美しいと思えないかもしれない。 でも、外の世界を「気づいた」ことにより、何かが得られたのかもしれません。 洞窟と外の世界の「差」。 もう二度と外の強烈な眩しさを味わいたくないと思う囚人もいれば、「あのまばゆいほどの日のひかりとあたたかさは何だ?」と気になってしかたがない囚人もいるかもしれません。 私は以前別質問にて「哲学が何て退屈な」と傲慢にも書きつらねた回答があります。 たしか…哲学と数学に関する質問だったかと思います。 その時は、数学のパズルを解くよりも哲学を読み解くという作業が、私にとってはるかにしんどいように思えていました(今も?)。 だって、本当に「しんどい」のですよ。 一冊の書物を手にして読み終えるたびに、著者が言わんとする思想や知識が、読み手の私に「薬」「毒」の両極端な「効果」を与えてくれるのですから、不器用な私は物凄く疲れてしまうのです。 で、読むたび事に、ある時は率先して意識的にその書物の色に染まり、またある時は、不本意ながらでも否応なしにその書物の色に部分的に色移りしてしまうような気がしてならないのです。 結局のところ、いかなる「嗜好」「思考」「信条」「理念」であれ、まっさらな透明な色のものであるはずがないと思います。 人は何がしかの思いこみや主観に囚われているはず。 でも、「これで終わりな究極の色」なんて存在するはずがないでしょうし、それこそ個人差があるでしょうし、何より前述の「洞窟内と外の世界との差」が一体何なのか、をもっと「気づいて」いきたいと思っているのです。 ただね、大学のゼミとは違って、はたして一人で読み進めていって、また「わかった気になるだけ」の状態のまま、次に進む、という事態はいい加減に避けたいと願っているのですが、これこそ難しいようにも思えるのです。 そして、これらの切なる願望でさえ、誰かしらの、何がしかによる「思いこみ」なだけ、だとしたら…?←混乱状態
補足
レオナルドの「鏡文字」と右手のお話、ありがとうございました。 何故か…不思議と癒される気が致しました。 私は、レオナルドが言わんとすることを全て「絵画」や「土木設計」など「文章化」以外の手法で表現したかったのだろう、と思います。 むろん『ダ・ヴィンチ・コード』のような象徴的な意味合いが多数存在する、とまでは信じてはおりませんが。 鏡文字と右手の話から、何故か彼の「孤独さ」に想いを馳せておりました。 あの時代、類い稀な天才の心境など一体誰が推し量り共感を得たでしょうか。 せいぜいパトロンたる時の有力支配者たちが自国の領地に招聘して庇護するのが関の山ではなかったかと思われます。 また、独り暗闇の地下の中で、蝋燭の明かりを頼りに人体解剖と作図を試みざるを得なかったことを思うに、当時のキリスト教社会と科学との「共存」について本当にどのように考えていたのでしょうね。 またわけがわからなくなってしまいました。ごめんなさい。
こんにちは。 教父に誘われてお答えをしてみたいと思います。 国家権力のとお書きではありますが、フーコーが用いた「監獄」というモチーフは、むしろ「見るもの」と「見られるもの」という古典的なエピソードを出発点にしていますから、その範疇であれば、中世的な修道院もまた、その基となるエピソードを参照すれば自明であるように思います(但し、個人的な理由から病院のお話はちょっと差し控えます)。 ところで、国家権力と仰るようにプラトンの『国家』に出てくる洞窟のエピソードでは、(彼は「囚人」という表現を用いますが、)囚人たちは暗い洞窟のなかに繋がれて身動きができません。そして、洞窟の壁に松明の焔によって映し出された影を見ています。 影は自身の影ではなく、彼らの背後にある人や物が映ったものですが、プラトンの語る影は、囚人自身すなわち彼の自我ではなく、世界の像を意図しています。 ところで、この「自我」の扱いはちょっと大変です。 それを「主体」という表現にすれば、19世紀に初めて構造化することになった「主体」と符合しますし、少し遡れば、二度の統合を果たすものの、構造化はしないヘーゲルの「自己意識」とも重なってきます。逆に遡ってしまえば、ジュリアン・ジェインズが言うような神と自我の同一された精神をもその意味に含んでしまうでしょう。慎重に語らねばなりませんよと仰る回答には、このような過去の議論への誠実さが感じられますよね。 さて、プラトンに戻るとしますれば、繋がれていた囚人たちは、果たして権力によって繋がれていたのだろうか、というのがこの質問の核心だと思います。繋がれていたとするならば、繋いでいるのは権力なのか、政治なのか、信仰なのか、病因なのか、あるいはその他の何かなのか。それがはっきりすれば、自ずと「監獄」が繋ぎとめている「その人」を見つけ出すことができそうです。 プラトンは、物語を続けます。もしも洞窟に縛られた囚人たちを、明るい外の世界へ連れ出したならどうなったでしょうか。彼らは自由を謳歌し、解き放たれた野の美しさや、流れる小川のせせらぎに耳を傾けて、歓喜の歌を口ずさんだでしょうか。太陽の光線は、囚人たちの弱った目には強すぎ、焼かれるような陽射しに怯えた彼らは、地獄の喧騒のように聞こえる外の音の世界から、どうにかしてもう一度、もとの暗くて静かな洞窟へと返してくれるように、懇願したのでした。 囚人たちは、いったい何に繋がれていたのでしょうか。 その問いに対するフーコーの答えが、かの著作となっていると思います。 いったい、僕らは何に繋がれているのでしょうか。フーコーは系譜学の人ですから、古代から連綿と続くこの人間特有の問題については、とりわけ関心が高かったのでしょう。 いったい、僕らは何に繋がれているのでしょうか。
お礼
passcard様、ご回答ありがとうございます。 お名前、素敵ですね。 >プラトンの語る影は、囚人自身すなわち彼の自我ではなく、世界の像を意図しています。 >それを「主体」という表現にすれば、19世紀に初めて構造化することになった「主体」と符合しますし、少し遡れば、二度の統合を果たすものの、構造化はしないヘーゲルの「自己意識」とも重なってきます。 >逆に遡ってしまえば、ジュリアン・ジェインズが言うような神と自我の同一された精神をもその意味に含んでしまうでしょう。 う~ん…この「主体」というものは手荒く扱ってはいけないものなのですね。 心得ました!(…と言えるだけの教養をまずは身につけたいです。) >プラトンに戻るとしますれば、繋がれていた囚人たちは、果たして権力によって繋がれていたのだろうか、というのがこの質問の核心だと思います。 >その問いに対するフーコーの答えが、かの著作となっていると思います。 >いったい、僕らは何に繋がれているのでしょうか。 >フーコーは系譜学の人ですから、古代から連綿と続くこの人間特有の問題については、とりわけ関心が高かったのでしょう。 …まったくわかりません!!!全然わかりませ~ん!!! でもでも、トンチンカンを承知で次の質問に解答させていただきますので、よろしければpasscard様もコッソリ教えて下さいますでしょうか。 passcard様こそ、いったい何に繋がれているのですか♪ ちなみにフーコーがいったい何に繋がれていたか… …何だか変な想像をしてしまいそうなので、やめておきます(爆)
- kigurumi
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No.3のkigurumiです。 >囚人の独房への隔離は修道院内における修道僧の独房生活とイメージが重なります。 >自発性の有無、信仰への帰依と精神の更生矯正という差によらず、自己の精神統制や孤独に耽る分には絶妙な「装置」なのでしょう。 軍隊の兵士や、修道士などは、装置があると知っており、自ら率先して入っている というのも興味深いですね。 座禅の修行も目的があり、自ら望んで装置がある世界に入っているし、監視や罰を受けることを受容している。 あの宗教の信者は、、「神は常にあなたの一挙一動を監視している」と絶妙なことを言う。 はて? 本当に神か? と私は疑問に思う。 自分が誰より自分自身の行動常に知っているので、それを神と摩り替えているにすぎないと思える。 信者は深く考えないので、自分に非が少しでもあったと思えたら、自虐をして贖罪しようとする。 自分に向けられた暴力性ですが、人によってはこの暴力性を他者に向けるる人もいる。 浄化と称して他者を殺す。 殺さないまでも、罰と称して何か不利益を与える。 ところで、<学習性無力感>というものがあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%80%A7%E7%84%A1%E5%8A%9B%E6%84%9F 経験の結果、無気力な生き物になるってわけですね。 犬のしつけとして電流が流れる首輪があるそうです。 無駄吠えをしない自分にとって都合の良いペットに調教し、自分が愛せるペットに変容させるため着ける装置。 ある人、その首輪をつけて試したらしいです。 流れる電流は調整できるらしく、最高レベルだと、「わん」と言った瞬間 後ろにぶっとんでましたね。 自らスイッチを押さずとも、犬の吼える音に反応して、機械が勝手に電流を流すので、ご主人様はペットを虐待しているという自覚を持たなくて済む。 「最近吼えなくなったわね いい子ちゃんね」と思うだけ。 ご主人様にとって、まことに都合の良い装置ですね。 修道士の場合は、罪の意識を感じたとき、自動的に電流が流れる仕組みになっているのではいかと。 罪だと認識した瞬間、電流が流れるようなもの。 電流を止めるには、罪を償う つまり自虐をするように体が変容するのではないか と。 無駄吠えしない人間に自ら改造する。 無駄吼えしない つまりヒエラルキーの上層部が言う通りに自分の思考がなるまで、頑張っちゃう。 カトリックの場合、ヒエラルキーのトップの解釈と、他の聖職者の解釈が同一だそうです。 同一になれば、無駄吼えじゃなくなり、安心感が得られるってことですね。 ですが、中には無駄吠え?をした人もいる。 ルター。 同一の思想になれなくて、反発し、破門になったのですが、逃げる場所があったので、別の場所で自分の思想を広めた。 宗教革命といわれるやつですね。 革命じゃないと思いますが。。。。 >私達が生きているこの社会そのものが、お互いに監視し合い不断の抗争関係にさらされているとしたら。 えっと、9.11が起った後、国民は政府が国民を監視することを了承したそうです。 カメラによる国民の監視、電話の傍受を政府がやることを許可したらしいです。 この議案を議会で裁決するために、9.11を起こしたとしたら、すごい強引な支配の仕方ですね。 日本も住民基本台帳が作られ、国民の資産から、今どこで何をしているのかまで、監視できるようなシステムにしようとしていますよね。 国民に利便性を与えることで、可能なシステムにしていっている。 国民同士がお互い監視する程度なら恐怖じゃないですが、公僕がご主人様を監視し、政府の都合のいいように統率しようとするのは、かなり怖いです。 抗争を含めた犯罪を未然に防ぐため、国民に監視を許可させる。 うーん、映画マイノリティーレポートの世界が現実化しそうですね。 >kigurumi様が「それを認識しなければ」可視的に浮かび上がってこないという社会というのも、ある意味不気味だとは思いませんか(笑) 監視、調教、剪定、電流の流れる首輪、住民基本台帳。 認識しなければ、あるのに見えていない ため無いと思っている。 確かに不気味ですね。 またまた映画ですが、実話を元にしていといわれる<ショーシャンクの空に> 監視され、自由を剥奪され、虐待され、刑務所の所長の僕になったふりをした人。 そのような過酷などこでも電流が流れる環境にいながら、「人には誰にも侵害されない領域がある」という信念を持つことで生き延びた。 ある囚人は、すっかり調教され、刑務所の環境でしか生きていけない二元に改造されたため、釈放された途端自殺した。 刑務所の所長がそこの世界の神なわけで、統率された不気味な社会。 思うに、フーコのこの考えは、シビリアンコントロールのことだと思うんです。 人々を統率する立場にある人は、目的のために社会に装置を設置する。 自分が人々をまとめやすいように、ある意味、不ぞろいの植木を剪定し、自分からみて見栄えの良い庭にするために使う装置。 ユダヤ教、キリスト教の研究者のある人は、ヘブライ人の思想(信仰)のすごいところは、人々が神の業を畏怖していることだとしている。 畏怖をもっとわかりやすく言うと、<驚き>。 到底耐え難いことをなぜか耐えれ、到底忍びが難きことを、なぜか偲べる。 驚くべきことが起こる。 不可視なものが可視になる瞬間。 で、人は修行をやったところで、開眼しない。 そこに超越したものが働きかけることで、開眼するとされ、これが炎の蛇とかケルビムとかクンダリニーとか言われるもの。 要するに今までの常識を超越した知恵。 ところがいっくら修行をしても知恵がつくってもんじゃない。 でも不可能なのに、ある日突然 神が降臨したかのようなひらめきが起る。 脳の回路が変わり、「どうして今まで気づかなかったのか」となることが起こる。 すると、外からの働きかけがあったと感じ、人々は神の降臨だとか言うわけです。 映画、新世紀エヴァンゲリオンでもそういう描写になっている。 でも普通の人は、「お前ら解脱しろ」と支配者に言われたところで、「結局あなたにとって都合の良い社会にするため、我々をペット化したいのでしょ」と反発して、避けれる環境。 徹底するなら北朝鮮のような環境にしないと。 >最も確固たる帝国(つまり、人間支配)の揺るぎない基盤は、やわらかな脳繊維のうえに築かれる。」と。 やわらかな脳繊維を柔軟な思想 とするのなら、柔らかな思想の上には恐怖政治社会は作られないと思います。 中世のヨーロッパはキリスト教のせいで、文明の進化がストップしていたと言われています。 フランス革命により、腐敗したキリスト教と王制を倒したことで、再び鼓動が始まった。 ですが、抑圧をモットーとする派閥が、開放された人々を再拘束している状況が現代です。 カトリックから逃れた人々が、今度は前の支配者と同じことをする。 拘束する派閥を作る。 結局男の本能だと思うんです。 ぐるぐる同じことを繰り返しているにすぎない。 結局、何度やっても同じなら、それが真理か というと、突破できない壁があるから、グルグル回るしかないのではないか と。 考えがまとまっていないので、質はよろしくない意見になってしまいましたが、参考までに。
お礼
kigurumi様、再回答ありがとうございます。 たくさんのエピソードをお書き下さって、ありがとうございます。 >「神は常にあなたの一挙一動を監視している」と絶妙なことを言う。 >はて? 本当に神か? と私は疑問に思う。 その神、怖いです(笑) 一挙一動を見守る、ではなくて、「監視」している神って一体(笑) >カメラによる国民の監視、電話の傍受を政府がやることを許可したらしいです。 現在のロンドンの街は監視カメラが至る所に設置してありますよね。 ですから、テロを未然に防ぐケースが多いと言われています。 実際、私も何度か訪れているのですが全く気づきません。 >自分が人々をまとめやすいように、ある意味、不ぞろいの植木を剪定し、自分からみて見栄えの良い庭にするために使う装置。 はい、「不揃いの植木を剪定」は否めず、「排除、矯正」と置き換えることができるかと思われます。 >ユダヤ教、キリスト教の研究者のある人は、ヘブライ人の思想(信仰)のすごいところは、人々が神の業を畏怖していることだとしている。 この神への畏怖は、周辺の偶像崇拝していた多民族から「偶像崇拝をする自分達を間違いだと見下す、だから彼等は住む世界が違う人々」、つまり「向こう岸の人々」という「ヘブライ」の意味にも通じますね。 偶像崇拝を許容する宗教よりも、それを全否定する宗教のほうがストイックな分だけ信仰心もあついのでしょうか。 >中世のヨーロッパはキリスト教のせいで、文明の進化がストップしていたと言われています。 う~ん。これこそ何をもってして「文明の進化がストップしたと言えるのか」ですよね。 はたして本当にストップしたのかどうか。 私個人的には「キリスト教のせい」とは到底思えないのです…。 私は仕事がら時折『中世美学史』(ウンベルト・エーコ著)を手にします。 「実際、相互にひどく異なる一連の世紀を一つだけの同じレッテル【中世】の下にまとめるのは容易ではない」との著者の弁ながら、現代美学の定義を過去の一時期に対して応用し立証するのではなく、当時の根底所在の美的理念を拡大適用することで、中世が感覚的に把握しうる美を道徳上拒否した暗黒時代、もしくは、地上の快楽の魅力に無感覚になっていた、などというのは全くの誤解であるという事、並びに私自身の「バイアス」を痛感させられるのです。
nonsence, FIN. とテロップが見えるのですか? 短く書きたいのでぶっきらぼうなのとちがいますか。 ご質問は、中世修道院にフーコーを敷衍できるのではないかというものだと理解していますが、 もし俯瞰的に、わたしたちの目で修道院と監獄を見比べるつもりだったのでしたら、読みとばしてください。 > 中世以前の「主体」とデカルト以降の「主体」と (....) > 両者の間には「決定的な質の差」が存在する そのようなことを言うつもりはありません。 また、フーコーの視座ではデカルトは中世のおしまいに過ぎず、近代の始まりというと イギリス産業革命とフランス革命を経た19世紀初めが念頭にあるのではなかったでしょうか。 フーコーの場合は仮構の概念としての主体を扱うという態度を持ちませんから、 アプリオリの主体概念を避ける代わりにディスクールを掘り起こすという作業をしますね。 ディスクールは時代の信の拠り処であり、実際の言表エノンセを生むダイナミズムであり、 このこと自体は、いつの時代であっても同じ構造といえます。 ディスクールから逸脱する人間は、その社会の主体を生きられないという構造でもあります。 つまり、時代の知の構造たるエピステーメーがある、ということに中世も近代も変わりはないのですから、 どうやって「その時代の主体」が「主体」たらしめられるか、という力の働きは時代を問わず同じなのです。 中世が近代のような社会装置、概念装置としての主体を必要としないのは、中心の喪失を経験していないからで、 フーコーにひきつけた言い方をすれば、記述の主体を作り出さない時代だからです。 象徴が表象そのものである、<神の署名>の時代だからです。 文法でなく名詞の時代、線形の言語体系でなく一挙同時の象徴が認識される表象の時代、比較ではなくアナロジーの時代です。 ラスキンのゴシック論を思い出すなら、まさに中世のエピステーメーとしての共同体論を語っていると言えるでしょうが、 上記に、活版印刷でなくイルミナシオンの時代であると付け加えることができます。 監獄の囚人は、監獄によってあらしめられる己れを、監獄を生み出したディスクールの行使によって記述できますが、 中世修道院の修道士は、修道院によってあらしめられる己れを、修道院を生み出したディスクールの行使によって記述するという必要がありません。 彼らには、相似し模倣するものごと、アナロジー、徴を解釈する必要があります。 中世のディスクールを考えるならば、中世のひとびとの語り得る何の総和であり、また語り得ない何の総和であるのか。 そして、言語のではなく身体性のディスクールもまた中世の特有の表れ方で時代に刻み込まれているのであって、 それを読み解く作業は、類推ではなく考古学として、中世の内側から発掘する作業でしょう。 > 自己と自己の関係...権力 は、「性の歴史」のうちの、自己への配慮のことですか? どうでしょう。 自己の統治性というのは、gouvernementaliteのうちの一要素ですね。 キリスト教と近代国家に見出すことになるもの。 国家権力が個人の生を放棄させる権力、欲望を捨てさせる権力であるというところへ辿り着くものでしょう。 > 自分の周辺において微視的な権力を発見 はまさにフーコーの最終のメッセージに等しいと思います。 他者への働きかけが、権力から自由な主体であることを可能にするということではないでしょうか。 ゲイの正当化かもしれませんけれどね。
お礼
amaguappa様、再度のご回答をありがとうございます。 大変に参考にさせていただきました。 いかに自分が無教養であるか、不勉強であったか、つくづく痛感致します。 今後ともよろしくお願い致します。 >中世が近代のような社会装置、概念装置としての主体を必要としないのは、中心の喪失を経験していないからで、フーコーにひきつけた言い方をすれば、記述の主体を作り出さない時代だからです。 >象徴が表象そのものである、<神の署名>の時代だからです。 >文法でなく名詞の時代、線形の言語体系でなく一挙同時の象徴が認識される表象の時代、比較ではなくアナロジーの時代です。 >ラスキンのゴシック論を思い出すなら、まさに中世のエピステーメーとしての共同体論を語っていると言えるでしょうが、上記に、活版印刷でなくイルミナシオンの時代であると付け加えることができます。 これを拝見して、「わかったような気」になっちゃあいけないのだな、と自戒しております。 何となくニュアンス的に理解して満足して「ハイ、終わり!」ではなく、もっと深く考えていきたいなあ、と真面目に思う次第です。 『ヴェネツィアの石』はとても面白かったです。 >自己の統治性というのは、gouvernementaliteのうちの一要素ですね。 >キリスト教と近代国家に見出すことになるもの。 >国家権力が個人の生を放棄させる権力、欲望を捨てさせる権力であるというところへ辿り着くものでしょう。 なるほど。 私的には、「個人の生を放棄させる」「欲望を捨てさせる」ように「強いる」のは、「タガが外れてしまった規格化、効率化、管理化至上主義の流れ」という気もするのですが…。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.8&6です。 フーコーから逸れて 申し訳ありません。精一杯 お尋ねの件について お応えしてまいります。 パスカルには 《幾何学の精神》のほかに 同時に 《繊細の精神》を説く側面もありますね。 ▲ (パスカル:パンセ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 幾何学の精神と繊細の精神との違い。 前者においては 原理は手でさわれるように明らかであるが しかし通常の使用からは離れている。したがって そのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへあたまを向ければ 原理はくまなく見える。それで 歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり 見のがすことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて 推理を誤ることはない。 ところが繊細の精神においては 原理は通常使用されており 皆の目の前にある。あたまを向けるまでもないし 無理をする必要もない。ただ問題は よい目を持つことであり そのかわり これこそはよくなければならない。というのは このほうの原理はきわめて微妙であり 多数なので 何も見のがさないということがほとんど不可能なくらいだからである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 後者の《繊細の精神》は よくも悪くも 日本人の間にみられる社会的な 情感の共同性 も入ると思われます。幻想の共同になってしまう前の段階において 感性による交通関係があると思われ そのことだと考えます。 どうも デカルトは げんみつに言って どうなのか じつは 調べていないのですが 印象としては 幾何学の精神のみであるという受け取りが かなり一般的なのではないでしょうか。覆らないのではないでしょうか。 ★ アウグスティヌスの思想には 先駆者がいるのではないか。 ☆ ひとことで言えば 知らないものですから いれば その先駆者が 独創性を発揮したことになります とお答えするのみなのです。 キケロは そのホルテンシウスなる著書が 消失していて ここから アウグスティヌスが いくつかの著作において 大々的に引用し論じているようで それらを寄せ集めると かなりの概要が知られるということがあるそうです。ですから 虎の巻であったのかも知れません。でも ただ そのあたりのことは 研究が進んでいるとは思います。 ★ デカルトを どう読み どう思うか。 ☆ について 間接的にお答えするかたちになると思います。次です。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 真理( X = 無根拠)へ開かれた窓であるかも知れない。 《ところが わたしが疑うとき 疑う対象やその内容についてのことばではなく 疑いそのことについてのことばがある。 《疑っていることがどう展開するか これとは別に わたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。》 それは ほんとうは疑うべきではないという隠れた思いであるかも知れない。 それは 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。 有限・可変的・可謬的ながら 人間の得得る真実のことばだと考えられる。 《けれども このことばが いかに なぞの真理のことば( X )から遠いかを わたしは 見なければならない》。 今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。 思惟の成果も 座右の銘になるのが 精々である。 《疑いを持ったゆえ思考すること》と 《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつのように思惟を及ぼすこと》と いづれも ある種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。 旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはや あたかも どうでもよいと思わせるかのように 奥のほうには 真実のことばが 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。 よくやったとか そこに われわれは あるとか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で 意志の一時の休息のごとくであったりするような。 もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしは なお このわが《親しき内密のことば(verbum verum intimum)》をも超えて その窓を 開かねばならない。 (アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このような《真理=神》なら 科学の発展を妨げることもないと思うのです。そうならなかった原因を明らかにして 或る種のたたかいを展開する必要があったのではないでしょうか デカルトらは。 未読のまま 引用しますが ★ 「最も確固たる帝国(つまり、人間支配)の揺るぎない基盤は、やわらかな脳繊維のうえに築かれる。」と。 ☆ ということでしたら おそらく この《やわらかな脳繊維》に対抗するためには デカルトの幾何学の精神とパスカルの繊細の精神と そしてそれらをつつむ・やはり《やわらかな脳繊維》をも持った人間たちの誕生を 望むのが よいと思います。観念の帝国の基盤が 踊り出してくるというほどの やわらかな歩みをすすめていくことだと思います。
お礼
bragelonne様、再度のご回答ありがとうございます。 極めて愚鈍な中年主婦の私に懇切丁寧にご回答くださるあなたの誠実さにふれ、本当に心より感謝申し上げます。 昨日はパート、今日は釣り糸を垂れながら「う~ん。。。」と唸っておりました(風が強くて出航できず禁断のバース釣り、何も釣れずTT) >この《やわらかな脳繊維》に対抗するためには デカルトの幾何学の精神とパスカルの繊細の精神と そしてそれらをつつむ・やはり《やわらかな脳繊維》をも持った人間たちの誕生を望むのがよいと思います。 はい、これについては私も賛同させていただきます。 「パスカルの繊細さ」というのは、わざと化学記号で言うならば、H2Oの安定した分子からOの原子と一つ取り除いた「HOという極めて不安定な状態の分子=デカルトの超人人間としての論理」を「危惧して憂いている繊細さ」というニュアンスでよろしいのでしょうか。 bragelonne様がおっしゃる「日本人の間にみられる社会的な情感の共同性」「感性による交通関係があると思われ そのことだと考えます。」ほどに「情感的」というよりも、むしろ時のキリスト教会の体制や社会への配慮や迎合も心理のうちにあったのではないのかなあ、と思ったりしてしまうのです。 何故かとも申しますと、bragelonne様からこのたびの対話の機会を頂戴して以来、「主体」や引用文をご教授いただきながら、「哲学と科学」こそがサシでの命題と勝手ながら思っているからなのです。 つまり、bragelonne様は「デカルトはこう言うべきであった」とその後の科学の進展に伴う諸般の問題点をおしつけている面がおありのように察せられ、 そして私は無学にも傲慢に、「いや、デカルトはあの時無理にでも政教分離ならず「科教分離」をせざるを得なかった、だからあのje suis…で必要十分であったのではないか」と考えてしまうのです。 で、「今の現代だからこそ」パスカルの「繊細さ」が求められているようにも感じるのですが…。 ps:気障りでない良い意味でのキザ、として何度も申し上げているのに~、んもう!♪
補足
今後ともご指導のほどよろしくお願い申し上げます。 (書かなくとも念が通じるかと思いましたが、やはり念のため♪)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.6です。ご返事をありがとうございました。 ★ ≪あやまつなら≫の部分に「神との関係性」を私は強烈に感じます。 / デカルトがこの部分を切り離してしまった・・・ ☆ たぶん これが つまりこの見方が デカルトの後退を意味するはづです。どういうことか。 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》に とうぜんのごとく ★ 「神との関係性」 ☆ はありますが それは 観念の神ではないからです。理性によって捉え切った神ではないからです。まして 人間の精神やら理性のことではありません。 古代市民は いわば無根拠のことを 大声で 来る日も来る日も 神だ 神との関係だと 言いつづけていたのでしょうね。そういう意味です。 デカルトは 神の存在証明ができたと言っていたのではないでしょうか。あるいは 逆に――その存在証明によって 保証されてかどうかを別にしても―― 人間が その《コギト》の世界で 経験合理性の世界として あたかも完結しうると思ったということではないでしょうか? デカルトがどう言ったかを別にしても そのように 世界は 推移してきたのではないでしょうか。 別様に言いかえるなら 《あやまつなら》を取り外さなくても 観念の神とは まったく無縁なのですし 経験合理性による人間のいとなみと努力は それとして為されるでしょうし そのとき 《神との関係》一般も 社会的な外面においては いっさい ないとこそ言うべきだったと見られます。 もし 神との関係があったとすれば そうだとしても それは 経験的な相対世界を超えたところのことですから――無根拠のことですから―― やはり 何も見えないのです。わづかに 一人ひとりの主観内面におさめられて あるなら あるということだったはづです。 もし ヒエラルキアが この内面の信仰(つまり 無根拠に対する主観の態度として あくまで内面にとどまるこころの明け もしくは 伸び)を 外面に 出すべくもないのに 出してしまって 主観ないし主体の 信仰上という名目による教義規範上・組織規則上の 格づけをしたとすれば――これが このご質問のひとつの主題になっていますね―― デカルトらは この現実の欠陥をこそ 批判すべきでした。《あやまつなら われあり》と言うではないかと ローマのパパに おしえさとしてやらなければならなかった。 信仰は 外へ出かけてはならない。それは 自殺行為であると。 それを 精神・理性・経験思考――これによって おっしゃるように 科学が 筆舌に尽くしがたいほど 発展を遂げました――の世界に いささか過剰に栄光を与え いわばその主観内面に閉じこもってしまった。閉じこもっても そこから 理性をはたらかせるなら よろしいと唱えることとなった。 その後 観念の神は たしかに 死んだと叫ぶひとがあったのだが あっても なお この思念としての神は 嫌われればよいとしてしまっているか それとも 科学の神に変身しているかなのではないでしょうか。それは ひとつには 死んだ観念の神の代わりに 超越人間を ご苦労にも 説いたからですが このようであっては 一向に 人間の存在は われに還ったということにもならず 安寧でもないようです。 観念の神が まやかしだと分かったと言って さらになお奥の ムイシキとやらの領域にまで わがじんるいは 探検隊を組むことになりましたね。 《あやまつなら》――どうやら 現代において この部分に じんるいをすくうか否かのかぎがあるようですね。どうでしょう? * キザは 気障りから来ています。それで まちがいなければ 使ってくださるよう のぞみます。
お礼
bragelonne様、再度のご回答ありがとうございます。 もしやパスカルが憑依してました? まず脱線で恐縮ですが、ご教授下さった先のアウグスティヌスの記述につき、全くの彼のオリジナルなのか、或いは「先達の知恵」を一部拝借しているのか、少し興味を持ちました。 というのも、彼の中世美学の記述「身体の美はどこにあるのか? 膚の色の或る好ましさと結びついた、各部分同士の調和にある。」がキケロのそれの受け売りだからです。 どうなのでしょう。 自らの生きる時代と未来に真摯に対峙し、思想のマイナーチェンジをしていった事を思うに、不思議と親近感が湧く一方で、「デカルトがどう言ったかを別にしても そのように 世界は 推移してきたのではないでしょうか。」の「歴史の非連続性」にも深く思いを馳せるのです。 >これが このご質問のひとつの主題になっていますね >信仰は 外へ出かけてはならない。それは 自殺行為であると。 はい、私もbragelonne様おおっしゃることに賛同致します。 「それ」を言うなら「何故純粋な信仰の形態に回帰しないのか」とローマに進言すべきであったろうと。 ですが、やはり「ガリレオ裁判」など「当時の特異な時代背景」が彼を慎み深く躊躇させたでしょうし、むしろ、ある種の時代の閉塞感を大いに感じた彼が「あえて言わざるを得ない」状況に自らを追い込んでいったのではないでしょうか。 そして、彼の所業とはまた別に、良くも悪くもデカルト一人が「人類の業」を背負ってしまっているようにも思えてならないのです。 これって変な考えなのです? 「ego」「io」を省くことを望まず、あえて「Je pense, donc je suis」と「Je」を強調してまで、つまり、おっしゃるところの「探検隊を組むことになろうとも」未来に託したかった彼の切迫した気持ちも私には伝わってくるのです。 bragelonne様にはあまり伝わってこないのでしょうか。 >《あやまつなら》――どうやら 現代において この部分に じんるいをすくうか否かのかぎがあるようですね。どうでしょう? 私の内なる「あるある探検隊」に「じんるいをすくうか否かのカギ」を探せるとはとても思えませんが…それって永遠に探しまくる、というのではダメなの? とりあえず、一晩探索してもらうことにします、探索費用は明日bragelonne様に出していただきますから(笑)
補足
今ふと思ったのですが…。 おっしゃるところの 「《あやまつなら》を取り外さなくても 観念の神とは まったく無縁なのですし 経験合理性による人間のいとなみと努力は それとして為されるでしょうし そのとき 《神との関係》一般も 社会的な外面においては いっさい ないとこそ言うべきだった。」の箇所ですが。 デカルトが「超越した人間」を創出せざるを得なかった理由とは、つまり、科学の発展の障害壁となっていた存在とは、はたして神「だけ」だったのでしょうか。 それともそれに関与する他の存在も大きな理由だったりして…? この件につき、かのレオナルド=ダ=ヴィンチなら何と言うでしょうね。 何物も想起せずにあれだけの偉業を成し遂げられたというのも、何とも不思議な気もするのです…。
- wisemensay
- ベストアンサー率33% (35/103)
質問者の方へ 色々なことが書かれており、かつそれぞれが非常に興味をそそられることで久しぶりに楽しい話ができそうです。 まずデカルトの座標の発明あるいは代数と幾何学の統一の件ですが、彼の座標は、現在我々が使用してる座標の起源であることは周知のことですが、現在のものとはかなり異なっていたと岩波文庫「方法序説」の注に記載されていたと記憶しています。書棚のどこかにあるはずですが、見つけられません。 次に私が考えるのは、同時代の人間は同じような問題を考えているという事実です。ダーウィンの進化論にしろ、グラハム・ベルの電話の発明にしろ、あるいはフロイトの無意識の発見にしろ同時代人が同様なことを考え、それが何らかの理由で発表されなかったということは様々な書物に載っています。私事ながら、昔「サルトル」を読んでいたとき、意識で存在すべてを理解しようとする意図に疑問を感じ、このままでは「人間の肉体」はどうなるのだろうかと考えたことがあります。ところが、メルロ・ポンティの著作が出版された時に驚きました。殆ど同じような問題意識をもっていたからです。このことは、他の人も書物に著しています。 次に「私」について考えていた人は古来多くいたと思われますが、方法論的懐疑といわれるほどの執念深さは、彼以外には見あたりません。このころから、イスラムの凋落が始まるのも不思議です。 最後に修道院の権力性についてですが、これは組織の力学という観点からは回答が出ないのではないかとも思っています。では一神教という観点から考えるべきかと言うと、当時のイスラム教では修道院らしき組織は見あたりません。「コーラン」を読めば、分かることですが、これほど合理的で、神秘性を排除した宗教はないのではないかと思えます。 自然科学の優位性で、どうしても我々の思考はヨーロッパ中心になりがちですが、構造主義を持ち出さなくとも、世界を論ずるのに、フーコーやアリエス以外の思想家がいるということも忘れてはならないことだと思います。「子どもの誕生」については、どうも日本には当てはまらないのではないかと昔から考えています。 乱筆乱文、失礼。
お礼
wisemensay様、再度のご回答ありがとうございます。 たくさんお書き下さって、とても嬉しかったです。 そして私の方こそお礼が遅くなりましてごめんなさい。 >現在のものとはかなり異なっていたと岩波文庫「方法序説」の注に記載されていたと記憶しています。 はい、デカルトのオリジナルの座標軸を一度見てみたいものです。 『哲学原理』(岩波文庫)の128頁には簡易な座標軸と円運動の弧の軌跡の図が掲載されていますが、こちらとはまた違うものなのでしょうか。 >方法論的懐疑といわれるほどの執念深さは、彼以外には見あたりません。 ちなみに私の『方法叙説』は白水社刊で、極めて明快な文章で読みやすく、解説の養老氏の「デカルトは浪花節」を目にして「ああ、そうなのよねえ」と、思わずクスクス笑ってしまいました。 先の『哲学原理』の「仏訳者への著書の書簡」においても「表面は徹底的に理性的な議論だが、裏の情念のほうが本当は強い。それに引きづられる。」はまさに「我が意をえたり!(笑)」なのです。 純粋にpioneerって凄いなあ、と尊敬してしまうのですが、さて、wisemensay様のデカルト評はいかがでしょうか。 >同時代の人間は同じような問題を考えているという事実です。 なるほど、案外そうかもしれませんね。 しかも思想哲学の類は時代の流行りがあるようにも思えます。 サルトル、メルロ・ポンティにももっと触れていきたいです。 >当時のイスラム教では修道院らしき組織は見あたりません。 >「コーラン」を読めば、分かることですが、これほど合理的で、神秘性を排除した宗教はないのではないかと思えます。 確かにそうですね。 合理的で神秘性を排除した宗教だからこそ、いまなおイスラム教は他のいかなる宗教よりもより「宗教国家」としての根幹をなし、人々の日常生活にあまねく深く根ざしているのかもしれません。 一夫多妻制や禁酒も極めて合理的?(笑) >自然科学の優位性で、どうしても我々の思考はヨーロッパ中心になりがちですが、構造主義を持ち出さなくとも、世界を論ずるのに、フーコーやアリエス以外の思想家がいるということも忘れてはならないことだと思います。 はい、この一文を深く胸に刻んでいく所存です。 今後ともよろしくお願い致します。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 フーコーについては 分かりません。ですが 《主体》についてでしたら それは まづ基本として 近代も中世も そして 古代も 区別がないというところから出発する必要があると考えます。 デカルトの主体は アウグスティヌスの主体よりも その中身において 後退しています。その点を 参考までに お伝えしたいと考えました。 認識の主体について 以下のような議論が出来るかと思います。 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しているところです。主体のあり方がどうであるかの問題です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。 (パスカル:《幾何学の精神について》2.1657) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。 * 念のために この点についてのデカルトの文章です。―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ る と仮想しようと決心した。 (方法序説 4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。 * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力 を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・ さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・ (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・ (方法序説 2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ と書いたことは よく知られているところである。 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。 _________________________________________________________ デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。 (パスカル:幾何学の精神について 2) ____________________________________________________________ パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのだが 大目に見ておきましょう。 アウグスティヌスを顕揚するかのようですが 古代人の主体が のちの時代よりも劣るとは言えないでしょうし むしろ あとになると 後退しているようにさえ思われますが どうでしょう。 つまり 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えるのです。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを 取り出せば 《考えるとき われあり》となるはづです。
お礼
bragelonne様、ご回答ありがとうございます。 >《主体》についてでしたら それは まづ基本として 近代も中世も そして 古代も 区別がないというところから出発する必要がある はい、私もこの段階にきて「そもそも≪主体≫とは何ぞや、主体の差とは一体何があり得るか」と考えあぐねておりました。 ですから、bragelonne様のアドバイスは本当に嬉しかったです。 やっぱりキザね(笑) >デカルトの主体は アウグスティヌスの主体よりも その中身において 後退しています。 えっと、このたびの詳細な「比較」を拝察させていただき、かなりの衝撃を受けました。 確かにおっしゃる通り、アウグスティヌスの主体はデカルトのそれを包括しているかのようですね。 そもそも歴史の進展に伴い、主体論を含めた哲学、科学等が、同等同質に「進展」してきたと言えるのでしょうか。 体系的に名を連ねている哲学者や科学者の輝かしい名前や功績の影に「忘れ去られたかつての偉人達や無名の人々の遺物」が無数に存在します。 デカルトも恐らくは、彼のコギトや図表、数式の形成の過程において「地味で目立たない産物、過去に論破済みであったり無効化された遺物」から少なからず恩恵を享受したに違いありません。 でも私達は不思議とこれらの「遺物」に関心を持たず見過ごしてしまいがちなようにも思えるのです。 >その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを 取り出せば 《考えるとき われあり》となるはづです。 デカルトの主体がアウグスティヌスのそれよりも「後退」しているのかどうか。 ≪あやまつなら≫の部分に「神との関係性」を私は強烈に感じます。 デカルトがこの部分を切り離してしまったことにより、近代以降の人間は凄まじい勢いで時には我が身に余りあるほどの「文明の利器や知恵」を発明してきたとも言えると思われます。 普段は限りなく無宗教の意識にあり、欧米の知人より薄気味悪がられ、どちらかというと自然科学系のジャンルに興味をおぼえる性質なわたくしではありますが、さすがに上述に関して「デカルト以降の大いなる後退」をひしひしと感じることが結構あったりもするのです。 bragelonne様の「後退」とは一体何を意味するものなのでしょうか。
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お礼
ghostbuster様、このたびは大変お世話になりました。 先の質問へのご回答も含め、フーコーを読み解く上での一つの指針とさせていただきます。 本当にありがとうございました。 >フーコーが重要視するのは、「時間の断絶」ということです。 >あるひとつの認識の装置が形成され、つぎの認識のありようが現れるときには、根本的に断絶があるのではないか。 はい、このたびはこの「時間の断絶」の重みについて考えさせられました。ありがとうございます。 そして、まだ『狂気の歴史』『性の歴史』の数冊は未読ですし、これからまた更なる新たな発見があると確信しております。楽しみです。 久々のフーコーは本当にエキサイティングでした。 何というか…ハゲのエロおやじながら、なかなか切り口がイカしてるなあ、と思っております(笑)。 で、今後理解を深めていった暁には、逆の見地からフーコーがどのように批判されているか、についても知りたいです。 もちろん、源流のニーチェなどもそれ相応の理解が必須のようですが(言うは易し)。 この質問は、先の質問者様の質問を偶然目にし、書棚から20年ぶりに取り出して同時進行で再読する過程で、軽い気持ちで問いかけさせていただきました。 『監獄の誕生』は当時直接のゼミ担当でなかったにもかかわらず、何故か大変目をかけてくださった教授に誘われてゲストとして何度かサブ・ゼミ参加をし、その後渡欧のためそのまま放置、卒業してしまったという大変いわくつきの書なのです。 このたび、フーコーが先の「le pouvoir…」のうちに、実に 多種多様な権力様態の考察を試みていることを認識することが出来ました。 生権力、パストラルに絡む司牧権力の類は目からウロコでした。 また、現在美術系の仕事に就いているせいか、例えば建築様式の推移や表層の美や構造設計とは別に、18世紀末からの「≪諸≫空間の歴史」=「≪諸≫権力の歴史」という空間の政治学についてもなるほどさもありなん、と頷かせられたりもしました。面白いです。 >三浦雅士の『身体の零度』 はい、先の質問でご推薦なさっていた書もあわせて読みます。 ありがとうございます。 細々と、趣味の範疇で気長に読んでいきたいと思っておりますので、 映画「ゴーストバスターズ」のマシュマロマンの如く、奇妙キテレツな質問がお目に入った際には、またご教授していただけますでしょうか♪