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赤ちゃんには感情がない

こんにちは。 題のとおりですが, 赤ちゃんには感情がない,あるいは限りなく0に近い,といえると思うのですが,どうでしょうか? 大人なら,感情表現に一瞬のためらいが生まれ,その「ため」のせいで感情が発生するのですが,赤ちゃんの場合,何か浮かんだことは行動と表現と直結しているため,一切感情は存在しない,と思います。 あまり小さいときのことは覚えてないので,というより,覚えていること記憶が残っていること自体が,気持ちを我慢した証拠にもなると思いますが, そもそも覚えてないので確認できませんが,推測でたぶんこうだった,と思うのですが。 どう思われるでしょうか?

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回答No.2

まず、ちょっとしたところの文についての質問ですが、 >あまり小さいときのことは覚えてないので,というより,覚えていること記憶が残っていること自体が,気持ちを我慢した証拠にもなるとおもいますが< という文について、、補足質問の形にさせていただきます。 イ「覚えていないこと、記憶が残っていないということ自体が、 大人として気持ちを我慢した証拠になり、 それで小さい頃のことは気持ちを我慢したりためらったりしない頃のように思い出せない」 という意味合いなのか? ロ、「赤ちゃんの時は、気持ち(感情)を即行動と表現にしてしまうので、ためらいとともにあるはずのいわゆる感情は我慢されてしまうのと同じ状態であり、   あまり小さい時のことを覚えていないのは その証拠であり、 つまり、赤ちゃんの時は、感情が無かったという証拠なのでは。…。」といった意味合いなのか? あるいは、また別の意味合いなのか? そのへんがよく解からなかったので質問させていただくことにしました。 でも これは、もしかしたらですが、これは何か重要なことを気がつきかけていて、感情についてのその重要な真実を知りたい希求が強すぎて、 すこし客観的に混乱した文になってしまってるだけなのかとも思えます。 たぶんそうだと思うのですが、 そのへんいついて、まず質問しておきますね。 * この質問は 哲学的にも心理学的にもとても重要な質問だと思いますので、 簡単には書けないのですが、  質疑応答を通してその重要だと思う私の考えを明らかにすることを「回答」としていきたいと思うのですがよろしいでしょうか?(上記質問も、真剣な対話を求める回答でありたいための質問です。) * この問題は また動物の感情と人間の感情の明確な違いとは? という感情の本質論にも発展するかもしれません。 いずれにしても、 お互いに考えてゆく、土俵として 以下ような図を用意しましたので、よろしくお願いいたします。 ↓ まず、二つの 円を描いてみてください。(心の中ででも結構です。実際書いたほうが解かりやすいとは思いますが) どちらでもいいですが、仮にここでの説明のつごう上、左側の円の中には、いくつもの小さい円をたくさん描いてください。  ( 円自体に数学的な意味あいがある円ではなくて、囲いを意味するだけですのですべてフりーハンドでいい形です。) 右側の円には、だいたいでいいですので中心点があると仮定してください。 そして、其の中心点から放射状に 円を突き抜けて矢印をいくつでもいいですので適当に書いておいてください。  図自体はここまでです。 では、その二つの図の説明です。 両方の円とも 円が意味するのは五感です。 あるいは生物なら多くの生物にその特質が見られる五感への直接反応、つまり「生物としての感情」を意味します。 感の鋭いsheep67様なら、すでに意味合いを垣間見ぬいておられるでしょうが、 人間においては、左側が自己中心性からの感情を考察するための図で、右側が客観的理解性ともいえる感情を考察するための図です。 人間の場合は、この二つの円内にではなくて、 左から右へと人間性が高まって行く間に 多くの感情が見られたりもするので、   ここにも仮に、二つの円の間に、左から右へと 矢印を適当に引くなり思い描いておいてください。 この図で 動物の感情を今仮に「在る」と仮定して考えるならば、 左側の円内の感情が 動物の感情のすべてと規定しておきましょう。 本能にしばられ、仲間行動にしても人間の社会観からの感情行動とは明らかに言えない脳の段階です。   自分や自分の本能的な行動欲求からしか仲間を見るゆとりはありません。 丁寧は毛づくろいの行動も 群れに安心を求める行動も、さびしさという感情?も、すべて本能の内側といったふうに(深く考えればむずかしい問題もあるのですが)  ともかく自己から出ることが出来ない そのユトリの全く無い状態と仮定して考えてください。 人間の場合でも この状態であれば、友としての行動をしていても それは自分のためでありその円外の尊敬の対象としての「友」はいないと考えるわけです。 感情という感覚反応の世界は、それを言葉にするなら そうした図を設定しておかないと、 時間的な流れで整理するという手もあるのですが、煩雑すぎます。 ここでは 赤ちゃんには感情があるかどうか、というテーマを深めるための図と考えてください。 あらゆる感情があります。 怒り、悲しみ、安心、うんざりする、びびる、恐れる 勇敢な気持ち、 ゆかいさ、あこがれ、親しみ 憎しみ、いとおしい気持ち、 後悔、 恐怖  不安、 絶望、…  本当はもっと細かく分けたりも出来 どこまでも複雑になってしまうだけとなりかねません。 しかし、 赤ちゃんと感情の「ある・なし」の問題を考えるならば、そのすべてが一応は 全体的に整理されたうえでしか ほんとうに納得のいく答えとはなっていかないでしょう。 そのための だからこそのシンプルな図と考えていただけると幸いです。 では、右側の円の中心点とは、というと、それは「幸福」です。 「幸福」とか「しあわせ」の定義とかは、今略しますが、それなら矛盾はないという一点を置くとしたら 言葉の中でたった一つそれが其の点として表わせると思うからです。 あるいは 「人の生涯の出来事の総合的理解」というふうに知の側面をこの中心点に置くことも可能でしょうが、 そうするとこの一点というのがもし説明するならば 何十冊もの本でも足りないという世界となってしまい 直感的にも 簡単な図とは言えなくなってしまいそうです。   図の意味は、大きく 深く、かつ人目で全体が見れるようにするためなのでシンプル・イズ・ベストとも考えて欲しいということです。 * 答え自体は 赤ちゃんにも感情はある。 ただ言葉で言える感情とは言えない。 といったふうになるかと思うのですが、   ほんとうはそれは奥の深いものとして知的にとらえるべき問題だと思うということです。 ものすごい重要な問題だと思います。   哲学のQ&Aでは こうした相互交流的な回答のユトリは時には必須となるかと思います。  人生という名の車が快適に走るための歯車が哲学とか心理学という学問だと思うからです。  そこにはそれが生き生き回転するための歯車のユトリ(対話の形)が必要かと思うのです。 是非 この土俵の上で 一緒に考えていただけるとうれしいです。 * 最初赤ちゃんが おぎゃあああああと泣いて生まれてきた段階では、「泣いている」という感情なのか 動物として叫んでいる状態なのか? なんとも言えないところ、 其の状態の時は まだ動物よりも脳が劣っているといいますが、そこからいきなり脳が外気にふれつつ発達してくのだそう、 そして今度はお母さんに、始めて人間として微笑む、静かな目を向ける時のその感情とは、      その感情とは      いったい どういう感情?なのか?        そこには何があるのか?      たあいないことのようで、 これが次の文明を開くのではと思えるほど重要なことになるかもしてません。 考察を進めていってみてください。 私もあらためて考え始めているところです。 よろしくお願いいたします。

sheep67
質問者

お礼

感覚、とは、状況変化、と言う客観の変化が、直観によって観察判断されることで、その主観的変位の大きさ、心理的な変動を生む、その変動が、感覚で、感情は、その感覚に対応した、「自分」という現実に対応している、脳の反応、と思っています。つまり、感覚と感情は、常に一対一の対応をしてる、完全にリンクしている、と言っています。(ちょっとこの上の文は、今まとめたのでかなり不確かです、割り引いて読んでください) 直観や感覚は、その人個人の思いこみである「これが現実なんだ~!」という固定観念が、外部の変化と組み合わさることによって、それではじめて心理的な変化や感情が起こる、と言う考えです。 逆に言うと、ポジティブ思考の人は、同じ困った場面に遭遇しても、全く違う素敵な解釈ができるだろう、と言う僕の憶測です。 なので、どこまでを感情と呼び、どこまでを、感覚、直観、状況判断と呼ぶか、最初の質問は、そのへんが曖昧です。僕としてはとりあえず上のように決めてますが。 幸福の定義として、それは意識から見ると「無」、無意識から見ると「すべて」。客観的に見ると、「極限に強い自然な集中」という、僕の分析です。たぶんですが。 幸福とは無なので、僕はしんどいときは、世の中にいる幸せな人の存在を感じられなかったです。目の前にいても気持ちを理解できないのでーーというか気持ちがなかったんだ!  だからさーっぱりわからなかったのかーと言う個人的な解釈です。 こうやって理屈をこね回す僕が居る、というのは、あまり幸せではないんだなー、と思い、同時にこういう柔らかい文を書けるarayata333さんの自己存在の柔らかさを感じてます。 哲学タイプの人は逆で、暫定的に「自分」を強く持つことが解決への道だ、というは他の方の話を読んで、そう思いますが。 長い説明になっています。どうして赤ちゃんに感情はないか説明すると、その前提になった考えも含めて総合的な説明が必要になっちゃいました。まだこれでも全然だめですが。 >こうした相互交流的な回答のユトリは時には必須となるかと思います。  arayata333様軟らかい文章をお書きで尊敬です。むしろゆとりの持ち方とか、こちらの方法をお伺いしたいのですが、ここはいちおう自分の質問と答えということなので、またの機会にー。

sheep67
質問者

補足

長文をありがとうございます。 興味深かったです。 前半、ご回答に対する感想などを、後半、僕自身の細かい意見を書いて、考えを並べ比べたい、と言う意図で書いています。 まず、円がふたつという図ですが、 動物が、他者を真に愛する感情があるかどうか、微妙です。忠犬ハチ公のような例もありますし、動物にも真の愛情はあってもいいのでは、という気もします。でも今はよく分からないので僕は保留したいです。ただ、図の意味はとても良く分かります。幸福は一番大事ですねー。 いろんな感情についてーー僕は感情は、シチュエーションの把握とリンクしている、一対一の対応を取る、と思っています。感情が、感情になる前の地点での感情の発生原因となる抽象的な部分では、ある特定の感情を感じるシチュエーションは、個人によって差がない、と思っています。これは抽象性の話でして、具体的なのはもちろん千差万別です。でも、この抽象的部分までも人によって違うなら、世界中で、例えば、愛や、いらだちや、何でもいいですが同じ概念を示す単語が、世界で同時多発的に生まれてる理由が説明できないですし、やはりその部分は脳や心の共通の仕組みがあってこその感情だと思います。(絶対の自信があるわけではないですが・・) ーーーーーーーーーーー 感情は、軽く見れば所詮脳によって作られてます。こんな見方はあまり好きではないですが、それは感情に関する事実の一側面です。そう考えると、感情の仕組みがそれほど難しいものであるとはどうしても思えない、と言うところがあります。 その感情を生み出す認識の形の抽象性については、主観世界の仕組み、と言う形で、個人的に論理化できると思います。でもまだまだ不完全です、残念ながら・・・ 最初に 僕がこの質問を書いたときの切り口を書きます。 基本的に僕は感情の極限の仕組みを前提として考えています。 幸福と感情は相補的、と言う個人的な意見があります。最近蓄えた言葉では、トレードオフ、って言葉もあるみたいです。 真に幸福な人は、極限としてその人には感情はないだろうなーと思ってます。 これは幸せは感情ではない、ということです。(定義の問題なので、微妙な言い方をしています) 幸福で自分の中がいっぱいだから、改めて感情を持つ必要はないはず、と思います。(もちろんある種の理想極限の話心の仕組みの話ですー現実にあるとは思いにくいですが) 悟りなどで、無私などと言いますが、自分がないのなら、感情を感じる自分もないはず、と思います。あるいは神への信仰でも同じだと思います。他の例としては「木鶏」の話とか有名かなと思います。 それを赤ちゃんに当てはめると、やはり、同じかなーと思いました。 こんなのが僕の切り口です。 人生が楽しく愉快、幸福なら、不幸と、その不幸のレベルの変化の度合いを示す目安になる感情がない、と言えるんじゃないかなーと思いました。感情の大きさとは、幸不幸のレベルの変化率、と捉えています。あるいは自己存在の確かさの変化率、という感じでしょうか? 前にここの投稿で、記憶の仕組みを書いたことがあります。 個人的には、記憶が生じるきっかけになるのは、状況の本質的変化、と書きました。その状況の変化を捉えて、人はそれを認識することで、記憶は発生する。変化の度合いが大きければ大きいほど、強い記憶として定着する、と言う話です。たとえば、あっ!と思おうことなどはなかなか忘れられません。 なので記憶の強さは状況の変化率、と思ってます。(状況とは外界の変化にかかわらず、内面変化ーおなかが空いた、と言うのも含みます) そして状況の変化、とは、人の解釈によって左右されます。同じことを目の前で見ても、人によってそのショックの大きさは違います。 精神的に落ち着いていて、この状況を解釈するときのショックの度合いが小さい人が、完成に近づいてる人、と思ってます。 このようになにを見ても、解釈上状況変化の少ない人には、基本的になにも記憶しないのではないか?(覚えておこうと思わない限りは)、と想像してます。 それで、赤ちゃんは、ある意味、悟ってる人に近くて、もしかしておなかの中でお母さんのけんかの声を聞いてるかもしれないですが、平均を取れば、この世のネガティブを現実として思いこんでいない以上、かなり悟った人に近いと思います。 以上が、赤ちゃんが感情がない、ということに至った、考えの一つです。 環境の変化→自分の「現実と言う固定観念」に基づいた解釈→その解釈に基づく心理的変化の大きさ→感情と記憶の発生、と言う仕組みにおいて、 直観&感覚、と、感情とは、この2つを、僕は別物として分けています。 個人的定義では、直観とは総合判断力であり、分析とはまた異種の統合的論理思考力だ、と思っています。これはきっと赤ちゃんも持っていると思ってます。

その他の回答 (7)

noname#122427
noname#122427
回答No.8

こんばんは。 #4のyukkinn66です。 補足を頂いたので、またお邪魔しに参りました^^ 私は哲学、心理学、幼児教育学には門外漢ですので、チンプンカンプンな事を書くかも知れませんが、その場合は訂正頂くなり、無視なさるなり、お好きに調理なさってくださいね。^^ 私の不躾なつっこみに、丁寧にお答え頂いて恐縮です。 ええ。。。文章がとても暖かく、ポジティブな香りのする方だなあ、と前回も感じましたが、やはり思い違いではなかったようです。^^ とても柔軟な思考をされるのですね、見習いたいものです。。。 >ただ、未熟だ、と言ってしまうと、対象から学べないようになるリスクを感じます そうですね。。。私自身もイマイチ上手に表現出来ないなあ。。。と思いながらの言葉でした。その「引っかかり」は同意です。 「未熟」と言うよりも「感情の種類が少ない」ではいかがでしょうか? 現に、赤ちゃんの「反応」は日を追って目覚ましい増え方を見せますから。 >個人的見解では、大人になって感情が「発達した」とはあまりそうは思いません。 ん。。。。これについても、「表現方法が増えた」って感じでしょうか? 「一つの感情」を感じた時に、それをどう処理するか?によっても「表現方法」が変わりますよね。或は、それこそ「手を加えて形を整える」とか。伝えたい相手によって、導きたい結果に向かって表現方法も変わります。 >その時非存在から恐怖が生まれ、 >恐怖から自分と心の分離が生まれ、 >その分離から多彩な感情が発生する、 これは。。。。うーーーん。。。門外漢には難しい文章なのですが。 この文章に対応する回答になり得るか、判りませんが。。。 私自身が、第一子を出産するにあたって、「こどもを育てる指針」のような私自身の「漠然とした想い」を「とても上手く表現している」と感じたのが「シュタイナー教育」です。 これは今も、例えば「おもちゃの与え方」「教育についての考え方」等で、迷った時に読んでいる本ですが、 『子どもの教育 シュタイナー・コレクション1』ルドルフ・シュタイナー (高橋巌訳/筑摩書房) この中で、シュタイナーは「人間は四つの分肢を持っている」、とし、 その四つとは、 *「肉体」   人間の感覚によって観察出来る部分   無生物の世界と同じ素材/同じ力から合成される *「エーテル体(生命体)」   肉体の形成者/育成者/居住者/建築家。 *「アストラル体(感覚体)」   苦と快/衝動/欲望/情念等の担い手。 *「自我体」   人間の「私」の担い手/高次の魂の担い手。    また、言葉を知らない小さな命を、「より良く理解する為の考え方」としてもシュタイナーの理論は私には「合っている」「上手く言い当てている」と感じています。 同じくシュタイナーの 『人間理解からの教育』(西川隆範訳/筑摩書房)には、 「精神は、生まれる前とは全く異なった世界に移ってきて、生まれる前には有していたなかった身体をまとうようになったので、子どもがするような振る舞いをする」 「子どもが周囲の環境に慣れて行くのを観察出来る人は、生まれる前の世界から下って来た精神がしだいに身体に似たものになろうとすると言う事を知る」と書いています。 上手く書けませんが、 んーーー。。。「赤ちゃんは言葉を知らない」事をまずは忘れてはならないと思います。 sheep67様?「言葉の無い世界」って想像出来ますでしょうか? 「文字が無い」では無いのです。「言葉が無い」。。。。 私は三人の子ども達が、その「言葉の無い世界」から「言葉で掴める世界」に移って来るのを毎日興味深く見守って来ました。 そう、人間は「言葉で世界を掴んでいる」のだと思っています。 例えば「オシッコでおむつが濡れて気持ち悪い!」。。。これは「大人の感覚」です。生まれたばかりの赤ちゃんは「どう感じるのか?」想像してみた事はお有りでしょうか? いやあ。。。。私も一生懸命想像してみたのですが、「掴めません」。涙 夫といつも「言葉の無い世界って、どんなんだろうね?」「言葉を知らずに感じるって、どういうんだろう?」って首をひねっていました。笑 しかも、「視覚」すらはっきりしていない状態。 おそらく。。。。おそらく、でしかも「私見」ですが、 先に挙げた「肉体/生命体/感覚体/自我体」の四つは、それぞれを繋ぐ「シナプス」が存在すると思うのです。「六種類のシナプス」になると思われます。 その一つは紛れもなく「言葉」である、と思われます。 あとの五つは。。。まだ「言葉」が見つかりません。汗 中途半端な回答で、大変申し訳ありません!! ちなみに、私自身の一番古い記憶は「一才半」です。 何故か、憶えている風景と出来事が有って、母親に小学生の頃、尋ねてみたのです。そうしたら、「確かに有った」との事で、びっくりされたのです。とても些細な出来事で、それ迄に話題に上がる事も無かったので、確かに「私自身の記憶」と思われます。^^ その記憶の中に「感情」は微かにしか有りませんでした。まだ「先を想像し予想する」事が出来なかったからだ、と思います。只、その光景を受け止め、見つめ、時間を巻き戻したり、先読みしたりする事無く、「時間と同じ早さで感じて」いました。

sheep67
質問者

お礼

>6種類のシナプス これは本を読まなければ! 4つをつなぐ、というのは、4×3÷2=6種類、ですね? 4つの分肢ーー今なんどか読んでたら、おぼろげには分かりました。これはでも、難しいですねー。 それぞれをつなぐシナプス、というイメージはまだ分からないんですが、これは脳のシナプスではなく、2つを結びつけるもの、という意味ですよね。それは・・・考えさせられます。 記憶一歳半ですか~、すごい・・。僕は2~3歳ですねー。 >その光景を受け止め、見つめ、時間を巻き戻したり、先読みしたりする事無く、「時間と同じ早さで感じて」いました。 これはよく分かります。僕の理想です。言い換えると不安や焦りのない状態、と思ってます。肩の力抜きたい!(笑) では、今回もどうもありがとうございました。 失礼します。

sheep67
質問者

補足

こんばんは。 再度の回答ありがとうございます。 お返事いただけてうれしいです。 文字制限のため補足に投稿しています。 NO2の方も書いておられたですけど、気持ちのやりとりをしたいと思いながらも、議論に没頭してしまうところがあって、自分で気にしてるんですが、肩に力が・・・ 本題ですが >「未熟」と言うよりも「感情の種類が少ない」ではいかがでしょうか? 難しいですよね。感情の種類が少ない、と言う方が客観的ですが、 上から目線としたから目線で、「未熟」「尊敬」という感情のこもった正反対の言葉でいう方が実感はこもりますし、でも、気持ちにとらわれて視野が狭くなるくらいなら、客観的な表現のほうが、誤解が生じなくていい、とも思いますし、使い分けでしょうか? >大人になって感情が「発達した」とは これは、別に逆に退化した、というわけでもなく、それは単に複雑になった、というのが一番客観的かなーと。其れが発達なのか、なんなのかという価値観は、皆さんが決めることだと思いますが。 個人的には、山下清さんの絵とかに感動するので、あるいはピカソさんも、後年とても単純な絵に移行してますし、なんというか、僕の好きな感性の複雑さと、頭の知的な複雑さは反比例する気がしないでもないです。いや、持ち合わせてる人がいないとは言わないんですが。 それは知的障害がどうこうではなくて、僕自身シンプルな心を目指してるので、赤ちゃんに限らず、見ていてシンプルそうな人を参考にいつもしてます。 >シュタイナー シュタイナー教育のシュタイナーですね!僕も大好きです。自分の受けた教育と比較したりして、ドイツでしたっけ? これはうらやましいーと思いました。 yukkinn66さんのように本で勉強したのではないですが、それでもシュタイナーさんの、心の優しさや視野の広さは伝わってきます。僕が読んだのは、たしか自分のお子さんをドイツのシュタイナー学校に預けた人の書いた本を一冊だけなんですが、お粗末ながら。 専門書ではこんな風に書いてあるんですねー。興味深いです。僕は何でも、まず対象にこもった感情から入って、その感情が、どうやって、この文章の論理を思いつきはったのだろうか? という道筋で本を読みます。 四つの分肢~~おもしろそうですが、ちゃんと本を読んでみたいですね。下の方の本と合わせて、調べてみたいです。こういうのを教えてもらえるから、お話しするのはいいですねー。 >「子どもが周囲の環境に慣れて行くのを観察出来る人は、生まれる前の世界から下って来た精神がしだいに身体に似たものになろうとすると言う事を知る」 今妹の子供が赤ちゃんですが、それはそれはかわいいのですが(笑)、この文にあるような移行状態は、ずーっと気にしてみています。というより自分がこのちっさいころどうだったっけ?、という具合でです。 >「文字が無い」では無いのです。「言葉が無い」 これは・・分かるような気もします。言葉がない=概念がない=自分、という認識(概念)もない、となると思います。自分もないしその自分が捉える主観世界もない。あ、つまり、感情がない、ということにつながるんじゃないかと~。多分すごくよく分かります。 僕は星や空の雲を見るのが大好きですが、雲を見てて、自分が雲を見てるのか、自分が雲なのか、雲がなになのか、全く分からなくなるくらい夢中なときは、多分そんな状態かなーと思います。でも最近はそんなことは年に1回くらいに減ってきてますーさみしい。昔は毎日だったのに・・・。 >生まれたばかりの赤ちゃんは「どう感じるのか? 言葉がないと、自分が成立してないですし、感覚はあっても感情はない、とまだくどく言ってますが、なので、そう言うことだと思ってます。 別の言い方だと、それは強い集中力で頭真っ白の状態と把握してます。 それだけ、大人よりお父さんお母さんが好きで、生きることが好き、現実が好きで、好き、という強くかつ自然な精神集中で頭の中はいっぱいなので、基本的な、生きている上での人生への集中力が、赤ちゃんは桁が違う、と僕には見えます。 多分赤ちゃんはこういう気持ちだと思ってます、憶測に過ぎないですが・・。でも誰でも大好きなことやってる時は集中して頭真っ白になってますし、そういう無意識のコンセントレーションは、年齢は関係ないと思うのです。 僕がたまに雲を見て自分を忘れるほどの強い自然な集中でいるときの状態を、赤ちゃんは朝から晩まで一年中やってるはず、と、自分の経験からもそう感じます。そんなときは、もう、大好き!、や、幸せ!というのに圧倒されて、凡庸な感情は全く沸いてくる余地がないかなーと。~~こういうのの追求は宗教哲学の専門になると思いますが。

  • Butz
  • ベストアンサー率14% (70/483)
回答No.7

こんばんわ★ >赤ちゃんには感情がない,あるいは限りなく0に近い,といえると思うのですが,どうでしょうか? たぶん感情はあるんじゃないでしょうか? 泣いたり笑ったりはしていますから。 どちらかというとないのは感情ではなく自我でしょう。

sheep67
質問者

お礼

こんにちは。 回答ありがとうございます。 これも僕流の考えになってしまい、自分の意見を押しつけることになるのですが、 自我、と感情、は、セットだと思います。 なので、自我ー自分がないところに感情もないのでは、と言う僕の想像なのです。 細かいところは、下の方のお礼などに書いているのですが、 感情、と、気分、直観、感覚、等を、僕は分けて考えているので、質問の文章のような話が出てきています。 とても細かい話なので、そこまで説明せずに、質問をしてしまいました。 書けば書いたで、ややこしくて、皆さんの意見を集められない、とも思ったので、簡潔に質問したのですが、 いろいろ裏目に出ています。 また懲りずにお願いいたしますー。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.6

参考書をオススメします。感情の問題は解明されていませんので、あくまで仮説だということをお忘れなく。あと、著者ダマシオもオススメします。 感情と情動は違うらしいので、お気をつけて。

sheep67
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 これは、この方の発想は、すごい近い!!びっくりです。 もちろん向こうはプロですが、かなり内容が似通っていて、と言うか、具体的内容でなく、脳と心に対するアプローチの方法が、すごく分かります。 アマゾンの書評で読んだだけですが。 >意識というまさに「主観的な」現象が、「厳密で客観的な科学」の研究の対象となりうるというメッセージである と言う一文は、同感です。厳密にはちょっと僕とは違いますが、 それは、脳の研究者の視点なのでよく分かります。 すぐにでも読もうか、と思ったのですが、結論は今まだちょっと速い、という感じです。 やはり似てると言っても、僕は素人なりに、内面感覚の論理的構成、と言う切り口でやっているので、結論は似てる気がするのですが、 スタート地点の発想が違うところがあるので、ためらいがあります。 自分の考えが練れて、状況が整えば、またこのご回答を読んで、本を読んでみたいです。 非常に参考になります。僕にはある種宝の山かもしれません。 いい本を紹介していただいて、うれしいです。 ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

[赤ちゃんには感情がない] 赤ちゃんにも感情はありますよ。外界からの刺激が少ないので猫の目のようにくるくるとは変わりませんが、良く見ていますね。体が自由になりませんので感情表現が限られているだけですね。私はいい年の叔父さんですが、二、三歳の頃を覚えていますよ。3つ上の兄がいましてね。兄は大きいので何でももらえるんですが、私は赤子なのでもらえないんですね。「僕にもおくれ!」といっているんですが「あ・あ・あ・・」としか音がでないんですね。「それって」指差したいんですが手足がばたばたするだけなんですね。体が自由にコントロールできないんですね。悔しい思いをしてましたね。 そのときの私に比べると少しは知識も増えましたが、昔から言われるように三歳児(三つ子)の魂から現在までほとんど同じすね。私のように良く覚えていると、人間は脳で判断しているのではないのがよくわかるんですね。脳は体を管理してるだけですね。つまり感情は生まれる前も後もあるということです。例えば、生まれる時はみんな「おぎゃ」と泣くでしょう。10ヶ月もいつおろされるかと心配でね。生まれるのは苦しみなんですよ。だから生まれた瞬間は泣きますよね。大人とほとんど同じですね。ほとんどの人は脳の発達段階で記憶してないだけですね。同じように夢もほとんどの人が起きるや否や忘れてますね。これと同じことですね。

sheep67
質問者

補足

こんにちは。回答ありがとうございます。 まず、生まれる前のことを覚えてらっしゃるのですか??すごいですねー。数は少ないけどそういう方がおられるとは聞いたことありますが。 ただ、ちょっと論点がずれています。と言うか僕の質問の仕方が悪いです。最初の質問文がまずかったことを最初に謝ります。 生まれる前のことでも、それは記憶として大人まで覚えていたのですが、それに伴う感情は、大人になって思い出したときにはじめて付け加わったのではないでしょうか? 胎児の時のある種の切迫感に、大人としての状況判断が加わって、心配、になったんじゃないのかなー? と想像するのですが。 生まれるのは苦しみーそれは分かります。ただ、当時苦しみという言葉も知らず、概念すら知らず、其れが他人と共有できるものであることも知らない、胎児の時に、感情があったのだろうか? と多少いぶかしげです。と言っても、前世の記憶とかが出てくるとお手上げなんですが・・・。まあここはこの世、と言うリアルから見た判断で押し通しています。 下の方へのお礼で書き忘れてることに、感情は「自覚」だ、と言うのがあります。自覚、とは、内発的な感覚を、自己(自分)がそれを捉え認識することではじめて感情と言える、と言う無理矢理な定義です。 独断的なこの定義によれば、心から分離した自分が存在しない赤ちゃんには感情は発生しようがない、と言えます(無茶ぶりです) 記憶ーー客観的な状況の記憶、感覚的な記憶、感情の記憶、この3つは分けたいなーと思います。 このまた強引な分類によれば、感情は、前者2つの記憶を、大人が思い出すことで味付けしたもの、と言えるのではないでしょうか? 「思い出さなければ、心の傷などないに等しい」という、言葉があるのですが、これもたいがい極論、暴論ではありますが、また一つ事実じゃないかな、と思います。たとえ、PTSDと言われるものであろうとです。 赤ちゃんでも感覚も、客観的な記憶もあるとは思いますが。3つめはないかなーと。 僕も結構小さいころの記憶がありますが、2才くらいまではあります。でもそこにあるのは、強い強いこの世への自然な集中力のみで、その時の状況を思い出すときには、今の自分の解釈による感情が付け加わりますが、厳密にその時その瞬間は、多彩に移り変わる外部の状況変化をおもしろがってはいましたが、それは感情ー普通に大人が使うところの感情、とは異質なものでした。 ただ、お書きのように、おなかにいるときに、お母さんの言動の中に不安定な感じを感覚的に感じ取り、それによって、大きくなってからそれを思い出したときに、その記憶に、大人の自分の解釈が加わって、「不安だったなー」と思われてるのでは?と思います。 不安、不安定、恐怖は、他の方にも書いたのですが、それらはたしかに多彩な感情の発生源なので、 また、赤ちゃんは生まれて初めてお母さんとコミュニケーションするのではなく、僕も、細胞が分裂し始めてしばらくのある段階では、お母さんの心音、声の大きさ、栄養の偏り、ありとあらゆる情報でもって、すでにお母さんとやりとりが始まっている、と思います。 ただ、不安の元になる「非存在感」というものは、それだけでは感情ではありません。自分が消えて無くなるのでは、と言うだけでは、僕がかってに思うところの感情、ではないです。(定義の問題ですので、それを感情とお思いでしたら読み飛ばしてください) 感情は、その非存在感の自覚、そしてその非存在感からなんとか逃れたい、と言う思いでいろいろもがきだし画策する中で、はじめて恐怖や自我、感情が生まれる、と思います~~証明は、難しいですねーー、皆さんに聞いていただいて、実感に尋ねるしかないのですが・・・) 生まれてくるのが大変で、泣くのも分かりますが、泣いてしまえば感情はない、と言うのは解ってもらえるでしょうか? 辛いときは、悲しむのではなく、泣くこと、というのは赤ちゃんの鉄則ではないか、と思います。あらゆる感情ははき出してしまうことで、あらかじめ存在できない、と言う状態だと思ってます。違うでしょうか? 夢のことですが、夢で成り立つ裏の人格と、赤ちゃんの時とではまた違うのでは、と想像してます。 不安な状況に囲まれたなー、と言うのと、現実に不安の感情を感じるのは全く別、と言うスタンスです~。あるいは衝動と感情は違う、と言うことでもいいのですが。 長くまくしててますが、これは今僕の暫定的意見ですし、ここで人の意見を伺って柔軟に取り込みたい、と思っています。 質問を簡潔にしすぎてややこしくなりごめんなさい。 ありがとうございましたー。

noname#122427
noname#122427
回答No.4

こんばんは。 先日は、素晴らしい回答をありがとうございました!^^ そのお礼、になれるかどうか自信は有りませんが、お邪魔させて頂きます。 ちょっと、「気になった点」をまず。。。。 >大人なら,感情表現に一瞬のためらいが生まれ, >その「ため」のせいで感情が発生する 「感情表現の必要」が発生した時点で、「感情は発生後」となると思われるのですが。。。。これは不要な「つっこみ」でしょうか?^^ さて、本題です。 >赤ちゃんには感情がない,あるいは限りなく0に近い,といえると思うのですが,どうでしょうか? とのご質問には、肯定でもあり、否定でもあります。 ちょっと、私の見方とは違うかな。。。と言った感じです。 「感情が無い」では無く、「未熟だ」「原始的だ」と言う表現が、ぴったりするように、私には思えます。 医学には無知な私ですので、「見当違い」が有るかとは思いますが、 赤ちゃんは、母親の胎内で「脳が形成された時点」から、「感情を育て始める」「感情が発生する」と、私は考えています。 此処で、 「感情とは何か?」について、考えてみました。 「対象と接して起こる反応」と言った感じで浮かぶもの *感覚 *感情 *行動 と言った所でしょうか。。。。 この内「具体的/物理的な動き」としては、「感覚」と「行動」かと思われます。この間の「橋渡し」「理由付け」として存在するのが「感情」ではないか?と私は考えました。(専門知識も皆無なのに、申し訳ありません!) 何かに触れる。 どんな感じ?。。。暖かい?濡れている?ぐしょぐしょする →「感覚」 身体はどう感じる?。。。気持ち悪い。嫌だ。かゆい。 →「感情」 おむつ換えてよーー!ほんぎゃあ!ほんぎゃあ!泣 →「行動」 こんな感じですね。生まれたての赤ちゃんは。^^ (三児の母です。) 脳細胞を繋ぐのは「シナプス」でしたっけ? これが多ければ多い程、脳は活性化されると言う事だったように思います。(十年前の生物の授業にてうろ覚え。。。。汗) 同じように、「感覚」と「行動」を繋ぐ「感情と言うシナプス」が有ると言う考え方です。 この「(感情と言う)シナプス」は「経験によって増える」のだと思われます。 だから、育つ過程で「感情が増える/豊かになる」のだと思います。 つまり、生まれたての赤ちゃんは「経験が無い」が故に「シナプス(感情)が少ない」状態なのでは? 現に、同じ「おむつが濡れた」現象に対して、「月齢」どころか、「日を追って」、「反応が育ち」ます。^^ 「気付くようになる」→「気付く迄の時間が短縮される」→「泣き方が変わる」→「行動で示す(ばたつき等)」→「怒るようになる」→「自分で脱ごうとする」。。。。 こんな感じで、 ご質問に対する「回答」としましては、 >赤ちゃんには感情がない,あるいは限りなく0に近い ではなく、 *感情が未発達、原始的、未熟と言う表現で説明出来る と言うものになります。 いかがでしょうか?

sheep67
質問者

お礼

下のNO3の方へのお礼の続きです。この欄お借りします。 ごめんなさい。 >私は今第一子を育てています。 未熟児での出産でしたが、現在、出産予定日から数えた修正月齢で生後20日ほどです。 議論に夢中ですっかり読み飛ばしていました。 よく読んだらすごく大事なことが書いてあるじゃありませんか~_! 「おめでとうございます!!」 僕は経験がないので、想像も付かない大事業だと思います。 未熟児で出産して生後20日、といえば・・・想像ができない。 きっと大変かつうれしいのではないか、と想像はするのですが。 未熟児でも無事に生まれる幸せ、というのは大きいような・・ ちなみに甥っ子の赤ちゃんをだっこさせられるときはふるえてます~。こわいです~。 ではではー。

sheep67
質問者

補足

こんにちは。 この間の怒りの感情の時の・・・。どうもお久しぶりです~。 ご回答ありがとうございます。目にとめていただいてうれしいです。 子供を育てておられる方2人目で、緊張します。 >「感情表現の必要」が発生した時点で、「感情は発生後」となると思われるのですが。。。。これは不要な「つっこみ」でしょうか?^^ これは~~、思いっきり、定義の問題ですね。もともと質問がアバウトな上に、ここでさらにてきとーなことを書いているので、こうなりました。僕は直感的に把握するのが好きなので、論理化や、論理的に整合性の取れる表現に、直観を論理に翻訳する作業は、いつも後回しで、あげくには、別に論理的におかしくてもいーじゃん、とかなってるところがあります。これもそうです~(>_<) >*感情が未発達、原始的、未熟と言う表現で説明出来る これは全くそう思います! ある種、強制的悟り状態?? みたいな感じというのは言い過ぎだろうか・・・、わかりません。 ただ、未熟だ、と言ってしまうと、対象から学べないようになるリスクを感じます。 あるいは、表現切り口の違いですね。 ただ、個人的見解では、大人になって感情が「発達した」とはあまりそうは思いません。あーでも難しいですねー。 この間意見を交換した、怒りの時の、非存在にしても、初期の赤ちゃんは非存在感はないのですが、発達の過程でこれを取り込みます。死や、生き物を殺す概念や、いろんなものから入ってきます(平家物語に描かれてるような、諸行無常感ーーああ時間は流れ、場所は移り、壊れないものはなにもなく、自分もいずれ、死という形で壊れていくーと言う風な)。 その時非存在から恐怖が生まれ、恐怖から自分と心の分離が生まれ、その分離から多彩な感情が発生する、と言うのが、全く私的な見解です。(自己と感情の発生は、基本的にこの非存在感と、心⇔自分の分離を克服するために人が作り出す道具だ、と思っています)~確信はありませんが。 これは感情の、脳と心のメカニズムとして考えたときのことですが。 シナプスの問題では、多様性ーんーと、多彩なめくるめく感情を経験して、知識もノーベル賞級のものを吸収して、そしたら幸せかというと、それはまた別問題です。 シナプス、という点では、たしかに未発達と言えますが、何十億もの脳細胞のシナプスが作り得る可能性に比べたら、世界一物知りで世界一感動体験をした人の脳のシナプスさえ、多分可能性の100分の一も引き出していないと想像します。その意味では、赤ちゃんも大人もドングリの背比べ、というのは言いすぎでしょうか? 大人のほうが赤ちゃんよりあるいは動物より発達している、というのはそれは全く正しいですが、それがこの現実のすべてではないと思います。見方を変えれば、正反対や、全く別の切り口もあるのでは? と・・・思います・。 ちなみにこのことに関しては、赤ちゃんを未熟と見る視点と、赤ちゃんから学ものがあるという視点は、どちらがかけても、現実から乖離した偏りが生まれるのでは、と思っています。(赤ちゃんに限らず、一般の対人関係は全部そうじゃないかなーと) 幸福、という点で幸せそうな赤ちゃんを見ると、なぜこの子は幸せなんだろうか、と考えると、未熟故に、心のメカニズムの基礎、土台、一番重要な部分しか持ち合わせない赤ちゃんは、僕には格好の学習の対象です。多彩さはないですが。大人のように、枝が張り、葉が茂っていない分、感情の仕組みとして重要な部分が丸見えで、それは自分を振り返ることにもなり、いろいろいい感じです。 と言っても、毎日世話をしてるお母さんは、「そんな悠長なこと言ってられるかー」てなもんではないかと、思いますが~。人ごとだから言えるところもありますかしら? 以上僕の意見でした。 いずれにせよ、目に見えないことの話なので、それは、全部推測なので、基本的に僕は個人で了解してるだけなんですが、たまに他の人の意見も聞きたくなり、質問したりしてます。これにこりず、良かったらまた見てください。

  • marusaku
  • ベストアンサー率50% (2/4)
回答No.3

こんにちは。こちらのサイト初心者です。 私は今第一子を育てています。 未熟児での出産でしたが、現在、出産予定日から数えた修正月齢で生後20日ほどです。 こちらの質問をみて気になりましたので投稿いたしました。 私は赤ちゃんには感情があると思います。 特に不快感は確実にあると思います。お腹が空いたときやオムツがぬれたときは泣いて不快感を伝えてきます。 ただし、動作と感情は必ずしもリンクしていないこともあるように見えます。理由もなく、にかっと笑ったりするなど。理由もなく泣いたりすることなど。 専門のサイト等見ればもっと詳しく正しい知識が解るかと思うのですが…調べていないのでごめんなさい。とりあえず、私が子育て素人かつ新米母の目からわが子を見ている限りでは、こんなところです。

sheep67
質問者

お礼

心理学だと、フロイトさんや、あるいは児童心理学で、赤ちゃんからの発達の心理は分析されてますが、ただ赤ちゃんには、感情がない、感情を自分で感じるほどの、生きる上でのためらいがない、と言う論点は聞いたことがないので、比較が難しいです。 難しく書くと、あかちゃんがにぱーっと笑ったときは、あるいは小さな子供でもいいんですが、 大人はそれを見てその子に感情移入して、うれしそう楽しそうと感じますが、当の本人は、たぶん、あるは、僕の記憶では、その笑顔は、「世界が明るい、気分が明るい」という感覚のようなもので、自分も世界も照り輝くようなイメージがあるだけで、うれしい、とか、楽しい、とか思わないんじゃないかと・・・。多分、ですが。 自分でも観察できないような、笑いたい衝動、泣きたい衝動はあっても、感情となると、どうかなと・・。 僕自身は成長が遅くて、明確に感情を覚えるようになったのは小学3年生くらいからなんですが、その前後の記憶を掘り返して、その頃の自分と、小さい子供や赤ちゃんを比較したりして、 大まかにそんな作業の中で感じていた実感と、 あと心の仕組みの分析の結論との、この2つがぴたっと合ったので、 それがちょっとおもしろい結論だったので、 他の人の意見も聞いてみたくなり質問しました。 言葉の定義の曖昧さ故に、そもそも厳密な結論を求める、と言うのではないんですが、 不快感がーこれも、おもつがぬれて気持ち悪い、というのは、多分多分大人の考えじゃないかとーー実際のお母さんにいうのはじつにおこがましいですが・・・ 不快感はもちろんあると思うんですが、ただ赤ちゃんはその「感覚」を、自分の中に一旦ためて「気持ち悪いな~」と思って泣くわけじゃないかなと思います。 微妙な話なんですが、意識や無意識と言うところを経由せず、深い感覚が、そのまま泣く行為に直結してるのではないかと・・・ と、適当な推理をしています。 ーーー→1の方の回答へ続きです(文の長さの制約を考えてません、済みません)

sheep67
質問者

補足

こんばんは。回答ありがとうございます。 不快感は、そうですね、あるように思います。 ただ、不快感て感情かどうか微妙で。僕も判別ずらいですが、 ただ、おなかが減った時は今でも僕は無意識に冷蔵庫に手が伸びて食べているときもあります。 つまり、おなかが減った、とは感じていません。 おなかが減った「感覚」が、ダイレクトに行動に結びつく、 あるいは、赤ちゃんなら泣くことにつながり、 間に感情というワンクッションは入らない、とどうしても思えます。 marusakuさんは、ご自身の経験ではどうでしょうか? 僕自身は自分にあきれるほど馬鹿正直なときは、本当に衝動?が、そのまま行動になりますし、衝動と行動の間に、大人なら入るはずの感情、が無いなーと感じます。 少なくとも、小さいときの、欲求や気持ちと、大人になってから感じる欲求や気持ちは、かなり大きく定義が変わるみたいやー、と感じるのです。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.1

参考書「システム現象学オートポイエーシスの第四領域」「三つの脳の進化」 あると思います。吟じます~

sheep67
質問者

お礼

(3の方へのお礼の続きです・・) いくら書いても、当の赤ちゃんになるわけではないので、 ぜんぶ、推測なんですが。 赤ちゃんが、と言うか、人間が我慢や抑圧を覚えた地点で、その深い感覚を現実に「不快だな~」と感じる感情が生まれる、と どうしてもそう思ってしまいます。 以上憶測に憶測を重ねたとんでも意見かもしれませんが、ただ自分の、メンタルの記憶は、こう考えるとすごぶるうまく説明が付くのでー 大事なのが抜けてました。感情、という言葉の定義ですね。 感覚=感情、と定義したら、それは、赤ちゃんでも感情はある、 と言うふうになると思います。 僕はーー説明不足でしたがーー5感で感じる感覚(5感や認識を通してできるある種の判断力)と、いわゆる喜怒哀楽の感情を、分けて考えてます。意見の違いは、やはりここの問題でしょうか? ながながとすみません。 いろいろ人に聞いてみたかったので、回答いただきうれしかったです。

sheep67
質問者

補足

こんばんは。 回答ありがとうございます。 参考書が全く??で 申し訳ないです、全然わかりません。 ネットでも調べてみます。 聞いたことがない本ですねー。 参考になるHPとかないでしょうか?

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