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老子のパラドックス
あなたがたは、「無」の精神あるいは本質を、知的な分析によらず、 自己の存在の内奥を探ることによって発見しなければならない。 しかも、概念や理論や抽象的な説明によらずに、生きた真実として「無」を理解したことを、 私に具体的にいきいきとしたかたちで示してほしい。 単純ゆえに最良の公安は「無」の公安である。 「無」とは生きて作用するダイナミックな精神を表現した言葉。 「無」は通常の認識力では理解できない。 老子からこの「無」の公安が与えられる。この場合の「老子」は自然である。 自然は言葉による説明をほどこさない。謎を提示するのみである。 全存在をかけて、直接的に把握すべきだということを肝に銘じておいてほしいのである。 1)おまえの本来の顔は何であったのか。親がお前を生む前にもっていた顔は? 2)両手をたたけば音がする。では、片手ではどんな音が? この公安はユニークな解答がそれぞれに存在し、「真理の把握は完全に修行者に任されている」ということらしいですが 私はこの論理的に現象学的に無理な公安?に無為状態となります。 基本的な質問かとも思いますが、パラドックスの意味は「思考の罠」ということですか? 上記の1)、2)の公安についての考え方や何かヒントとなるだけでもください。
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公案を拈提し、見解を無と言う。まだ、とやり直しを命じられる。 ムー、やり直し、この応酬が続く。 限界をとうに過ぎた痛みと睡魔と疲労にわけがわからなくなる。 ムー と言う。すると、よしと言われる。 ムーは息のこえ、無しではなく万物の有りの姿すなわち法身の息であるといいます。 一切、すべての存在が感じられることであり、すべてが姿を定めずに動くとおりの、動きが感じられることであり、 影ひなた、引力斥力、裏表の対等な姿のどちらかでしか現れと見えないわたしたちの限界を、すっと抜ける音なのでしょう。 公案は不自由な肉体と精神の叩き台となればよい、そこに何も絡めとる仕掛けのない、ひたすらに過ぎる時間の罠かもしれませんね。 太極の世界。カプラは易経で話を締めくくっていましたね。 「道の道とすべきは常の道に非ず。名の名とすべくは常の名に非ず。 名無きは天地の始め、名有るは万有の母。 故に常無を以ってその妙を見んと欲し、常有を以ってその徼を観んと欲す。 此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす。 同じきこれを玄と謂い、玄のまた玄は衆妙の門なり。」(老子)
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- noname002
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先日は、おもしろい御意見を投稿していただいて有難うございました。 本当のところ私には、仰るところをじゅうぶんに理解できていないまま、お返事してしまっているだろうなと思いつつ締めてしまいましたが。 こちらの御質問についても、私は「公案」なるものについて全く疎いですし、本来なら投稿できる者ではなく、この投稿も、かなり迷ったのですが、質問者さまとは、きのうきょうの出会いではない間柄ですし(笑)思い切って参加させていただきました。 飽くまで私の個人的な感懐をもとにして述べることしかできなさそうですが 1)については 他者との関係性によって「顔」なるものは つくられていくのだろうな、と思っています。 そして、他者によって与えられた それに対して、ただ手離しで受け入れ、その受け入れた「顔」に従うことしか許されないのだろうかな?という疑問も持っています。 2)については 最初思ったのは、片手で思いっきり鳴らそうとなんかしたら、勢い余って、一人で引っくり返るじゃないの?ということでした(笑) ぱーん、と良い音が鳴ればいいですけどね。 まともに打ち合って、両方の手が共に痛いこともあるでしょう。 片方の手は、ごついミットをはめていたり、片方の手は薄い手袋をはめていたりとか。どちらかの手がケガをしている手であることもあるでしょう。 「思考の罠」ということについては、少し前に、こういうサイトを見かけたことがあります。 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=3011
補足
色々あったものですね。何はともあれありがとうございます。 理性によって理性を激高させることがあるなら、合理的でない方を選んでみては。 心理学で誘導や効果を期待する手法があるかもしれない。恣意的な感じで、今は計算も何もなくのほほんとしてる今日この頃です。 「粋」は、人情を分かって汲んでる人の計らいですね。 反対は「野暮」ですが、人情が分からない、つまり理性を欠いた行動に見えて実は理性的であるほど印象も理性に欠けて見えることがある。 これに抵抗、拒絶しようとすればするほど理性は何も出来なくなることだってある。 誰も好きで悩んだり悲観したいものじゃないけれど、粋に、哀愁を漂わせてもいいかな?言われたい言葉「おつかれさま。おかえりなさい」 「臭いと鼻をつまみ背を向ける者の肥しになろう」(by師匠)は完全に譲歩しながら服従でもない。なのに実りを贈ろうとして。間接的に。 もう直接教われないのでいつまでも反芻し消化しようとするのです。なので忘れないで胸の内で宝として輝き続けてます。そんな、ある意味間に入ってくれる人のお陰って間接ってのも深いなって。 問題の種類 パズル(正解が一つ) ジレンマ(矛盾した正解が2つ以上あるもの) パラドクス(正解が一つも無い) お姉ちゃんの心痛は伝わるのですが、どのような問題定義かよく知らず、それでいて対極的には円環して一段上がるものかもしれないですね。みんながね。 そうそう「バカは回るな危険!」とも師匠に言われていた(汗) 回ってまうし、寝ては起きて、外回ってただいま、おかえり。
騒音についてはまったく、そのような経験をいたしますね。 顔について念のために補足します。小中学生も見る掲示板ですからね。 1) おまえの本来の顔は何であったのか。親がお前を生む前にもっていた顔は? 顔は他者が与えます。見る/見られる関係のなかに符号として求められます。 誰かのまなざしに触れる前、本源的に、わたしには顔が無かったと言えます。 誰かのまなざしに触れて、わたしはわたしの顔をはじめて獲得しました。 親がわたしを生む前には、親でありませんでした。わたしの生まれる前、それは無きものでした。 親は親であったのではなく、親になりました。親の顔をはじめて獲得しました。 終わり。 数学の本は大人になってから惹かれますね。ウォーミングアップは加齢とともにわたしも必要を感じます。 ディドロの脳は、死後解剖すると20歳位の脳だったとか。たいしたものです。
お礼
顔は符号なだけなら顔に中身はないってことになるのでしょうか? 中身も仮面も他者が与えてくれるということですかね。人間は影響を及ぼしあいながら生きているから顔を獲得したのですね。
む。 引用を解体し、ミスタイプしたmiko-desiさんは鋭いかもしれない。と気がつくのでした。 他者が探し求める顔。無い存在の顔を探す他者。 そして片手の鳴らす途方もない騒音! 無には騒音が充満しているらしい! 「あなたはうそつきよ、三枚舌よ、べ~~~」なんて妄想癖の年増から言われちゃった男の気持ちというのは、 なかなか。。。妙味というやつではないかしら。 どんな顔をしたのやら。 たとえば代々木大学で鍛えたような御仁が顔の層のうえに顔を作ってきても、心がひとつに纏るときには顔もひとつになるだろう。 家庭に、勉強に、世界の友人に、自分自身にと。 やみに落ちた心が、割れ鏡のように顔を構成すると、恐怖の顔がひとつできあがります。 そのような心は、統合できない顔をもっとも恐怖します。幼いころに相対してきた顔が、統合されえぬ顔であるために。 顔はたしかな意味で親によって与えられます。 わが子へのまなざしがひとつの心から発する、そのような親によって、 人はそのまなざしに映じているはずのひとつの顔を心の底に持ち、ひとつの家を心の底に持つのです。
補足
脳の事情により返信が滞り申し訳ありません。 これは参考になりそうだと片手間に「論理パラドクス/二見書房」という本を見つけて文字を追うものの、これは数学の文章問題ですね。一番苦手な数学の文章問題でした。ウォーミングアップから頭を抱えて、説明を読んでも見えてこない闇ばかり。>無には騒音が充満しているらしい!←これよくわかります!静かだと集中力が散漫になりやすいんです。本を読むのは電車の中が一番集中しますね。
タオ自然学のpp.56-57ね。 なんでこうぐちゃぐちゃな引用を。。。? 安谷白雲老師のガイジンさん向けの講釈を分解、、、そして置換、、、? 「この場合の『老師』は自然である」の「この場合」ってのは分子物理学だし。。。 分子物理学者は自然を前にして、矛盾する現象をつきつけられるのだという意味ですね。 公案は「無門関」から。 一冊買っておくと面白いですよ。二冊はいらないけど。 ツアー訪問以来でしょうか、miko-desiさんの質問と対面するのは。こんにちは。 老師は腹の中では、どこか笑いを噛み殺して。 パラドクスは罠ではなくて乗り物かな、思考実験の乗り物。進もうとすると矛盾する命題がスルスルと導かれる。 乗って愉しむ。いつでも降りられるようでないと、わけのわからぬドクサ(思い込み)になってしまいますからね。 コーアンをネンテーしながらケンゲを「ムー」と言うとやり直しで また「ムー」と言ってやり直しで、また「ムー!」と言ってやり直し、やり直しやり直しの末、 「ムー!ッ」って言ったところで「よし」。元パートナーの禅僧の話。 無をね。。。生き生きとというのは、言葉でできることではない。 で、miko-desiさんは、ドクサには笑いながら泳ぐタイプですか。 それとも目を瞑ってダイビングしますか。
補足
ありがとうございます。「大切なものは一つだけ?」当時のツアー以来ですよね。http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1649982.html そもそも、これという答えのない質問する私が悪いのかと思いました。意味の前に実在があり、生き生きとしてしまっておきる現象だということなのでしょうかね?答えが冷静に実在なのではないと。 >パラドクスは罠ではなくて乗り物かな、思考実験の乗り物。進もうとすると矛盾する命題がスルスルと導かれる。 乗って愉しむ。いつでも降りられるようでないと、わけのわからぬドクサ(思い込み)になってしまいますからね。 乗り物とは面白い発想ですね。乗り合わせる相手は自己決定、行動力よりも強力な作用とか、結局は自分のことより肝心かもと思ったりする。遺伝子にも不必要なものがあったり、悪因子もある。けど乗り合わせが良ければ一緒にゴールするからと。 渋滞したりエンストしたりして乗り物が止まっても、生きることがあるなら思考実験が生き生きした証拠としかいえない。考えるのが良しとするか。苦悩も生き生きしてるからするし、悩まないのも天然で生き生きなのですね。 >miko-desiさんは、ドクサには笑いながら泳ぐタイプですか。 それとも目を瞑ってダイビングしますか。 ドサクサすると(?)いい意味で笑ってもらいたがることが。 憑依現象でダチョウが出たり。
パラドックスねぇ 逆説的な言い方はするけど。。。 どこが老子的なんだ?って感じの内容の釣りとしてみると >私に具体的にいきいきとしたかたちで示してほしい。 活き活きした言葉も貴方方の心の中で死んでしまうんだろう? 砂漠に水をやるようなもの。 不毛というんだよ そういうの。 大抵は解っていると思っていること 無駄と判っていることは何も為さない。 それを敢えてやってみる愚直さや 乾燥と湿気に晒される鍋の蓋を造り続けることが 一生の内で一回しか作る機会が訪れないかもしれない 1000年持つ屋根を造る宮大工さんの道だったりするんだな。 水は必要な時に与えられる。 時の織り成す運と縁によって ということで 君にはちと早すぎるかな? なんちて う~~ やっべ~~うつっちまったかな。 あの万年エロ年増のセリフ 辛うじて絵文字には いってないのが救いだな。 はえ~とこなおそっと。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。 無駄といっても、気分転換になったり、楽しいこともあり敢えてやるばかりでもないですよ。きっと。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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miko-desiさん 回答番号:No.8です。 私は以心伝心というフレーズ(ことばではありません)を掲げた本人ではありません。 このことはモダーンな科学的、論理的思考を旨としている方は軽蔑し、嫌います。避けます。意味がないとします。伝え、受け取る仕方としてはいけないことであるとまで、批判しております。 以心伝心、ちよいと違うが魚心、水心。これもある意味では類似かもしれません。 内蔵助が垣見の名を騙って、宿で本人と面会するところなど様々にあります。 腹芸とか。 でも私は人の伝え合いは、たとえ言葉に頼り、その厳密性をしっかりさせていても、所詮はみな以心伝心なんでしょうね、と存じます。 いろんな以心伝心があるけれども、心がお互い無ければ伝えられないし、受け取れないですよ。 宗教のことばであれ、聖典であれ、なんだって。同じ日本語を話して、論理と言葉場どんなに正確でも所詮は心同士です。 心がなければ、話す気なんかあるものですか。 たとえそのときにわかってもらえなくても、その方が心があるから、一生懸命話すのでしょう? 孔子も、あぁ、こう話していても、この弟子たちはどこまで分かっていてくれるのかなぁ。でも誠意を以って、語り続ければ、必ず分かってもらえるものだ。といっています。 最後の基盤、基礎の基礎はお互いの心。 動物や自然とも、心同士だから、伝え合いがあるのでしょうね。 腹芸でごまかす(腹芸をそう、理解している人がいますが)のはよくないですね。
補足
ありがとうございます。 >人の伝え合いは、たとえ言葉に頼り、その厳密性をしっかりさせていても、所詮はみな以心伝心なんでしょうね 以心伝心の好ましくない側面(責任転換)を引用したこともあって、これは私がkrya1998さんや他のの善意回答とは無関係に載せました。心では尊敬しております。 論理的に厳密な言葉によっても相手が心あらずなら通じませんよね。 動物にも心はあると思う。本能に導かれた、自覚あっての自己主張はしていてるだろう。 実際に会って話せれば一番でしょうね。文字だけで心を伝えるのは苦手、そして私は相手の目を意識して見ながらの会話が苦手です。 動物が相手の目を見る時は「威嚇」する時で、どうして人間は視線まで「目は口ほどに物を言う」という心理に当てはめ、別に勝負しなきゃならない相手と目力心理合戦?を強要するのか。自分の品質に自信を持っていても、相手の目だけ見てるものではないでしょうし。目だけ見て話すのは私には不自然で苦痛です。しかし目の表情には心理が表れてしまうものですね。犬の目にも強がってる感じとか、空元気だな~とか切ない感じとか何となく分かってしまう(笑) 動物や赤ちゃんは言葉や論理による間接的な表現をする必要がないほど心が広いものであって迷いがない? 成長した人間は、言葉によって自己主張する優れた能力を獲得したものとしてもいいし、ポジティブな言葉よりネガティブな言葉は疑心難儀となり受け手の解釈の自由度が増すものなので、自由に言語を操れるまで切磋琢磨し時間をかける必要が出てくる。これは動物には目的そのものにはならないことで、えらい遠回りな手段をしてますよね。 生活の基本となる密着した事象、例えば料理や踊り方や仕事の手順を言葉のみで説明するとなると容易ではないですね。教え方には体や心も使って伝えますよね。 このように私は言葉を操るのを苦手としていて哲学をするにあたっては非常に不利なのですが、綿密な言葉でもっても伝えられない真理を模索してます。哲学者は難しい真理を簡単に述べた名言を多く残してますよね。そこに至るまでは多くの言葉を費やされたと思います。けれど真理は簡単に述べることも出来る好例だと思います。 >孔子も、あぁ、こう話していても、この弟子たちはどこまで分かっていてくれるのかなぁ。でも誠意を以って、語り続ければ、必ず分かってもらえるものだ。といっています。 最後の基盤、基礎の基礎はお互いの心。 誠心誠意はいい加減な私に欠けるものだと思います。 星の王子さまでもキツネが決まりを作ること、(そうして暗黙の了解で得た)約束を果たすことが幸せや大切さを学ぶのに必要だと言ってました。肝にしなければ!腹芸ではなく!?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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2)両手をたたけば音がする。では、片手ではどんな音が? ● 見ゆる姿を捨てたる鯉の水無き滝を登る水音
お礼
お礼が遅くなりすみませんでした。 姿を捨てて水無き滝を登る鯉…視覚で捉えることは出来ないけれど、この表現にすると清清しいですね。空を切る手より滝を登る鯉の水音にすると。素敵です。ありがとうございます。
補足:あ、ひやかしなどではないですよ。 禅僧だったらこんなことをするんではないか、と回答してみたのです。ただ、問答としてはかなり間違えました。すみません。 背中にひやりと冷たいものが走りました。公案は恐ろしい。
お礼
大丈夫ですよ。 学生時代に学校の方針でお寺で一泊したことがありました。座禅したら背中をあの棒?で叩いてもらいました。足がしびれてじゃないのですけど、体がなぜか震えてしまって。普段とまるで違う、生活感がないところに馴染めてないせいだったと思うのですけど。
2) 私が、貴方の顔を片手でひっぱたく、なんてどうでしょうか?
お礼
ありがとうございます。 余談ですが、お肌のハリにも依りますし、いい音がするかは気になる年頃です。 芸達者ともなると痛くしないでいい音がする叩き方をするそうです。 音は実体ではないですよね。 子供の顔を叩いてはいけないと育児書に書かれてたりします。悪かったのが子供の不注意や行為であっても、感覚神経の多い顔は自分の存在全体を否定されたのだと感じるものらしく。 可愛い子だからこそ、あえて突き放したり冷たくして昇華させる。師や親がそれまでに見せていた姿勢があればこそ気持ちが伝わったり、理解するのでしょうね。
補足
精神と肉体の二元論デカルトの省察を読んでしまい若干疲れていますが、知るということは想像し、新たな情報を付け加え続けるということ、イメージが膨らむと知ってるという表明がなされ、でも以前イメージなだけですよね。イメージの多くは物自体と一致することがあってもイメージがその物自体と同質の物を存在させることでも、(テレポート?)思惟が物質に変質されるのでもない。 人間は不可知な行為をします。その行為によってイメージがどう関わりあうのか?という問題も出てきますよね。
No.5です。 あたたかく包む評言をいただきました。 良寛は 具体的に知らないので なお ご質問を全体として わたしは捉えていないのではないかとおそれました。 問い求めのねらいが どこにあるにせよ――というふうに 及び腰になりますが―― No.5の回答で言おうとしたことは ○ 悪無限は いただけない。 ☆ です。どこまで行っても 切りのない問答は その過程で いいことも言うでしょうし もし相談者がいる場合なら 図星で有益な助言を与えることもあるでしょうが もちろん そうでない発言も多いと言わねばなりません。 なかで いちばん 問題なのは その問答という枠に入ることによって そこから 容易には 脱け出せないことです。老師と弟子 あるいは 回答者と相談者との関係が 或る程度 固定してしまうときです。下に位置する者は 多少のお世辞を言わねばなりません。 したがって 公案ないし占いは 絶対的に あそびだと割り切ることが 肝心です。切りの無いそういう悪無限こそが 《無》であり しかも あろうことか 哲学であると見たがる人びとが 見られることほど 痛ましいことはありません。 おわかりのところでしょうが 質問者からは 明確に言えないと思われ ひとこと 重ねて 述べました。 ほかに ねらいがありましたら おしえていただけると思っての投稿です。 つまりは ★ (No.1補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 罠にかかるまいとするより、建設的なのは「罠にかけられてみましょう」とするのも突破口となるかも。一見は百聞に如かずで(違?)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 前半は 《あそびとして》という条件のもとにですね。後半は これも 同じく 《あそびとしての大前提のもとで おもしろそうな回答を 百聞の中から 自由に えらぶ》というところでしょうね。 哲学は むろん 《一見》のほうを重んじます。現実に立脚しない思惟は あり得ません。ということは 公案は そしてその商売版のスピリチュアルは あほらしいです。時間の無駄です。なぜ ひとは はっきり言わないのでしょう。
お礼
再びありがとうございます。 >どこまで行っても 切りのない問答は その過程で いいことも言うでしょうし もし相談者がいる場合なら 図星で有益な助言を与えることもあるでしょうが もちろん そうでない発言も多いと言わねばなりません。 >哲学は むろん 《一見》のほうを重んじます。現実に立脚しない思惟は あり得ません。 公案の答えとして有効なのかもわかりませんが、純粋な結晶(すい)として出てきているのが「何に成るかより何で在るか」「如何に喜怒哀楽するか」 で、これは精神よりも肉体を使って示される必要があると思います。私が健全な肉体であれるなら、それは肉体に宿る教養ということではないか?と仮定して、肉体に宿る精神活動も自然でダイナミックとなるのではないか?との二重の仮定です。 けれど肉体に不備や不満が多々あろうと健全な精神で教養がある人は居るでしょうし、私の師(理系の修行僧らしいですが一般人です、消息やらは不明です)は「異常な人もいない」といい、これが機能美としての「粋(いき)」のことなのか?謎です。 異常も個性の範疇としておくことなのか?本人が苦しいならやはり異常は異常と認めておくこともいい場合があると思うのです。自覚することは大事でもないのでしょうか?そうではないのかな~? 切りが見えません。
お礼
お礼がひたすら遅くなりましたが、ありがとうございました。 >公案は不自由な肉体と精神の叩き台となればよい、そこに何も絡めとる仕掛けのない、ひたすらに過ぎる時間の罠かもしれませんね。 時間の感覚や引力?が違っても、というより速度が速い人と話すと影響を受けます。軽くても後で沁みてきたり、どんな仕掛けか探ったりしないんですが、やっぱりどんな人との出会いにも生まれた甲斐が持てればスーっと通ったんでしょう。スーっと・・・。