- ベストアンサー
老子のパラドックス
あなたがたは、「無」の精神あるいは本質を、知的な分析によらず、 自己の存在の内奥を探ることによって発見しなければならない。 しかも、概念や理論や抽象的な説明によらずに、生きた真実として「無」を理解したことを、 私に具体的にいきいきとしたかたちで示してほしい。 単純ゆえに最良の公安は「無」の公安である。 「無」とは生きて作用するダイナミックな精神を表現した言葉。 「無」は通常の認識力では理解できない。 老子からこの「無」の公安が与えられる。この場合の「老子」は自然である。 自然は言葉による説明をほどこさない。謎を提示するのみである。 全存在をかけて、直接的に把握すべきだということを肝に銘じておいてほしいのである。 1)おまえの本来の顔は何であったのか。親がお前を生む前にもっていた顔は? 2)両手をたたけば音がする。では、片手ではどんな音が? この公安はユニークな解答がそれぞれに存在し、「真理の把握は完全に修行者に任されている」ということらしいですが 私はこの論理的に現象学的に無理な公安?に無為状態となります。 基本的な質問かとも思いますが、パラドックスの意味は「思考の罠」ということですか? 上記の1)、2)の公安についての考え方や何かヒントとなるだけでもください。
- みんなの回答 (36)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
公案を拈提し、見解を無と言う。まだ、とやり直しを命じられる。 ムー、やり直し、この応酬が続く。 限界をとうに過ぎた痛みと睡魔と疲労にわけがわからなくなる。 ムー と言う。すると、よしと言われる。 ムーは息のこえ、無しではなく万物の有りの姿すなわち法身の息であるといいます。 一切、すべての存在が感じられることであり、すべてが姿を定めずに動くとおりの、動きが感じられることであり、 影ひなた、引力斥力、裏表の対等な姿のどちらかでしか現れと見えないわたしたちの限界を、すっと抜ける音なのでしょう。 公案は不自由な肉体と精神の叩き台となればよい、そこに何も絡めとる仕掛けのない、ひたすらに過ぎる時間の罠かもしれませんね。 太極の世界。カプラは易経で話を締めくくっていましたね。 「道の道とすべきは常の道に非ず。名の名とすべくは常の名に非ず。 名無きは天地の始め、名有るは万有の母。 故に常無を以ってその妙を見んと欲し、常有を以ってその徼を観んと欲す。 此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす。 同じきこれを玄と謂い、玄のまた玄は衆妙の門なり。」(老子)
その他の回答 (35)
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
2)両手をたたけば音がする。では、片手ではどんな音が? ★:無行為なる勤行、精進、生活、呼吸 ★:非(不ではない)存在なる行為意識(端末的自分)の至高なる存域への志向行為
お礼
こちらは難しい;無行為であっても非好意ではない?もっと精進します。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
eyasi2012さん。 〔超古代に自我と無我の調和した、霊性文明があったそうです。〕 私も同感なのですが、その淵源、私達はどこから来ているのでしょう。 そんなことを考えると、科学という、現代歴史学の貧困に悲嘆を覚えます。その辺りのご薀蓄を、感想、観想なりとも承ることができれば、幸せですね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
eyasi2012さん。 虫の声とあえていい、自然の声に閑けさをことのほかめでる感性は私達です。 仰せの〔自然を理解〕の理解はどういうことでしょうね。 この言葉はどちらかというと概念やインテレクチャルな領域として響きますね。 何か適当なことば表現ってないでしょうかね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
【案谷老師】の老師は、私も卒業生たちに言われますが、敬称ですもののね。 東洋のことは所詮日本の心性でしか私達は受け取れませんね。 無論、欧米のはことばだけでも、がいねんだけでもいけますがね。
日本人が、無を自然を、理解出来る、理由について説明します。 東京医科歯科大学の角田忠信先生が、日本人の脳、大修館書店、と言う本を出しておられます。 それによると、日本語を話して育った人は、脳の音感の構造が変化して、自然の音に、敏感になると言う事です。川や海や風の音、鳥や虫の声などです。だから日本には、自然を理解した、情緒的な和風文化がうまれました。世界中を探しても、脳の音感を変える言語は、日本語だけだそうです。だから私個人としては、超古代文明のなごりかなと思います。それは日本語は、子音の自我意識と、母音の無我意識が、調和しているからです。現代は自我だけの理性文明です。超古代に自我と無我の調和した、霊性文明があったそうです。
補足
ありがとうございます。 自我意識と無我意識ですが、フロイト的な無意識を批判している哲学者も居たりして、よくその根拠を理解してない私がここで説明するのは難しいのです。日本と西洋を比較するなら、日本には天災や自然現象と戦って、まぁ天災だからしょうがない、と諦めて次善作を講じて文明を発達させた所以あるでしょうね。自然に復讐出来ませんし。西洋は人災が多すぎて復讐という自我が発達したかもしれませんよね。自己弁護の粋を超えてるって今でも思うことありますし。 霊性文明も農業が発達する以前、人間が弱肉強食の頂点となり自然を操る術を獲得する前のことですかね?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
今回のeyasi2012さんのお話はとても真髄を語っておられますね。 《日本語だけが、母音を強く発音します。この母音の時、癒し、無が発生します。この影響で、日本の伝統文化、和風文化は、西洋的な自己表現ではなくて、》 やはりこれは日本語だけなんでしょうかね。ほれ込んでしまっている深遠にして該博なヒンドゥのも、やはりどこか日本語にない何か残滓が残りますが。 サンスクリットの言葉と発音はほんの一部しかできないのですが、いわゆるインド・ヨーロッパ語でなんでしょうね。 所謂聖典用の、古代言語であっても。 全ての種音であるとされている、宇宙音、お寺の梵鐘、オウムなどは母音で構成されていますよね。 これが日本語では全部の基本になっているのですね。その所為だったのですね。 他の文化はほんとに、自己表現、自己中心から始まり、その対処と処理をどうするかで、思想が構成され、構築されていますね。 何も国粋主義というわけではないのですが。 以心伝心とテレパシー。 前者も何か、不合理とか、腹芸とか、まやかし的とかの評論を何かとされがちですが、わからない人にはわからない、伝わらない人には伝わらない。これは当たり前ですよね。 聖典だった、聖者の言葉だって、詩だって何だって。 やはり、心というか、存在が伝え、受け取るのですよね。 テレパシーは私は、(非頭脳言語、非頭脳)という註をつけて、ご回答をワードに保存させてもらいました。悪用はしません。 ことば化できなかったのですが、私の考えにとても合致します(これって、若くて現場をもっていると、悪用の危険がありますね)。
老子も、無知になるほど、道タオ無に、近づくと言ってます。だから脳を、脳波がアルファ波になるように、休ませる事が、無を理解するため必要です。とくに前頭葉を休ませ、後頭部は活発になります。老子の本の内容も、脳を休ませる方法が、書いてあります。また世界中で、日本語だけが、母音を強く発音します。この母音の時、癒し、無が発生します。この影響で、日本の伝統文化、和風文化は、西洋的な自己表現ではなくて、脳を休めて、心を癒す事を、追求しています。だから座禅、茶道、能、日舞、雅楽、平曲、義太夫節、演歌、民謡、日本画、短歌、俳句、和食などを、実践すれば、無を体験できます。しかし基本的には、脳が休んで、心が癒されている時は、いつでも無を体験しています。ただ人が気づいていないだけです。しかし、脳と無は、対立してるので、頭では理解出来ません。身体と心で理解して下さい。
補足
再びありがとうございます。 日本語の癒しということを考えたり探ったりしました。 日本語は母音を強調しているですね。子音により発声にイントネーションやアクセントや声調を定めていることの多い外国語とは違う響きがあります。インドネシア語、フランス語でも声調はあまりないようですが子音を判別するのは日本人は不得手で難しいです。 淡々と語っても通じる日本語を職業にしている人、日本語の専門家(アナウンサー、朗読の語り手等)は標準語のアクセントをしっかり身に着ける必要がある。方言では文化に沿った独特の言い回しやイントネーションがある。言葉によって心情を表すのに多種多用なリズムを持たせて表現能力を高めてもいますね。そういった機能を頭で使いこなすことは至難であっても、「言葉にならない気持ち」を言葉に乗せるのに有効だったと思います。 短歌、俳句など最近は読んでいるのですが、こういった探求が出来るのも日本語ならでは。理論によらず脳を休めながらも(?)自己表現が繊細かつ単純化しても直接感じさせる心地よいリズム、理論ではなく、リズムで全体(自然や深い心情)と調和せしめる(?)術のある日本文化を尊ぼうと改めて感じる機会になれました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
eyasi2012様の回答番号:No.7は、無に関する示唆的なお話ですね。 無と以心伝心の関連、心での会話。これは無の一面でありますね。 心、以心伝心に関する更なる経験と洞察を精進していくことにしたいですね。 ストレスというころば、私達はrestfulnessとrestlessnessという状態を対置して、精進します。 と参考までに。なお以心伝心ですよね。
補足
ありがとうございます。 「以心伝心」について洞察を深めてみたくなり調べてみたあれこれ。 以心伝心の「以」ってどういう意味で使われているのでしょうか? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q143321304 以心伝心(いしんでんしん) 1)〔六祖壇経「法即以レ心伝レ心、皆令二自悟自解一」〕 禅宗で、言葉では表せない仏法の神髄を無言のうちに弟子に伝えること。 2)考えていることが、言葉を使わないでも互いにわかること。 「以心伝心」を英語に変換 have a near-telepathic understanding 「テレパシーに近い理解力」と表現。 http://home.alc.co.jp/db/owa/s_kaydic?num_in=51&ctg_in=2 その他にあった解説。 心遣い。目配せ。 欲求をストレートに表現せず(態度を曖昧にして)間接的に表現すること。 現実には、疎遠な相手や価値観が異なる間には、常識の隔たりがあるろ簡単に以心伝心は成立しない。 以心伝心が美徳かどうかにさしたる意味がないと考えるべき。 以心伝心という伝統?残すことは、現代の日本人にとって、益を期待すべきもない。 責任回避のため、意志疎通が明確になることによって不利益を受ける立場の人達に好まれるテクニック。上司と部下の関係で上司に有利であり、 基本的に過失がなければ既得権益を維持できるが、過失があればそれだけで失いかねない権益を持った立場にある人達がとる伝達方法としても有効である。 心で伝えようとしているのではなく、間接的な表現という意識的な自己表示を用い、既得権益を守るためのテクニックとしての以心伝心は、欲求の間接表現のことではなく、責任回避のため暗黙の了解を伝えることで、曖昧な態度のことは厳密な意味の以心伝心ではない。 以心伝心で意思疎通を図るには共感できる相手が居て、なおかつ経験や時間をかけた結果に現われるものでありそうですね。自分勝手に「伝わるだろう、分かってくれているだろう」とその場で自分の都合よく相手も理解して欲しいじゃ単なる甘えですよね。 武士道の葉隠の言葉からです。 「端的只今の一念より外はこれなく候。 一念、一念とかさねて一生なり。 ここに覚え付き候へば、外に忙(せは)しき事もなく、求むる事もなし。 この一念を守って暮らすまでなり。 皆人、ここを取り失ひ、別にある様にばかり存じて探促いたし、 ここを見付け候人なきものなり。 さてこの一念を守り詰めて抜けぬ様になることは、功を積まねばなるまじく候。 されども、一度たどりつき候へば、常住に無くても、もはや別の物にてはなし。 この一念に極り候事を、よくよく合点候へば、事すくなくなる事なり。 この一念に忠節備はり候なりと。」 一念はひたすらな想い 想いを積み重ねていったものが一生となる 一念を覚えれば、他に忙しいことも、捜し求める必要もなく 一念を守って暮らすだけ。 一念をとおして迷わぬようになるには多くの年月を得ないと出来ない。 しかし一念にたどり着いたならば多分は減らせ道理も決断も自身となる? 自分に対しての以心伝心(言葉にならない一念)を見出し 実体化させているか、叶う行為しているかを禅問答が問いかけているのではないのだろうかと思います。 >私達はrestfulnessとrestlessnessという状態を対置して、精進します。 安らぎ、と落ち着きがない状態ですね。常に落ち着きつつ覚醒していきたいです~。
脳と無である自然は、対立している。生物の脳の進化は、自然対する脳の挑戦で、言葉は脳の分身、パソコンはコピーです。しかし脳は、無より次元が低く、無を無としか理解できない。だから脳が思考活動してる時は、人と無の交流を、遮断して、心がストレスになり。脳が思考を休んだ時は、人と無が、交流するので、心が癒されます。人が無を感じるのは、心が癒された時です。また人の心には、脳の自我と、大自然の無我が、対立しているが、脳の発達していない、赤ちゃんや動物は、無我の世界のテレパシーで会話しています。大人も意心伝心と、言って、頭を使わず、心で会話します。これが無の世界です。人の心の中で、無の世界が大きくなると、意心伝心で、楽しい癒された心になります。そして世界のしくみが、わかります。しかし脳では説明できません。とにかく心が、癒された時が、無の世界です。伝統文化の間の癒しや、日本語の母音の癒しは、無の世界です。
補足
ありがとうございます。お礼が適当になってるかもしれないことすみません。入出力もが、感化され合ってて私も共同作業をお互いにしているものだろうで、もし時間を置けば違う感想が出てもっと上手く言葉を汲んで喜ばれるように書けるかもしれない。あぁそういっても今思ったこと書くのみです。 >脳は、無より次元が低く、無を無としか理解できない。 物理学者は11次元ぐらい?もっとかも?認識するそうですが、有限な人生で実践する演奏家や医師や法律家など資質や知識で世のため人のために働く人は何次元まで認識しているのでしょう? 日本は孤立した島国で資源も乏しいのに文化や自然と融合して都合のいい部分をうまく取り入れ利用して暮らしてきたことは認めるところ。古語の表意文字の漢字も、表音文字のアルファベットもひらがなもカタカナも並列利用してるとか、複雑ですが様々な事象を簡潔にもしてる。国民の識字率は高く広く深いし、日本語は楽しい。英語、外国語が不得手でもしょうがない? >赤ちゃんや動物は、無我の世界のテレパシーで会話しています。大人も意心伝心と、言って、頭を使わず、心で会話します。これが無の世界です。 相手が動物でない限りいきなり首を噛まれて殺されることはなく、人間と人間との交流なら脳が休みっぱなしな質問に勤勉に答える人も現われる以心伝心で何とかなってるこれ結果がそう。 とはいっても日本が他の地域や民族より高次かどうか?どこに行っても色んな人がいますし。民謡や雅楽が好きな人は外国よりも日本では多数でしょうから和風の癒し効果は多くあるでしょう。日本人でもクラシックが好きな人はクラシックで、ロックが好きな人はロックでもちゃんと癒されると思うし、結局癒しは親しんだ育んだ環境や価値観にや、それぞれの厚かましい主観が隙間産業の癒しを求めてそうとも思うのです。癒しを隙間産業というのは、その隙間を見出すことこそ自分の根(本来の顔?)を伸ばす理由になるからです。 日本語は母音が多い言語なのはそうですね。でも母音は無我(執着がない?)、自然と対立した脳でない、無で?癒しという実感が来ないのです。人間が進化し新しい脳を獲得したのも、自然に抵抗し戦うための武器となったのかもしれません。でも脳も自然の所産ではないのかと思うのですが。 日本人が労いや感謝の証として贈り物をする時「つまらない物ですが」と付け加える習慣を外国人は受けてへの侮辱ではないか?というけど、「あなたの素晴らしさ尊さからすれば」と尊重しているからこその意味でしてたり、日本語の間の取り方は関西で日本人を何十年もしてますが未だ道を外しますし(苦笑)。瞬時に緻密に計算する機械でも及べない職人の勘の域が無か。明日のジョーとライバルの力石徹、長年連れ添った夫婦や師弟に会話は要らなくなるのでしょうね。 赤ちゃんの無我は高次な自然=無からまだ遠ざかってないからなのか?人生の奥義(とは何か?愛?)や無駄に生きた後悔も得ずにすぐ自然に還ってしまう子供がどうしても可哀想になる、有への執着、ストレスです。疑問も膨らんでしまって書いてしまうのですが、放置で構いません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
補足をお願いします。 《この論理的に現象学的に無理な公安?に無為状態となります。》 〔A〕ここで《この》とおおせられているのは、 《1)おまえの本来の顔は何であったのか。親がお前を生む前にもっていた顔は? 2)両手をたたけば音がする。では、片手ではどんな音が?》、 という二点のことでありましょうか? 〔B〕論理的に無理というその論理的とはどういうことなのでしょうか?頭の思考の中での話の運びのようなものでしょうか? 〔C〕現象学的に無理というその現象学を言い換えることはできないでしょうか? 〔D〕「無為状態になる」というのは、miko-desi様が所謂《公安?》に対して、「無為状態になる」、という意味でしょうか? 〔E〕無為とはなんでしょうか?行為がない、ということでしょうか?行為しないということでしょうか? 〔F〕無為状態でないことは、行為状態なのでしょうか? 行為とは何でしょうか? ★実は私も無行為ということ長く関ってきております。できればお教えを賜れば、多少ともご参考の投稿も出来るかもしれませんので。
補足
補足させていただくことが出来て質問者も今頃誤りに気付けた次第です。私の頭の構造のことをトンチンカンといいますが、公安ではなく【公案】ですね!!。交通安全と禅は無関係ではない気がしますが、やっぱり無関係かもしれません。天然も計算あってだろうとか、なんとも人の性で関係を作りたくなるもの。 この公案を出したのは老子ではなく中国の禅僧、じょしゅう(漢字変換できませんでした)のところに来た【案谷老師】でした。!!老子と老師って名前と敬称の違いなんでしょうか。 この質問は「タオ自然学/ F・カプラ」第一部、第三章「言語の彼岸」P56からまんま搭載させていただいたもの。この本も何度読んでも知識や血肉にしがたい内容です。成長期も過ぎ年のせいかも。 アドバイス全て何度も読ませてもらってます。ありがとうございます。近日中に何かかけると思います。あんまりアテにならないことを絶望せず。絶望しないことにも絶望せず。というと希望と同義だろうか?微妙には違う。これも一人でしてる禅問答。
お礼
お礼がひたすら遅くなりましたが、ありがとうございました。 >公案は不自由な肉体と精神の叩き台となればよい、そこに何も絡めとる仕掛けのない、ひたすらに過ぎる時間の罠かもしれませんね。 時間の感覚や引力?が違っても、というより速度が速い人と話すと影響を受けます。軽くても後で沁みてきたり、どんな仕掛けか探ったりしないんですが、やっぱりどんな人との出会いにも生まれた甲斐が持てればスーっと通ったんでしょう。スーっと・・・。