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カントが全財産を賭けたものは?

カントが全財産を賭けたものは?

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回答No.2

わたしが慎重に避けたところをずばっと突かれて、冷や汗をかいちゃいました(笑)。 まず市川さんの5つの分類というのは、 1.実体(とそうでないもの) 2,3 本質存在と現実存在 4,5 現象と物自体 という西洋哲学での二元的な存在のありようをまとめたものですよね。 そう考えていくと、「神の現実的存在」の存在は5の扱いとしてまったく問題はないはずなんです。 ところが質問者さんが引用されたところ(「純粋理性の二律背反」のところですよね)をよくよく読むと、結構おっかないことが書いてあります。わたしはこれまで気がつかなかったんですが。 質問者さんは柄谷さんが『倫理21』とか『トランスクリティーク』とかでカントの物自体を「他者」である、と指摘しておられるのはごぞんじかと思います。 わたしがそれをどこまで読めているか、かなりおぼつかないんですが。 従来の解釈というのは、たとえば木田さんが『反哲学史』で書いておられるようなものだったと思うんです。 --- 神の問題にしてみても、たしかに彼(※カント)は『純粋理性批判』においては神の存在を否定しているかに見えますが、それはむしろ、彼は理論的認識の対象として扱うことの不都合さを主張しただけなのであって、彼の言葉を借りれば、「私は信仰に席をあけるために、知を否定しなければならなかった」のです。つまり、信仰を純粋に信仰として生かすために、知識と信仰とを峻別し、知識のおよぶ領域を限定する必要があった、というわけなのでしょう。彼は、理論的認識としては否定した形而上学をも「実践の形而上学」として、つまり道徳的実践の条件として生かそうと試みています。(p.166-167) ------ けれども、『トランスクリティーク』はそうではない、という。『実践理性批判』においても形而上学を斥けている。同時に、『純粋理性批判』においても、「理論(綜合的=拡張的判断)が仮象であれ、一定の信仰なしにありえないことをいっている」というのです。 ここで柄谷が指摘するのは、最初の回答でわたしが引用した部分です。 そこをこのように読んでいる。 ----  これは、科学認識(綜合的判断)はスペキュレーション(思弁)ではないが、ある種のスペキュレーション(投機)をはらんでいるということを示している。だからこそ、それは「拡張的」でありうるのである。同様に、理論的/実践的を簡単に分けることができないように、物自体を物と他我(主観)に分けて考えることはできない。科学的仮説(現象)を否定(反証)するのは、物ではない。物は語らない。未来の他者が語るのだ。しかし、この他者は、反証するためには、必ず感性的なデータ(物)を伴っていなければならない。したがって、物自体は他者であるということが、それが物であるということと矛盾するのではない。肝心なのは、それゆえ、物であれ、他者であれ、その「他者性」である。とはいえ、それは何ら神秘的なものではない。「物自体」によって、カントは、われわれが先取りできないような、そして勝手に内面化できないような他者の他者性を意味している。したがって、カントは、われわれが現象しか知りえないということを嘆いているのではない。「現象」(綜合判断)の普遍性は、むしろそのような他者性を前提するかぎりで成立しうるのである。(p.79-80) ----- なかなかむずかしいんですが、これをもとに宇宙論的弁証論のところも読んでいくことができる。 > 従って月の住民は、私の現実的意識と経験的に連関を保っていれば現実的に存在すると言ってよい。 つまり、ある種の「データ」があれば「月に住民がいる」という仮説を立てることができる。 >しかし彼等は、それだからといってそれ自体、即ち経験のかかる進行をほかにして現実的に存在するのではない。 けれどもこの仮説は未来の他者に対して乗り超えられるべく開かれている。 カントはこの先で 「したがって月の住民がわたくしの現実の意識と経験的に関連している場合には、それは現実的なのである」 と結論付けていますが、この「現実的」というのは、あくまでも「月に住民がいる」ということではない。このように、仮象、すなわち「信仰」は、未来の他者の批判に開かれているということを前提とする限りにおいて、意味を持ち、未来の「知」となりうる。そうしてこうやってわたしたちの「知」というのは拡張していくのだ、ということを言っていることになる。この指摘は非常に魅力的です。 もしこのように読んでいくとすると、認識の拡張の問題になってしまって、超越的な存在(神)のアレゴリーなんかじゃなくなってくるわけです。こう読むとカントが全財産を賭けているのは、あくまでも「仮象」ということになる。 市川さんの分類でいくとやっぱり5にはちがいないのですが、「特定の主観に現れていない対象、またいかなる主観にも現れていない対象」というのは、「超越的な神」ではなく「超越論的な他者」ということになる。そう考えていくと > 「神の現実的存在」とかこのような現実的存在というのは要請されたものとしてあるという意味での「存在」ということでよろしいでしょうか。 というのも、要請されたものというより、仮象を持つことのそもそもの契機ということになるのではないでしょうか。 わたしがどこまで読めているか、はなはだ心許ないので、前の回答ではいわゆる一般的な回答をしてみたんです。それだと、きっと質問者さんがおっしゃるように「要請されたもの」ということになる。 だけど、いまどちらかというとそんなふうに思っているんですが、どうでしょう。 ほんとにわたしはそこらへんのおねえちゃん、というにはチョト苦しい、おばちゃん(涙)なんで、くれぐれもあまりむずかしいことを聞かないでください。 もうひとつのおっかない質問についても、いったい何が答えられるのか考えていますので、そのうち。ほんとに期待しないでくださいね。

noname#82052
質問者

お礼

ghostbusterさんありがとうございます。 「批判」をじっくりと読み直しているうちに時間が過ぎてしまいました。 ちゃんと考えが纏まったら補足の方でお礼させていただきます。

回答No.1

お久しぶりです。 「われわれの見る遊星の少なくともどれか一つに人間が住んでいること」(B854) という回答ではダメでしょうね(笑)。 ともかくこれの出てくる『純粋理性批判』のおしまいの方、「二、先験的方法論」の第二章第三節「臆見と知と信仰について」を最初から見てみましょう。 この章ではまず、カントは「意見」、すなわち「わたしたちが真と思うこと」を ・定見…理性を持つかぎりのなんぴとにも妥当するもの ・我見…私的な妥当性しか有しないもの に分けます。 ただ主観は自分の意見が定見か我見か区別できません。 そこで定見か我見かを判断するために、三つの段階を導入します。 ・臆見…主観的にも客観的にも不十分な意見 ・信仰…主観的には充分であるが客観的には不十分 ・知…主観的にも客観的にも充分な意見 ここからカントはまずは実践的関係における「意見」についての考察を進めていきます。 たとえばお医者さんがある患者を前にして、何か手当をしなければならないという事態に直面する。 彼は徴候を見て肺病と判断する。いまなら検査とか画像診断とか、客観性を裏付けるさまざまな手段があるわけですが、当時はそれがない。そのお医者さんの主観としては肺病でまちがいなかろう、と考え、治療にあたる。カントはそれを「実用的信仰」と名づける、と言っていますが、ここでの「信仰」というのはそういうものまで含まれるわけです。 さて、この信仰が単なる我見であるか、確固たる信仰であるか。 それを吟味するのが「賭け」だというんですね。 ある我見を1ドゥカーテンなら賭けるが、10ドゥカーテンとなると、自分が誤っていることを認めるかもしれない。つまりわたしたちの「信仰」の度合いが賭け金の額で測れる、というわけです(ここらへんが「近代」だなあって感じがしますよね)。 自分の全財産を賭ける、生涯の幸運をすべてそれに賭ける、となると、自分の信仰がどこまで確固たるものか、臆見に過ぎないものだったかが見えてくる。 さて、実践を伴わない、単に理論にとどまるような意見においても同じことがいえる。 そこで最初にあげたことが出てきます。 「われわれの見る遊星の少なくともどれか一つに人間が住んでいることが何らかの経験によって決定づけることができるとすれば、わたくしは実にこのことにわたくしの全財産を賭けたいと思う〔このような場合が理説的信仰である〕。」 ただこれは、カントが全財産を賭けて、望遠鏡でのぞいていたら運河が見えたから火星人はかならずいる、と言っているわけではないんです。この部分は以下のように続いていきます。 「ところでわれわれは、神の現実的存在を主張する説が理説的信仰に属するものであることを、承認せざるをえない」 つまり、カントが全財産を賭けて信仰しているのは、「神の現実的存在」ということになる。こうやってカントは「神の現実的存在」の場所を確保したわけです。 このあと、理説的信仰は道徳的志向を前提としたものである、と話は続いていって、つぎの『実践理性批判』へと道は続いていきます。 これで回答になっていますでしょうか。 ご質問はここじゃなかったかも(笑)。

noname#82052
質問者

補足

ghostbusterさん、お忙しいところありがとうございます。 全財産を賭けるといっても一体どれほどの財産をカントが保有していたかは想像もできませんが、しかしこの場合カントが負けることはありそうにもないですよね。 借金までして埋蔵金やら未確認生物を探している方はたくさんいらっしゃいますし(笑)。 >「われわれの見る遊星の少なくともどれか一つに人間が住んでいること」(B854) という回答ではダメでしょうね(笑)。 この質問としては正解なんですが、実はややこしいことに上のもうひとつの質問の方へと移行せざるを得なくなってくるんです。 というのも「現実的存在」という「存在」の扱いについてなんです。 カントの言葉を引用します。 {月に住民がいるかも知れないということは、かって人間が一人として彼等を知覚したことがないにしても、確かに承認せられねばならない、しかしこのことは、我々が経験の可能的進行において彼等を見つけ得るかもしれないということを意味するにすぎない。経験的進行に従って知覚と関連している一切のものは、現実的に存在するからである。従って月の住民は、私の現実的意識と経験的に連関を保っていれば現実的に存在すると言ってよい。しかし彼等は、それだからといってそれ自体、即ち経験のかかる進行をほかにして現実的に存在するのではない。} 「経験的進行に従って知覚と関連している一切のものは、現実的に存在する」が「経験のかかる進行をほかにして現実的に存在するのではない。」 ということですが、そうすると、 「神の現実的存在」とかこのような現実的存在というのは要請されたものとしてあるという意味での「存在」ということでよろしいでしょうか。 それで存在(英語でbeing,独語でSein)、についての哲学的な定義なんですが、 「ある」ということ。 「ある」ものを指す。 1、実体としてある。この場合、偶有性としてあることに対立する。 2、本質としてある。この場合、一方では偶有的存在に対立し、他方では現実に事実としてある現実存在に対立する。 3、現実存在としてある。この場合、一方では現実化することが不可能ではない、あるいは論理的に矛盾を含まないという意味で可能態ないし可能性としてあることに対立し、他方では非存在ないし無に対立する。 4、主観に与えられている、あるいは経験に与えられているという意味であるという場合。この場合は、現象としてあることであり、認識しえない不変の本体ないし実体に対立する。 しかしこれを知覚に現前しているという意味に捉えれば、知覚的対象のみが「存在」とされるが、広く意識に現前しているという意味に捉えれば意識の対象一般が「存在」とされる。 5、可能的主観に現れうる、あるいは可能的経験に与えられうるという意味であるという場合。この場合、特定の主観に現れていない対象、またいかなる主観にも現れていない対象についてもあるといいうる。   これは市川さんの「ある」の扱いについてのご説明なんですが、これに照らし合わせてみると「神の現実的存在」の存在は5の扱いと考えてよいでしょうか?

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