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西南戦争での警察派遣

警察官を一般の軍隊に混じって出撃させましたが、その装備がまったく陸軍と相違ないほどのものだったようです(制服が違うくらい?)こういう、警察官でありながら、陸軍兵と同様の装備をするということは、後にも先にも前例がないようですが、矛盾はないものだったのでしょうか。必要性という観点からは、警察も軍隊も装備は一緒でもよいと言うことになるのでしょうか?

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  • knfci
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回答No.2

西南戦争が起こったのが明治10年でした。 現在の警察機構が出来たのが明治7年、陸軍が出来たのがやはり明治5年~7年にかけてだったそうです。 当時は今のように全国に警察組織があったわけではなく、東京にあった警視庁が全国の警察業務をこなしていたそうです。 警視庁は旧士族や任侠上がりの人が多く、いわばプロの集団。 ところが創設当時の帝国陸軍は徴兵によって集められたいわば素人。 切った貼ったの修羅場になれば当然薩軍に分があります。 最初明治政府は軍だけで何とかなるだろう(近代装備もしてるし組織立ってるし)と高を括って兵力の逐次投入という、戦争では絶対やってはいけない戦術をとりました(これは太平洋戦争敗戦まで続きました)。 ところが地の利に長ける薩軍は思いのほか強く、陸軍だけではヤバイかもと危機感を募らせた政府はプロの集団である警視庁に白羽の矢を立て陸軍の装備を貸与して薩摩に派遣したそうです。 これが警視庁の派遣隊であり、そこから選抜されたものが巡査抜刀隊であり警視抜刀隊でした。 当時は今ほど各組織の役割がまだはっきりせず政府の方針でいかようにも舵を切っていましたし、内乱鎮圧という名の下になりふり構っていられなかったというのが警察に軍の肩代わりをさせていたのではないかと思います。

garcon2000
質問者

お礼

陸軍兵は所詮素人でしたからね。プロにはプロと言うことで、警察そのなかの抜刀隊選抜と言う白羽の矢が立ちましたね。結局猫の手も借りたいと言う鬼気迫った状況が相させた、あるいはまだ、警察軍隊創世記の柔軟性もあってそうさせたということのようですね。

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  • k16399638
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回答No.3

日本の警察システムはフランスのを元にしていますが、これは創設者川路利良がナホレオンの秘密警察長官ジョセフ・フーシェに心酔していたからです。ただ、指揮系統の煩雑さも受け継いでしまいましたが、それは置いておきます。 で、その警視庁には「平民の軍隊にはいれるか」という考えの、下級武士が多く入りました。装備はサーベルと六尺棒なのでこれで当時は足りたのです。 西南戦争のとき、西郷軍の切り込みに手を焼いた政府軍は、この集団に目をつけ、薩摩に恨みのある奥羽列藩同盟出身者、特に会津出身者を中心に抜刀隊を編成し、対応したのです。この部隊の士気はすさまじく高く、会津の恨みはらさんか、と叫んで西郷軍の切り込みと戦いました。切り込み隊をつぶし、熊本鎮台(城)と連絡が回復できれば、あとは物量で勝る政府軍の勝ちは決まっているのです。が、この対応が遅れると、特に熊本城が陥落したりしようもんなら、全国の不満士族が蜂起しかねません。それは東京政府の崩壊と、外国の介入を意味します。 幸い、そうはなりませんでした。そして抜刀隊の歌、という軍歌ができました。海軍が軍艦マーチなら、陸軍は抜刀隊の歌、でして、今でも自衛隊ではよく歌われている歌となりました。

garcon2000
質問者

お礼

警察は、武士を厚める雰囲気があったのが創世記だったのでしょうね。抜刀隊がどれほどの実質的効果を挙げたかは疑問ですが、とにかく差し迫った状況にプロの武士集団を退行させねばと言う危機感から組織されたのでしょうね。

回答No.1

西南戦争で薩摩軍の攻勢に手を焼いた新政府が、警視庁に就職した会津藩士や新撰組を中心に編成した通称「抜刀隊」ですね。 装備は抜刀隊の名のごとく所持した武器は「刀」のみのはずです。 会津藩士の抜刀隊は各地で活躍し突撃する時は「戊辰の仇」と、口々に叫び薩摩を殲滅しました。 警視庁抜刀隊は明治新政府を苦しめた程強かった会津藩士を使うと言う、政府じきじきの組織ですので陸軍と同じような構成になったのかも知れません。

garcon2000
質問者

お礼

警察博物館で見たのですが、小銃など陸軍と変わらないものを装備していたようなのです。もちろん抜刀隊はあったわけですが、それは特殊な状況に編成したやつじゃないでしょうか。たしか、9000人ほど、別働第3大隊というような名称で完全に陸軍組織化の一部として同等に配置されていたようです。