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清少納言
中宮定子が亡くなられた後の清少納言の後半生は惨めであったとされていますが、どのような有様でしたか
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- kzsIV
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回答No.2
同時代資料(主に他の人の歌集)によると、清少納言は35歳頃、宮仕えをやめて、藤原棟世と再婚し、女児をもうけ(この女子は成長して上東門院(彰子)に仕えています)、晩年は京都近郊の月輪に居住し60歳くらいで没したようです。後半生落魄したという記事は200年くらい後の説話に語られているもので、史実とは言えないようです。恐らく宮仕えの時の華やかさに比べれば隔世の感があったでしょうが、娘が定子のライバルに仕えており、京都近郊で余生を送ったのですから、惨めという感じはしません。『清少納言集』にある老残の歌も人並みの感懐でしょう。清女落魄の伝説化には、恐らく紫式部の清女評が一役買っていると思われます。少し砕けた文体で…… 紫式部いわく、「清少納言ときたら、とにかく得意顔が鼻につく人でしたよ。あんなに利口ぶって書き散らしてる漢文も、よく見ると未熟なことだらけ。大体あんなふうに目立とう目立とうとする人は、たいてい劣って見えるし、どうせ将来もひどいものだし。優雅を気取ってる彼女、まるきり無味乾燥の索漠とした折りでも、無理に、情趣を感じるだの、風情があるだの言うもんだから、いつだって見当外れで中身のないありさまになってしまう。そんな中身の無い人の成れの果てが、いいわけないでしょう。」
noname#111031
回答No.1
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%B8%85%E5%B0%91%E7%B4%8D%E8%A8%80/を読んで見られたら如何ですか。 実際は彼女の人生は余りはっきりしないようですね。