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言葉遣いという問題から言葉の本質へ
放送禁止用語とか、そんな言葉遣いはやめろとか、こういえば認めるがそういういい方は認めないとか、なにか言葉遣いに関して制約や圧迫が最近はかなりのものです。また、それに関してますます圧力が強まっているようです。 で、もうちょっと突き詰めてみますと、たとえば「貴様」なんていいますのは、昔は丁寧な言い方だったわけです。ですので、「kisama」という発音自体にその言葉の性格を宿しているわけではなく、変遷してきた時代時代によって、言葉の認知されうる性格、性質というものが変わるわけで、その時代時代によってある言葉が、ある決まった性質を持つ。 そして、放送禁止用語、あるいは親がたしなめるような言葉、あるいはけんかになるような言葉というものは、すなわち、話しての心象をあらわすわけです。「貴様」といったら「この方は丁寧に呼んでいるのではなく、敵意蔑視を表明しているのだ」ということになるわけです。 つまり、放送禁止とかその類の言葉というのは、その発信者の対象への蔑視、荒み、その他のマイナス感情を表明するという意味合いで禁止されるということでしょうか?つまり、そういう心象を表明する自由を現代社会は奪われている、あるいは非情に圧力がかかっているということになるわけでしょうか?突き詰めれば、言葉遣いをどうこうという問題は、発信者にその真実の心象表明を禁ずるという意味にほぼイコールでしょうか?
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>I「おい、コピー用紙とって来いこの役立たず」 「自分で獲ってくりゃいいだろこき使いやがってこの嫌味上司が」 でキレる II「コピー用紙を取ってきてもらいたい」 「はい」 でキレる これのどっちがいいのか?はななだ疑問である。> 確かにIの場合素直で一時的にフラストレーションを発散することは可能だろうと思いますが、正直IにしろIIにしろ攻撃の意図や相手の悪精神を感受してその反動で両者とも悪に変貌するというある種の意図があるように思います。なのここではIもIIも相手に対する攻撃の意図がありIもIIも相互的な意味合いで自分の内面構造を維持しようと一時的に相手に抑制を掛けようと試みるということだということです。なので両者とも内部構造を自分で痛めつける破目になるわけです。 なのでIもIIも相手に攻撃して自分の内部構造を強引に押さえつける行動をとることになり、結果破滅を両者とも味わう破目になるわけです。 ただIよりもIIの方がまだ自制を試みようという意図があり、一時の感情を抑える代わりにそれ以外の方法を見出そうという方向へ行くのではないかと思います。 ただIIの場合我慢できず相手を差別するとか長期的に相手を潰すような悪的行為へ走るという可能性が実はあって、Iも一時的に発散した段階でその後内省へ走る可能性もあります。 なので一概に良いのはこれだとはいえませんが、一次的2次的ともに人間性の崩壊を防ぐことが出来るのはIIを試みて安定構造へ変化する方へ向かうというのが崩壊を防ぐ第一歩であると考えます。 >しかし、人間自分の安全を祈願するものですからねw表現を音孔に止揚そして保身しようという表れが、どうやら言葉遣いなんていう問題に付着してきたんじゃないでしょうかね。> そうだと思います。 言葉遣いという問題を問題にするというのはある種可笑しな話で、言葉の内容を問題視しているというのとは話が別で、ニアンスに規制を掛けるというのはある種自由権の侵害といえると思います。 もちろん相手がパワーハラスメント的なニアンスを出しているというのなら話は別ですが、思想や感情までを抑制する権限は誰にもないでしょう。もちろんそれは誰もが知っている事だろうし、抑制を掛けている側もニアンス等は平然と発しているわけで、むちゃくちゃな抑制を掛けている人は何れその自己矛盾に苦しむと考えられます。
no1です。 物事はいろいろな方向から捉えてみないと総合的に分からないもので今度は逆から見てみたいと思います。 逆に圧力を掛けすぎるという行為も逆に攻撃に値するだろうと思います。例えばまともな相手を攻撃する意図もなければ、ルールで違反もされてもいない、しかも表現としては至極法律範囲内と考えた場合、逆に圧力を掛けている方が問題だろうと思います。 つまり気持ちがあるが言葉の内容にはなんら問題点などは見つからない場合ということになるかと思います。 例えば「コピー用紙を持ってきてもらいたい」と上司から命令されたとします。 そこで「はい」と答えたときに、その「はい」の言い方がどうも気に食わなかったのか上司が怒ったという場合はこれは逆に圧力を掛けている方に攻撃の意図があり、圧力を掛けている側の精神に問題があるということになるのではないかと思います。 例えばこれが相当な怒鳴り声でさも上司を侮辱するようなニアンスというのがあるのならまだ話は別ですが、そうでない場合ある種異常と言ってもいいでしょう。 圧力を掛けている側はもはや「まとも」ではなく「まともではない」と考えるべきだと思います。 これもやはり野蛮への退行であり、道理として成り立たないだろうと思います。 つまり人の価値を貶めるような行為として発信する側と規制する側が使用する場合人間崩壊であると考えます。
お礼
結局、表面的な「言葉」が本質的なのではなく、内面が問題なのだということは古今東西普遍的にありますよね。その「内面」を吐露しないこと。もし吐露したら、この例では 「おい、コピー用紙を取って来い」 という心象で発したものです。なので、 「はいよ、クソウルセー上司だな」 という心象をあらわした「はい」に対してキレる。 しかし、もし心象をダイレクトにしたらどうなのか? この状況が幾分改善されましたかね。つまり、心象は同じとして I「おい、コピー用紙とって来いこの役立たず」 「自分で獲ってくりゃいいだろこき使いやがってこの嫌味上司が」 でキレる II「コピー用紙を取ってきてもらいたい」 「はい」 でキレる これのどっちがいいのか?はななだ疑問である。 しかし、人間自分の安全を祈願するものですからねw表現を音孔に止揚そして保身しようという表れが、どうやら言葉遣いなんていう問題に付着してきたんじゃないでしょうかね。
- bananasand
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放送禁止用語って自主規制なので、 非常に圧力をかけている主体は、放送業界自身と言うことになりますね。理由は公序良俗。 >心象を表明する自由を現代社会は奪われている、発信者にその真実の心象表明を禁ずるという意味にほぼイコールでしょうか? イコールではないでしょうね。ネット上で、街頭、放送メディア以外の場所で、法令に抵触しない限界内で放送禁止用語を存分に使って真実の心象表明する自由権を行使できます。
お礼
放送業界というものと、個人的表明というものは、かなり断絶落差がありますけれども、完全な分離ではないですよね。幾分かは連続的なものであって、個人的表明というものが社会的な最小単位ではないでしょうか。公序良俗というもののなかに個人定期心象要素も多分にある。それに、個人表明についても「法令に抵触しない」という立派な条件がついてしまうわけで、自由は少ない気がします。
ほぼイコールでしょう。 仰るとおりだと思いますよ。 その心像表明に相手をプラスにする要素もなければ発信者にもプラスにはならないだろうと思います。 もちろん腹立たしいことを抑えろという意味でもありませんが、自分の精神を自分でコントロールできない部類が表現するものだろうと思います、つまり相手が傷つくということを想像する能力と良心の欠けた存在が発信するという話になるかと思います。 最近の例でいいますと時津風親方とそれに迎合服従した兄弟子が暴行を加えて愛弟子を殴り殺した事件がありましたが、そうとう両者とも自分の精神を自分でコントロールすることができなかったんだろうと思います。それと同じで相手を蔑視する行為は相手を攻撃するのとなんら変わりないでしょうし相手に心理的ダメージを与えるとともに与えた側が逆にコントロールできなくなるという最低な行為でしょう。 もっと分かりやすい例で言うと自分をコントロール出来ず自爆テロして相手を攻撃しているということです。
お礼
自身の心を垂れ流しにしてしまうと、世の中まとまらないし、暴力の荒らしになるだけですから、その世の中のまとまりに関して役割を担っていくという自覚において、言葉遣いの制限も意味を持つということらしいですね。
お礼
思想感情に規制はかけないが、それに社会的動きを与えるとき、表明するときには、規制するという姿勢が世の中の考え方らしいですね。こういうのは、つまりは、できるところは規制していこうという念入りな配慮です。つまり、世の中は、自由奔放な表現で思想を豊かにマジ合わせるという方向よりも、人々に規制をかけて、可能な限り無難にまとめていくべきだという考えが支配しているとも言えそうです。