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「宮中・府中の別を乱すものだ」
大正初期の政変に関してです。 <増師要求問題>増師要求した上原陸相が要求を拒否され自ら辞任。西園寺首相は後任の陸相を山形ら元老に推薦してもらえず、陸軍からの推薦もボイコットされてにっちもさっちもいかなくなり、辞任。総理大臣のなり手がなくなる。元老たちは、75歳の山形に総理をやれとはいえず、桂を推すことになったが、彼はすでに内大臣になっていたので、彼をまた総理大臣にするのは「宮中・府中の別を乱すものだ」という非難を招くおそれがあったので、勅語をいただいて桂に首相になってもらった。1912年のことである。 「宮中・府中の別を乱す」とは、侍従長の任期途中で辞任することが天皇に対して失礼に当たることを指すのか、どういうことなんでしょうか?
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「府中と宮中の区別」について高校の日本史の教科書には、「憲法の制定」のところで「内閣制度の制定」を述べた後に次のようにあります。 「また、宮中の事務にあたる宮内省(宮内大臣)は内閣の外におかれ、同時に天皇御璽・日本国璽の保管者で天皇の常侍輔弼の任にあたる内大臣が宮中におかれた。初代総理大臣の伊藤博文は同時に宮内大臣を兼任したが、制度的には府中(行政府)と宮中の区別が明らかとなった。 なお念のために言いますと、この「内大臣」(内府)は内閣の閣僚である「内務大臣」(内相)とはまったく別の役職で、あくまでも宮中の役職です。したがって内大臣と侍従長を兼任しても、どちらも宮中の役職であり、「その時点で職務が既に両府にまたがっていました」ということにはならないと思いますが…。
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- Ganymede
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すでに良回答が現れているので二番煎じになりますが。 内大臣府も宮内省も、内閣の外にありました。内大臣も侍従長も「宮中」に属し、「府中」に属しません。したがって、「その時点で職務が既に両府にまたがっていました」は誤りです。 行政機関なのに内閣から独立しているのは、現代でも「独立行政委員会」の類などがあります。 内閣の組織(首相官邸のサイト) http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/1-2-1.html (引用開始) 宮内大臣は内閣の組織外 (引用終り) 内大臣府 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3%E5%BA%9C (引用開始) 明治政府が1885年に太政官制を改め内閣制度を発足させた折に、内閣を構成し政務を司る内閣総理大臣はじめ国務大臣と分離し、閣外の宮中職としての内大臣の官職を復活させ、その職掌を司る庁として創設された。 (引用終り)
- denbee
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ちょっと推測になりますが、 桂は政友会からの協力をとりつけるために政友会の原敬に「再び政権につかない」と確約しています。 従って、内大臣になって両府にまたがっていると言っても、府中には復帰しないということなので 認められていたのではないでしょうか? #個人的には「宮中・府中の別」自体は特に明文化されていないはずなので、 #政治的に批判するための理由づけが欲しかっただけではないかと思います。
- denbee
- ベストアンサー率28% (192/671)
この当時の内閣制度では、宮内省を内閣の外に設け、宮中と府中(行政府)を分離していました。 従って、桂がもう一度総理大臣になることは、この分離の原則を破ることになりますので、 そのことを指しているのだと思います。
補足
桂は内大臣兼侍従長でしたので、その時点で職務が既に両府にまたがっていました。 なので再び総理大臣にすることでその非難を受けるのが納得できません。