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究極の悪とは――存在について――
《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。
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オコリザルです。 前に反物質おばけってのを話した憶えがありますが、このおばけは反物質についての論理武装をした特異な知性でした。 私は無学なのでその手の知識はありません。要するに経験に無い自らが生み出したものでない魔物でした。 このおばけは光、神、存在、あらゆる面で人知に想像しうる正反対の性質を備えた知性です。地球上の生命に想像しうる第二の死を、いわば転生の目標とした困った存在です。 お相手はメチャンコ悪魔君が担当しました。 このおばけには言葉がありません。 マナ識の、要するに私自身の声の、代理として、メチャンコ悪魔君がその知性を解きほぐし復活蘇生させました。 神様がいずこからか連行してきた縁の無いおばけでしたが、私の脳と体はこのおばけに反応しましたので生命に内包しうる知性でもありました。このときの脳の反応が、(エヴァンゲリオンみたいに)知性の暴走により無意識が浮き彫りになる状態です。 人間の手で克服することが人間の普遍性を記憶する上で重要であったと推測します。 primeapeなんて気取っていますが実際は神様のモルモットです。 第二の死の究極の姿さえも救いえます。 ですから勝負は全て買って下さい。 無意識の話ですが個を超えて連携している無意識は地上で起きている事象で理解できないことは何も無い状態にする目標でしょう。 理解の行き届かない影が闇の子です。
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- maimaisus
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maimaisusです。 > ★ 善のへそ曲がりである悪もまた善という事で ☆ これは 意味が通じません。 ★ 善の欠如=悪は理論的に成り立たないと思うのですが。 ☆ 意味が通じません。 だって前提が、存在は善であるって事でしょ。最初から悪否定していしているのに、例外でありますって変でしょ。 その時点で、存在は善は成り立たなくなっている訳です。これは、理論の話ですから。 これが、意味が通じないと言うのでしたら、 >悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。 もまた、意味が通じないという事になりなます。 しかし、感覚てきに物事をとらえているのであるならば、解らなくもないですがね。 >☆ 《善が欠如した状態》を《悪》と呼ぶというだけのことです。 何で?《善が欠如した状態》は、存在の善が欠如した分、存在が減少するッてことでしょ。前提が存在は善なのですから。その状態を悪とするのは、変ではないですか。普通に考えたら、存在が減少しているだけです。 >★ 存在=善・悪であると言う事になりますね。 の前提は、存在は善で、善が欠如した状態を悪と言うならばですね。 矛盾している、理論的に。と言う意味。 >そんなことを言っても 何にもならないでしょうね。なりますか。 そもそも、そんな話をしているは、ご自分ですよ。って言うか、そんなこと言ってないしね。
お礼
6. 人間の意志は 悲しいかな 喜ばしいかな 心に へそ曲がりを持つ自由を持っている。それは 自由意志である。 7. すなわち 善はもとより 悪も 存在の内から 自由意志によって 起こる。 8. ただし それは 善のへそ曲がりであって 本性は 善が 基礎となっている。そうでなければ 《へそを曲げることすら 出来ない》。 9. つまりは 《悪》というものが どこかに 存在していて それが 現象としても 現われるというものではない。 10. たとえば 善なる心が 悪にさそわれるというとき その悪は すでに歴史事実として継承してきた現実に見られるものを言っている。 11. それを取り上げるならば 孟子の言うように 《悪は外在する環境にある》と言えるかも知れない。 12. ただし おそらくは その起源は そうではなく 内在する自由意志のへそ曲がりにある。 13. すなわち 《存在は善である》と言っても それは 想定であり しかも 悲しいかな 喜ばしいかな 相対的な善なのである。有限であり 可変的である。ゆえに あたかも光のごとく 曲がり得る。 14. 自然本性の持つ知性・理性は あたかも 光のごとくであるが いかんせん それは 経験事物としての太陽であるに過ぎない。朽ちるべき光である。 15. しかも 存在とその自由意志は 曲がりなりにも 善である。本性として 悪でもなければ 善と悪との混在でもなく 存在するのは 相対的なものだが 善のみである。 16. この善がなければ 悪は存在しない。 以上のような仮説です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
maimaisusさん――とロボット投稿に対して 名前で呼びますが―― 勘違いのありかが分かりました。次です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >☆ 《善が欠如した状態》を《悪》と呼ぶというだけのことです。 何で?《善が欠如した状態》は、存在の善が欠如した分、存在が減少するッてことでしょ。前提が存在は善なのですから。その状態を悪とするのは、変ではないですか。普通に考えたら、存在が減少しているだけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 直前の応答から 引きます。 ☆☆ (No.24補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1. 人類は それぞれの言語において 《善および悪》という言葉を用いて 社会生活をいとなんでいる。 2. この言語習慣を解明することは 有益であるはづだ。 3. そこで 人間の存在 / そこにそなわる自然本性 / その具体的な行為能力としての特には 自由意志 / そのすなおな まこと(ウソでないこと) これを 《善》と呼ぶというふうに 仮説してみる。 4. 意志のへそ曲がり つまり ウソをみづからの意志とすること これは 仮説からすれば 善の損傷だと捉えられる。このように善を損傷させること・また 損傷させられた状態 これを 《善の欠如》というふうに言っていると長いので 一言で 《悪》と呼ぶ。 ☆ このような作業仮説を提出しているだけだとも 言えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 作業仮説 ☆ ということについて 理解が届いていないようです。 ☆☆ (《Q:悪は 存在しない》No.9補足欄)~~~~~~~~~~ http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html ○ 作業仮説 ☆ という点について むしろ maimaisusさんのほうが 飲み込めておられない。こう捉えて 以下に 説明します。 ● ヰキぺディア:《性善説》〔=α とする〕 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84%E8%AA%AC ☆ これを出汁に使います。 まづ ▲ 「性」とは、人の本性やものの本質のこと。字書的にいえば、「性」という字は生まれながらの心という意味である。 ☆ だそうですから ここでの《自然本性》にあたります。これが 人間の《存在》にそなわると言い また この存在が善であるという仮説ですから ほとんど 同じであるようです。 ただし 《悪 ないし その起源》については 見解が 分かれるようです。 ちなみに その前に ・性悪説 あるいは ・《「性無記説」(性には善も悪もないとする告子の学説)や ・「性が善である人もいるが、悪である人もいる」とする説、 ・「人の中で善悪が入り交じっているのだ」とする諸説》(α) もあるわけです。要は どの仮説にせよ それによって 人間ないし社会のありようをよく説明し得たかが 問題です。 もうひとつ ちなみに いくら性善説と言っても ▲ 孟子も朱子も、人の「性」は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、「聖人の教え」や「礼」などによることが必要であると説いている。 ☆ とも知られます。この点は 《悪》の定義によって すなわち 次に取り上げる 悪の起源にかんする仮説内容によって 違ってくるようです。 さて 悪の起こりについてです。 ▲ (α) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 孟子は以下のように説明する。 悪は人の外に存在するものであるが、天が人に与えたもの、すなわち「性」には「耳目の官」(官とは働き・機能を意味する)と「心の官」が有り、外からの影響を「耳目の官」が受けることにより、「心の官」に宿る善の兆しが曇らされるのだ、と。 すなわち善は人に内在する天の理法であり、悪は外在する環境にあると説いた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これに対して この質問趣旨では 次のように言っています。 1. 善であると想定される存在が備える自然本性 その行為能力である内のひとつの《自由意志》 これによって 思惟や行為としての善と悪が起こる。 2. すなわち われらが意志は 悲しいかな 喜ばしいかな みづからの存在に内在するおのれの心に 従うのも 従わないのも 自由と来ている。 3. おのれの心に従う場合――それは 基本的に 存在の愛(維持向上)である――が 善であり 従わない場合が 悪である。 4. これは とりもなおさず 悪とは その内容が 存在の愛に反することである。 5. 意志が おのれの心に従わないというのは 心を 曲げるということである。
- w-hiterose
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回答・補足など、全部読んでません。前回の?というのも読んでません。通りすがりです(お気を悪くされたら無視してください)。 究極も何も・・・個の人間に「悪」はありえません。(もちろん善も) あるのは「社会悪」のみです。
補足
w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。 《全体》にわたる問題をはらんでいるようですから かんたんに受け応えするわけにも行きませんが 問題点や基礎的な認識事項を省みておきます。 1. 人類は それぞれの言語において 《善および悪》という言葉を用いて 社会生活をいとなんでいる。 2. この言語習慣を解明することは 有益であるはづだ。 3. そこで 人間の存在 / そこにそなわる自然本性 / その具体的な行為能力としての特には 自由意志 / そのすなおな まこと(ウソでないこと) これを 《善》と呼ぶというふうに 仮説してみる。 4. 意志のへそ曲がり つまり ウソをみづからの意志とすること これは 仮説からすれば 善の損傷だと捉えられる。このように善を損傷させること・また 損傷させられた状態 これを 《善の欠如》というふうに言っていると長いので 一言で 《悪》と呼ぶ。 ☆ このような作業仮説を提出しているだけだとも 言えます。そうすると ★ 「社会悪」 ☆ についても かなりきちんと整理したかたちで 把握することができると考えられるのです。 5. 《社会》という視点もしくは場にかんしては ひとの存在をめぐって その《個としての独立性》のほかに しかも 同時に 《他者との関係性》が 自然本性じたいにそなわるという・やはり仮説で 応じます。 6. 自由意志による判断および行為が とうぜんのごとく 《社会的な関係性》を持つという意味です。 7. しかも 問題は このとき 意志行為の自由およびその答責性(説明責任)は 個としての独立存在のほうにあると見る。つまりは おのおのの《わたし》のほうに あるという見方です。(共犯といった事態についても 一人ひとりの《わたし》に 責任があるという原則です)。 8. もう一点は この《関係性》が 経験的な見えるものごとをとおして つながっているというだけではないだろうという視点が あります。 9. これは 端的に 経験世界を超えたという意味で 《霊》とさえ言っています。(その同じ意味で 《たましい》と言ってもいいでしょう)。 10. つまりは おのおのの意志行為の社会的な相互連関(そしてさらには その歴史的な蓄積や伝統を交えての切り結びのありよう)といった経験的な内容だけの《関係性》に限られず ひとの《信仰》をとおして 非経験の《霊》をつうじても 人びとは 切り結びし合っているという仮説です。 11. 個別の意志行為については あくまで その特定の《わたし》に その自由とともに 責任がありますが それが 原則なのですが ただし こうも考えられます。つまり――ややこしくなりますが―― この《社会的な関係性》という視点からみて 社会的な土壌といった基礎としての場においては 考え方として 責任には 人びとみなにとって その共同性があると見るべきでしょうね。 〔12. 小泉政権が 派遣労働者にかんする規制を緩和しなければ 今のこれほどの苦しみは なかったか または 別のあり方になっていたであろう。けれども ひとりこのおっさんに責任をなすりつけることは 出来ない相談で それは 社会的な共同責任という部分が 《関係性》の視点からは ひじょうに大きいと考えられる。うんぬん。〕 ☆ このたぐいのことを ★ あるのは「社会悪」のみです。 ☆ という簡潔な一文で おっしゃっているのだと理解しました。《個人としてのわたしの意志行為をめぐる自由と責任》 この原則を 伴なわないと 真意は伝わらないように思われますが いかがでしょう。
オコリザルです。 もう1つ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 第二の死の究極の姿さえも救いえます。 ですから勝負は全て買って下さい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 要するに 悪魔と対決して勝ったということですよね。 「勝った」と受け取らないで「勝てる」と受け取ってください。 困難はあるので楽勝とはいえませんが必勝です。
お礼
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 分かっていますよ。 今回は 《文学的な表現》の問題です。 ★ (パウロ:ガラテヤ書5:24) ~~~~~~~~~~~~ キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉(* =身体および精神)を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《十字架につけてしまった》という完了相における表現形式は 文学的でありまして 《生まれ来る人びとそれぞれが 自分の境涯に応じて 将来すべきこととして この完了形で述べられた事態に臨む》という意味に取られます。 しかも 《このことばを受け容れた瞬間に すでに かたちのない希望において すくわれている。すなわち 潜在的には 実現している》と知ることになります。 ☆☆ 悪魔と対決して ≫勝った≪ ということですよね。 * ちょっと 恰好をつけすぎましたか?
オコリザルです。 今回は自らの言葉をなぞって後になって意味を知りました。 この手の現象は考えが現実なり実態なりと遊離しているゆえ起こります。 >このおばけは光、神、存在、あらゆる面で人知に想像しうる正反対の性質を備えた知性です。地球上の生命に想像しうる第二の死を、いわば転生の目標とした困った存在です。 あらゆる面で正反対と言いながら、そして生命に内包しているといいながら、提示した事例は光、神、存在、のみで肝心の人間性に関する見解がうかがい知れません。そのくらい飛びぬけた純粋な知性であることが伺えます。むしろそれを想像しえた人知のすごさです。人知とはいずこに所在するのでしょうか?。定番は涅槃であり、イデア界でもあります。これらは無意識が個を超越してつながっているからこそ生まれる世界です。地球上の生命の歴史でもあります。「世」とは数学的な三次元世界では無く涅槃たる心のつながりのある世界の現れです。「世」の本来の意味はそのように表現されます。これは私の発見かもしれませんね。高次元の霊体の宣伝する魂の高次元構想はいただけませんがね。階層を作るのはごめんです。無意識的な生命の取り組みは地上の理解不能な現象を人類の英知を持って解消し、いわば、まだ頼りにするならば、地球さんに生命を生み出したその意味を聞くことです。そして宇宙に迎え入れられる。まだたとえ話なので表現は文学的ですが、そのような現代(耄碌した人には現世)の取り組みなり潮流なのです。
補足
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 今回は 苦言を呈しましょう。 ★ まだたとえ話なので表現は文学的ですが ☆ 文学的な表現であるかどうかとは別に やはり ○ 異言 ☆ であることが 問題と言えば問題です。無神論の立ち場から 《無意識》と言っておられますが 《霊》にあてはめて読んでください。 ▲ ( コリント前書12:4-) ~~~~~~~~~~~~~~ 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これで 行きましょう。きもーいという感じがするのだけれども 究極の悪の様相を呈するひとも わたしたちにとって 互いに 部分であるでしょうから。(もしくは 主体どうしの社会的な関係総体であるでしょうから)。 もっとも 去っていくひとを追う必要はないと考えます。むしろ 追わないというのが 正解だと考えます。 ★ 涅槃 ☆ は いかにも 暗いと思うのですが? * わたしにも 苦言を呈してください。ここまでの付き合いなら 遠慮は要らないでしょう。
- maimaisus
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aimaisusです。 >今回も 結論のみ述べて 根拠については いっさい触れずの文章でしたね。 根拠も何も、No.17・18で説明した通り。単にbrageloneさんの理解する気がないのか、読み流しなのかは分かりませんが。 そもそも、存在は善はbrageloneさんの論理でしょ、もう一回よく考えてみたらいかがですか、もし例外があるなら、それは理論的矛盾でありどちらかの在り方が間違っているかあるいは両方間違っているという事です。 もし、私の言っていることが解らないのであれば、文章並べて、誰かに聞いてみては?
お礼
★ (No.17)んー、brageloneさんの論理、存在は善を踏まえてお聞きしたいのですが、善が欠如すると言う事は、存在が欠如するという事なので ☆ 《存在が欠如するということ》というのは 舌足らずでしょうね。 うそに発して 自由意志による善のねじ曲げ これによって 善が損傷を受け 欠如していくということです。それによって たしかに 《存在にも欠損が出来てしまう》とは言えます。 ★ 善のへそ曲がりである悪もまた善という事で ☆ これは 意味が通じません。 ★ 善の欠如=悪は理論的に成り立たないと思うのですが。 ☆ 意味が通じません。 ★ 正確には、善の欠如=無って事ではないでしょうか。 ☆ 《無》の問題は すでに説明済みです。自由意志のすなおとしての善が すべて 欠如したとしても 存在には――信仰をとおして―― 霊が それを包むように はたらくと想定される。ゆえに ただ《無》だというのではない。《善の 欠如としての無》をも包みこんで 元の善を回復することを可能にするという想定です。 ★ もし、善が欠如して悪になるなら、存在=善・悪であると言う事になりますね。今までの話から行くと。 ☆ 《善が欠如した状態》を《悪》と呼ぶというだけのことです。 ★ 存在=善・悪であると言う事になりますね。 ☆ 善が 部分的に欠けた状態だから その欠如の部分が 悪で ほかの部分が 善だという意味でしょうか。そんなことを言っても 何にもならないでしょうね。なりますか。 No.18では 《無》の問題には すでに 説明済みであり ほかに 問題点はないはづです。 上の意味が取れないところは 仕方がありません。説明を求め続けてきたのですから いまさら 補足要求しようとは思いません。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>《人間故の情動、衝動》は ここでは 心において まことかウソかで 善悪を判定してください。また その人の主観の問題です。本人は 知っています。 まことしかありません。本人が知っている本人の心に本人がウソをつくことはできません。 本人に巣くっている野獣は、その時の本人の心には見出せません。隠されているか別の顔をしています。 仮に本人が理性で気づいていてもその行動は、それを上回る本人にとっての善があるということです。 無差別殺人犯は、その時、自分の野獣を知っていた?解放者の顔をしていたに違いないのです。 >もし仮りに 普遍的であるという解答が得られたのなら 今発生している物事の善悪の判定は、常に未来にあります。その範囲を限定する必要は ありますが行動に対する結果にあります。 それを知らない今の本人に、善悪は信ずるか、推測するしかないでしょう。 だからこそ、帯域の広い領域を鍛え、刻々と変化する状況を忍耐強く注視し、対応するしか ないと思いますが・・・
補足
bananasandさん ご回答をありがとうございます。 ★☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >《人間故の情動、衝動》は ここでは 心において まことかウソかで 善悪を判定してください。また その人の主観の問題です。本人は 知っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この問題ですね。 ★ 帯域の広い領域を鍛え、刻々と変化する状況を忍耐強く注視し、対応するしか / ないと思いますが・・・ ☆ この締めくくりに 異存はないのですが その理由つまり ★ それ(* =《常に未来にある物事の善悪の判定 同じく 行動の結果》)を知らない今の本人に、善悪は信ずるか、推測するしかないでしょう。 ☆ には 異議があります。つまり異議は 上に掲げた問題です。 ☆☆ (No.13) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ドクターレクターが悪であって ☆ というのは この人間が 人肉食について おのれの心において まことか それとも うそかを 判定することに基づきます。 存在としての善を欠如させるゆえ 悪だと判定する。判定するけれども その嗜好は 止められない。――というときには 善の完全な欠如に近いという状態であるでしょう。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりは 基本的には あるいは 第一次的には こうです。 ○ 一つひとつの事柄についての 意志による内面における判断 および 外面における行為 これの善悪は 心に うそがあるか無いかで 判定する。そのことを 本人は 知っているという意味である。 ☆ もし 本人が もはや 善悪の判定を決められないとか 結果を待って決めるのだとか いうのでしたら それは 二次・三次の派生的な事態だと見ます。すなわち うそを まことだと見なしたいという自己錯乱に みづからが みづからを 落とし入れる。つまり そういう悪の意志行為であると捉えます。 ▲ 悪魔は 本心から うそを言う。 ☆ と言いますが そこまでには到っていないとも言えます。でも 自己錯乱は やはり 悪です。ドクター・レクターも 自身では 分かっているはづです。それとも 悪魔の本性に近づいているかです。 したがって すでに みづからが そのウソかまことかを判定し得なくなっているとすれば たしかに 広い帯域において 情況や事態を注視していかねばならないでしょう。一人でも多くの人びとの的確な対応が 望まれます。 * 考えの変化があります。もし 霊が 第一の死あるいは第二の死の状態を 霊として 包むという情況が 原則に沿って 考えられるならば――という意味は 基本的には 元の善を回復することができるという原則が 有効だという意味ですが そうであるならば―― その第一の死も 実際に 人間に起きるかに思われます。第二の死に近い状態も 起きるかも知れないと思うようになりました。 ただし 後者のほうは 第二の死の状態になったとしても その状態が 社会的な必要性あるいは必然性を持たないのなら ほとんど 意味がなく 起きないと思われるということ。そして やはり 《近づく》だけに限られるであろうという見方です。 必然性というのは その《第二の死》という悪を 何らかのために 善用する必要があるかどうかです。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
maimaisusです。 (1)に対しての回答ですが。 そうであるならば、尚更、善の欠如が悪だというのは、間違いだと思われます。 そうであるならば、前提自体が成り立ちません。 したがって、(2)も存在は、善の欠如としてではなく、善性のゆがみとして存在しなくてはならないと言う訳です。 そう言う意味では、究極の悪とは、自身以外の全ての抹殺(自分以外の存在を全て殺す)ではないでしょうか。 (3)はそう言う意味なら存在するといえます。
補足
maimaisusさん 対話・交通する人間どうしの関係として重要な分岐点において なんら きちんとした意志表示を行なわずに 補足要求がつづいています。わたしのほうは そのつど 一回切りの回答だと受け留め 応答してまいりましたが 今回も 結論のみ述べて 根拠については いっさい触れずの文章でしたね。 ロボット投稿を相手にするつもりで 応えてまいりましょう。 前回(No.18お礼欄)の(1)(2)(3)とも 互いに つながっており 全体として まとまった内容です。どれか一つが 間違いで ほかのものが妥当であるということは あまりないはづです。 ☆☆(No.18お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) ひとは 個人として存在しますが その個人としての独立した存在そのものにおいて 社会的な互いの関係性が 存在するという見方。 この社会的な関係性としては 死後にも ほかの人びととの関係において 何らかのかたちで 存在しつづけます。それは 端的に言えば どういう人格であったかが 存続するのでしょう。 したがって 第一の死ないし第二の死の状態であったのかとなれば 大きな問題になります。そういう意味では 存在は 善であり 存在として 善でありつづけると言えるようです。つまり 《無》に成り切るということがないという意味です。 (2) 悪魔は 理論上 想定される絶対悪のことです。いま そう規定しています。 (3) 《霊》は 《絶対》のことです。この《絶対》として想定された《霊》と 《わたし》との関係――これが 信仰ですが―― ここにおいても あたかも《霊》のはたらきを受けているという想定になります。あるいは 虚構ないし物語という意味です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 善の完全な欠如――精神の側面で 自由意志によって みづからのその自由意志じたいの抹殺を行なったというかたちが考えられます―― この第一の死(むろん 悪です)も それを 《信仰》において 《霊》が包むという状態が考えられます。そこから 善の回復が得られるという寸法です。 第一の死が死なない つまり 善の回復が――そのとき 究極の悪は 質の変化を伴なって―― できなくなったという第二の死 これは 想像の上で このように 考えられます。人間の状態として 実在するか。 これは ふと 思ったのですが この第二の死の状態も 仮りに 霊によって 包まれているとすれば――つまりは 言いかえると この絶対悪が 絶対と言いながらも それみづからのみで 他から独立して存在するということは あり得ないという前提を確認しうるならば―― 実在としても ありうるかも知れないという推測です。 ただし おそらく その実在の可能性は その実在の社会的な必要性もしくは必然性 これがなければ やはり 無意味であろうとも 考えました。 これは まだ ただの試行です。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
maimaisusです。 >自殺は 自由意志をみづから抹殺するという《存在=善》の欠如そのものですから とうぜん 悪です。 やっぱり存在が無くなるということは無ですよね。 それに、みずからをぼく抹殺もそれ自体が自由意思の一つですしね。 >或る種の霊を残したかに ほかの人びとには映ります。そして いじめに対して 抗議しているかに見えます。けれども これは 悪です。完全なる悪です。つまり 理論上 第二の死です。 これも、生きている人間の問題で、死んでしまえば、その人自体はどうこうでいない訳ですから。 まあ、霊がいるかどうか、悪魔がいるかどうかの話しをすると、形は、どうであれ、いますね。確かに。 自分と、周りそしてより広い幸せが、善、そのために、相手をより理解しあい、足りない物のを、補いあう、愛。 に対し 悪魔のかたちは、核となる欲がありそれを増強させた物と言えるだろうか。 そう言う意味では、それに近い人間は存在する。=それに近い意識も存在する。 霊は、前提が難しいのでなんとも。 しかし、霊とは別として、ひとの記憶や、情報として残っている以上、何等かの力の流れとしてあるものと思われる。
お礼
ご回答を読みづらくしている事柄を 指摘いたします。反論があれば どうぞ。 (1) モノがある・なしと 存在があるか無いかとは 一概に 同列に扱うわけにはいかないでしょう。 水不足だ・空気が希薄だ・お金が足りないといったときの《無〔に近い状態〕》と 存在・特にここでは 人間の存在について 一般に《亡くなる》と表現される・その限りでの《無》とは おそらく次元を異にすると言っていいのではないでしょうか。 これは 死後の世界といったことの問題ではありません。ひとは 個人として存在しますが その個人としての独立した存在そのものにおいて 社会的な互いの関係性が 存在するという見方のことです。 この社会的な関係性としては 死後にも ほかの人びととの関係において 何らかのかたちで 存在しつづけます。それは 端的に言えば どういう人格であったかが 存続するのでしょう。 したがって 第一の死ないし第二の死の状態であったのかとなれば 大きな問題になります。そういう意味では 存在は 善であり 存在として 善でありつづけると言えるようです。つまり 《無》に成り切るということがないという意味です。むろん 《完全な悪の状態に陥ったのではないか》という問題も そこには 入っています。 (2) 悪魔は 理論上 想定される絶対悪のことです。いま そう規定しています。 (3) 《霊》は 《絶対》のことです。この《絶対》として想定された《霊》と 《わたし》との関係――これが 信仰ですが―― ここにおいても あたかも《霊》のはたらきを受けているという想定になります。あるいは 虚構ないし物語という意味です。 たとえ 同じ神を抱いているのでないとしても 《信仰》としては 同じ類型であるので 人びとは 関係性ないし共同性を持っており その人の固有の物語(つまりあるいは 生涯をつうじての境涯)がどうであったかは 他者にも かかわっているというのが 現実なのでしょう。 以上は 特には 次の文章について 評言を与えたものです。 ★ 生きている人間の問題で、死んでしまえば、その人自体はどうこうでいない訳ですから。
- maimaisus
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maimaisusです。 んー、brageloneさんの論理、存在は善を踏まえてお聞きしたいのですが、善が欠如すると言う事は、存在が欠如するという事なので、善のへそ曲がりである悪もまた善という事で、善の欠如=悪は理論的に成り立たないと思うのですが。 正確には、善の欠如=無って事ではないでしょうか。 もし、善が欠如して悪になるなら、存在=善・悪であると言う事になりますね。今までの話から行くと。
お礼
善の完全なる欠如= 第一の死 という状態において 理論上 もしくは 論理として たしかに 存在じたいが 欠如してしまうかたちが 描かれます。 この問題は もしそうだとしても これも 理論上になりますが たましい(正確には 霊 つまり 何ものかは分からない つまり なぞ のことですが)として 存続しているという想定です。 言いかえると 信仰の問題です。言いかえると 《絶対》と《わたし(なる存在)》との関係の問題です。有神論および無神論 どちらの信仰においても この《不思議関係》が なお 第一の死の状態にあっても はたらくという想定です。 つまり 元の自然本性としての善=存在を 回復することができるというものです。 繰り返しますと 善が完全に欠如してしまって 《悪》だけの状態になった場合 その場合にも元の善は 生きていると考える そういう物語です。 ここから想像を伸ばして もし元の善を回復することができない状態を想定するとすれば――それが 《第二の死》とよぶものですが―― それは いったい どういう現実か と問うています。ただの絵空事であるのかどうかです。 これまでにおいて 得られている回答は 次のようです。 《第二の死》は 人間には 起きないのではないか。ただし 起きているという観想も ひとによっては 持たれている。そして それに近い状態に ひとは なることがあるのではないか。となっています。 たしかに 鋭く いいところを 突いていただきました。
補足
補います。 いじめに遭った者が 死をもって 抗議することがあります。抗議であるかどうかも分かりませんが 自殺という行為を 自分の道として 選択することがあります。 仮りに自殺未遂となったとすれば そのときには 善なる存在が欠如した状態に一たんなったが あたかも魂が残っていて これをとおして 元の善=存在が 回復したという虚構を持つことも出来るかも知れません。 未遂になろうがならなかろうが 自殺は 自由意志をみづから抹殺するという《存在=善》の欠如そのものですから とうぜん 悪です。 完全にこの世を去ったという場合 或る種の霊を残したかに ほかの人びとには映ります。そして いじめに対して 抗議しているかに見えます。けれども これは 悪です。完全なる悪です。つまり 理論上 第二の死です。 つまり 第二の死などという虚構が あたかも 現実であるかに見える事例であるかも知れません。 練れていないのではないかとおそれます。いま 考えたものです。
- maimaisus
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maimaisusです。 少々お伺いしたいのですが、今の段階でも 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。 って考えているのですか?
お礼
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 今の段階でも 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を 言うと推し測られます。 って考えているのですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その死が固定する前の段階である《第一の死》としては 現実でありうると考えております。 固定してしまった《第二の死》 これは 理論上 あると考えており 現実に 人間が その状態になるかというのが この質問です。 感触として得ている内容を さらに つけ加えれば 《この状態に近い場合が ありうるのではないか》というものです。
補足
ほおうっ primeapeさんの武勇談デンデンですね。まづは ご回答をありがとうございます。 ううん。そうですか。そうなんですか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 第二の死の究極の姿さえも救いえます。 ですから勝負は全て買って下さい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 要するに 悪魔と対決して勝ったということですよね。 ▲ (コリント前書15:26) 最後の敵として、死が滅ぼされます。 ☆ というたたかいに近いのでしょうね。あるいは ▲ (ルカ福音20:42-43) ~~~~~~~~~~~~~~ イエスは・・・言われた。 ――ダビデ自身が詩編の中で言っている。 『主(* 父)は、わたしの主(* 独り子)にお告げになった。 「わたしの右の座に着きなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで」 と。』 (詩編110:2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たしかに 単純化して 《わたしたちの敵は わたしたちの足台にされた》と言うべきでしょうね。《なぜ すくわれているのに すくわれていると言わないのか》。 次の文章は パウロの思想に似せて書かれたと学問的に考えられているものです。たたかいの一端がうかがえるかと思います。 ▲ (伝パウロ:エペソ書6:10-18) ~~~~~~~~~~~ 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 十字軍を連想されるなら まづいのですが。 《メチャンコ悪魔君》の武勇伝とくらべて どうですか。(比較のための問題では むろん ありません)。 ★ 前に反物質おばけってのを話した憶えがありますが、このおばけは反物質についての論理武装をした特異な知性でした。 ★ このおばけは光、神、存在、あらゆる面で人知に想像しうる正反対の性質を備えた知性です。地球上の生命に想像しうる第二の死を、いわば転生の目標とした困った存在です。 ☆ 悪魔メフィストーフェレスは ファウストに向かって 次のように自己紹介したそうです。 ▲ (ゲーテ:ファウスト) ~~~~~~~~~~~~~~~ ――私は常に否定する精神です。 (1338行) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 再掲載しておきましょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ マナ識の、要するに私自身の声の、代理として、メチャンコ悪魔君がその知性を解きほぐし復活蘇生させました。 神様がいずこからか連行してきた縁の無いおばけでしたが、私の脳と体はこのおばけに反応しましたので生命に内包しうる知性でもありました。このときの脳の反応が、(エヴァンゲリオンみたいに)知性の暴走により無意識が浮き彫りになる状態です。 人間の手で克服することが人間の普遍性を記憶する上で重要であったと推測します。 primeapeなんて気取っていますが実際は神様のモルモットです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~