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欧米人にとって哲学(史)って、どんな感じなんでしょ?
お世話になります。 量子力学史のHPを作ったりしているので、少しは哲学史も勉強しなくちゃ・・・ という状況に陥って難渋している物理屋です。 高度な議論あり、わかりやすい教育もある、素敵なカテゴリーだと思いまして、あえて「漠」とした質問をさせていただく無礼をお許しください。 昔、大学教養時代に、哲学史をサブ・ゼミでとっていたんですが、その頃からずっと疑問に思っていることに、 「こういった優れた哲学(の流れ)を、欧米人はどうとらえているんだろう?」 ってことがあるんです。 たとえば、「神はいるか否か?」なんて問いの「無謀・無意味さかげん」も、もう19世紀には「かたがついている」っていうふうに、素人なりに私は理解したつもりになっているのですが、欧米人はそういった自分達の産みだした「哲学の成果」を「宗教的議論」に生かしているようには思えません。欧米の知識層は、哲学(史)の成果を知っていながら、結局素朴な原理主義的水準に甘んじることで、安定を保とうとしているような気さえします。 哲学を実生活に生かそうというのは、「オートクチュールの服を普段着に使う」ような無謀さをひめているような気もしますが、それで達成された知的段階を放棄してしまうような無教養さは、わたしには我慢出来ないような気がします。 で、質問をまとめさせていただくと 1)欧米の知識層は、哲学の成果を、どう思っているのか? 2)また自分達の産みだした、「哲学」の成果を、(特に宗教に対する接し方などに)生かすつもりはないのだろうか? といった感じなんですが・・・。よろしくお願いいたします。
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>欧米の知識層は、哲学(史)の成果を知っていながら >結局素朴な原理主義的水準に甘んじることで >安定を保とうとしているような気さえします。 何故そう思うに至ったか?が分からないので 自信がありませんが私なりの意見を述べさせて頂きます。 まずは、疑問を。 >欧米の知識層は、哲学(史)の成果を知っていながら そうでしょうか? 欧米の知識層は皆、哲学の成果を知っているのでしょうか? そもそも哲学の成果って何でしょうか? 私の考えとして 知識層に限らず、先進国においては 近代哲学と近代科学がすっかり浸透していると思います。 とりあえず中心にデカルトとニュートンを置きましょう。 そして、その成果を知っていようが知っていまいが 現代人はその価値観を教えられ、その恩恵を被っています。 では、その成果を知っている知識人は何をしたか? 19世紀後半になって異を唱え始めたのではないでしょうか? それが所謂「現代哲学」-実存主義、記号論、構造主義、ポスト構造主義 といわれる思想です。 もしご存知なければ、手っ取り早い入門書として ・内田樹:著「寝ながら学べる構造主義」文春新書 を挙げておきます。 (残念ながらこの本にはポスト構造主義の デリダという大事な人が抜けていますが...) 彼らが否定しているのは基本的に 哲学における「形而上学」、科学における「還元論」 その根本にあるのは、イスラム教やユダヤ教、キリスト教の神である 「絶対人格神」「絶対真理」の否定です。 >たとえば「神はいるか否か?」なんて問いの「無謀・無意味さかげん」も >もう19世紀には「かたがついている」 それは違うと思うんです。 「形而上学」「還元主義」は「絶対人格神」「絶対真理」の 延長線上にあるもので カタチを変えただけで基本思想的には同じものです。 さて。 ここでCaF2さんにより身近ではないかな?と思う話題として 科学哲学に触れてみようかな?と思います。 科学哲学とは、誤解も含めて簡潔に述べれば 現代科学は間もなく知ることが出来ることは全て解明するであろうが 同時に、何事も確実に知ることが出来ないということも 露呈してしまうだろう、という主張です。 こちらも、ご存知なければ、手っ取り早い入門書として ・高橋昌一郎:著「科学哲学のすすめ」丸善 を挙げておきます。 同じ著者の「ゲーデルの哲学―不完全性定理と神の存在論」講談社現代新書 なんかもピッタリかも。 さて「神なんかいない」「絶対なんかない」というのが 20世紀の知識人の主張でしたが(やや乱暴な解釈) そーすると何か不安になっちゃう人が一杯いる訳です。 いや、むしろそんなこと知らなくても 近代哲学や近代科学の成果・恩恵が そろそろ限界に来たのでは?と不安に駆られているのが 現代人ではないかと思うのです。 それらの一部が原理宗教や神秘主義、トンデモ科学に 飛びついてしまうのではないでしょうか? 一方、21世紀に入った知識人たちは 今度は「神なんかいない」「絶対なんかない」という20世紀の主張を 否定神学だ!として異を唱え始めているのだと思います。 私の知っているレベルで話せるのはこんな程度です。 最後に個人的な感想として 知識層が進んでいる方向はとてもよく分かるのですが それらをキャッチアップするのは 私のような庶民にとってどんどん困難になり よって庶民の生活とどんどん乖離してしまうのではないか?と 危惧します。
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再びコンニチハ。 >「一応19世紀までに、素朴・基本的議論は出つくしている事を >知った上で、更なる議論をして欲しい」 先の回答は19世紀まで出尽くした筈の基本的議論が 実は欧米人にとって都合のいい我田引水な解釈だという方向で 更なる議論をしてきたのが20世紀の哲学ではないの? という素朴な疑問ですという言い訳?をさせて下さい。 ただし。 20世紀の哲学は自己反省を促すロジックとして まず超根本的な認識の問題を掲げ(ソシュール言語学など) そのモチーフとして専ら第三世界を扱ってきました。 (メルロ・ポンティの構造論など) また、もっとストレートなアジテーション、ロビー活動としても 「オリエンタリズム」のW.サイードや インドの哲学者:バンダナ・シヴァといった人たちに代表される 第三世界の問題にフォーカスされていたんだと思います。 そして、今。ある程度第三世界の問題に対する啓蒙が進み (解決はずっと先のことなんでしょうが...) 次の問題として今度は中東の問題が クローズ・アップされているんだと思います。 (クローズアップというよりは噴出したという感じですね。) ただ、この問題が難しいのは 宗教的な思想の解決の問題以上に 過去の怨恨が溜まりに溜まっているわけですよね。 日本の中国・韓国・北朝鮮の問題と同じモノがあるわけです。 さて、許してもらえたなどとは全然思いませんが 一応日本は形式上だけでも謝った。 (でも、謝罪なんかとんでもないという声も沢山あるわけです) (知識人からも自虐的歴史観だ!とかいう主張もあるわけです) ちなみにローマ・カトリックも21世紀の始めに 過去のイザコザに対して形式上だけは謝った。 英米だけは、基本的に謝らないどころか 自分たちの正当性を譲らないわけです。 それには、過去の哲学の成果を実践する、というよりも 過去の歴史の欺瞞を暴く、といった作業が必要なんじゃないでしょうか? そーゆー意味では そんな回りくどいことはやってられん! 宗教問題を建前にアメリカの権力者を殲滅してしまえばイイ! と考えるビンラディンの気持ちも全く分からんではないし そのビンラディンですらアメリカの権力闘争に 利用されているに過ぎないといった 眉唾な暴露記事も分からんではないと思うんです。 http://plaza12.mbn.or.jp/~SatoshiSasaki/y2k/ukxus.html http://rerundata.hypermart.net/ura/hexagon/floors/floorA2F.html いろいろ書きましたが >最終的にイスラムとキリスト教の「雌雄を決める争い」を >どう収めるか否か?が21世紀前半の大きな課題だと >私メは思っています。 に賛成です。 そのために、人類全体の哲学的知性?を上げるのか? 過去の欺瞞を暴いて、過失を問うのか? 後者じゃないかな~と思うんですが... でもね、蛇足ですが ワタクシメは根本的な問題として 地球が生物を養えるキャパを超えちゃってるんじゃないかと 密かに深く思うのですよ。 生物のダウンサイジングが必要なんじゃないかと... で、自分が去るか、他を消すか? こんなこと考え出しちゃうと 戦争擁護しだしちゃいますね............
お礼
どうも、再びのご意見・ご回答ありがとうございます。 哲学の存在目的?などと、大げさに問うまでもなく、 「思考は人類に役立つために存在する」、 という立場と 「思考が正しければ別に役立つ必要などない」 という立場と、両者があることでしょう。 どちらを選ぶか?によって、自ずと、その思考の伸びる方向は さだまっていくことでしょうが・・・。 私は、少なくとも、「考えている私」が楽しくない思考は 好きになれませんが・・・(^_^;) 宗教問題、人種問題、南北問題、産業構造問題・・・、世界をとりまくそれらの問題の、実は皆、そのミニチュアが、アメリカ本土内に内在してきたもの・・・ その内在問題を、流血と、法律の下に、(解決していないのに)解決したつもりになっていて、その手法を、世界全体に摘要できるつもりになっている。 そのあたりが、アメリカを世界から浮き上がらせ、孤立させはじめている要因なんだろうな・・・なんて思っています。 それでも、思考と行動の自由は、何よりも素晴らしいことだとは思いますが・・・ 今回はどうもありがとうございました。m(_ _)m
- jume
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難しいというか、知らなきゃ答えられない問いですよね…。だから、わたしが答えて良いのか迷いましたが、日本の哲学を巡る状況を思うに、いくつか書けることもあるかと思い、無謀にも答えることをお許しいただきたいと思います。 まず、以下の部分を読むと、CaF2さんが、昨今のアメリカやイスラエルをめぐる状況も含めて、この質問を投稿されているのかな、と思いました。 > 結局素朴な原理主義的水準に甘んじることで、 > 安定を保とうとしているような気さえします 確かに、「知識層」という広い括りでは、そういう面があることも否めませんが、デリダやハーバーマス、チョムスキーなど、現代の哲学的思考を社会的生活にまで貫いている人たちも一部には、いるように思われます。ただ、デリダやハーバーマス、チョムスキーは哲学的な思考で飯を食ってる人たちなので、(1)については、政治家も含めた一般人がそのような知識に精通しているかという問題に関しては、日本と大差ないんじゃないでしょうか?次いで(2)ですが、(1)のような状況であれば、「生かすつもり」以前の問題ではないでしょうか? ただ日本の哲学の世界に限って言えば、「たとえば、『神はいるか否か?』なんて問いの『無謀・無意味さかげん』も、もう19世紀には『かたがついている』」という単純な問題ではなく、中世のスコラ哲学もコミュニケーション論や存在論の文脈で何度でも問い直される強靭さを備えていると思います。また、哲学を実社会に生かそうという試みは、すでに応用倫理学や社会哲学、教育哲学、政治哲学、法哲学、宗教哲学という形(連辞符哲学?)をとって表れています。社会哲学の原型は、プラトンの『国家』ですかね。プラトンといえば、ソクラテスを主人公にした対話篇が有名ですが、その対話という形に刺激されて、大阪大学の鷲田清一教授らを中心に「臨床哲学」という哲学も模索されています。同じ「臨床哲学」という言葉を使った人に精神病理学者の木村敏氏がいますが、彼は精神病理学にハイデガーの哲学を応用しています。 社会に対して哲学が無力かどうか。哲学が形骸化されて死んだ思想の抜け殻のようなものは、社会に氾濫していると思いますが、哲学(考える力、技術のようなもの?)を人々が持つようになるかといわれれば、よくわかりません。実際、思想の抜け殻は役に立って、哲学は役に立たないのかも知れませんが…。
お礼
さっそくのお答、ありがとうございます。 >昨今のアメリカやイスラエルをめぐる状況も含めて、 >この質問を投稿されているのかな、と思いました。 はい。漠然とですがこのあたりをイメージしておりました。 あとは、「進化論などの宗教教育問題」や「見え隠れするキリスト教至上主義」などでしょうか? (質問の主旨とはかけ離れますが、最終的にイスラムとキリスト教の「雌雄を決める争い」をどう収めるか否か?が21世紀前半の大きな課題だと私メは思っています。) ご意見は、「政治家や、知識層の意識は日本と大差ないだろう」、というように受け取らせていただきました。 国民の最大公約数的感情を掌握することにのみ終始する現代政治・経済では、日本と欧米に質的違いはないだろう・・・ということは私メも感じるところです。 >単純な問題ではなく、中世のスコラ哲学も・・・ 素人質問で、たいへん恐縮しております。 恐縮ついでに無知をさらしますと、普通、理工系の「哲学史」ゼミ・講義では、近代の成立からカント・ヘーゲルあたりまでを中心にして、「神の役割の後退」を吟味しながら、弁証論や20世紀哲学の成立を見る、というのがよくある文脈のように思えます。 ですから、今回のこういった疑問は、理工系の人間には、ポピュラーなもののように感じます。 「カントは”三批判”で、神の存在を”要請”にまで後退させたのに、なぜ今さら原理主義的な事を語るのか?」 といった感じ・・・を持つことが多いと思います。 >また、哲学を実社会に生かそうという試みは、すでに応用倫理学や・・・ なるほど、哲学も戦後、寝ていたわけではないのですね (^_^;) <スミマセン> ただ、哲学の基本部分のフクロウも、飛び立ってほしいもんだ・・・って、門外漢は期待してしまうのですが・・・。 >思想の抜け殻は役に立って、哲学は役に立たないのかも知れませんが…。 深い!・・・ですね。現代人は、「哲学のサヤ」のようなものをまとうことで、満足しているように思えます。現代物理学なんて特にそうなんで、その「抜け殻」の使い方を、よく勉強する必要に迫られているようです。 どうもありがとうございました。
お礼
充実したお答え、感謝いたします。 >知識層に限らず、先進国においては >近代哲学と近代科学がすっかり浸透していると思います。 はい、そのとおりだと思います。 近代哲学の示す「現象や成果」は、確かに身の回りにありふれたものになっていると思います。 ただ、近代哲学の「基本部」がどの程度、普及・啓蒙されているか?というと・・・私も含めて少ないように思えてしまいます。 >彼らが否定しているのは基本的に >哲学における「形而上学」、科学における「還元論」 >その根本にあるのは、イスラム教やユダヤ教、キリスト教の神である >「絶対人格神」「絶対真理」の否定です。 理解しやすい御説明ありがとうございます。 コメントだけなんですが、 「還元論」(還元主義)の呪縛の問題は、科学屋としていつも感じていますし、すごくよくわかる反面、現代科学に「還元主義」以外に有効な、武器も成果もないように思えます。同様に「形而上学」を宗教に求めない人々も少ないことでしょう。 一番ニーズがあるところを否定して、代替物を与えないと、一般人には不平・不満のみが満ちてしまうことになるのではないか?と危惧するのですが・・・。 >カタチを変えただけで基本思想的には同じものです。 はい、理解いたしました。 私もあえて、無理メの云い方をさせていただいたのは 「一応19世紀までに、素朴・基本的議論は出つくしている事を知った上で、更なる議論をして欲しい」 という願望があったことは、いい訳させてください。m(_ _)m >科学哲学に触れてみようかな?と思います。 ご配慮、ありがとうございます。 >科学哲学とは、誤解も含めて簡潔に述べれば >現代科学は間もなく知ることが出来ることは全て解明するであろうが >同時に、何事も確実に知ることが出来ないということも >露呈してしまうだろう、という主張です。 これは、なんとなく、まだ理解できておりません。 「ゲーテル」等は読んでいるつもりになっていたのですが・・・ 勉強させていただきます。 一般的に、優秀な科学屋・科学評論家が、宗教との共存を考え・努力した本には、見るべきものがあるような経験が多いようです。逆はたいていエセ科学本になってしまいますが・・・(^^;) >そろそろ限界に来たのでは?と不安に駆られているのが >現代人ではないかと思うのです。 >それらの一部が原理宗教や神秘主義、トンデモ科学に >飛びついてしまうのではないでしょうか? はい。そう感じています。 正統的な哲学なり科学を、少なくとも一度は修めてから、「あちらの世界」に行ってほしいんですが、その人たちの期待にそえていない点が、科学を生業とするものとして、心苦しい限りです。 ただ、改革というのは、必ずしも正統派から生じるとは限らないところが、強く出られないところではあります。 どうも的確で、平易な説明、ありがとうございました。